万屋の前に佇むその姿を見た瞬間、なまえは他には見せない、とびきりの笑顔を浮かべた。かと思った次の瞬間には、そいつめがけてまっすぐに駆け出して行く。
すぐ隣を歩いていたはずが、置いていかれた日本号は「おい」と言うか言わないか、中途半端に手を伸ばした格好のまま、その場で固まった。
嬉しげに爪先を弾かせながら走っていく、その背中を見ていることしかできなかった。悔しさを抱くことすらも口惜しい気がして、日本号は内心でこっそりと舌打ちをした。
多分、どうしたって勝ち目のない相手だった。

「サブちゃん〜久しぶりだね!」

いつになく元気の良いなまえの呼びかけに尻尾を振って応える、犬。
そう、犬である。茶色い雑種の、でかい犬。
なまえの手に顔中をわしわし触られながら、黒色に濡れた目を細め、口元をへらりと緩ませている。利口そうにまっすぐ立った耳を柔らかく揉まれると、丸まった尻尾が千切れんばかりの勢いでぶんぶんと動いた。

「主さん、本当に犬が好きなんだね〜」

頭の後ろで手を組みながらのんびり歩いていた浦島は、顔を綻ばせながら「まあ俺も好きだけどさ!」と声を弾ませた。
10月の近侍である浦島となまえの買い出しに、まさかいちいちついていくつもりはなかった。が、厨で暇そうに酒の肴を物色していたところを浦島に見咎められ、荷物持ちとして無理やり連行されて今に至る。

「主さん、俺にもサブ触らせてー!」

わっと両手を広げ、主と犬の元に駆けていく浦島を半眼で眺めながら、日本号は腰巻きのツナギに手を引っかけ、たらたら歩いて二人に合流した。

「わあ〜もっふもふ! 可愛いなぁ!」
「ね、可愛い。あったかいよねぇ」

短い毛をかき分けるようにして、犬の首元をもみくちゃにするなまえの顔は完全に緩みきっている。目尻はすっかり下がりきって、口元は抑えきれない喜びで緩みっぱなしだ。
曰く、なまえは実家で犬を飼っていたことがあるらしい。しばらく前に死んでしまって、以降犬を飼うことはなかったと聞く。
そのせいなのか、なまえは犬に対してそりゃもうべらぼうに甘い。犬を見かけりゃ一日中機嫌が良いし、犬を触りゃあこの有り様。
とはいえ、やはりなまえにとって犬は、父親不在の日々を共に過ごす可愛い弟のようなものだったんじゃないか、とも思う。人が犬猫を自らの家族同然に思うのは、はるか昔から変わらぬ感情なのだろう。

「おや、なまえさん。こんにちは」

蜂須賀虎徹を連れた初老の男が、万屋から出るなりなまえの名を呼んだ。犬の飼い主であり、前任と親しかった審神者である。
今でもなまえと交流があり、審神者になった当初から何だかんだと世話になっているらしかった。そのつながりもあって、向こうの本丸で飼っているこの犬ともここまで自由に触れる仲になった、と、そういう経緯があった。

「こんにちは。すみません、サブちゃん触らせてもらってました」
「良かったなぁサブ、遊んでもらってたのか」

男に頭頂部をぐりぐりと撫でられた犬は、ぅわん、と鼻にかかったような甘えた声を上げた。
その間に、蜂須賀は店先の柱に軽く巻かれていた犬のリードを、慣れた手つきで器用に解いていく。犬の頭をひと撫でして、おもむろに立ち上がった蜂須賀は笑顔でこちらに向き直った。

「サブも退屈しなくて済んだようだね。きみたち、ありがとう」

律儀に礼を言う蜂須賀に、浦島は明るく応えた。

「いーえ! こっちこそ触らせてくれてありがとうございます!」
「ふふ、そうかい」

蜂須賀は分かりやすく破顔した。どこの蜂須賀も、やはり浦島には甘いらしい。

「では、私たちはこれで。また演練場で会おうね」
「はい、ぜひ」

男は猫背気味の背をさらに曲げるように一礼して、蜂須賀と犬と共にその場を去っていった。
内番姿の蜂須賀が犬を連れて歩くと、どうも犬まで姿勢良く気品ある佇まいに見える気がする。

「いいなぁ犬。本当に犬はいい」
「いいねぇ、犬」

語彙が欠落したなまえの言葉に、浦島もまたしみじみと欠落した語彙で答えた。

「うちの本丸には五虎退の虎とか獅子王の鵺とかはいるけど、犬はいないよな〜」
「そうだねぇ。みんなモフモフだけど、うちの本丸で一番モフモフなのって誰なんだろうね」
「あ、それで言うなら日本号さんの鞘もモフモフだよね。モフモフ選手権にエントリーできるんじゃない?」
「あれモフモフっていうのか?」

唐突に意味不明な話題を振られた日本号は、怪訝に眉をひそめた。
熊毛を用いて作られているとはいえ、一応刃を納めるための物、鞘である。そんなカワイイ形容をされて果たしていいものなのか、単純に疑問である。
「モッフモフ〜」と歌うように声を弾ませながら、ぴょんぴょん飛び上がって髪の毛をぐしゃぐしゃにしてくる浦島をやめろやめろと手のひらで宥めた。よしんば鞘がモフモフだとしても髪の毛は違うだろーが、などと訳の分からない言い合いをしつつ、その様子を和やかに見守るなまえと共に万屋へ入った。



さて数日経って、日本号含む第二部隊が上田城へ出陣した日のこと。

「うん、手入れ完了。ちゃんと治ってますね」

胡座をかく日本号と向き合うように正座し、頬にあった擦り傷が綺麗に消えたことを確認したなまえは、明るく頷いた。
帰陣し、軽傷者の手入れを一人ひとり順々に行っていった、その最後の手入れが日本号だった。

「いっつも思うんだが、やたらちょこまか動く槍は何度対峙しても厄介だな。大した傷にゃならねぇが、いちいち資材食っちまう」
「あれ地味に嫌だってみんな言ってますね」

外した防具を畳の上に下ろしつつため息まじりにボヤくと、なまえは眉を下げた苦笑いで答えた。
さあ傷も治ったことだ、手入れ部屋出るか、と。なるかと思ったのだが、どうもそういうことにはならないらしい。
なまえはきっちり正座のまま、日本号の傍らに置かれた本体をじっと見つめて動こうとしない。

「なんだ? どうかしたか?」
「あ、いえ、あの……」

訝しんで声を掛けると、なまえはそわそわした様子で視線を鞘のほうへ向けた。

「この間、買い出しに行った時に浦島くんが言ってたじゃないですか。日本号さんの鞘がモフモフだって」
「ああ、そんなこと言ってたな」
「さ、触ってみてもいいですか?」

なまえはいつになく輝く瞳で日本号の顔を覗き込みながら、期待を滲ませた声で言った。

「何か、考えてみればしみじみ触ったことなかったので」
「おお、いいよ」

何事かと思ったら。
と、ずっこけそうになるのと吹き出しそうになるのをなんとか堪えつつ、日本号は本体を手に取り、鞘を外してなまえに差し出した。
おそるおそる手を伸ばしたなまえは、小さな犬猫でも扱うみたいな慎重な手つきでそれを受け取る。

「おお〜、意外と、見た目よりふわふわして……」

毛並みを整えるみたいに柔らかく鞘を撫でながら、なまえは嬉しそうに唇の端を持ち上げた。
体を触られているわけでもないのに、なんとなく体の内側がこそばゆくなるような気がした。いつも犬やら猫やらに向けられているのに似た表情を、鞘とはいえ自分、日本号本体に向けられていることを喜んでいるのかもしれない。
別に、何も犬猫に妬いていたわけではないにしても、なまえが『日本号』に触れて嬉しそうにしているのは、道具として単純に嬉しい。
以前乱が言っていた、道具としての喜びと恋の境目の話を、何となく思い出した。多分そういう境界線というのは、自らの身をもって飛び込んでみなきゃ分からないもんだったんだろう。好意を自覚してからというもの、なまえと触れ合うたびに、ずっとそういうことに気づかされ続けている。

しばらく鞘の感触を楽しんでいたらしいなまえは、おもむろに手を止め、満足げに顔を綻ばせた。
鞘をそっと膝下に置き、畳に手をついてぺこりと小さく頭を下げる。

「ありがとうございました」
「満足か?」
「はい、とっても」
「はは、そりゃ結構」

軽快に笑いながら穂を鞘に納め、さあ今度こそ手入れ部屋を出るのだろうかと思いきや、なまえは再び「あの」と小さく言い淀んだ。
膝の上で拳をつくるなまえの顔を覗き込んでみると、唇の端から端までが緊張で固く結ばれていて、さっきよりも口が重たげに見えた。
おまけに、顔はどんどん赤くなっていく。

「なんだ、どうした?」
「えーと、あの……」
「うん」
「か、髪の毛……も、触ってみていいですか」
「へ」

思わず「俺のか?」と問うと、なまえは顔全体を真っ赤にしながら顎を引くように頷いた。

「す、すいません、この間浦島くんが触ってたじゃないですか、あれ見て私も触ってみたいな〜と……思って……」
「しみじみ触ってみてぇ、と」
「はい……」

自分で言い出したくせに、ごく小さな声で返事をしたなまえは、膝の上で握る手の力を強くしたようだった。ぎゅう、と音が聞こえてきそうなほどに手を握り込んだなまえの、いじらしいほどの緊張っぷりを目の当たりにして、日本号は思わず目元を柔らかくした。

「いいよ」

どうしようもなく笑い出したくなるのを堪えながら、はっきりと答える。

「あー、髪留めもほどいたほうがいいよな」

言いながら、髪を結んでいる紐の端を指先でつまみ、グイと引っ張る。ばらりと広がった髪を軽く撫でて整えてから、その場で胡座をかき直した。

「ほれ、いいぜ、触って」

アッサリ了承を得られたことに驚いてか、なおも及び腰ななまえのために、瞼を下ろす。照れやら緊張やらでおろおろしているなまえの様子を眺めているのも面白いが、それだといつまで経っても手を伸ばせないだろう。せめて目を閉じていれば、多少はなまえの緊張も解けるかもしれない。
そういう、自分なりの気遣いだった。
こうしていちいち気を回すくらいには、喜んでるんだろうな、と思った。
触りたいと、素直に言われたことに対して。これから髪に触れてくる手を待ち望んで。

「し、失礼します……」
「ん」

遠慮がちな声と、小さな衣擦れの音の後、怖気付いたようにこわばる指先が左耳の上のあたりに触れた。髪の中を掻い潜ってきた、戸惑いがちな指に、梳くような手つきで頭を撫でられる。

「ふは、くすぐったいな」
「えっ! わ、すいませ、」

なまえの手が焦って引っ込められようとした気配を感じ、逃さないよう手の甲の上からひっ捕まえた。

「自分で言い出したんだろーが。やめるなよ」

ゆっくり目を開けると、言い出しっぺのくせに顔中赤くしているなまえと目が合った。なまえは中途半端に腰を上げた膝立ちの格好で、手を捕まえられたまま、情けなく眉を下げている。

「う、すいません……自分で言い出しといてアレですけど、やっぱりちょっと恥ずかしくて……」
「犬だの猫だのにはあんなに積極的なのになぁ?」
「それは……まあ……」
「ま、日の本一相手に慎重になるのは仕方ねえけどなぁ」

軽い口調で言いつつ、温かいを通り越して熱くなってきている手を解放してやった。どうやら自由になっても逃げていかないらしいなまえの手の、高い体温を頭に感じて、唇の端が勝手に持ち上がる。

「でも、俺はあんたに触られたいと思ってるよ」
「え、そ……」

そうなんですか、と言い切ることも出来なかったのか、なまえは中途半端に口を開けたまま固まった。

「物として主に触られて嬉しいってのと、あとフツーに男として嬉しいもんだぜ」

自分自身の考えを口に出してみると、スッと腑に落ちた。
こういう関係になる前は想像もつかなかった感情が、なまえと触れ合うようになって、実感として納得できるようになった。もう、散々納得させられてきた。
心底惚れてる奴に触られるのは、当たり前に嬉しいに決まっている。
「物として嬉しい」というのとは、また違う手触りの感情だと、頭と心と、身をもって理解できるようになった。こればっかりは、感情の伴った実体験でないと分からないものだろう。

「てわけで、気の済むまで触っていいぜ」

ほれ、と短く促すと、なまえは赤面のまま小さく俯いて、けれど手を引っ込めることなく、ゆっくりと息を吸い込んだ。意を決したのか、頭に触れていた手が再び動き出す。
はじめはぎこちなかった手つきが、次第に穏やかで落ち着いたものに変わっていく。心地よさに目を閉じると、頭を撫でる手の柔らかさ、すぐそばにある体温の高さが余計に伝わってくるような気がした。
なまえの手指が髪の上を滑っていくたび、胸やら腹やら、体の内側の底のほうが騒つくような感覚が少しずつ沸いてくるのを感じた。徐々に高まり、焦げるような熱となるそれを逃すように、こっそり細く息を吐いた。

「あの」

なまえは、ほとんど息で出来ているみたいな細やかな声で言ったかと思うと、静かに手を引いて深々と頭を下げた、というか、顔を隠すように俯かせた。

「あ、ありがとうございました」
「満足か?」
「ハイ……」
「そーかい、そりゃ良かった」

ずっと息を止めていたのかと思うほど深く息を吐くなまえの赤い顔を見つつ、思ったそのままを口にする。

「俺はもっと触ってくれてても構わなかったんだけどな」

なまえは顔を真っ赤にしたまま、ぎょっとしたように見開いた目をこちらに向けた。
何気なく出た本音の言葉を受けて固まるなまえに苦笑し、日本号はおもむろに立ち上がった。

「そんじゃ、そろそろ行くか」

聞こえるか聞こえないか、かすかな返事をしたなまえと共に、手入れ部屋を後にした。お返し代わりになまえの頭をぐりぐり撫でたり、ふざけながら執務室へ向かった。
拉致があかなくなりそうだから、口には出さなかった本音がある。
きっと長く続いていく時間の中で、言うべきタイミング、手を伸ばす瞬間は来るだろうから。
今はまだそれを隠しながら、涼しい顔でなまえの隣を歩く。

触りたいとか触られたいとか、そういう欲は当たり前にある。
わりと、ずっと持ってる欲だよ、これは。
身一つで覆い隠せてしまえそうなあんたを自分の懐に引き寄せた日から、多分ずっと。