明日に控える江戸城出陣に向けた部隊編成の最終確認を終え、部屋に戻る最中。
庭に面した回廊の軒越しにまん丸い月を見上げながら、なまえは昔のことを思い出した。

本丸に来てまだ一年と経たない頃、第一部隊が夜に帰陣したことがあった。
その日はちょうど今日のような満月で、地面にはっきりと黒い影が落ちるほど明るい夜の景色が、今でも目に焼きついている。
時間を飛び越えるための扉から戻ってきた面々は、白い月明かりに晒され、輪郭が淡く光って見えたような気がした。
骨喰藤四郎、物吉貞宗、燭台切光忠、次郎太刀、歌仙兼定、日本号。
相手を圧倒しての勝利に高揚してか、刀身は納めないままに本丸へ戻ってきた彼らに、なまえは見惚れると同時に気圧されかけた。
怖いと、少しも思わなかったわけじゃない。鋼の刃が人の形をして現れた彼らに対する、恐れというよりは、畏れだったと思う。
触れれば指先から切れてしまうような鋒は、冷たく白い月明かりを反射して、より鋭く見えていた。

まだ、彼らのことを知っていく前のことだった。
あの時、自分はまだまだ余所者気分だったように思う。まだ彼らを他人と思うからこそ、畏怖なんてものを抱いた。
それが綺麗さっぱり無くなったわけではないにしても、それより何より今は安堵が勝る。「無事に帰ってきてくれた」という事実に勝るものが、今は無いのだ。それは余所者から、もっと違う何者かにはなれた、その証のようなものなのかもしれない。

空にぽってり浮かぶ、たまごの黄身のような月を肴に楽しくやっているであろう面々の顔を、一つひとつ思い浮かべながら、なまえは回廊を小さく軋ませた。



部屋の戸を開けると、誰もいないと思っていた自室の縁側に、柔らかな月明かりを受ける影がひとつ。

「お、来たな」
「あれ、日本号さん?」

振り返った日本号は、なまえの顔を見るなり愉しげに声を弾ませた。
すでに呑んでいる時の上機嫌な声だと、直感で分かった。案の定、縁側についた手元には杯と酒が置いてある。

「さっき大般若さんがこれから『木曜なのに夜更かし! 月見酒会』だって……」

ゴキゲンな大般若曰く「号ちゃんも来るよ〜」ということだったが、その日本号がここにいるのはどういうことか。
分からないまま部屋の入り口で立ち尽くしているなまえの顔を見上げ、日本号は目を柔らかく細める。

「どうせ早々に解散にはならねぇだろうし、あんたと一緒に少ーし月見してからでもいいかと思ってなぁ」

どーだい、と杯を掲げながら、日本号は白い歯を覗かせて笑った。

「あ、それじゃあ」

なまえは部屋の隅にある小さい冷蔵庫のもとへ歩み寄って、戸を開けた。月明かりだけの部屋の中で、冷蔵庫のほの明るい光が目に眩しい。

「これ、少しだけ一緒に飲んでみませんか? 日本号さんには甘いかもしれないけど」

小さな瓶を掲げて見せる。少し揺らすと、中で琥珀色の酒がゆるやかに波打った。

「金木犀を漬けて作ったお酒。乱ちゃんが去年から仕込んでたみたいで、この間わざわざ瓶で分けてくれたんです。私もまだ飲んだことなくて」
「ああ、そういややけに金木犀の花摘んでるとは思ってたが」

何やら覚えがあるらしい日本号は、顎の辺りを指で触りながら目線を宙へ投げた。

「うん。じゃ、せっかくだしほんの少しだけ貰うか」
「はい、それじゃあ味見程度に」

日本号が杯の中身を仰ぎ飲むのを横目に自分の杯を用意し、酒の瓶を持って縁先へ寄る。手元の酒を飲み干し、息をつく日本号の横にそっと腰を下ろした。

「どうぞ」

小さな赤い杯に、とくとくと金木犀の酒を注ぐ。べっこう飴のような色の透き通った酒が、月の明かりをまとってつやつやと輝いた。
酌を受けた日本号は、どれ試しに、と口元へ杯を近づけた。唇を湿らせる程度の量を舌の上に転がしてから、日本号は喉を鳴らした。

「甘っ」

日本号は眉の間をぎゅっと狭めながらも、杯の中に残った酒をぐっ、と仰いだ。

「やっぱ甘ぇな。味は悪かねぇが」
「あはは、香りまで甘いですもんね」

言いながら、自分の分を杯に注いで、口に運んだ。夜の空気を温めるような甘い香りが口の中で膨らんで、鼻から抜けていくのがわかる。
中庭に目をやると、月明かりに照らされた庭の木々が、輪郭をほの白く光らせていた。部屋の電気をつける必要もないくらいに明るい、現実味のない月夜だった。

「こうして一緒にお酒を飲んでると、日本号さんが近侍だった時のこと思い出します」
「ああ、ずいぶん前のことみたいに思えるが、あれからまだ1年と経ってないんだなぁ」
「あの時の私が今の私のこと知ったら、きっとものすごく驚きますよ」

ひとつ、小さく呼吸をすると、酒気の交じった熱い息が吐き出された。

「日本号さんと当たり前に一緒にいられて。こうして過ごす時間が、日常の一部にすらなっていて」

杯を傾けて、さらに酒を口に含む。

「幸せすぎて、信じてもらえないかもしれない」

眠くなるようなお酒の甘さに、思わず口元が緩む。ほのかに鼻先を掠める金木犀の香りと甘い美酒と、その両方に酔ってしまったような気分だった。

「構わねぇよ、信じてもらえなくても」

はっきりとした口調とは裏腹に、随分と優しく伸びてきた日本号の手が頬に触れる。なまえが思わず素早く瞬きをすると、日本号はからかうみたいに目を細めた。
日本号のもう片方の手に、肩を捕まえられる。衣服越しでも感じる体温の高さに、何となくその意思が伝わってきた気がした。
こめかみのあたりを指の腹で撫でられ、こそばゆさで反射的に目を閉じた。こういう接触の慣れなさが出てしまったのが恥ずかしい。降ろした瞼の向こう側で小さく笑われたような気がした。
ほとんど隙間の無いような距離に熱い体温を感じて、無意識のうちに呼吸が止まる。
閉じた唇の端を懇願するように啄まれて、涙が出そうになった。求めに応じるみたいに、おそるおそる緊張を解いた唇に、今度は静かに、けれど明確な意思を持った唇が触れる。
髭の感触のくすぐったさで、小さく湧いた笑いを口の中でかみ殺した。

「何笑ってんだよ」

我慢したはずの笑いが唇から伝わったのか、日本号は不満げな声を上げた。

「ふ……すいません、髭くすぐったくて……」

そのままの理由を素直に伝えると、目玉の丸みまでわかるほど至近距離にある紫の瞳が、いっそう優しく細められた。
日本号が小さく笑いまじりに息を吐くと、今しがた飲んでいた酒の甘い香りが匂い立つようで、酔いが回ったみたいに頭がぼうっとなった。

「酒の甘さも、くすぐったいのも、今の感触ぜんぶ、今ここにいるあんたが信じてくれれば、それでいいよ」

今この時の、何もかもを受け入れでもするような言葉を口にした日本号に、愛おしむような手つきで頬を撫でられた。心臓の音が鈍く響いている頭の中で、何とか答える言葉を探してみたが、思うように言葉は出てこなかった。返事の代わりみたいに、頬に当てられた手に手を重ねる。

不思議だと思った。
触れれば切れてしまうような穂先が月明かりに閃く、そういう鋭さを持つこの槍に、当たり前のように触れられる。その不思議が、どうしようもなく嬉しくて、幸福なのだ。
再び寄せられようとしている薄い唇に応えようとして、今度は笑わないように、と小さく心の中で唱えたのだった。