夏特有の、湿気や熱気をないまぜにしたような外気をどこか遠くへ運ぼうとするみたいに、秋の澄んだ風が吹いていた。
本丸の外れ、ゆるやかに広がる庭のさらに奥の、小山へと続く小径。長屋や執務室の明かりが遠く、おかげで枝葉の隙間に燦然と輝く星がよく見えている。秋の虫が鳴く声がやけに騒がしく聞こえるのも、あたりがシン、と静まりかえっているせいだろう。
光の少ない暗がりの中を、日本号となまえは二人きりで歩いていた。



「かくかくしかじかでして……」
「そうか、獅子王がなぁ」

時は少し遡って、夕食後。
日本号は、執務室に戻るべく廊下を歩いていたなまえから、今日あった話を聞いていた。

「本丸って広すぎて、つい奥まったところとか……特にああいう、木々の繁った場所はどうも景色の一部に思えてしまっていて。あの場所のこと、全然知らなかったんです」
「まあな。全体把握しようとしたら相当歩くことになるわなぁ」

隣を歩く自分の主に、自分たちほどの体力が無いことは日本号もよく分かっている。このだだっ広い本丸の全てを歩き尽くそうとすれば、相当に苦労することになるだろう。
どの方角、どの辺りに何があるのかを本丸全体の見取り図で知ってはいるだろうが、しかしまぁ、実際に見ておいて損はないはずだ。

「うん、よし」

日本号は一人、頭の中で考え至り、両手のひらをばちん、と合わせた。それからひとつ頷いて、なまえの顔を見下ろす。

「デートするか」
「で……」

こちらを見上げ、口を中途半端に開けたまま固まったなまえに向かって、もう一度頷いてみせる。
立てた親指でクイ、と暗い庭のほうを指し示してみせた。

「本丸の外れのほう。一緒に歩いて回ろうぜ」

それで、今から行こう、ということになって、今に至る。

日が徐々に短くなってきたこの頃は、夜になれば気温も落ち着いて、散歩にはちょうど良い季節になった。肌にふれる風の感触はさらさらと肌の上を滑っていくようで、心地よく瞼を下ろす。

「獅子王の話聞いて、どうだった」

日本号は目を静かに閉じたまま、隣を歩くなまえに問いかけた。

「あんたは、あそこに親父さんがいると思うか?」

どうだった、という問いかけは曖昧だったな。
と、反省したわけでもないが、自分が聞きたいことはこれなんだろう、と思い直して、質問の内容を明確に示した。
あの場所のことを知った時、この人は何を思ったのか、知りたいと思う。だからこうして、わざわざ夜の散歩なんかに連れ出してしまったのかもしれなかった。

「信じたところにいる……ってことで、良いんだと思います」

遠慮がちに話し始めたなまえの表情を見たいと思ったが、頭ひとつ分以上の差がある身長のせいで、はっきりとは見えなかった。
俯かせた顔のうち、丸みを帯びた頬だけが柔らかく見えて、多分暗い顔はしていないんだろうな、ということだけは読み取れた。

「例えば、お墓とかお仏壇とか、写真とか……そういうものが無いところでも、信じたところにいてくれるって、それくらいのほうがお互いに楽な気がするんです」
「お互いってのは?」
「生きてる側も、そうじゃない側も」

小さな声が、それでもしっかりと聞こえてくる。
道脇に生える木々が増していくにつれ、虫の声も随分と元気になっていく。季節外れの蝉が、虚しく一匹で鳴いている声も聞こえてきた。仲間についていくことができなかった蝉の声は、それでも力強くて、どんな虫よりも必死に鳴いていた。

「あの人がいるのは絶対ここ! なんて、生きてる側に勝手に決められるのも、向こうからしたら何か……癪じゃないでしょうか」

こればっかりは死んでみないと分からないけど、となまえは、明るく笑いまじりに言った。

「こっちとしても、信じたところにいてくれる、くらいのほうがずっと救われると思うんです。獅子王くんも、みんなも、あの場所をそうと決めたなら、それを否定することは誰にも出来ないと思います」
「信じたところに、ね……」

こういう話を、なまえが明るくしてくれたことに、正直ほっとした。
その安堵が何に対しての感情なのか、日本号自身もよく分かっていた。
この人が前を向いて生きていてくれて良かった、ということはまず当たり前だが、それだけじゃない。

いつか、必ずやってくる別れの時。
それがどういう形でやってくるのかは分からない。自分が折れるか、この人が死ぬか、それとも審神者を続けられなくなるか、戦が終わって、役目が終わるか。
どんな形の終わりにしたって、なまえの言う「信じたところにいてくれる」という考え方は、どうしようもなく眩く、明るい光になり得る。命のあるものには、必ず終わりがあるから。

だからその光を、どうかずっと信じていてほしい。
俺も、その言葉を忘れないから。
お互い、どちらかが生きてる側、そうじゃない側となった時、それでも生きていけるように。そばにいない人のことを信じられるように。
そのために、きっと今こうして、二人でこんな夜道を歩いているのだと思う。

「なあ、あの墓に花瓶あったろ」
「え? ああ、ありましたね」

考えていたことをあえて口には出さず、話を変えることにした。
歯切れ良く話し始めると、なまえは目を瞬かせながら答えた。

「あれ、俺が飲み切った酒の瓶なんだぜ」
「へ」
「試し呑みのために買った小さめの酒だったんだよ。それを堀川がラベル剥がして洗って、玄関に置く一輪挿しにしたんだが、いつの間にかあそこに置くことになったらしい」
「へえー、おしゃれなデザインだったから普通に花瓶かと思いました」
「だよなぁ、俺もああいう使い方は思いつかなかったわ」

何でもやりようだなぁ、と言いながら、生きているもののエネルギーはどうしようもなく強いのだと、今更のことを改めて思った。

「せっかくここまで来ちゃいましたし、今からあの場所に行ってみますか?」
「おお、そうだな」
「じゃ、行きましょう」

不意に、なまえに手を取られて、その意外な自然さに目を見開いた。

「一緒に」

なまえの手のひらの薄さに、心許ない気持ちになる一方で、そのたった一言の明るさに、つけ入る隙もないような意志の強さも感じた。
容易く返事もできないでいると、手を引きながらこちらを振り仰いだなまえは、暗がりでも分かるくらい赤い顔ではにかんで、またすぐに顔を俯かせた。

「いなくなった人のことは、信じたところにいるって、それでいいと思います。でも、」

言葉を一旦切ってから、なまえは喉元に滞る緊張を解すような息継ぎをした。

「今こうしてそばにいる人の存在は、何よりも確かだと思います」

言いながら、手を握る力を強くしたなまえのいじらしさに、心臓を直接握られたような心地がした。
いつかの終わりを思いながら話を変えようとした、こちらの思惑を見透かされたような気がした。思えば、なまえから気持ちを打ち明けられたあの日にも、自分はなまえから逃げようとして、下手な口実を並べ立てていた。
そうだ、その時も、なまえのストレートな言葉に逃げ道を塞がれたんだった。
強さのような優しさのような、そういう言葉で逃げ道を塞がれるたびに、この人の口から溢れる言葉の全部が好きだと思う。

手のひらの柔らかさと温かさ、骨の細さまで伝わってくるような華奢な指の感触。
何よりも確かなそれさえあれば、今は何が起きても大丈夫だ。どこまでだって歩いていけるし、どんな場所にも行けるはずだ。
そう思わせてくれた夜のことを、何としてでも忘てしまわないように、握られた手を静かに握り返した。