9月の頭、いまだ暑さの収まらない外気の中を、頭のてっぺんから溶けそうな具合にへばりながらとぼとぼと歩く。
玄関へと続く黒い敷石までもが昼の日の光を照り返していて、余計に暑さが増している気がした。

「ただいま〜」

へろへろと芯のない声を乱と揃えながら、なまえは本丸の玄関の戸を引いた。
10月に予定されている、今年度前期の戦績別研修会。
に、向けて開かれた、就任三年以内の審神者向け勉強会に出席した、その帰りだった。若干回りくどくて面倒くさい行事が多いのは、もう色々と諦めた。

「あ、お帰り大将!」
「信濃くん、ただいま」

なまえは靴を脱ぎながら、廊下のほうからひょっこりと顔を出した信濃を振り返った。

「ね、ちょっと来て!」
「へ、どうしたの?」

靴を靴箱へ、とする間もなく、なんだかご機嫌な笑顔の信濃に「いいからいいから!」と手を引かれ、引かれるままに廊下を歩いていく。

「大将、勉強会どうだった?」
「暑かった!」
「乱に聞いてないよ」
「勉強会やった会議室のクーラー効き悪くて、ちょっと暑かったんだよね。ね、乱ちゃん」
「ねー、汗かいちゃったよねぇ」

と、他愛もない会話をしながら、たどり着いたのは厨だった。
信濃は、流し脇の調理台に置かれた大きなダンボール3箱の元に駆け寄り、その内の『ぶどう』と書かれた1箱を嬉しそうにぽんぽんと叩いた。

「大将のお父さんのご実家から送られてきたんだよ!」
「わ〜、ぶどうだ! 2箱も送ってくれたんだ」

まだ開けられていない『ぶどう』の2箱を両方とも開けてみると、それぞれ種類の違う大量のぶどうが整然と並べられている。大粒のピオーネ、宝石みたいなシャインマスカット。
それから、一回り大きな箱がもう一つ。こっちの箱には、特に何も文字の書かれていない。送り状の品名のところを検めると、そこには「食品」とだけ書かれている。
送り状をそっと剥がし、ガムテープをべりべり言わせながら剥がした。

「あ、こっちはお米とお菓子だ」
「お菓子?」
「ラスクとお煎餅だね」
「わ〜い!」

白と緑の袋が可愛いブランド米が一袋に、お菓子の箱が2つ。
それから、手紙がひとつ。
真っ白い封筒には、叔父と叔母の名前が書かれていた。
封の切られていないそれを、手で開けてしまおうかと迷ったそばから、信濃がハサミを差し出してくれた。ちゃんと用意してくれていたのだろう、お礼を言って受け取ったそれで手紙の封を切る。
元気でやっていますか、とこちらを気遣う言葉に始まり、そのあとには従姉妹の旦那さんが釣りにハマっている話やら叔母さんがハマっているドラマの話やらが続いた。パラグライダーで飛んでいた令嬢が不時着して軍人と恋をするという、素っ頓狂なストーリーへの熱い思いが綴られている。最後は「また会える日を楽しみにしています」と締めくくられ、その時には仕事の話も聞かせて欲しい、とも書かれていた。
何はともあれ、みんな元気でやっているらしいことが伺えたのは嬉しいことだ。

「なまえちゃんへ、かぁ」

手紙を覗き見ていた信濃が、便箋の一番上に書かれている名前をしみじみと読み上げた。

「大将って、親戚の人とか家族の人からはなまえちゃんって呼ばれてるの?」
「うん、大体はそうだね」

手紙を折り目通りにきっちり畳みながら頷くと、信濃と乱は顔を見合わせ、謎の目配せを数回した。かと思うと、ぱっとなまえのほうを見上げた。

「なまえちゃん!」
「なまえちゃーん!」
「あはは、何かみんなから呼ばれるとちょっと照れるね」

何となく気恥ずかしくなって、照れ隠しをするみたいに頭の後ろへ手をやった。
考えてみれば、家族や親戚以外から名前にちゃん付けで呼ばれるのは、あんまり無いかもしれない。

「ボクたちみんな主さん〜とか、大将とか主君、とか呼ぶしね。名前で呼ぶことってほとんど無いもんねぇ」
「うん、だから新鮮」

そもそも、ここが仕事場であって、ここにいるみんなが仕事仲間、というか自分の持ち刀であるとするのなら。あまりそういう意識もないけど、自分が主人としてそういう呼ばれ方をしているのは、それはそれで何の間違いもないわけで。
でも、それはそれとして。家族みたいな距離感で一緒に暮らしているみんなから名前を呼んでもらえるのは、結構嬉しいことかもしれない。慣れないから、ちょっと恥ずかしくもあるけど。

「あ、そういえば日本号さんは主さんのこと名前で呼ばないの?」
「え」

乱の口から唐突に飛び出た名前に、なまえは素早く瞬きをし、すかさず信濃のほうを伺った。日本号とのことを信濃に話した記憶は無い。知らないはずなのだ、もしものことがなければ。
そういう焦りを含んだ視線を受け止めた信濃は、きょとんとしながら数回瞬きをしたかと思うと、ぱっと花が咲くような笑顔を作った。

「あ、だいじょーぶ! 俺、大将と日本号さんがそういう仲になってるの知ってるから!」
「えっ何で!?」

ほとんど勢いで大声を出してしまった口を、慌てて手のひらで押さえた。

「日本号さんが修行から帰ってきた日の宴会の時、二人が廊下で一緒にいるとこ見ちゃって」
「え、う、ウソだぁ……」
「本当だよ〜」

抑えきれず溢れ出たような笑顔を浮かべる信濃を前に、立っている気力を失ったなまえはその場でしゃがみ込み、両の手のひらで顔を覆った。
あの時のことを見られた、ということは、つまり二人で廊下でひっついていたところも見られていたということだろうか。
と、いうところまで確認する勇気はさすがに無かった。見ていたよ、と笑顔で断言でもされたら、もうこのままずっと立ち上がれない気がする。

「もう……穴があったら入りたい……」
「あ〜大将ホラ、穴があるよぉ、美味しいやつ。食べる?」

信濃のからかうような声に引っ張られて、なまえはかっかと火照る顔をおずおずと上げる。ドーナツがたっぷり乗った皿をこちらに差し出しながら、信濃は愉快そうにこちらの様子を伺っていた。
一番大きそうなドーナツを一つ手にとり、やけくそ気分でかぶりついた。

「うう〜美味しい……」
「さっき北谷菜切が歌仙さんと一緒に作ってたやつだよ!」
「どうりで美味しいわけだ」

ドーナツ効果で精神的ダメージを回復しつつ、もぐもぐと口を動かしながら腰を上げた。
作ってから時間が経っても脂っこくないのは、このドーナツが本当に美味しいという証拠だろう。
さらにもうひと口、と思ったところで、なまえはいくつかに重なった足音を聞きとめ、手を止めた。

「おーい葡萄とドーナツくれよぉ」
「御手杵……不躾だぞ」
「おや、主が帰ってきていマスね」
「お〜お疲れさん」

三名槍と村正という、まとまって移動すると圧がすごい面々がぞろぞろと厨に顔を出した。

「はーい! なまえちゃんと、乱ちゃんのお帰りでーす」

やってきた面々を振り返った乱は、楽しげに声を弾ませる。
なまえちゃん、という聞き慣れないワードを聞きとめてか、御手杵は目をぱちくりさせた。

「ああ、主を名前呼びしたのか。乱くらいだなぁ許されるの」
「俺もさっき呼んだよ」
「乱と信濃くらいだなぁ」
「わざわざ言い直さんでも」
「別に名前呼びでもいいんだけど、ちょっと照れるんだよね……っていう話してて」

食べかけになっていたドーナツをかじりながら言うと、蜻蛉切は真面目な顔で「ふむ」と小さく唸った。

「自分は、主を名前で呼ぶのはいささか気が引けますな。主君を名前で呼びつけるのはどうも……」
「蜻蛉切は真面目デスね。強いて言うなれば……なまえ様、でショウか?」
「なまえ様か〜。はは、しっくりこないなぁ。俺はやっぱり、主は主だなぁ」

呼び慣れてるしなぁ、とのんびり言ってから、御手杵は隣にいる日本号の顔を見た。

「あ、でもなんか日本号が主のこと名前で呼ぶと親戚のおじさん感ありそうだよなぁ」
「お前サラッと失礼なこと言うよな」

不機嫌そうに抗議する日本号の声を聞きながら、残っていたひと口分のドーナツを口に詰めた。
なんか、サラッと変な流れに持っていかれたような気がする。
胸中がザワつくような心地がして、飲み込もうとしたドーナツが喉に固く留まるような感じがした。ぐ、と何とかそれを飲み下しながら、意識的に逸らしていた目線を少しだけ日本号のほうへ向ける。
ふ、とほんの少しだけ細められた目と、目が合った。

「なまえ」

ゆっくりと、手触りを確かめるみたいに名前をなぞられた。
冗談抜きに一回心臓が止まったような気がして、一気に熱くなっていく顔面を隠すように、再びその場にへなへなとしゃがみ込んだ。

「あ、主、どうしました? 気を確かに!」
「大丈夫ですか? 脱ぎまショウか?」
「脱ぐな村正!!」
「主大丈夫か? あ……腹減ったのか? ドーナツ食うか?」
「もう食べたよ……」

日本号を除く槍プラス村正に囲まれながら、抱えた膝の中に顔を埋めた。
おそらく一人にやにやしているのだろう日本号に再び負かされた気分になって、自分の不甲斐なさに情けなくなる。
何だってこう、隙を突かれてばかりなんだろう。そもそもこっちはずっと「日本号さん」と名前、というか号で読んでいたわけで、こんなに心臓がバクバクになる思いをするのはこっちばっかり、不平等だ。

そういう訳で、なまえはその日のうちに日本号と「名前呼びは二人の時だけにする」という約束を取り決めた。
でないと心臓がもたない。うえに、二人の関係がどんどん広まっていってしまいそうだ。

「分かったって。じゃあ決まりだな、なまえ」

と、嬉しげにもう一撃喰らわせてくるのも忘れないあたり、本当に勝てる気がしない。