肌を刺すような冬の風はいまだに苦手だ。
一月の末、父を看取った後、病院の自動ドアから一歩踏み出てすぐに浴びた、世界を終わらせるような冬の風。そんなに世界を終わらせたいなら、とっとと終わらせてしまえば、終わらせてくれればいいじゃないか、と。
そんな、自棄になっていた日のことを、全身で思い出しそうになる。



「とか何とか言ってたら書類の提出期限を過ぎていたというわけだ〜……」

終わったかと思った……とメソメソしながら、なまえは執務室で膝を抱えて丸まった。

「とか何とかって? 何かな、急に」
「いや、何でもないです、すいません」

不思議そうに瞬きをする山姥切長義に向かって力なく答えつつ、身を起こした。
提出期限を過ぎた書類の処理をする間、雑務を片付けてくれていた長義のもとへ歩み寄る。

「あ、すごい……当分の出陣先の情報がファイリングしてある。長義さんがやってくれたんですか?」
「そうだよ。出陣に際して、今回のようなミスがないようにと思ってね」
「うう……」

グサっとくる一言に、絵に描いたような笑顔を添えながら、長義はA4のファイルを両手で差し出した。

年末年始の連隊戦における戦績、編成、その他諸々を書類で提出しなければならなかった。その提出期限を、カレンダーにも、あろうことか手帳にすら書き忘れていたのだ。
机の脇に積んでいた書類の中から、その期限を記した政府からの通達がペラリと出てきて、そのうっかりに気づいた。
血の気が引いた青白い顔で、自分のミスを一月の近侍である長義に伝えたところ「すぐに向こうと連絡を取ればおそらく大丈夫……かな。とにかく君は急いで連絡。雑務は俺がやっておくから」とテキパキ指示を出してくれた。
曰く、審神者の書類提出期限違反は案外頻繁に起こることなのだという。あまりに回数が重なればペナルティがあるが、頻度が少なければ軽い注意で済むのだそうだ。
確かに、すぐさま政府の担当課に連絡を入れたところ、お咎め無しでアッサリ受け入れてもらえた。審神者になって初の書類すっぽかしに気づいた瞬間は正直審神者人生終わったと思ったので、ちょっと拍子抜けしたというのが本音だった。とにかく常習にはならないように気をつけよう、と心に誓った。
山姥切長義は、元政府の刀だけあって、そういう為になる情報をたくさん持っているらしい。父の代からの刀だが、いまだに情報収集を欠かさず、政府内部の情報をアップデートしているのだそうだ。
彼もまた、ずっと前から、この本丸を支えていてくれた刀の一人なのだ。

「あの……」
「ん?」

受け取ったクリアファイルを胸に抱いたまま、おずおずと口を開く。

「長義さんから見た父……前任は、どんな人でしたか?」

なまえの唐突な問いかけに、長義は一瞬面食らったような顔をし、しかしすぐにいつもの涼しい顔を取り戻して、しばらく何か考え込むような素振りをした。
そして、執務用の机の前に腰掛けたなまえのほうを、体ごとゆっくりと振り返った。

「君、前任が偽物くんを初期刀に選んだ理由を聞いたことは?」
「いえ、そういえば……聞いたことはないです」

首を横に振ると、長義は俯きがちに頷いて、静かな動作で口を開いた。

「一緒に成長していけそうだったから、だそうだ」
「一緒に……」
「写しは偽物じゃないとのたまうアイツの不安定さが、むしろ当時の自分に近いと思ったんだと……そう言っていた。審神者になったばかりだった彼は、審神者なんていう突拍子もない仕事にいまいち自信がなかったんだそうだよ」
「それは……気持ちが分かります」

思わず当時の父に同調するようなことを口にすると、長義は呆れたような苦笑いを浮かべて、「それで、不安定な者同士、一緒に切磋琢磨できたら、と思ったんだそうだ」と続けた。

「正直、初めて聞いた時は、それは切磋琢磨というより傷の舐め合いなんじゃないかと思った」

核心を突きつつも厳しい物言いをする長義は、しかし柔らかな、ほんの少し物憂げにも見える表情で滔々と語った。

「が、考えてみれば、なるほど持たざる者にしか与えられないものも、ひょっとしたらあるのかもしれない、と……しばらく後にだが、そう思い至った」

長義は「しばらく後に」と言った。
そう考え至るまでに、きっといくつもの戦場を乗り越え、本丸の時間を重ねた。そうして、ようやく見つけた一つの答えだったのかもしれない。

「持てるものこそ与えるというのは、当たり前に出来なければならない……としても、だ。持たざるものにしか出来ないことがある、と……そういう物の考え方もあるのか、と腑には落ちた」

「持てるものこそ与える」という信条を持つ彼が思い至った先が「持たざるものにこそ出来ることも間違いなくある」という着地点だった、そういう事実。父が、山姥切の写しとされる『山姥切国広』を選び取ったという現実の先で、行き着いた答えだったのだろう。
とはいえ「腑『には』落ちた」という言い回しを聞くに、理解はできても、心から、一から十まで、完全には承服しかねる部分もあったのかもしれない。
承服できないなりに、それでも彼は、ずっと父を支え続けてくれたのだ。

「ああ、それからね、何年か前に、前任に言われた言葉はよく覚えているよ」

昔に思いを馳せるように、長義は柔らかく目を伏せた。

「『この刀は山姥を切ったんだ』という伝承を言い伝えたかった人間が、長義と国広それぞれにいたという歴史があって、それが今の俺やあいつを形作っているのかもしれない、という話をされた」
「顕現に必要な物語の一部……ですね」
「そう。『だから長義は、そういう人たちがいたことを、たまにでいいから思い出してあげてほしい。これは、そういう彼らと同じ人間であるおれからの頼みだ』と、唐突に言われた」

おもむろに腰を上げた長義は、縁側に面した障子戸を開け放ち、流れ込んできた冷気に目を細めた。冷たい風に吹かれて鼻先にかかった前髪を、人差し指で耳の後ろに流しながら、中庭に面した縁側にゆっくりと腰掛ける。
「ちょうどここに腰掛けて、休憩している最中のことだった」と、雪の積もり始めた中庭を眺める長義に倣い、なまえは縁側のほうへ身を寄せた。暖房の熱でぼんやりしていた頭が、静かに冴えていくような気がした。

「で、最初の質問に戻るけど」
「へ」

なまえを振り返った長義は、唐突に普段のきびきびした口調を取り戻しながら、ふ、と目を細めた。

「前任のことは、案外気に入っていたよ」

気に入っていた、という評価が、どれだけのものか、言葉よりもむしろ、その表情から伝わってくるような気がした。
山姥切長義という刀は、父のことを慕ってくれていたのだ。

「だからこそ、後釜の君がどんな手前か心配だったんだが、まぁ今のところ及第点かな」
「き、及第点……」
「今回みたいな失態は今日が初めてだったしね。決して繰り返してはいけないよ」
「ハイ……」

政府からのお咎めはほとんど無かったにしても、なんだかんだこうして本丸の刀たちに注意を受けるのが一番堪える。築いてきた信頼関係を、壊すのは一瞬でできることだ。
もう二度とこんなミスはしないように、とこっそり決意していると、長義は「さて」と独りごちるように呟いた。仕事に戻ろうとしているのだと思った。

「もうしばらく話そうか」

予想外のことを言われたなまえは、驚いたように目を見開いて、上げかけていた腰をゆっくりと戻していった。

「故人の思い出を語ることは供養になると聞くし」

自分の太ももに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた長義は、目線だけでなまえを振り返った。

「それに、君もそういう気分だろう、きっと」

思いがけず優しい声で言われて、見透かされていたのかもしれない、と今更気づいた。思い出という優しい響きには収まらないような辛い記憶を、今も痛いまましまい込んでいることを。
それは多分、ここで、父の手で顕現した男士みんなも抱いているものだ。だからこそ、長義にもそれを見抜けたのかもしれない。

「はい、ぜひ」

身に染みるような寒さの中、山姥切長義の語る思い出話の温かさに、ほんの少しだけ泣きたくなった。心の痛みからではない涙の熱さが、何よりも優しかった。