「やっと終わった〜!!」

年末、大晦日を目前にした夜。
自室に置いてあるタンスの前で、すっかり膨らんだ旅行カバンを小脇に放り出し、思い切り伸びをした。解放感のままに体を畳の上に投げ出し、腕を天井に向かってぐん、と伸ばす。

「あんた、今日それ言うの3回目だぜ」
「えっ」

目を点にしながらのろのろと体を起こし、声のしたほうを振り返る。
待ちかねて、人をダメにするソファに腰を下ろし先に一杯やっていた日本号が「部屋の片付けで1回、書類整理で1回、今の荷造りで1回」と苦笑いを浮かべながら、指を一本、また一本と立てていった。

「数えないでくださいよ……」

しおしおと肩を落としながら、なまえはほとんどため息を吐くようにして呟いた。
半ば強引にもぎ取った、たった2日の休みのために、部屋の大掃除と年内に片付けるべき仕事とをギリギリでこなすことができた。
大晦日と元旦、どうしても帰ってこいという実家の声に応えるべく、ここ数日は目の回るような日々を過ごしていたのだ。
とはいえ、ほんの数日前にはクリスマスを満喫していたり、大掃除を先延ばしにしたりしていたので、自分で自分の首を絞めていたともいえる。
まあ何にしても、とりあえずは計画通りにはなったわけだ。

「お疲れさん。せっかくだ、一杯やらねぇか? あんた明日から2日間いねぇんだから」

日本号の嬉しげに浮き立った声に「ぜひ」と頷いて、すっかり座り込んでいた畳から腰を浮かせた。

「何飲む?」
「疲れたんで、甘くてすっきりしたのが飲みたいです」
「あんたがこの前美味いっつってた柚子の酒、冷蔵庫に残ってるぞ」
「あ、良いですね。それにします」

声が弾むのを抑えられないままに、自分用の杯と膝掛けを手に日本号のもとへ向かった。暖房を効かせているとはいえ、古い造りの建物である。足元が多少冷えるのはどうしても避けられない。

「日本号さんは寒くないですか? 膝掛けいるようならもう1枚出しますよ」
「ああ、俺はいいよ」

日本号の返答を受け、そのまま卓のほうへ向かった。
縁側に腰掛けて一杯、ができるのは、せいぜい秋口までである。冬になると、中庭に面した障子戸をきっちり閉ざすようになる。
冬の寒さが厳しくなって以降、この部屋で一杯、となった時には、テレビの前に置いてある卓を使うようにしている。日本号の隣には、人をダメにするソファがすでに並べて置いてあって、すっかりセッティングが済んでいるようだった。

「ほれ」
「わ、ありがとうございます」

腰を下ろすや、卓上に置いた杯にうっすら黄色みがかった酒が注がれていった。
いただきます、と一声かけ、さっそく一口。

「う〜美味しい、沁みる……」

柚子の酸味が鼻から抜けていくのが心地良い。果実のさわやかな甘味をしみじみと味わってから、小さく息を吐いた。

「あんたが数日留守にするのは、夏の盆休み以来か」
「はい。1年前は研修だなんだでしょっちゅうでしたけどね……」

今回の、たった2日の休みは、しかしもらえただけでも十分に有り難いものなのだ。
この時期は、やはり休みの希望が集中するらしいが、そもそも世間一般の時節が通用しない、するわけがない世界なので、ここで休みが取れるか否かは運次第なところがある。就任して日の浅い審神者ほど有利に休みを取れるらしいのだが、それも多分、離職率の問題だろう。盆休みについても、政府側から相当気を使われていた気がする。

「まぁ、今回はたかだか2日なので」

たった数日であっても、正直ここを離れるのは寂しいものだ。でも、大量に取得できた一週間弱の盆休みを思えば、今回の休みはきっと、あっという間に過ぎていくだろう。
そういう意味も込めて、あくまで明るく言ってみたのだが。

「2日ねぇ」

日本号が、殊の外噛み締めるように、しかし歯切れ悪く呟いたことに、なまえは面食らった。何かを気取られぬよう、顔を隠すように、杯を深く傾ける仕草にも。
ふつかねぇ、という、短い言葉の中にうっすらと滲んでいるのは。
へそを曲げたかのような、それでいて、寄るべのない寂しさのような。

「また、お土産買ってきますね」

出来るだけさりげなく、軽い調子で言ってみる。
ひょっとしたら、日本号が男らしさの中に隠し持っている感情の一端を垣間見てしまったのかもしれない。
それは愛ゆえの、甘えに似た何かに思えた。

気づいたことを、気づかれないように。
こちらとしては嬉しいことこの上ないけれど、日本号にしてみれば、気づかれたくない種類の感情かもしれない。ならば、この場で変に宥めるような話し口になるのは良くないだろう。
こっちとしては、本当に嬉しいし、ちょっと可愛いとも思うのだけど。

「お、じゃあまた酒がいいな」
「はい、もちろん」

日本号が機嫌良く声を弾ませるのに、こっそりと心の中で安堵のため息をついた。
何気なく見てしまった新たな一面は、自分の中にこっそりしまっておくことにする。

「ていうか、俺もそのうちあんたの家に顔出したほうがいいんじゃねぇの」

どこか浮き立つ気持ちを抑えるようにして酒を楽しんでいると、日本号がよくわからないことを言った。

「えっ」
「えっ、じゃなくて」

なまえが思わず聞き返すと、日本号は覚えず浮かんだらしい笑みを口元に湛えながら、手元の杯にゆっくりと口をつけた。

「さすがに一言もなく関係続けるわけにもいかないだろ」

と、何の気もないようにさらりと言ってのけたので、今度ばかりはさすがに驚きを隠すことが出来なかった。
咄嗟に言葉を返すことができず、ひたすら目を瞬かせることしか出来ずにいるなまえの様子に、日本号は声を上げて笑った。

「なに驚いてんだ」
「いや……そんな、ちゃんと考えてくれてたんだな、と……」
「俺そんな甲斐性なしに見えるか?」

半笑いの日本号を前に、ぶんぶんと首を横に振った。
そうか、そうだ。
男女の普通を考えてみれば、それなりに長い付き合いを視野に入れるなら、親への挨拶というイベントが発生するのか。
いや、しかし。
私たちは、世間一般の普通から外れていると言っても過言ではない。もちろん、好きだと思う気持ちに普通も何も無いと思うが、その考え方は、一歩世に出れば綺麗事になりかねないというのは事実だ。まず、母が簡単に許すとは思えない。
でも、だからって、日本号さんの誠意を無碍にはしたくない。
だいたい、本当だったら自分が真っ先に言うべきことだったんじゃないか。親と、世間の目と向き合うべきは、そもそも先に気持ちを明かすという勝手をした、人として生きている、私なのではないか。

「じゃあ、あの……考えておきます」
「おお、頼むぜ」

日本号は、目を伏せて柔らかい笑みを口元に浮かべた。
考えておきます、と返しながら、なまえはとりあえずで己の口から引っ張り出した前向きな返答に、内心焦っていた。
本当に言うのか、身内に。言っていいのか。

今まで考えていなかったわけじゃない。
そもそも、母は自分が審神者になること自体、反対していた。危険だ、もう家族が遠いどこかで死ぬのはごめんだ、どうしてそんな道を選ぶの。と、散々泣かれてぶつかって、何日も粘ってねばって交渉して、やっと許しを得てここにきたという経緯がある。
そんな母が、この関係をあっさり許すはずがない。私が今お付き合いをしているのは人じゃありません、槍なんです。と言って、どうなるかは目に見えている。
しかし、逃げていい問題では決してないだろう。共にあるために、越えていかなければならない一つの壁であることは確かだ。

「挨拶なしじゃ一つ床で寝ることも出来ないしな」

ちびちび酒を飲みながら、ぐるぐる考え込んでいたところに、何かとんでもないセリフが投げ込まれた気がした。

「えっ?」
「えっ、じゃないんだよ」

ソファに巨体を沈めている日本号は、横目でこちらに視線を寄越した。ほんの一瞬、視線が絡んで、しかしすぐに解かれる。

「それは……そういう……」

一気に酔いが回りそうなほど混乱しながら絞り出した言葉は、それにしたってあんまりにも語彙が欠落していた。
いや、だって。
つまり、そういうそれを、日本号さんは身内に許しを得るまではしないつもりでいた、ということなのだろうか。

「俺だって順序は弁えてるよ」
「じゅんじょ……」

目を細めた横顔の、薄い唇が紡いだ義理堅い言葉のすぐ裏側には、ひょっとすると自分に向けられた欲があるのかもしれないのか。
今さら「信じられない」と言うつもりは無いにしても、言葉にされるといよいよ現実味を帯びてしまって、その驚きは隠そうにも隠せず、今はただ両手できっちり顔を覆うしかない。

「そういう訳だから、なるべく早めで頼むわ」
「へあ……は、はひ」

打って変わって軽い調子で言われて、弱々しい返事をすることしか出来なかった。
これほどまでにプレッシャーを感じる『なるはや』を言い渡されたのは、多分これが初めてだと思う。なるべく早めに事が進んだとして、その先に待ち受けている展開を思うと、恥ずかしさで頭を抱えたくなった。
でも、当たり前だけど嫌じゃない。いや、嫌じゃないどころじゃない。普通に嬉しい。
だからこそ、そこに至るためにも、まずもってやらなければいけないのは母と日本号さんを引き合わせることだ。その上で、認めてもらわなければならない。そこをどうにかしなければ、先には進んでいけないわけで。
頑張ろう。一緒に生きていくために。
こっそりと心を決め、顔からひっぺがした手で杯をとり、意気込みのまま酒を一気に飲み干した。