※長谷部視点

師走のはじめ、ぼちぼち部屋の片付けも始めねばならないだろうと重い腰をあげたその日に、押入れの中で真っ白い菓子の箱を見つけた。高級なバウムクーヘンでも入っていそうな、大きな箱。
だが、この中身が菓子ではないことを、俺はよく知っていた。



前任の葬儀を終えた、その数日後のことだ。

朝6時前。
「卯の刻」なんて言葉を使わなくなって久しい世を生きた人が、当たり前に使っていた言葉だ。そういうものが自分の生活に浸みついていたという事実に、感傷的な気持ちが余計に増した。
まだ仄暗いこの時間に起きているものは少なく、顔を洗って、本丸の掃除にかかろうと廊下を渡っていても、誰ともすれ違わなかった。
ずっと味わってきた朝の静けさが、まるで違うもののように思えた。空気は澄んでいるはずで、鼻先を掠めていく冷気は痛いくらいに研ぎ澄まされていて、そうだ。いつもの清々しい夜明けだった。
だのに、気持ち一つがぐちゃぐちゃなだけで、朝が来るのがこんなに苦しくなるとは、思いもしなかった。
主を失って初めて迎えた朝、手足を動かすのが酷く億劫だった。自らを使う人のいないことが、道具たる自分にとっての辛苦であるにしても、この身の重さは間違いなく人間の、命を受けたものの重さだった。
ただ一つ、ようやく重たい体を動かそうと思うに至った理由があるとしたら、それは『新たな主を迎えることが決まった』という事に他ならなかった。
新たな主を迎える。そのために、自らの主がいない間にも鍛錬をし、本丸を整える。
そういう明確な目標というものが、何とかかんとか原動力になって、日々を過ごせていた。
そういうものは、自分の他にも多くいるのだろう。一時は時が止まったように静まり返っていた本丸の時間が、新たな主が決まった日から、少しずつ動き始めたような感覚があった。まだ全てを受け入れられていないにしても、それは間違いなく体を動かすきっかけになっていたのだ。この頃は自主的に手合わせをするものや、畑の手入れを行うものも増えてきた。
時間は我々のことなど待たず、生命を振り落とさん勢いで絶えず進み続けている。そういう残酷さに、それでもついていくためには、『今』と『未来』とを受け入れるほか道はない。命あるものの一生とは、おそらく得てしてそういうものだろう。

静かな回廊を、足音を立てぬようすり抜けた先に、本丸の玄関口が見えてくる。
まだ薄暗いその場所から、きゅ、きゅ、と何かを擦るような音がして、思わず足を止めた。
玄関口の様子を目を凝らし窺うと、式台から足を放り出し、腰を下ろすデカイ槍がいた。丸めた背中を無防備にこちらへ向け、手元で何事かしているようだった。

「おい、何してる」
「ダァーーー!! びびった!!」

肩をびょっと跳ねさせた日本号は、雄叫びの如くデカイ声で叫びながら勢いよくこちらを振り仰いだ。

「おい貴様、まだ寝ているものもいるんだ。声のボリュームを考えろ」
「てめ〜のせいだろうがよぉ〜」

ぎりぎりと歯を食いしばりながら目をじっとりと半分にした日本号は、仕切り直すように小さくため息をついてから、手もとに視線を落とした。
よほど集中していたのだろうか、本気でこちらに気付いていなかったらしい。まぁあの偵察値だしな、と内心で軽口を叩きながら、奴の手元を覗き込んだ。

「靴……お前、それは」
「あー……いや、これは、別に」

何の説明にも、返事にすらなっていない言葉を口先だけで言ってから、日本号は返答するのを諦めたのか、それきり口を閉ざした。
日本号の手元にあるのは、亡くなった主が履いていた革靴だった。

「……何をしている」
「見りゃ分かるだろ」

投げやりに言って、日本号は再び作業に戻った。どうやら、片方の手に持った布で靴を磨いているらしかった。

「汚れたままで玄関に出しっぱなしだったからなぁ、何となく気になっちまった」
「そうか」

表情の見えない状態で、日本号の声だけがやけに明るかった。
ようやく昇ってきた朝日が、玄関の戸の隙間から細い線を描くように漏れ始めた。日本号の手元で輝きを取り戻しつつある靴が、その一筋を浴びて白く光る。
朝の光が生まれる瞬間を目の当たりにして、しかし目の前の光景はどうしても寂しいものだった。
丸まった背中が、思いがけない寂しさを背負っていたこと。光を取り戻した靴を履く人が、もう帰ってこないこと。
どれだけ明るい朝が来ようと、その明るさは、生まれたそばから虚しさに変換されていくようだった。

「さて」

日本号は、一通り磨き終えた靴を四方から眺めて、満足したような声を上げた。

「これどーするよ」
「どうするかも分からないのに磨いていたのか」
「ああ」

あっけらかんと返事をした日本号にため息をつきながら、片手を奴に突き出した。

「とりあえず俺が預かる。新しい主にもお聞きしたほうがいいだろう」
「ああ、そりゃそうか。肉親だもんな」

そーいうのはお前さんに任せるぜ、と投げやりなことを言って、日本号はこちらに靴を押しつけた。
お前が磨いたんだ、お前が主にお伝えすればいいだろう、と、言ってやろうかとも思った。しかし、有無をいわせずさっさと立ち去ろうとする背中にわざわざそんな言葉を掛けるのも野暮な気がして、やめておいた。
あいつが靴を磨いていたのは、多分靴をどうこうしたかったわけじゃないことが、なんとなく分かったのだ。

「おい、日本号」

朝日の差し込む廊下で、日本号は振り向きこそしなかったが、静かに足を止めた。

お前が靴を磨いていたのは、まだ受け止め切れていない現実と向き合うためだったんじゃないのか。
お前が顔に出さずとも、周りは案外お前の傷に気づいているぞ。
言えよ。
お前は話好きなわりに、何も話さないことがあるな。腹が立つぞ、そういうのは。

「いや……何でもない」

言葉を全て飲み込んだのは、結局お互い様だからだった。
何かを背負っていないものなど、飲み込んでいないものなど、今ここにはきっといないのだから。

日本号は無言で立ち去っていき、靴だけが残された。
磨いても取れない小さな傷がいくらかあるものの、ほぼ新品同様に黒々と輝くそれを、入れておく箱が必要だろう、と思い立った。
厨で見繕ったちょうどよい菓子の空き箱にそっと収め、主が訪れるその日まで、と、自室の押入れに箱を収めたのだった。

さて、あれからあれよあれよと月日が流れ、1年以上の月日が経ってしまった。
決して忘れていたわけではない。
実の父親を亡くされた御息女を相手に、どのタイミングで遺品の話を切り出すかを見計らっているうちに、こんなにも時間が経ってしまった。
と、言い訳するのも馬鹿馬鹿しいくらいには時間が経ちすぎている。戦にしても、万事タイミングを逃すとどうにも動きにくくなっていけない。
俺としたことが情けない、と嘆く横から、何ものかがひょっこりと手元を覗き込んだ。

「何それ、靴?」
「うわっ! 何だ不動か……いや、かくかくしかじかこういう靴でな」
「へえ、主の御父上の靴かぁ。見てもいい?」
「ああ」

箱の中から靴を取り出した不動は、わあ、と明るい声を上げた。長い時間が経ってはいたが、靴はあの日のまま、新品そのものだった。

「これ、今から主のところに持っていくの?」
「え゛」

思わず内臓を踏み潰されたみたいな濁声を出すと、不動は驚いたように目を素早く瞬かせた。

「え、なに」
「いや……こんなに遅れた手前、あまりに申し訳なくてだな」
「主は気にしないと思うけどなぁ……あ、じゃあ、俺も一緒に行くよ」

1対1より話しやすいんじゃない? と笑う不動の顔を、思わずじっと観察する。
顕現したばかりの頃の不安げな表情は、少しも見受けられなかった。

「一丁前にデキる奴になりおって……」
「あはは」

軽い笑い声を上げる不動に肩をぽんぽん叩かれながら、靴の入った箱を片手に部屋を出た。



「父の靴ですか」
「はい……申し開きが遅くなり、申し訳ございませんでした」

箱を両手で差し出したまま、腰を折り深々と頭を下げる。
当の主は、さして大事と捉えていないのか「え、いえいえ。気にしないでください」と普段通りの声色でそう言ってくださった。寛大である。

「でも、そっか……どうしようかなぁ。すごくピカピカだし、まだ履けそうですもんね」

受け取った箱を畳の上に置き、箱の中身を検めながら、主は悩ましげに短く唸った。

「……あの、主」

言うか言わまいか。ほんの一瞬迷い、言い淀みながらも口を開く。

「実は、この靴を手入れしたのは日本号なのです」
「え?」
「主の御父上が亡くなられた後、日本号が磨いて、俺に寄越したんです」
「日本号さんが……」

主は指の先で、そっと靴を撫でた。
この事実を伝えることで、日本号があの日抱いていたであろう寂しさや虚しさにも似た何かが、主に伝わってはしまわないかとも思った。それはプライドの高いあいつの意には反することかもしれないと、そういう、俺なりの気遣いが、主にそれを伝えることを躊躇させた。
しかし、あいつのこういう、妙に繊細なところを、日本号のことを憎からず思う主なら、もう知っていることかもしれないとも思った。
思い合うもの同士、ひょっとしたら日本号は、すでに主にもそういう姿を見せているのかもしれない。
それを思うと、「あいつにそんな日が来ようとは」と、胸の底のあたりがむず痒いような気になった。

「やっぱり、捨てるなんてもってのほかだし、私が持ってるのも何か違う気がするなぁ……」

勝手に感慨深いような気持ちに浸っていたが、主の声にはっとした。
慈しむような顔を手元の靴に向ける主に、不動は明るい声を上げた。

「じゃあ、みんなのとこ回ってみてさ、この靴が欲しいって声があるかどうか確かめて、履いてみてもらってサイズがぴったり合ったらあげる……っていうのは?」

なるほど、それなら靴を無駄にせず、かつ日本号の思いも無碍にせずに済むかもしれない。洒落者も多くいる本丸なら、欲しいと思うものもそれなりにいるだろう。
良い案だ、と不動の肩でも叩こうとしたが、それより先に神妙な面持ちの主が口を開いた。

「何か……シンデレラみたい……」
「ぶは」
「え、長谷部さん笑ってる?」

失礼致しました、と咳払いをして、脳裏をよぎった野郎連中のシンデレラという悪夢のような映像を振り払う。
善は急げ、と意気揚々に立ち上がった主を追いかけるように腰を上げた。



「意外に合わないものですね……」
「本当だね」

眉を下げる主の言葉に頷きつつ、不動は後ろ手に伊達部屋の戸を閉めた。
試しに履いてみたは良いものの、少しばかりキツいという燭台切が「小指が邪魔だったなぁ……」と若干物騒なことを呟いていたが、とにかくここまでは全敗。欲しいと名乗りを上げるものは多かれど、ピッタリくるものはいなかった。
本丸中回って、最後の最後にやってきた槍プラス村正部屋の、障子戸越しに声をかけた。

「おい、入るぞ」

戸を引くと、呑気に足を放り出しながらマンガを読んでいたらしい御手杵が身を起こした。他の連中も、オフなのをいいことに各々だらだら過ごしているようだった。

「おっ、何だなんだ?」
「実はかくかくしかじかな靴があるんだが、欲しいものはいないか?」
「だってさ、どうする?」

御手杵は靴を指で差し示しながら、部屋の連中を振り返った。
主がいらっしゃるのを目に留めてか、慌てて姿勢を正した蜻蛉切がひとつ深く頷く。

「うん。せっかくだ、全員で試してみないか」
「そうデスね。まだ綺麗デスから、履いてあげなければかわいそうでショウ」

言いながら、昼寝をしていたらしい村正ものんびりと体を起こした。
先に試した蜻蛉切、御手杵が「あ〜俺ダメだぁ、ちょいきついや」「自分もいくらかきついですね……」と口々に言うのを横目に、日本号はこたつに足を突っ込み、酒の入った杯を片手に動こうとしなかった。

「お前は試さないのか」

訝しんで声をかけると、予想外の返事が返ってきた。

「俺ぁもう試して合わなかったから」
「え、そうなんですか?」

日本号の言葉に、驚いたように返したのは主だった。
目を丸くする主とは対照的に、日本号は目を細めて「あんたが本丸に来る前な」と声色柔らかく返した。なんだろうか、この会話を聞いているだけで変にソワソワして妙な笑みが浮かびそうになる。
しかし、日本号がすでに試し履きをしていたのはこちらとしても初耳だった。俺があの日、日本号が靴を磨いているのを見つけた時よりも前に、すでに日本号はそれを試していたのかもしれない。

「さ。てわけで、あとは村正だけだぜ」
「huhuhu、必ず手に入れてみせまショウ」

仕切り直すように手を叩いた日本号に促され、村正は自信満々たる笑みを湛えながら靴に足を入れた。

「おや、ぴったりデスね」
「なに! 本当か村正!」
「おお、ちょっと外歩いてみろよ」

御手杵に背を押され、無駄にモデルのようなカッコつけた歩き方をした村正は、歩いても問題がなかったのか、誇らしげに笑っている。

「脱いでこその私デスが、せっかくの出会いデス。ぜひ頂きまショウ」
「うん、脱がんでいいぞ」

律儀にツッコむ蜻蛉切の苦労を偲びつつ、貰い手が無事に見つかったことにそっと胸を撫で下ろした。おまけに日本号と同室の村正のもとにいくのだ、これ以上ない結果なんじゃないだろうか。

「じゃあ、村正さんが選ばれしシンデレラってことで、一件落着ですね」

主の言葉に、再度こみ上げてきた笑いを咳払いで誤魔化した。
刀から生まれた大男にはおよそ似つかわしくないシンデレラという単語と、目の前の男との取り合わせがひどくちぐはぐなのが余計におかしい。

「長谷部さん、よほどツボなんですね……」
「露出癖のあるシンデレラだもんね、笑っちゃうよね」
「笑わせにかかるな不動……!」

真顔で言う不動が明らかに確信犯なのが腹立たしい。露出癖のプリンセス、トンデモ童話な予感しかしない。

しかし、こんな風に、この靴をめぐって笑える日が来ようとは、まるで思いもしなかった。
あの日、日本号が背負っていたものの一端を垣間見て、自分の内にある寂しさすらも探り当てたような気になって。きっと、だから、この靴のことを言い出すのを、無意識のうちに先延ばしにしていた。
それでも今、こうして笑っていられるのは、主がいらっしゃってこそなのだろう。どれだけ辛かろうとも、その先で笑っていられることの、なんと恵まれていることだろうか。

腹の底から込み上げる笑いも、胸の熱くなるような思いも。全部を噛みしめながら、いずれ遠からず訪れる、新たな年を思った。