「へえ。なかなかだな、結城の酒」
「だろー?」

透き通った酒の香りが鼻腔に滲み入るのを感じ、思わず声がワントーン高くなった。
すでにほろ酔い気味な御手杵は嬉しげに目尻を下げ、空になりそうなこちらの杯を目に留めるや、すかさず「ほら、酒は飲めのめ〜、だろ?」と気分良さげに酒を注ぎ足してきた。

槍プラス村正部屋で晩酌をすることになったのに、特に理由はなかった。ただ、今日出したばかりのこたつの引力に、誰もが抗えなかっただけだ。
夜が更けていくにつれて冷え込む季節になった。
各部屋でもぼちぼちこたつを引っ張り出していて、ご多分に漏れずこの槍部屋にも冬の風物詩が到来したのだった。

「結城の地酒、色々試してみたいと思ってさぁ。結構買ってあるんだ」
「ほー、じゃあしばらくその恩恵に与れそうだな」
「あ、勝手に飲むなよ?」

良からぬ気配を察知したらしい御手杵が眉をひそめると、蜻蛉切と村正が「御手杵、名前を書いておくといい」「でないと日本号が勝手に飲んでしまうかもしれません」などと失礼極まりないことを口々に言った。
人が美味そうに飲んでる酒がほしくなる気持ちは分かるとしても、勝手に人のもんに手を出すほど性根は腐っちゃいない。見くびらないでほしいもんだ。

「んー?」

舌の上を滑る酒の香りを堪能していると、突然御手杵が何かを嗅ぎ分けるように鼻をひくつかせながら、こちらに顔を近づけてきた。

「うわ、なんだよ急に。お前は犬か」
「いや、なんか日本号から主の匂いがする気がして」
「ぶ」

ちょうど喉元を過ぎようとしていた酒がおかしなところに入り込んだせいで、激しく咳くはめになった。
訝しげな顔で困惑する御手杵たちを目の前に、水をがぶりと一口飲んで、日本号はようやく身を落ち着かせた。

「……あー……ハ? 何、匂い?」
「あ、いや、今日主に戦果報告書出しに行ったんだけど、その時にした甘い匂いと同じのが……」
「あ〜何だそれか」

一つ思い当たって、いまだに匂いを嗅ごうとしてくる御手杵を「嗅ぐな嗅ぐな」と片手で追っ払ってから、その手をずい、と差し出した。

「これだろ」

差し出した手の匂いを検めた御手杵は、顔をパッと明るくして「あ〜そうそう、この匂いだ!」と素直な声を上げた。

時は遡って、晩酌が始まるちょっとばかり前。
主の部屋の冷蔵庫に置きっぱなしになっていた飲みかけの酒があることを思い出し、取りに向かった時のこと。

「あれ、日本号さん。今日お部屋で飲みって言ってませんでしたっけ?」

部屋で一人、のんびりとテレビを見ていたなまえは、突然の来訪に驚いたのか目を丸くしながらこちらを見上げた。

「あー、冷蔵庫に酒入れっぱなしだったろ。あれ取りに来た」
「あ、酔鯨ですね」
「そうそう。飲んじまおうかと思って」

軽い調子で言葉を交わしながら、冷蔵庫から瓶をひとつ取り出す。

「飲みすぎちゃダメですよ」
「ああ」

じゃあな、と言いつつテレビの前に座り込むなまえのそばを通り過ぎようとした時、それが香ってきたのだった。

「あれ、何か……」

うっすら漂ってきた甘い匂いの正体を確かめたくなって、しゃがみこみながらなまえの身に鼻を近づけた。突然の接近に、律儀に驚きながら顔を赤くしたなまえは、焦ったように身を退けた。

「びっ……くりした!」
「いや、何かいい香りしてんなと思って」
「こ、これですよね?」

すっと差し出された手からは、確かに甘い匂いがした。どこか果実のような甘さのある、柔らかな匂い。

「ハンドクリームです。友だちが誕生日に送ってくれたプレゼントの中にあって。今まで使ってたもの使い切ったので、さっき開けてみたんです」
「へえ」
「今まで無臭のもの使ってたんですけど、匂いがあるものもいいですね」

リンゴの香りだそうです、と嬉しげに声を弾ませたなまえは、机の上に置いてあったそれを手に取って、こちらに手渡した。
赤いパッケージのチューブには、ポップなリンゴがイラストが描かれている。蓋を開けてみると、なるほど確かになまえの手から香ってきたものと同じ匂いがした。

「日本号さんはハンドクリームとか使ったことあります?」
「いや、全く」
「つけてみてもいいですよ」

乾燥する季節になってきましたからね、などと眉を下げて笑う主に促され、ほんの少しだけ手に取り出してみる。手を軽く擦り合わせて馴染ませると、自分の手からなまえの手と同じ匂いが香ってきた。

「日本号さんは手が大きいから、ハンドクリームもすぐ無くなっちゃいそうですよね」
「はは、言えてら」

と、こちらのほんの少しの優越感に気づいていない様子のなまえと笑い合って、部屋を後にした。

「……と、まぁそういうわけだ」

事の成り行きを掻い摘み「主のハンドクリームを借りた」という部分だけを話すと、一同は納得したように頷いた。

「なーんだ、そうか主のハンドクリームかぁ。道理であんたに似合わない香りだと思った」
「へいへい」
「奈良漬けみたいな匂いがしてこそ日本号だよなぁ」
「うるせ〜」

余計なことばっかり言いやがる御手杵に軽口で返すと、蜻蛉切もつまみの焼き鳥片手に微笑を浮かべた。

「そうか、日本号は主と仲が良いからな」
「付き合ってマスもんね」
「い゛」

潰れたカエルのようなみっともない声を漏らしながら、ぎょっとして正面に座る村正のほうを見る。涼しい顔をしている村正の両隣では、御手杵と蜻蛉切がポカンと口を開けていた。

「へ」
「は」

固まる2本の口からようやく出てきたのは、情けなく呆けたようなたった一字のみ。そりゃそうだろう。

「村正ちゃんよぉ〜〜〜」
「huhuhu、もう隠さなくてもいいでショウ」

すまし顔でグラスに口をつける村正を前に、ようやく我に返ったらしい二名槍は、ポカンと開いたままの口をもそもそと動かし始めた。

「つ、つきあう、とは……? それは……男女のそういうそれのこと、か……?」
「そうだよ」
「い、いつから?」
「夏」

酒をちびりちびりと舐めながら、淡々と受け答えをした。
なおも目を見開いたまま「わ、我らはどうすれば良いだろうか……」などと困惑する蜻蛉切を宥めるように手のひらを向けた。

「いや、別にどうもしなくていいから。祝い酒ならいくらでも受け付けるがな」
「あ……赤飯? 赤飯炊くか?」
「だからやめろって〜の! どうせなら赤飯より美味い酒がいい!」

余計な気を回そうとソワソワし始めた御手杵に呆れ返って、ほとんど叫ぶようにツッコんだ。このメンツでそんな気を回されたらたまったもんじゃない。
とはいえ、まぁ隠していたわけでないにせよ、同室ながら随分遅い報告になったことは少しだけバツが悪い気もした。
主に気持ちを打ち明けられた時も、それに返す答えを探す間も、その後も。どんな時も、肩の力を抜いていられる場所として、この部屋があった。それが結構な救いになっていたのは、紛れもない事実だったから。
しかし、こちらがそんなことを考えているとはつゆ知らず、蜻蛉切はいたく感心したような声を上げた。

「そうか、仲が良いとは思っていたが……俺も御手杵も全く気がつかなかったな」
「な〜……あ、でもそういや日本号、いつだか主から借りた本の匂い嗅いで」
「つーか村正よぉ、お前さんはいつから気づいてたんだ?」

余計なことを思い出しそうになっている御手杵の頬を、手のひらで挟み込むように潰しながら、涼しい顔をした村正に問いかけた。

「妖しい空気に気づくのもまた妖しい刀……というわけデスね」
「なんだそりゃ」

上機嫌にグラスを傾け、なぜか満足げな笑みを浮かべる村正に、思わずがく、と肩を落とす。返事になっていない返事を受け取って、気の抜けたような声が口の端から漏れた。
その後は「とにかくおめでとさん、だな?」「驚きはしたが、仲睦まじいのは良いことだ」などと口々に祝いの言葉をかけられた。身内からのそういう言葉は、嬉しい反面、若干気恥ずかしくもある。しかし、どこかホッとしていて、気が抜けたようでもあった。

子の刻を回ろうという時間になり、御手杵は卓に突っ伏し蜻蛉切は横になり、二人が眠りこけた頃。
グラスの中のレモンチューハイに視線を落としていた村正が、不意に口を開いた。

「心配しなくても、私たちは茶化すようなことはしませんよ」

なんとなく核心をつくような口ぶりで言われた気がして、思わず目を瞬かせる。

「ああ、いや……まさか疑ってたわけじゃねえが……ただ、今までの気の遣わなさが楽だった分、それが無くなるんじゃねえかって不安はあったかもしれねーなぁ」
「蜻蛉切も御手杵も、野暮なことはしません。もちろん、私もデス」

杯を傾けながら、何気なく溢した本音に返ってきたのは、随分と優しい言葉だった。「私たちは日本号を信じていマスからね」と付け足して、村正は少し眠そうな顔でチューハイを飲み干した。

「ありがとうよ」

蜻蛉切も御手杵も、村正も。同じ部屋で過ごす分、付き合いはそれなりに深い。それでもやっぱり、主との関係性が変わったことで、これまで考えたことのない変化が起きるかもしれないことに対して、少し構えているところがあったかもしれなかった。
杞憂だったなぁ。
村正の言葉で、肩の力がいっぺんに抜けていった。
本丸の中には、主の持ち物として在るもの同士、この関係を良しとしないものもあるだろう。それは覚悟の上だ。
そういう気概を持っている分、こいつらがゆるく大らかに受け入れてくれたことが、他の何よりも深い安心感を与えてくれたような気がする。俺は同室にも恵まれた。

「祝い酒、期待してるぜ」

気づけば卓上に頬をひっつかせて眠ってしまった村正や、同じ槍の連中に向けて小さく呟き、最後のひと口をぐい、と煽った。