◎本丸運営十三日目
「酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」

暗がりの廊下の先に、うっすらと白い影が浮かんでいた。何をするでもなく佇んでいる白いそれが不意に振り返り、目が合う。

「なんだ、骨喰か」

まさかバケモンでも出たのかと思ったが、その正体はなんてことない、白い寝間着に身を包んだ骨喰だった。

「日本号か。何をしているんだ、こんな夜中に」
「俺ぁ今から薬研とサシで、コレよ」

口元で猪口を傾ける仕草をしてみせたが、骨喰の表情は特に変わるでもなく「そうか」とだけ短い返事が返ってきた。

「お前さんは? 何してんだ」
「いや、何でも……」

骨喰が言い淀むのに被せるようにして、ぐう、と小さな腹の虫が鳴いた。

「何だ、腹減ってんのか?」
「別に、ただ何となく寝付けないだけで……」
「腹減ると眠れなくなるよなあ、わかるぜ」
「……腹に何か入れれば、寝られるのか」
「ああ、多分な」

まだ顕現したばかりの骨喰は、何のことやら分からないなりに、とにかく自分の腹が空になっているのが不眠の原因だということは理解したらしく、腹の辺りを手で押さえながらすぐさま踵を返した。

「厨に行くのか?」
「ああ」
「あー、待てよ。せっかくだ、一緒にどうだ? 無理にとは言わねえが、食いもんならこっちにもあるぜ」

足を止めた骨喰は、振り返ったきり数秒、無表情でいた。
無理にとは言わない、とは言ったものの、断りにくかっただろうか。胸の内で少々危惧したが、小さく「いいのか」と返ってきて、肩の力が抜けていった。

「おう、来いよ」

こちらが歩き始めると、裸足の足をぺたぺた言わせながら大人しく付いてきた。
話しかければ一言だけでもきちんと返ってくるのを見るに、他との付き合いを嫌っているわけではないらしい。記憶がない、と聞いている。口数の少なさはそれ故なのだろうか。
普段飯を食っている広間の戸を開けると、だだっ広い空間で一人、つまみを前に待ちぼうけていたらしい薬研がこちらを見上げる。

「薬研、お前さんの兄弟連れてきたぜ」
「邪魔する」

後ろに連れた拾いものを見せてやると、薬研は目を見開いて、それからすぐ嬉しげに声を弾ませた。

「邪魔なもんかよ。来な、歓迎するぜ……つっても大したもんはねえが」

卓上にあるのは、大量に作り置きしてあるきゅうりの浅漬けを少々拝借したものと、冷凍の餃子を焼いたやつ。それから柿の種。

「はは、呼んどいてこれじゃーな。だったら厨のほうが美味いもんあったかもしれねえ」

悪かったな、と後ろ手で頭を掻きながら詫びると、骨喰は小さくかぶりを振った。
それから指の先で、皿に盛られたきゅうりを一つ摘まみ上げ、口の中にひょいと放る。しばらく口の中でポリポリ言わせ、喉を鳴らして飲み込んだかと思うと次の瞬間には「これも食べていいのか」と餃子を指差した。
その様子に薬研は声を上げて笑い、餃子の皿を差し出した。

「はは、何だ腹減ってたのか? いいぜ、好きなだけ食いな」
「俺たちゃ酒があればいいしなあ」

薬研と顔を合わせて言えば、骨喰は静かに「酒も少し欲しい」と呟いた。

「お、まじかよイケる口か?」
「量は分からない。けど日本酒の味は好きだ」

骨喰の口の端が、ほんの少しだけ上がっているのが見えた。本心らしい。

「そうかあ、よし。んじゃあまた今度一緒に飲もうぜ」
「いいのか」
「おう、飲み仲間が増えるのは大歓迎だぜ」

骨喰が酒に前向きなのは、少し意外ではあるが素直にうれしいもんだ。
これから、酒好きの刀はどれだけ来るのだろうか。分からないが、人も見かけによらなければ刀も見かけによらぬものらしい。積極的に声をかけてみるのも、悪くないかもしれない。


◎本丸運営十四日目
「太刀がわるい」

「日本号は、犬は好きか?」

畑仕事を一通り終えた昼下がり。
庇の張り出した縁側に腰を下ろし、陽射しから逃げるように休憩していた折、鶴丸が藪から棒にそんな話をし始めた。

「はあ?」
「犬。好きか?」
「や、まあ、虎よりゃあ幾分」

何を突然と思いながら、まあ雑談の一種だろうと、首筋に伝う汗を手拭いで拭いながらざっくりと答えた。
曇っているにも関わらずムッとするような、大気の温度がぼんやりと高まっているような感じのする日だ。
4月に入ったからだろうか、それとも今年はそういう年なのか。何にせよ、とにかく冷茶が美味い。透明のコップの中で透き通る緑色のそれを煽ると、土に水が染みるように、体の内に茶が沁みていくようだった。
同じように冷茶をひと息で飲み干した鶴丸は、満足げに息をついた後、何故か声を潜めながら話の続きを始めた。

「いや、主から聞いたんだがな……犬が審神者を務める本丸があるらしいぞ」
「はあ? 何だそりゃ、獣が刀剣従えてるってのか」
「ああ、なんでも犬種は柴犬で、まだ若くなかなか凛々しい顔つきをしているらしい。初期刀は加州清光。その本丸には主の散歩当番ってのがあるそうだ」

さも見てきたようにつらつら言っているが、にわかには信じがたい。
ていうか主の散歩当番って何だ。しまいにゃ主の餌当番なんてのも出てきそうである。

「ていうか……どうやったら犬が手入れやら鍛刀なんか出来るんだよ。あり得ねえだろ」
「そこは主の飼い主が上手いことサポートしてるんだとさ。だがまあ、犬は案外頭がいい。軍犬なんてのもいるくらいだ、その主が執る指揮は大層優れているらしいぜ」
「ああ、確かにな……連中、狩りが出来るし、無くは無い、のか?」
「な。けどまあ、犬が主ってのはどんな気分なんだろうなあ、想像がつかないよな」

ぼんやりと言いながら、やわらかな灰色の空を見上げる鶴丸に倣って、視線を空へ放った。

柴犬ってのは、あの香ばしい匂いのしそうな色合いで、尾がくるりと丸を描く、あの柴犬か。あれを主と呼ぶ刀剣が、今どこかの本丸で、ここと同じように日々を過ごしているらしい。
しかし刀剣が人の姿を現しているのが日常となっているのが、本丸という世界である。犬を主と呼ぶ日々も、そこでは当たり前の日常となっていくのだろうか……イヤやっぱり想像はつかない。

「なんてな! 今のはぜーんぶ嘘だ!」
「あ?」

驚くほどに白い両の手のひらを阿呆みたく広げて見せている鶴丸は、腹が立つほど晴れやかな声色で抜かしやがった。

「今日は嘘をついても許される日、エイプリルフールというやつらしいぜ」
「嘘をついても許される日だあ〜? んだよそりゃ、真面目に考えた俺が馬鹿みてえじゃねーか……」

ほとんどため息のような声で言うと、鶴丸は眉を八の字にしながら笑い声を上げた。

「まあ、毒にも薬にもならないような嘘だ。許してくれ」
「別に怒っちゃいねえがよ、騙されたってのが単純に悔しいな。戦に負けたみてえな気分だ」

口を尖らせて投げやりに言ってやったが、鶴丸は気にする風でもなく「来年の今日、日本号も誰かに嘘をついてみたらどうだ?」なんて言いやがる。こっちが本気で怒っていないのを解っているのだろう。

「嘘ねえ……じゃあ来年、主にでも仕掛けるか。あんたも協力しろよ」
「ああ! 楽しい嘘にひっかけてやろう。ちなみに俺はもう主に嘘をついてきたぜ」
「へえ、どんな」
「おやつのプリンを茶碗蒸しにすり替えた」

地味にタチが悪い。


◎本丸運営十五日目
「この気持ちはなんだろうby谷川◯太郎」

細く長い竹の棒を柔らかな土の上に押し当て、浅い溝を作った。その溝の中へ、ほうれん草の小さな種を摘まんでは播いていく。
背中を丸めた姿勢でちまちまとした作業を延々続けなけりゃならないのは、でかい体にはちとキツイ。
畝の反対側で同じように背を丸めて作業をしていたはずの鶯丸は、ものの数分でギブアップしたらしい。立ち上がり、腰を伸ばして休戦の体勢に入っている。

「なあ日本号、この本丸は運営開始から2週間は経っているんだろう?」
「ああ」
「何で今になって種まきなんだ?」

天に向かって腕を伸ばしたり首を回したりしながら、鶯丸が軽い調子で言う。不平不満を述べているというよりは、本当にただただ純粋に疑問なのだろう。

「露地栽培だと土作りから始めないといけないらしいぜ。こっちの畑とは別で、細長い鉢でもいくらか育ててるんだがな。これから刀が増えたら食費も嵩むだろうし、畑作りは必須なんだとよ」
「なるほどな」
「初心者は鉢で少しずつ育てるほうが上手くいくらしいんだが……こっちはどうなるかねえ」

一人で作業を続けるのも何となく怠くなって、鶯丸を追うように立ち上がり、腰を伸ばして肩を軽く鳴らした。
そもそも、揃いもそろって初心者しかいないというのに、土作りから始めなくてはいけないというのはぶっちゃけ不安だ。たっぷり2週間かけてようやく土の色や感触が変わってきて、それは面白いのだが、これが正解なのかはやはり分かりかねる。

「気が遠くなるぜ、ほんとに」

ぼやくように呟きながら、改めて畑全体を見回してみる。
だだっ広い畑の大半が、まだ種を播かれていない状態で俺たちを待ち構えていた。
よく肥やされた土が、その躍動する生命の源を、これからやってくる種子に与えようと意気込んでいる。
そういう意思が長靴の足の裏から胸の内へ直に伝わってくるような気がして、その力の巨大さに少しだけ怖気づく。

「自然ってのは、どうしてこうも圧倒的なのかねえ」
「ん? ああ、そうだな。誰も彼も、自然には勝てないな」
「だろ。自然に対して抱いてる、こういう畏怖の感情ってのは……無機の物であるが故なのか、人の身と情を得たせいで変に憶病になっちまったのか、どっちなんだろうなあ」

自分の意思で在り方を決められない物であった自分と、畏れを抱く人の情を得た自分。
多分、そのどちらもが作用して、今こんな感情を抱いちまっているのだろう。
自然というものには、いつだって誰もが抗えない。何気なくそこに在るくせに、時折信じられないほど凶暴な力をぶつけてくる、自然。

「俺たちは、元は自然が産んだ鉄だったろう」

天を滑空する鳥を目線で追いかけながら背を向けた鶯丸が、滑らかに語る。

「元は自然のものだった。そこに人が手を加えて、無機の物となった。しかし、それから人に使われ、長い年月を過ごし、そうして付喪神などと呼ばれ、魂を持つようになった。今ここに、生命を持って集った」

腕組みをしながら表情を見せずに語っていた鶯丸の明るい瞳が、急にこちらを向いた。

「まあ、何だ。つまりはこうして人の身を得た俺たちも、辿っていけば結局自然の一部なんだってことだ」
「ああ、考えてみりゃそうだよな」
「そうだろう。だからこそ、どんなに牙を剥かれようと自然からは離れられない。それが恐ろしくもあるが、やはり広義では産みの親みたいなものだ。自然に生かされている俺たちは、ずっと自然と共に生きていくんだろうな」
「自然と、それから人と、か」
「ああ。俺たちがこの世に存在し続けるためには人の存在も不可欠だからな。……さ、続きをやろう。生きるためには食わないとな」

急にやる気を出した鶯丸と共に、再び腰を下ろし、作業を再開した。
不意に、主から聞いた話を思い出した。生命は海から生まれた、という奇妙奇天烈な話。
そんな不思議が本当なのだとしたら、同じ自然の中から生まれた人と物とが一つところで生きている本丸という空間には、何の不思議も無いのかもしれなかった。


◎本丸運営十六日目
「洗濯、手伝い、おてのもの」

ごうん、ごうん、と大仰な音を立てながら洗濯機が回る。
刀も本丸運営開始から倍に増えた。その分、洗濯物も当たり前に増える。

「すごいんですねえ、自動で洗ってくれるなんて……」

共に洗濯当番である堀川国広が、目をまん丸くしながら洗濯機の中を覗き込んだ。
蓋の透明な部分から、中でぐるぐる踊らされる大量の洗濯物が見えるのがよほど楽しいのか、時折小さく笑い声を上げている。

「僕らがやったことって、洗濯物を集めて、洗濯機に入れて、洗剤入れて……それで終わりですよね?」

明るい青の目がこちらに向いた。言葉の一つ一つが弾むのが抑えられていない。

「おう、文明の利器ってやつだな。ありがてえ」
「これが終わったら、洗濯物を干せばいいんですよね?」
「ああ」
「わあ、すごいや……!」

感嘆の声を上げる堀川は、再び洗濯機を覗き込んだ。

洗濯が終わるまで、少し時間が空く。いつもその間、昼前から酒を飲みながら駄弁ったりなんなり、好きに時間を潰している。
それを伝えようと口を開いたが、間が悪く堀川に先を越されてしまった。

「じゃあ洗濯が終わるまでの間、お掃除でもしましょうか!」
「え」
「洗濯が終わるまで、どれくらいの時間がかかるんですか?」
「あーいや、大した時間はかからねえよ、ほんの……10分かからないくらいだ。すぐに終わるぜ」

まさか掃除なんて提案をされるとは、思ってもみなかった。
こめかみに冷や汗垂らしながら若干少なく見積もった時間を伝えると、堀川はぱっちり見開いていた目を素早く瞬かせ、すぐさま日の光が差したような笑顔を見せた。

「それなら、大広間に置いてある一輪挿し! 今飾っている花、すこし萎れてしまってたので、新しいものに変えましょうか!」
「え」
「僕、花を持ってくるので、水を変えておいて頂いてもいいですか?」
「あー……」
「すみません、ではお願いしますね!」

トントン拍子に話が進んでしまった挙句、堀川は丁寧に一礼したかと思った次の瞬間には、ものすごい機動力で走り去っていった。
肯定の意味で発した訳じゃない「あー……」という曖昧な返事を今更ながら後悔した。
変に濁すんじゃなかった。普段ならちょっとばかし楽ができる洗濯当番だが、今日は一筋縄じゃあいかないらしい。
頭をガシガシ掻きながら、仕方なく大広間へ向かう。
誰もいない大広間でさみしげな一輪挿しを手に取り、洗い場へ戻った。
小さな一輪挿しから、萎れ始めているうっすら青い花をつまみ出し、洗面台に水を捨てる。萎れた花をそのまま投げ捨てるのも何となく気が引けて、ちり紙で包んでから屑籠に入れた。
新しい水を汲んだところで、ちょうどタイミングよく、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。

「あ、日本号さん! お水ありがとうございます」
「おー」

元気よく帰ってきた堀川に一輪挿しを渡してやる。

「新しい花、持ってきましたよ」

ほら! と声色を明るくしながら、片手にそっと摘んでいた花を一輪挿しに挿した。
さっきまで飾られていたのと同じ花だが、やはり色合いの良さが違って見える。

「ずいぶん明るい青だよなあ」
「ネモフィラっていうらしいですよ」
「畑のプランターとは別の鉢に花植えてあるよな。ありゃあ乱あたりの仕業かね」
「いえ、今朝教えてもらったんですが、鶴丸さんが育てているみたいですよ。主さんに苗を買ってもらったそうです」
「ほー、鶴丸がねえ」

頷く堀川の、目が覚めるような明るい瞳の色とは少しばかり異なる、春めくのどかな空のような青色の花に顔を近づける。
鶴丸はいつの間に、何を思って花なんぞ育て始めたのだろうか。ただの気まぐれかもしれないが、だとしても、飾れる花を育てるのも案外悪くないのかもしれない。
と、突然鳴り響いた電子音に耳を突かれ、肩が大きく跳ねた。
すっかり忘れていたが、洗濯が終わったらしい。

「わあ、ずいぶん大きい音で知らせてくれるんですね」
「気ぃ抜いてるとビビるよな」
「あはは、戦さ場の銃声みたいな感じですね」
「だな」

堀川は手にしていた一輪挿しを洗面台の上に置き、気合を入れるように拳を握った。

「お花はあとで持っていきましょう。とりあえず今は洗濯物干し、ですね」
「おう、とっとと終わらせようぜ」
「はい!」

勢いの良い返答に、つられて自分も気合が入る。
何かと気のつく堀川に引っ張られるような時間を過ごしたが、なんだかんだ悪くない気分になっている。
しかしまあ、やっぱり出来ればたまには酒の時間にしたいもんだというボヤきをしまいながら、洗濯物干しに取りかかった。