初期から日本号がいる本丸は、ごく少ない。
しかしこの本丸には、運営開始当初から日本号がいた。

この国で今なお続く奇妙な戦争が始まって、まだ間もない頃。
審神者の数も少なく、つまりは国側の戦力もかなり乏しかった頃だ。
一向に収束する気配を見せない戦況を前に唇を噛むばかりだった政府は、自らが編み出した「審神者」という対抗手段の待遇を、ここでようやく見直した。新たに就任した彼らに、できるだけの、コストギリギリで手厚い保障をしたのだ。
その一環として、ある一時期、三日月宗近、鶴丸国永、日本号といった、レアリティが高く即戦力になる刀剣の配布を行った。
そういった事情もあり、その一時に就任した審神者は古参の者から「政府に甘やかされたごますり世代」などと揶揄されたこともあったという。
ちょうどその時期、社会で至極まっとうに働いていたところを引き抜かれ、審神者になったのがこの本丸の前任であった。
世間に表立たない戦争に関わることなど少しもなく、社会の歯車として汗水流す中で愛する女性に出会い結婚し、未来ある子供もいる。
審神者としての力があるということ以外は、そういう、どこにでもいる普通の男だった。

この本丸の運営が始まったばかりの頃のことだ。
太陽が高く昇る正午である。
頭に手拭いをぐるりと巻いた、およそ付喪神なんて呼称を感じさせないツナギ姿の日本号は、審神者が常日頃から過ごしている執務室の真ん前の中庭で、主が佇んでいるのを目に留めた。昼飯は何がいいか相談に来たのだが、向こうはこちらに気づく素振りも見せない。
無駄にだだっ広い本丸の庭は、まだ庭木が数本、本丸を囲う塀沿いに申し訳程度植わっているだけの、あまりに質素なものだった。裏を返せば「審神者ごと本丸ごとに好きにしていいよ」という、政府からの好意ともとれる。もちろん『景趣』なんていうシステムもあるので、金さえあれば特別手を加えずとも庭を美しくする手段はあったのだが。

「何してんだぁ、あんた」

声をかければ、乾いた土に視線を落としたままぼんやりとつっ立っていた主は、ゆっくりとこちらをふり仰ぐ。背の高い大男が白い太陽を背負っているのを見上げ、眩しそうに瞬きをし、それから眉を下げて笑った。

「いやぁ、淋しいからね、庭」
「あー、まぁな」
「なにか植えようと思って。ネットで色々調べたら通販で苗木買えるみたいなんだ。で、アマゾンで色々苗木とか見てみたんだけどね、何を植えたもんかなぁって、想像してたんだ」
「ほー」

ねっとだあまぞんだってのが何なのかはよく分からんが、しかし主が少年みたいにはにかむものだから、ねっとがなんだろうがあまぞんがなんだろうが、そんなことはどうでも良かった。

「ま、何か手伝うことがあったら言えよ。まだ刀剣どもの数は少ねぇが、手は多いに越したこたぁねーだろ」

庭を整えるなんざ、武具のするこっちゃないのかもしれない。
だが日本号は、自分が思っている以上に、この主に恩を感じていた。

人の肉体を得た日の夜。さっそく主と共に酒を飲んだ。
透き通った酒が溢れんばかり、なみなみと注がれたデカイ盃を、難なく支え持ち上げられる手があった。
そいつをチョイと傾ければ、澄んだ酒の香りに鼻腔をくすぐられ、やや辛口の酒が舌にじゅわりと沁みて、目の奥が熱を持った。
そうして舌の上で散々転がし味わった酒が、喉元を通り過ぎていった。
全てが痺れるほどに心地良かったのだ。
美味い酒が飲めるという、ただそれだけのこと。それは人の体がなければ味わうことのできない、ほんの一瞬の至高である。
その日、眠りにつくまでに何度もその一瞬を反芻した。多分、尋常じゃないほど浮かれていたと思う。夢の中でまで、何度も何度も繰り返し盃を傾けた。翌朝、夢の中で酔っ払った挙句足元がフラフラになったのはちょっといただけなかったが。

そういう感動を与えてくれたのは、紛れもなくこの主なのだ。

「あんたには恩がある」
「恩?」

主は、思い当たる節がない、みたいな感じで片眉を上げて首を捻った。

「ま、いいさ。これから先、俺が勝手に恩を返していくってだけの話だ」
「うん? よく分からないけど……じゃあ庭に手を入れる時はお願いしようかな」

ただの更地同然の庭を、腰をぐっと伸ばしながらぐるりと見渡した主は、改まった感じでこちらに向き直った。

「よろしく頼むよ、日本号」

顔を綻ばせる主に名を呼ばれ、「任せな」と短い返事をしながら、美しくなった庭を頭の中に描いていた。

春には梅が咲き匂えば、その香りにきっと背筋が伸びるだろう。
夏には紫陽花でも朝顔でも、とにかく涼やかな青があるといい。
秋は色づいた紅葉に、この小さな世界を鮮やかに染め上げてほしい。
冬は生命が息を潜める季節だ、真っ赤な椿でも咲いていればきっと寂しくならない。

そんな風に一年を思い描いていた自分も、たしか笑っていたはずだ。



門前の広場に集められた男士たちの前に、男が一人、女が一人。そして見覚えのある顔の男、いや、男士が一振り。
何度かこの本丸に来ている管理課の男に、山姥切が男士全員揃ったことを告げた。

「よし、じゃあ……ご紹介しますね、こちらが今日からこの本丸の主となる方です」

男から、一言挨拶をと促された女は、背筋はしっかり伸ばしたまま一歩前へ踏み出し、一文字に結ばれていた口を開く。

「初めましての方も、お久しぶりの方もいらっしゃると思いますが、本日よりこの本丸の主となりました、みょうじなまえです。至らない点も多いとは思いますが、どうぞよろしくお願いします」

形式めいた言葉選びと深々とした礼からは、分かりやすく緊張が伝わってきた。本丸の連中からの「こちらこそ」だの「よろしくー」だの揃わず締まらない返事を受けて、そこでようやく頬を緩めた。

「それから、彼女の初期刀が」
「陸奥守吉行じゃ! どーぞ、よろしゅう!」

男の紹介を遮るようにして体を前に出したのは、刀剣男士「陸奥守吉行」だった。
演練会場なんかで見たことはあったが、この本丸にはいなかった男士だ。
前の主は刀集めに執心しないタチで、ここはどちらかといえば少数精鋭の本丸であった。今現在、政府から顕現を公認されている刀剣は八、九十振りほどだが、ここにいる男士は四十振りに満たない。
後から入ってきた二振り目と折り合いをつけてやっていくのはなかなか難しいと、たまに他の本丸の刀がボヤくのを聞くことがある。うちでは無い事例だが、まだ審神者になったばかりの主には負担になりかねないだろう。
陸奥守吉行がいない本丸というのもかなり珍しいと聞いていたが、こうして新たな主を迎えるにあたってはプラスに働いたと言っていい。

「じゃ、本丸内のご案内は前任さんの初期刀である山姥切国広くんにお願いしてありますので。何か分からないことがあったら、先ほどお渡しした名刺の番号までご連絡くださいね。こんのすけを通してでも構いませんし」

いつでも頼ってください、といういかにも気を遣った感じの言葉を残して、管理課の男はあっさり帰っていった。本当に、主と陸奥守を送るためだけに来たのだろう。
託された山姥切は、所在なげに立ちすくむ主のもとへ自ら歩み寄った。

「主、一度来たことがあるんだ。本丸のこと、多少は覚えているか?」
「ええと、前に来たのが二十年くらい前のことだったので……ちょっと曖昧で」
「分かった、なら案内する。ついてきてくれ。陸奥守、お前もだ」
「おう!」
「ありがとうございます」
「あっ、俺も主さんに本丸案内したいなー!」
「ボクもボクもー!」

浦島と乱の高い声を皮切りに、次々と黄色い声やら低い声やらで主張が相次ぎ、大小さまざまな手が上がった。
山姥切は「こうなると踏んで俺が代表になったのに」とボヤきながら、気圧され気味な主を背中に隠すようにして前に出た。

「先着順だ。浦島、一緒に行くぞ」
「やったー! ホラ主さん、行こ!」

さっそく主の腕を掴んでぐいぐい引っ張り出している浦島を苦笑いで見ていた日本号は、ふいに視線を感じた。
その先、浦島に引っ張られている主のほうに目をやる。
すぐに逸らしたらしいが、確かにこちらを見ていた。
訝しく思いながら、しかしすでに山姥切たちの後についていっている主にわざわざ声をかけるのは憚られて、他の連中よろしくその場を後にした。



「ここが鍛刀部屋だ。刀を作る」
「ほーお、ここで刀剣を作るがか!」
「こっちが手入れ部屋! 傷ついた刀を手入れするんだよ!」
「うんうん、そりゃあ大事じゃの!」
「ここは厨。飯を作る」
「飯! 人の身を得て食う飯はどんなじゃろうかぁ、ワクワクするのぉ!」
「陸奥守」
「うん? なんじゃ山姥切」
「お前は少し静かにしろ」
「なんじゃあ冷たいのー!」

本丸中を見て歩く間、陸奥守はずっと子どものような笑顔ではしゃいでいる。一通り見て回った、その締めの場に来てもなおそれは落ち着くことはなかった。
本丸中を見て回って、最後に訪れた部屋に、なまえは見覚えがあった。

「ここが執務室。主専用の部屋だ」
「ここは……覚えてます」

一歩足を踏み入れた時から、頭の奥の片隅にあった記憶が蘇っていた。
壁いっぱいに並ぶ背の高い本棚には本がぎっしり詰まっており、部屋の真ん中には仕事用であろう大きめな文机がある。そして、開け放たれた中庭で咲き綻ぶ、梅の木。この部屋に入ってすぐ、品のある甘い香りがしてきて、自然と背筋が伸びるような心地がした。

「一度だけ、うちの本丸にも直に襲撃があった」
「本丸にも敵が来るがか……おおごとじゃの」

神妙な面持ちで身を固くした陸奥守の呟きに、山姥切は少しだけ声のトーンを落として「昔のことだが」と付け足した。

「多分それからだろう、前任が家族を自分の仕事から遠ざけたのは」

なまえにも、思い当たる節があった。
確かに父はある一時から、自分たち家族を意図して仕事から遠ざけていたし、たまに帰ってきても積極的に仕事の話をしなくなった。
おそらく守秘義務なんかもあったのだろうが、きっとそれだけではないことは、何となく気づいていた。
「もし家族が訪れた際に、命の危険すらある襲撃に見舞われたら」という不安。
そういういかにも人間らしいいきさつがあったのなら、父が一度しかここへ連れてきてくれなかったことにも納得がいった。

「結構な被害があったんだ。あれ以後、政府側も本丸内の人の出入りに特別ピリピリし始めてな」

まぁ今はその話はいいんだが、と目を伏せ首を横に振ってから、山姥切は中庭の梅を指差す。

「あれはこの本丸が始まってすぐの頃に植えたんだ。まだ初期刀の俺と、前任が初めて鍛刀した前田と、それから政府から配布された三日月、鶴丸、日本号の五振りしかいなかった時だな」
「いつ聞いても思うけどさ、本丸始まってすぐにしてはすごいメンツだよねー」

浦島がのんびり言うのに頷いて、山姥切は「あの梅は敵の襲撃も乗り越えたんだ」と誇らしげに言葉を弾ませた。
山姥切は、固い表情で梅を見つめる主の横顔を、こっそり横目で見やった。思いがけず、前任の面影が重なって見えたような気がして、すぐに目を伏せた。ここにいるのは間違いなく、あの人の血が流れている生きた人間なのだと、当たり前の現実がようやく胸の底に落ちてきた気がした。

「主、前任はいい主だった」

呼びかけた、自分の主の目がこちらに向くのを見て、山姥切は一度大きく息をついた。
言わずとも伝わっているかもしれないことを、それでも言いたくなったのは、自分が思っている以上に、この人が主となってくれたことを喜ばしく思っているからだろうか。

「みんな前任が好きだった」
「……はい」
「主も前任……いや、父親のことを家族として愛していたのなら、父親の気配が残るこの部屋で過ごすのは辛いんじゃないか、執務室は場所を変えるべきなんじゃないかという声もある」

主が望むならそうしようということで、本丸内の意向は決まっていた。
自分らの主がいなくなって、当たり前の悲しさに飲まれながら、それでも新たにやってくるという娘への心配りは決して忘れてはいけない。それは男士全ての総意であった。悲壮感に打ちひしがれて立ち止まりたくなりながらも、そうして前へ進むためのあれこれを考えるのは、明らかに自分らにとっても救いだったのだ。
だから、主にとって、本丸で過ごす時間が少しでも良いものになるように、自分たちは出来る限りのことはしたい。
そういう思いを伝えようとするより先に、主が口を開いた。

「ここがいいです、私」

前向きな返答をちょっとだけ意外に思いながら「いいのか」と問えば、主は山姥切の目を見上げながら小さく、けれどはっきりと首を縦に振った。

「気を遣っていただいてありがとうございます、でも大丈夫です」
「……本当に大丈夫か?」
「父がここを好きだったなら、なおさらここがいいです」

頬を緩めて執務室を一周ぐるりと見回した主は、改まって口を開いた。

「父が最期まで過ごしたこの場所を守りたいと思って、だから、私はここに……」

不意に、主の顔から、火が消えるように笑みが消えていった。
握った拳で口元を覆い、そのまま口を噤んでしまう。
それはまるで、何か良からぬことを言ってしまったと、口を滑らせてしまったような仕草だった。
訝しく思い声をかけようとしたが、「日本号さんが言ってた通り、主さんって優しいね!」という浦島の明るい声に流されて、当の主も取り繕うように浦島と話し始めてしまい、結局その不安の正体は分からないままお開きの方向になってしまった。
けれど確かにその瞬間、主の瞳が揺らいだのは、明らかだった。