思えば、主と初めて出会ったのは、あいつが一番小さな短刀よりも小さかった頃の話だ。
あの時、こんな小さい生き物が、それでも人の形をして、人を思いやって生きていることにちょっと感動したのを覚えてる。
どこから引っ張り出したのかも分からない膝掛けを、雑にでも掛けてくれたのが、この世に生まれ落ちて数年しか経っていない子どもだったなんて。自分の手のひらに乗っかっちまいそうなくらいに小さな生き物が、きちんと、人として生きていることに驚いて、でも何故だか、本当に嬉しかったんだ。

それから長いこと会う機会なんて無かった。皮肉なもんで、再会の場はあいつの父親の葬式だった。
あいつは覚えていないのかもしれない、葬式であいつの肩が俺にぶつかったこと。
あの時は、まさかあの小さい生き物と目の前の人間が同一であったなんて思いもしなかった。それに、まさか娘が主になる、なんて思ってもいなかったから。
ただ痛ましいと思って見ていた。頭の先から爪先まで、全身が張り詰めていて、ちゃんと息ができているのか心配になるくらいだった。

だから、あいつが主として初めてここにやって来た夜、廊下の暗がりで同じように息を詰めている様に、見ているこっちまで胸が潰れそうになった。
だけど多分、そういう人間が目の前に現れたからこそ、俺もちゃんと生きていこうと改めて思い直すことができたんだと思う。
自分のかけた言葉で涙ながらに笑う姿を見て、ああこの娘も俺も、これからまだまだ生きていけるんだと思って、肩の力が抜けた。
この時の感情はまだ、使われる物としての情だったのかもしれないけれど。

今さらだが、ひょっとしたらあの言葉をもらった時、すでにこの気持ち全部が始まっていたのかもしれない。
「好きです」という、たった一言。
貰った言葉をいま改めて取り出してみても、やっぱりそんな気がする。心臓ごと串刺しにされたような気がした瞳の意志の強さも、未だ少しも忘れることが出来ずにいる。
夢の中であいつの声、あの言葉を聞いたような気がした時、そのことに気づいたんだ。
気づいた末の結果論だと言われても仕方ないのかもしれないが、そうだとしても、俺がそう思いたいんだから、それでいいんだと思う。

あいつが、冬を終わらせてくれた。
いつまでも終わりがなかったかもしれない、凍てつく冬を。世界が終わりそうな、凍える冬を。

春を連れてやってきてくれたんだと思った。
季節が正しく巡るよう、あいつが時間を動かしてくれた。
春を告げる声と言葉を、あいつは携えてやってきたのだ。

夢の中で触れた頭の丸っこさ、柔らかい髪の毛の向こう側から伝わってくる温度も、それらが鮮明に手のひらに残っている。まるで本当に触れていたかのように、確かに。
春の二人の夢を見て、こんなにいくつもの感情が、いっぺんに暴かれたような気がしている。



日本号が本丸に帰った晩、その帰還祝いが開かれた。
次郎太刀秘蔵の超上質な酒が振る舞われるなど怒涛の盛り上がりを見せた祝いの席の、その途中。
日本号は、主の姿が見えなくなったことに気づいた。
自慢の大盃に酒を半分も残したまま、そっと腰を上げて、広間を抜け出した。
主役が席を離れるのは野暮ではあるし、気も引けた。だがしかし、多分だが何振りかは部屋を抜け出す自分に気付いていたと思う。気づいていて、見逃してくれたのだと思う。

「主」
「あ、日本号さん」

広間を出てすぐの回廊で、窓を開けてぼんやり立ち竦んでいる後ろ姿に声をかけた。
振り返った主は、頬の先がほんの少し赤くなっている。

「どうした、もう酔っ払ったか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」

言葉を濁しながら、口の中でごにょごにょ言ったかと思うと、主は観念したみたいに細く短いため息を吐いた。

「……夢、見たんですよね」

胸のうちに抱えていた秘密をおそるおそる曝け出すような、ひそめた声だった。
その所在なさげな声に歩み寄って、主の隣に並び立つ。

「日本号さんが出てきました、何でか春の景色の中で、海があって……」

ぽつりぽつりと、自分にも覚えのある景色の話を並べられて、思わず「あれは夢なのかね」なんて疑問が口から滑り出た。

「え? あ……日本号さんも?」
「ああ、同じ夢を見た……つうか、ひょっとしたら、俺の夢の中にあんたを引っ張り込んじまったのかもしれない」

元はと言えば、前任のいなくなった日に見た悪夢が発端となった夢だ。
よもや、あれの続きを見ることになろうとは思ってもいなかったから、もちろん意図してやったことではない。
だが、ひょっとしたら自分は、あの夢の中に何かを置き去りにしたままだったのかもしれなかった。
それこそ、置きどころを見失った感情とか。
冷たい冬の中に沈んだそれを、誰かに引き揚げてほしかったのかもしれない。
それはきっと、主でなければいけなかった。

「だとしたら、あの夢……どうしてあの夢は、日本号さんと私の夢は、あんな風に繋がったんでしょうか」

視線を落とした主がまばたきをするたび、その小さな動作すら見逃したくないような気がして、息を詰めてその顔を見つめた。

「……同じように苦しんで、もがいた」
「同じように……悲しくて、でもちゃんと歩いてこられたから、でしょうか」
「ああ、そうかもしれない。それに、同じように……」

言葉を切って、口を閉ざす。
急に言葉が途切れたことを訝しんでか、伏し目がちだった主が不思議そうにこちらを向いた。丸い黒目に見上げられて、勝手に頬の筋肉が緩む。

「好きだよ」

言った途端、主はまばたきも呼吸も忘れたみたいに、ただただ目を見開いた。
大きく開かれた瞳に、自分を映してくれているという現実ひとつだけで、無性に嬉しくなってくる。

「そ、れは、どういう意味合いでの……」
「あんたと同じだ」

たどたどしい言葉に対して食い気味に返すと、主は纏う空気ごと、ピシ、と音がしそうな勢いで固まった。そういう分かりやすい反応がいちいち楽しくて、日本号は愉快そうに笑った。

「どれだけ苦しい思いをしてもさせても手放せない、ってやつな」

主が言っていたそのままを引用させてもらいながら、日本号は修行先でも考えていたことに思いを巡らせた。
いつか無くなる命。いつか無くなる体。
そういう、必ず訪れる未来を、さらにその先の未来で「正しい歴史」と呼ばなくてはならないとしても。
共に過ごした時間ごと全て「正しい歴史」と呼んでもらえるのなら。
一秒でも長く、二人で時間を積み重ねられるのだとしたら。
それはきっと、大層素敵なことだろう。
それ以上の幸せは、どれだけ探しても、どれだけ欲しても、決して見つからないのだろう。

「……今日のそれ」

人差し指の先で、主の耳元を指し示す。

「え?」
「何つけてるんだ?」

いつぞやと同じように、主は耳飾りをしていた。不規則に丸っこいガラスのようなものが、耳にぶら下がっている。

「あ、イヤリング……シーグラスの」
「シーグラス?」
「海の波で角が取れたガラスなんです、海の夢見たので何となく……」
「へえ」

返事を聞く間に、主の髪の中を掻い潜らせた手で耳に触れて、それから頭の後ろに手を回した。そのまま自分の胸元に引き寄せると、小さな頭は抵抗もなく、すっぽりと胸の中に収まった。

「あんたのせいで俺の刃生、もうめちゃくちゃだよ」

どうしてくれるんだよ、と言おうとしたが、やたらと甘えたような声になりそうで引っ込めた。
本当にめちゃくちゃになってんな、俺。
自分で言っておきながら、かなり言い得て妙だと思った。人を愛おしく思うのは、道具だからこそ当たり前にしても、この人に対する感情だけはもう取り返しのつかないことになっていると、何度でも思い知らされている。

「これからも……」

小さく身動ぎをした主は、見るからに照れくさそうな顔でこちらを見上げ、ぽつりと小さく呟いた。胸元で喋られると、少しくすぐったいような気がした。

「日本号さんの刃生、めちゃくちゃにしてもいいんですか」

私、もう本当に手離せないですよ、きっと。

照れ隠しのように目線を逸らしながら、主は泣き出しそうな声でそんなことを言った。
聞きようによってはキザとも取れるようなセリフを自分で言っておきながら、主は耳まで真っ赤にしている。

「いいよ」

プロポーズみてぇ、と思ったのは言わないでおいてやろう。
笑い混じりに返事をして、今度は腕の力いっぱいに、思い切り体を引き寄せた。

「大っ歓迎だ!」

こんなに無数の感情が渦巻く世界で、きっと今ここにあるのは愛しさだけだ。

春の嵐みたいに、優しい顔で、獰猛に心の中をかき回されたと思う。
人の器をもらった日からの全てが、今の今まで繋がっている。
全部があって、その全部であんたに恋をした。
それは、これからも続いていく感情だ。

なあ、好きだよ。
これからも、ずっと好きだ。
最後にはあんたという人間がこの世から去るのだとしても、それまではせめて俺の前で笑っててほしい。
春を連れてやってきたあんたと、これから巡る季節を何周でも、何十周でも、叶うなら何百でもいい。ずっと一緒にいたいと思うよ。

もうすぐ、また季節が変わるはずだ。
その時は二人、手でも繋いで、暦の変わり目を跨ごうか。