前も、ここに来たような気がする。

なだらかな丘に、普段の仕事着のまま立ち尽くしていた。
柔らかく霞がかった景色の中で、立ち竦んだような棒立ちのまま周辺を見渡す。
辺りは見渡す限りの草原で、春の野の花がところどころで控えめに緑の絨毯を彩っている。
丘を下っていったところには、海があった。視界を遠くへ飛ばせば、水平線が途切れることなく横一本の線を描いている。鉛筆で一息に引いたみたいな、嘘みたいな線。
ぼやけた空色と似て、けれど決して交わることはないという意志すら感じるような、透明の青。
春の海だ。
のんびりとして見えるけれど、その下には数え切れないいくつもの生命を抱えている、海。

「あれは池らしいよ」

なんだか懐かしい声に振り返ると、唐突に父が立っていた。ちょっと手を伸ばせば触れるくらいのところに、父はいた。

「海じゃないの?」
「よく分からないけど。まぁ宇宙から見れば、地球の海なんて池みたいなものかもしれないね」
「規模が大き過ぎない? だってどう見ても池ってサイズじゃないよ」
「日本号みたいなことを言うなぁ」
「日本号さん?」
「うん」

父は笑って頷いて、海のほうを指差した。

「日本号のところに行ってやってほしい」
「どういうこと?」
「行けば分かるよ」
「一緒に来てよ、どこにいるかなんて分かんないよ」
「なまえじゃないと駄目なんだよ」
「どうして?」

子供がむずかるような声になってしまって、恥ずかしかった。大人になったって、結局自分はこの人の子供であることに変わりはないのだと思い知らされるようだった。
父は眉の端をほんの少しだけ下げて、静かに答えた。

「おれはもう主じゃないからね。一歩踏み出せたなまえでないと駄目なんだよ」

一歩踏み出せた、というのはどういうことなのだろう。
これまで何度も分岐点にぶつかってきたような気がする。
そのうちの、どの一歩なのだろう。

「それに、好きなんだよね? 日本号のこと」
「え」

あ、これは夢だ。

大きなスイッチがバチン、と音を立てるような衝撃があって、ようやくそれに気付いた。
現実感のなかった辺りの景色から、うっすら白い霞がいっぺんに引いていく。
変な話だが、夢だと気づいた途端に視界がクリアになって、ようやく父はもう死んでしまっていたことを思い出した。
それから、風邪を引いた時に同じ景色の夢を見たことも、日本号さんのことがずっと好きだったということも。
全部を正しく思い出せた。

「……うん」

後ろめたい気持ちを隠すように、両手を強く握り込んだ。
今、目の前にいる父は自分の見ている夢の一部分に過ぎないと分かっている。
今、話しているこの言葉すら、目を覚ましたらその途端に忘れてしまうのかもしれないと、そういう不確かな時間なのだと分かっている。
それでもまるで、今が現実であるかのように振る舞ってしまう。

「出来たら……なまえには普通に生きてほしかったけど」
「……ごめん」

たとえ、今がほんものの時間ではなくとも、何でか少し嬉しそうに笑う父の顔があまりにも懐かしくて、これが本当でも嘘でも、どちらでも良かった。

「いや、人の情はままならないものだもんなぁ。仕方ないよ、好きなものは好きで、それは動かしようのない感情だからね。それに、今なまえと一緒にいてやれないおれが何を言ったって何が変わる訳でも無し」

父は、ほんの少しだけ寂しげに目を細めて笑った。
そんな風に言わないでほしい、と泣き出したくなるのと同時に、その執着の無さはやはり死んだ者特有のものなのだろうとも思った。
誰かや何かへの執着は、人が生きていくのに必要不可欠なものだ。
死んでしまえば、生きるために必要な執念とか、希望とか、そういうものへの執着が無くなるのかもしれない。
それはきっと、とても寂しくて、とても自由なことなのだろう。

「さあ、ほら」

父に背中を軽く押されて、改めて海を見下ろす。
目を凝らせど、見渡す限り凪いだ海面が広がっていて、どこを目指せばいいのかも分からない。

「行ってやって」
「でも……」
「なまえなら大丈夫だよ」

大丈夫だ、と念押しするみたいな声を境に、背中にあった父の手の感触が消えた。
お父さん、と呼びかけてみたが、返事がない。振り返ってみても、辺りをどれだけ見回しても、父の姿は見えなかった。
父の姿だけがこつぜんと、景色の中から消えていた。

これが正しい「今」なのだ。
父はいない。
父がいなくなって、私は生きている。
これが現実。
いつも私たちが守っている歴史の上にある、今という現実だ。
こんな現実を抱えたまま生きていけるのか、不安しかなかった日のことを思い出す。
そうすると、むしろ一層力が湧いてくる気がした。
父がもういないことは確かで、だけど私にはたくさんの出会いがあった。それも確かなことだ。

海に向かって、足を一歩踏み出す。
一歩、また一歩と踏み出す足を徐々に早めていき、駆け出した。緩やかな斜面を利用して足に勢いをつけ、丘を下っていく。
息を切らしながら顔を上げると、水面の一部分が鋭く不自然に光り出した。早く行かなくてはならないような気がしていて、鼓動が高鳴る。
草はらの緑と砂浜の白の境目を飛び越えた。舞い上がった細かな砂が靴の中に入り込んできて、靴が少しだけ重くなった。
浜に打ち上がった低い波に足を突っ込んだ瞬間、その冷たさに体全体が跳ね上がったが、それでも足は止めなかった。

日本号さん。
日の本一の槍。
強くて優しくて、でもちょっと繊細なところもあって、かっこよくて、大好きな槍。

「日本号さん」

心の中に浮かんだ、ただ一つの名前をそのまんま口にした。
心の中で何度も名前を呼びながら、ざばざばと海面を蹴っていく。

これまで、何度その名前を呼んだかも分からない。
その名前をなぞるたびに気持ちは増した。少しずつだけど、時間をかけながら距離を近づけることが出来た。
あの本丸でしか出会えなかった、私の好きな、日本号さん。

光のもとを目指して、服が濡れるのもそのままに前へ進む。膝の下まで水に浸かると、なかなか思うように足が上がらなかった。
膝の頭で海面を蹴るみたいにしていき、ようやく光の元にたどり着いた。足はほとんどずぶ濡れだったけど、父に「大丈夫」と言われた私は大丈夫なんだ、と思った。
その光に手を伸ばし、海面下を探る。手に触れた冷たい何かを一つ、海中から掬い上げた。
手のひらの上でそれを検めると、本丸で日頃目にする鉄の塊がそこに収まっている。
玉鋼だ。

途端に、手の中で何かが弾けるような感覚があった。冷たい炭酸が弾けるような、明るい衝撃。
一瞬だった。
一瞬、眩い光が放たれ、反射で目を瞑る。
おそるおそる、薄く目を開けていくと、桜吹雪の中でポカンとした顔の日本号さんが立ち尽くしていた。
いつものツナギ姿で、呆気に取られたような顔でこちらを見下ろしている。

「日本号さん」

たまらず名前を呼ぶと、それに応えるように手が伸びてきた。
右の肩がたやすく捕まって、そのまま頭の後ろを掻き抱かれる。肩を掴む手が背中の真ん中に回ってきて、大きな体の内側に取り込まれるみたいに、体を引き込まれた。
海風で冷えた体に伝わってくる思いがけない温かさに、喉の奥で息が詰まった。
訳が分からないままに、大きい背中を支えるみたいにして抱き締め返してみる。

「ありがとう」

短く、かすかに、けれどはっきりと、日本号さんはそう言った。顔が肩口に埋められているせいで、そこで喋られると少しくすぐったい。

「あんたのおかげで、また息ができた」

あんたの声のおかげで。くれた言葉のおかげで。
あんたと出会った後の、その全てのおかげで。

一つひとつ、言葉を発するたびに抱き締める力が増していって、体同士がぴったりとくっつく。海風で冷やされた体が、次第に熱を取り戻していく。
この瞬間が本当でも嘘でも、それこそどっちだっていい。だって、きっとこんなの嘘だ。あまりに都合が良すぎる。

日本号さん。
好きです。
言葉にして伝えたのは一度きりだったけど、心の中ではずっと思っていたこと。
あなたのことが、好きなんです。

「私も」

おそるおそる声を上げる。
どちらともなく体が離れ、目が合った。
いつもきっちり結い上げられている髪が少し乱れていて、潮風を浴びた触覚みたいな髪の毛が顔の前に緩く垂れてきている。
ようやく、ちゃんと顔を見られたような気がした。

「日本号さんのおかげで、ずっと頑張ってこられました」

重たそうに垂れた日本号さんの前髪に、背伸びをして手を伸ばしてみる。それを少し横に流すと、綺麗な目がよく見えて、なんだか嬉しくなった。

「とりあえず……上がりましょうか」
「だなぁ」

気の抜けたような声を上げると、肩の力が抜けた笑顔が返ってきた。
前髪に触れていた手を取られて、それが当たり前みたいに手を繋いで、浜辺を目指した。
靴の中に溜まった水が錘のように重いことに、今さら気づいた。
靴に溜まった水の重さとか、服が肌に張り付くうっとうしさとか、そういうものはやたらと現実的だった。繋いだ手の温かさもやっぱり鮮明で、こうして当たり前に触れ合えていることだけが夢のようだった。

波の届かない浜辺の中ほどまで来てから、二人して靴を脱いだ。靴を傾けると、中に溜まった水が冗談みたいな勢いで溢れてくる。

「うわあ、ビッシャビシャですね」
「靴のまま海に入るもんじゃねーな、今後の教訓にするわ」

取るに足らない会話をしながら、靴を片手に持ったまま丘のほうへ登っていく。

足元には、空や海の色にも似た青く小さな花がちらほらと咲いている。色や形はネモフィラに似ていて、それらが風に揺れるのが、命の生動のように思えた。
顔を上げると、ゆるやかに丸い緑色の稜線が、水彩画みたいに優しい空のもとでいきいきと光を帯びていた。
生命の躍動が目に見えたような気がして、私たちは今、春の息吹をそのまま吸い込んでいるのだと思った。

「……春だな」
「はい、何故だか」

こんな綺麗で孤独な景色の中、一人じゃなくて本当に良かった。
隣を歩く人の声が、何よりも今「生きている」と思わせてくれる。

「日本号さん、私」

草を踏み締めていた足を止める。
優しい緑と青で作られた世界の中、少し先で立ち止まり、振り返った日本号さんの顔を見上げた。

「待ってますから」

きっともうすぐ、日本号さんは帰ってくる。
時代も土地も超越した、その場所から。

「日本号さんが今いるはずの、その時代の先で。待ってますから」

そうしたら、夢じゃない場所でちゃんと話を聞きたい。いろんな話を、ちゃんとしたいです。

一瞬、息を飲んだ日本号さんが、靴から手を離したのが見えた。
落ちていく靴がスローモーションのようにゆっくり落ちていって、その間に腕が捕まった。

「ああ」

腕を引かれ、気づけばまたその腕の中に捕まっていた。

「ちゃんと帰るよ。あんたのところに」

こちらに言い聞かせるようでいて、どこか甘えかかるような声だった。
温度を感じるような声、触れ合った場所から確かに伝わってくる温度。
血の通った、温かい身体だった。



目が覚めてすぐ、あ、やっぱり夢だったんだな、とやけに冷静に思った。

まあ、当たり前だけど。
なまえは胸のうちで呟きながら、夢の中で着ていた服に袖を通した。
当たり前だけど、濡れたところなんて一つもなく、きっちりアイロンがかけられた、何てことないいつも通りの服だった。

お父さん。
死んでしまってから、夢に出てきたことは一度もなかった。多分、話をするのも怖かったし、また失うことも怖かったんだと思う。

でも、日本号さんがいたから、大丈夫だった。

「日本号さん」

もうすぐここへ帰ってくる人の名前を、小さく呼んでみる。

ねえ、日本号さん。
今見た夢が、ただの夢でも構わない。
だから、最後に言った言葉だけはちゃんと守ってほしいんです。
ちゃんと帰ってくる。
それだけを守ってくれれば、それでいいんです。

ぼんやりと寝ぼけた頭で、なんとなく目についたイヤリングを手に取ってみた。
角の綺麗に取れたシーグラスで作られたイヤリング。
海の夢を思い出しながら、なまえは何気なくそれを耳につけた。

「主、身支度は大丈夫か」
「あ、はい」

こちらの返事を合図にしたみたいに、山姥切が部屋の戸を引いた。

「もうすぐ日本号が戻ってくる。出迎えに行こう」
「はい」

短く返事をして、部屋を後にした。
廊下を歩きながら、今朝見た春の夢を思い出す。
緑の丘、春の海、春の花、少し冷たくて、でも優しい温度の、春の大気。
それらは未だに記憶として鮮明で、けれど肌にまとわりついてくる熱と湿気は「今は残暑の季節だぜ」と主張してくるようだった。

出迎えの場はすでに賑わっていて、なんとなく出遅れた感じがした。次郎さんもう酒飲んでるし。

「もうすぐだな。主、準備はいいか」
「え、あ、はい」

さっきから、多分緊張しているな、と自分で思う。
夢であったこと、触れ合ったこと、色んなことがまだ消化し切れていないままに、日本号さんを迎えなければならない。かといって、誰かにあの夢の話をするのも違う気がして、いよいよ追い詰められたような気がしている。
緊張なのか、暑いからなのか、嬉しいからなのか何なのか、額にかいた汗を拭って、自分の手を握りしめて居住いを正した。

ふと、障子戸の向こうにできた大きな影に息を呑むと、喉が大袈裟なくらいに上下して恥ずかしかった。
ちょっと待って、とか、やっぱり心の準備が、なんて思う間もなく戸が引かれた途端、影は一瞬の間も無く動き出した。
変化した姿に感動する間も与えられずに距離を詰められて、なまえは声にならない声を上げた。手に持っていた大きな盃を長谷部の手にほとんど押し付けるようにして、日本号はこちらへ向かってくる。
頭の後ろに軽く手を添えられ、逃げ場を奪われた状態で額に額をくっつけられた。

「えっ、ちょっ……」
「帰ったぜ、ちゃんと」

真っ正面にある二つの瞳が、信じられないくらい優しく細められた。「え」と、意図せず漏れた声は、多分日本号以外の誰にも届いていない。
まるで夢の中そのままみたいな距離は、やがて離れてしまった。
けれどすぐ、頭の上にぽん、と手を置かれて、その場に固まったまま動けなくなる。

「さあて、いつまでも酒飲み名槍やってるわけにも行かねえしな。日の本一の本領発揮だ!」

集まった全員の視線を一心に浴びながら、日本号は声も高らかに宣言した。
何となく息を飲んでいた一同が、その声に煽られるみたいに沸いたのを見て、何となくほっとした。やたらと近い距離感を、変に気まずく思わずに済みそうだから。

「あー、水を差すようで悪いが」

少し申し訳なさそうな顔で前へ出てきた長谷部が、未だなまえの頭の上に置かれた手が離れずにいるのをちらりと見て、軽い咳払いをした。

「何というか……その肩についてる殺意満々な防具? を外してから主に近づけ。危険だ、見ていてハラハラする」

押しつけられた盃を日本号の目の前に押し付け返しながら、長谷部はため息混じりにそう言った。

それ、ちょっと思ってた。
おそらく前の主の兜がモチーフであろう防具は、これでもかというほどに先っちょが鋭く尖っている。
それはそうなんだけど、長谷部のものの言いように、ちょっとだけ笑ってしまった。

ああ、でもやっぱり、格好いいなぁ。
姿が変わっても、やっぱりカッコよくて、世界で一番大好きだ。
これから先、何度も同じことを思うんだろう。
これから一緒に生きていく限り、私は日本号さんのことが好きなんだと、何度でも思うんだろう。
いつか離れる日が必然だとしても、ここであなたが生きていること、ここであなたと出会ったこと、全部が私という人間が生きた歴史の一部となる。
そういう明るい予感は、夢なんかじゃない。
間違いのない、本物なんだ。