やっぱりタッパがあるってのはいい。
腰も背筋もしゃんと伸ばして川面を見渡せば、白い陽光がまばらに輝く水の躍動を視界いっぱいに映すことができる。
武家町の外れを流れる那珂川は、川幅広く雄大な流れを止めることなく、やがて博多の海へと流れゆく。
国際的な貿易都市・博多の港にほど近い城下町ともなると、やはり町外れまでもが几帳面に整備されていた。人が歩きやすいよう慣らされた地面や、川べりの草の少なさは過ごしていて気分がいい。もともと商人たちの自治都市であったことも起因しているのだろう。外から人を迎えることで仕事を回す彼らにとっては、町の治安や見てくれだって商売道具となり得ただろうから。

どこぞのお屋敷から遠く漏れ聞こえる、竹刀を打ち合う音や威勢の良い掛け声を肴に、日本号は川のほとりでのんびり酒を煽った。

「おい、貴様。まぁた酒か」

来たな。
胸のうちで呟きながら、口から離した酒瓶を片手に声の主の顔を見やった。
人通りの少ない町の外れで、杯も出さずに瓶ごと酒を飲んでいる奴がいたら、そらぁ目立つだろう。

「よお」
「何がよお、だ。まこと黒田武士だと言うなら働け、馬鹿者」

眉を釣り上げ、いかめしく語気を強める男は、鼻からでかいため息を吐き出した。

母里太兵衛、前の主。
修行でこちらへやってきてから、事あるごとに絡んでくる男である。
今日も今日とてお説教が始まるかと内心身構えていたが、どうやらそういうつもりも無いらしい。
しおらしく下がる肩に気付いて、その先を目で辿る。無骨な手にはおよそ似つかわしくない、花の束が握られていた。明るい黄色の花を数本、麻糸で結んだ簡素なものだ。
訝しがるこちらの視線から逃れるように歩き出した太兵衛の、その後を追いかけるように足を進めた。
生憎、足は長いもんで、奴が早足で歩こうが追いかけるのは苦じゃなかった。

「花なんてどうするんだい」
「貴様に教える筋合いはない」
「従者もいねぇし。不用心だねぇ」
「貴様に心配される筋合いもない」

人の少ない川沿いを行きながら言い合いをしていると、何気なく吸い込んだ空気がしょっぱいような、そんな気がした。
髪を撫でつける風には、独特の重みがあるように感じる。
塩っ辛い香り。新鮮な魚のような匂い。
次第に増してゆく、すれ違う人の数。賑わいだす町の喧騒。明るく響く商人の声。

「おおー、やっぱり博多の海はいいもんだなぁ」

遠国の香りをそのまま運んでくるような潮風を浴びながら、日本号は目を閉じた。
博多の港の外れに出たらしかった。
外れとはいえ、端から端まで整えられた天下の博多湾である。中央部に比べて人の往来はいくらか減るにしても、個々の持つ熱気はさすがのものである。
外来船は、今日はどうやら姿が見えないようだった。あるのは国内どこぞから来たらしい、白い帆を海風に揺らす商い船が四艘だけだった。

「ありゃあ東国の船かね」

ふと思いたって訊ねると、太兵衛は大袈裟なくらい目を見開いた。

「何でそう思う」
「聞き慣れねぇ訛りがたまに聞こえるんでな。語尾が上がってくみたいな特徴がある。東国訛りだろ」
「当たりだ、やるな。ありゃ酒田からの船だ」

酒田といえば、米どころの代表格に名を連ねる地だ。となりゃあ、ひょっとしたら酒も一緒にやってきているのかもしれない。
なんだか勝手に気分が良くなってきた日本号をよそに、太兵衛は手にしていた花をおもむろに背中まで振りかぶった。
そのまま勢いづけて海に放り投げたが、タイミング悪く吹き付けた海風に煽られたせいか、悲しいくらい弱々しく海面へと落ちていった。

「何してんだ」
「……弔いよ、倅の」
「へえ」

結局教えてくれんのかよ。
思いながらも口に出さなかったのは、元の主への自分なりの気遣いというところか。
波に揉まれ、小さな黄色の花を散らしながら、それは沖の方へと流されていった。

「どれ、じゃあ俺も」

言いながら、手にしていた酒の瓶の栓を開け、海上で逆さまにひっくり返した。透明の酒が流れ落ちては海面にぶつかり、溶け出していくのを見送る。
少し余らせた酒を懐から取り出した杯に注ぎ、隣で肩を落とす男に差し出してやった。
目をぎょっと見開いた太兵衛は、それから中途半端な笑みを浮かべたかと思うと、力なく肩を落としていった。

「思えば、酒の飲み方も教えてやれないまま逝っちまった……」
「あんたの倅なら相当飲めたろうなぁ」
「はは、言ってくれる」

素直に杯を受け取った太兵衛は、それを一息に飲み干した。いつぞやを思い出すような、良い飲みっぷりだった。

「花で弔いなんざ女々しかったか」

飲みっぷりとは裏腹の、自信なさげな口ぶりを小さく笑い飛ばしてやる。

「別に、死んだ者に花を供えてやるのは、案外と普遍的な慣わしだろ。信じるものが仏だろうがキリストだろうが、そこは何でか似通ってるしなぁ」

不思議なもんだな、と独り言のように呟いて、日本号は大きく息を吐き出した。

「どうにも不自由だよなぁ、一人じゃ生きていけないってのは……」

ほとんど一息で、吐き出すように言った。

人が人を愛する時、最期に待ち受けているのは必ず孤独である。それは避けようがない。
誰かを遺して、誰かに置いていかれて。
多分、人と人との出会いはその繰り返しで繋がっていく。
人がいなくなった後、そこには別の誰かが現れて、そしてまたいなくなる。それを幾度も繰り返していくうち、気づけば自身が誰かを遺していく側になる。
それが人の一生だ。

「そりゃ仕方なかろうよ」

人間は弱いからなぁ、と言わでものことを敢えて言いながら、太兵衛は杯を持つ手をだらりと下げた。

「戦場に立ちゃあ分かるだろ。孤立は圧倒的に死に近い。怪我しても一人、病になっても一人じゃあいずれ人は死ぬ」
「まあな」
「それによぉ、お前。いなくなった人間の代わりにゃ、誰にもなれんだろ」

沖の方へ視線を投げていた太兵衛は、顔面で湿った海風を受け止め、不快そうに目を細くした。
厳めしい男のしかめっ面が、どこか泣き顔にも似ている。

「失ったら得なきゃならん。いつか別れる時が必然だとしてもなぁ、生きていきたいなら、それから逃げちゃならねえよ」

太兵衛は手にしていた杯をこちらの胸元へグイ、と押しつけた。ずいぶん乱暴な返却をしながら、太兵衛は「お前も」と口調を強め、

「愛する者が、信ずる者があるなら、それに恥じないよう働き、生き、過ごしてやれ」

と、口の端をほんの少しだけ上げた。
愛するものを失ってなお、愛するもののために生きている男の慈愛が垣間見えた気がして、息が詰まった。

杯を押しつけた太兵衛は、そのまま背を向けて来た道を戻っていってしまった。

少しも曲がったところの無い後ろ姿をしばらく見送り、それから一礼をする。
自然と指先までがきっちりと揃い、深々と頭が下がった。

母里太兵衛友信。
あんたは間違いなく、俺の主だった。



『主へ
よっぽど太兵衛の気に障ったか、
あるいはこれも縁か、あれから事あるごとに説教されている。
だがまあ、あいつが俺に言うことはいちいち確かなんだよなあ。
主君に恥ずかしくない働きをしろ、とかな。
……俺は今まで、どこかあんたに対して斜に構えていた。
日の本一の槍であること、
位階持ちであることを鼻にかけているように思われたかもしれんな。
ま、俺が名槍であることは動かせない事実なわけだが、
それに相応しい活躍をするべきなんだろう。
これ以上太兵衛に怒鳴られんうちに、本丸に帰るとするか』



最後の手紙も書き終えたその晩、夢を見た。

よりにもよって、あの海の悪夢の続きらしいと分かったのは、何も見えず、何も聞こえずという自らの感覚のせいだった。

ただ一つ、何かが違う。
何かが来る予感がしている。
何もかもが失われたはずのこの夢に、誰かがやって来るような。
声の聞こえくるような。

『好きです』

音の届かないはずの海中で、声が聞こえたような気がした。

『好きなんです』

春の夜に受け取った言葉はまるで埋め火のように、未だ胸に熱く残る。
こちらを見据えるまん丸い黒目と、目が合ったような気がした。

みょうじなまえ。
俺の主。
好きな「人」。
ずっとあんたを見てきた、向き合ってきた。
馬鹿みたいに時間をかけてやっと気づいた、自分の心臓が動き続けた、熱が冷めずにいた理由。
理由がそのまま呼吸をしていた。
それがあんただった。

じゃあ、俺は。
海底に沈んでるだけのただの玉鋼じゃねえ。
日の本一の槍。
天下三槍。
賤ヶ岳の七本槍・福島正則の元から、黒田家家臣・母里太兵衛の元へ渡り、黒田家の宝とされた槍。
前任から体を与えられ、今の主と出会い、みょうじなまえと共にある槍だ。
あの本丸の、日本号だ。

「日本号さん」

今度は確かに、間違いなく、主の声がした。