盆休みの間、実家に帰省していた主が明日には本丸に戻るという日の夜のことだった。

風呂の後、蜻蛉切と共に部屋へ戻る回廊の途中で、一人楽しげな乱の声が耳に入った。

「え、写真? 写真見てたの? え〜主さんの小さい頃の写真、ボクも見てみたいなぁ! 持って帰ってきてよ! え、何でぇ? え〜見たいよぉ〜」
「なーにしてんだ」

訝しんで声の元を辿ると、回廊に面した庭で、乱が小型の電話片手にうろうろ歩き回っていた。
思わずその背中に声をかけると、乱は電話口を手で覆いながらくるりと振り返った。

「日本号さん、蜻蛉切さん! 今ね、主さんと電話してるんだぁ、いいでしょ!」
「お前、その電話……主が山姥切に預けてったヤツだよな?」
「確か緊急連絡用とおっしゃっていたような……」

蜻蛉切の言う通り。
機能は電話のみという今時ありえない化石みたいな携帯電話を、主は「何かあった時のため」と言って置いていった。政府からの支給品で、審神者が本丸を留守にする場合、必ず一台置いていくよう義務付けられている前世紀の遺物アイテムである。

「借りたの! 主さんが出かける前にちゃんと聞いたよ、『用事がなくてもかけていい?』って。そしたら良いよって言ってたもん」

唇をむ、と尖らせながら言ったかと思うと、乱はコロッと顔を明るくして、蜻蛉切に電話を渡した。

「はい!」
「えっ」
「蜻蛉切さんも主さんとお話しなよ!」
「ええ……き、急にそう言われても、何を話せば……」

眉を綺麗な八の字にして、蜻蛉切は流れで受け取ってしまった電話片手に困惑の汗を垂らした。
しかしいつまでも電話口に主を待たせるわけにもいかないとでも思ったのか、困り眉はそのままにそろそろと電話を耳に当てた。

「あ、ええと……主、息災でいらっしゃいますか。ええ、はい、はは、そうです、蜻蛉切です。急に申し訳ございません。ええ、主不在の間も皆ハメを外すことなく日々を過ごし……。はい……え、村正ですか? いや、まぁ、はは……」

でかい体を丸めながら両手で小さな電話を支えて、蜻蛉切は頷いたり頭を下げたりしている。姿の見えない主に向かってリアクションを取る蜻蛉切の様子は、はたから見ているとちょっと面白かった。

「乱は、主と何話してたんだ?」

踏み石の上に大小揃えられた下駄の、大のほうをつっかけながら、大層ゴキゲンな笑顔を浮かべる乱に話しかける。

「主さん、親戚の人たちと昔の写真見てたんだって! だから明日帰ってくる時に持ってきて見せて〜って言ったんだけど、恥ずかしいからヤダって言われちゃった」

後ろ手に組んだ手をぐんと伸ばしながら、乱は不満げに目を閉じた。

まあ、元気でやってんなら良かった。
胸のうちに浮かんだそういう気持ちは、口に出さず自分の中だけに留めておくことにした。
そういう思いが自然に湧いてくること、それ自体がまだ何となくこっぱずかしいような気がするが、そういうことを恥じらうことすら自分の内にある感情の証明になるような気がして、重ねてこっぱずかしい。
下駄履きで庭を数歩ほど歩くと、ささやかな風が肌に当たって心地良かった。建屋の中よりも、少々ながら風がある分いくらかマシな暑さだ。暑いには暑いが。

「あ、そうだ。日本号さんも主さんにお願いしてみてよ! 写真持って帰ってきて〜って!」
「はあ? なんで俺が」
「日本号さんがお願いしたら持ってきてくれるかもしれないし!」
「自分で頼めって」

めんどくさいことになりそうな気配を察して顔を顰めたが、タイミング悪く蜻蛉切がこちらを振り返った。乱はというと、顔中に花が咲いたみたいな笑みを浮かべている。もう嫌な予感しかしない。
乱は回廊に駆け寄り、腰を屈めた蜻蛉切から電話を受け取った。

「さ、乱殿。電話はお返しするぞ」
「はーい! じゃあ次は日本号さんね!」
「いや、だから」
「はい!」
「ちょっやめ」

駆け戻ってきた乱は、こともあろうにぴょんぴょんジャンプしながらこちらの耳元に無理やり電話を当てようとしてくる。ほとんど電話で叩かれるような形になるのが地味に痛い。

「だぁ〜やめろやめろ、分かったから電話貸せ」
「はぁい」

うふふ、といたずらっぽく笑う乱からしぶしぶ電話を受け取る。

「あー……もしもし」
『あ、日本号さん』

うわ声近。
ほとんど反射で、電話から逃げるように首を真横に倒す。

「何をしているのだ、日本号は」
「ふふ、何だろうね」

心の底から訳が分からないのであろう蜻蛉切の声と、乱の愉しげな笑い声から遠ざかろうと、庭木の合間を縫うようにしてその場から離れた。湿度の高い暗がりの中をほとんど息もせずに逃げ歩き、庭の中ほどで再び電話を耳に当てる。

『もしもし? 日本号さん?』
「ああ、悪い」
『大丈夫ですか? 何かありました?』
「いや」

心配そうに声色を陰らせる主の声は、やっぱり通常の数倍間近に聞こえた。思えば一週間近く顔も見ず、声も聞いていないのだ。

あつい。
盆を過ぎ、徐々に昼の時間が短くなっているはずだというのに、夜になっても体に纏わりつく大気の熱は収まらない。
日が一番長いと言われる夏至の日、そういえば主と酒を買いに行ったこともあった。あれからもう二月ほどが経ったのだ。暦の上では秋を迎え、きっと次第に淋しい季節が訪れる。

「どうだ、少しは休めたか?」
『はい……と言っても、お墓参りとか……親戚の集まりだったり、久々におさんどん三昧だったりで、わりと忙しかったですけど』
「はは、まあそりゃそうか。盂蘭盆会だもんなぁ。やることはいくらでもあらぁな」
『でも久しぶりに会った親戚とかもいて楽しかったので……あ、お土産ありますよ。お酒頂いたので。父の田舎の地酒です』
「お、いいねえ〜! つまみ用意して待ってるぜ!」

声のトーンとボリュームが分かりやすく上がったことに対してなのか、主は電話の向こう側で、鼻から抜けたようなかすかな笑い声を上げた。
耳がくすぐられたような感じがして、首筋に薄く汗が滲んだ。

今さらすぎるが、ひょっとしたら俺はこの人の声も好きなんじゃないか。
などという思考を誰に覗かれたわけでもないというのに、何となく決まり悪くて、手のひらで目元を覆った。

『あ、あとお土産に漬物もあるので。それからお菓子と果物も』
「いや、土産もん多いな……」
『あはは、でもみんな美味しいですから、楽しみにしててくださいね』
「ああ……明日、気をつけて戻れよ」
『はい、ありがとうございます』

別れの挨拶を終えてから電話を切り、何事もなかったかのような顔を作って元いた場所へ戻った。戻るみちみち、肩から下げていた手拭いで汗をすっかり拭い、そわそわと待ち構えていた乱に電話を差し出した。

「ほれ、返す」
「主さん、写真持ってきてくれるって?」
「あ、忘れてた」
「ええ〜っ!」

大袈裟なくらいに不満げな声を上げる乱の手に、ほとんど無理やり電話を握らせ回廊へ上がった。

「俺ぁもう寝るわ」
「乱殿も早く部屋に戻ったほうがいいぞ、今夜も暑いからな」
「はぁーい」

間延びした乱の返事を背中で聞きながら、さっさとその場を後にした。
風呂に入った後に汗をかくと、何となく損した気分になる。

「日本号は主とどんな話をしたのだ?」
「どんなって……」

蜻蛉切から全く他意のない声色で全く他意のない問いを投げられ、逆に言い淀んでしまった。視線を真横に逃がして、人差し指の先で額を掻きながら適当な返答を探した。

「あー……土産に酒持って帰ってくるってよ」
「おお、そうか。だからそんなに嬉しそうなのだな」

良かったな、と朗らかに言われて、口をアホみたいに半開きにしたまま何の言葉も出なくなった。
嬉しそう。
嬉しそうにしてたのか。

はたから見ても分かるほどに、もうブレーキのかけどころを見失った色キチになっちまっているのかもしれない、と軽く自分自身に引いた。
電話の声を聞いただけで、一週間ぶりに声を聞いただけで。
それだけで、わりと本気で喜んでいる。
この感情の動きが、自分らの根っこに染み付いた「人に使われる道具としての本能」によるものなのか、そうじゃないのか。
そういう境界線の、その先で燻り続ける高温域の温度が、胸の奥のあたりを静かにヒリつかせ続けている。



修行出発当日は随分と気温の高いピーカンの真夏日となり、旅装束と称されるそれに付属する笠が大層有り難かった。
見送りは山姥切国広、そして主のみである。それで構わないからと、あらかじめ伝えておいた。

「日本号、酒はほどほどにしろよ」

主と並び立つ山姥切が、ほとんど真顔でぬかした。

「それ俺が不動に言った言葉だよな?」
「な、ブーメランだろう」
「もっと言うことあるだろ〜がよぉ」

山姥切は、茶化すように鼻で小さく笑った。
かと思うと、しばらく黙って何か考え込み、おもむろに口を開いた。

「日本号が修行に行かずにいたのは、俺は、何となく……納得はしていた」

どこか含みのある言い方だった。
山姥切は目を伏せ、乾いた地面に落ちた自分の影を眺めながら言葉を続けた。

「だが、今このタイミングで修行に行こうと決めたあんたの気持ちも、何となくだが分かるような気がする」
「へぇー?」

何となくばっかじゃねぇか、と軽くヤジってやろうかと口を開いたが、唐突にまっすぐ目を見据えられ、思わず口を噤んだ。

「突然主がいなくなったりするのは、俺たち物にはよくあることだ。
でも日本号がこれまで辿ってきた道筋は……主の移り変わりは、急カーブみたいな不意打ちばかりだっただろう。お前自身が、突然、人の手の元から失われることばかりだっただろう。
そういうあんたが、人の身を得てからの主の代替わりを見届けた後、修行に出ると決めたのは……何となくあんたらしいと思った」

山姥切は、一切の淀みなくそう言い切った。

呑み取りの槍の逸話。
それが刀剣男士としての「日本号」を形作っている。

小田原攻めの折、「日本号」は韮山城での功績により豊臣秀吉から福島正則の手に渡った。
福島は、酒グセの悪さで人から陰口叩かれるような、どうしようもないやつだった。だが武功はピカイチで、多少情に厚い。酒を人に分け与えることを善しとする、誰かと飲む酒は美味いと言う。確か、そういう男だった。
そういう男の元で、共に武功を上げるはずだった。

とはいえ、その時はすぐに訪れた。
呑み比べなんぞで、その男は太閤様から授かった槍を手放すことになった。

愚かだと思った。
馬鹿だと思った。
太兵衛に担がれていく俺を見もせずに背中を丸めて項垂れる、それが、自分の見た福島正則の最後の記憶だと思う。
「日本号」は、そういう逸話に形作られたものの、母里家では家宝として愛されていた。時代が変わろうと、家の者に、民に、あらゆる愛情を受けていた。
しかし、それから妙な成り行きで一旦母里家を離れることになった時も、あれもまた闇に紛れた辻斬のように唐突なことだった。
山姥切の言う通り、母里家や黒田家に世話になっている時以外は、本当に、急な曲がり道の連続だった。

「日本号」

山姥切に名を呼ばれ、はっとした。
お前がどこに行くのかは知らないが、と適当なことを言い添えて、山姥切は口の端を上げた。

「今まで超えられなかったものを超えて来い。それでここに戻って来い。本丸のことは俺に任せろ」

穏やかな笑みを浮かべる山姥切に言い切られ、一気に肩の力が抜けた。
20年超共にやってきたのは、前任だけではない。こいつとも大概長い付き合いであるということを、こういうふとした拍子に思い出す。

「ああ、頼むぜ?」

軽く言ってのけると、山姥切は瞼を伏せて小さく笑った。

「さて、主」

口を真一文字に結び、黙って話に耳を傾けていた主に向き直り、片手を差し出した。

「ほら」

こちらから手を差し出したことに余程驚いたのか、主は目を見開いたまま、差し出した手とこちらの顔との間で視線を泳がせている。その様子に苦笑しつつ、さらにずい、と手を伸べた。
何かを怖がるみたいに、慎重に伸びてきた手をすぐさま捕らえてやると、「わ」というごく小さな悲鳴が上がった。

「大丈夫だよ」

両手でその全部を覆うようにして、手の甲をそっと、ぽんぽんと叩いてやる。

「ちゃんと戻ってくるから」

出来得る限りの優しさで包んでやるような声で言うと、主は泣き出しそうな目で、視線だけでこちらを見上げた。

重傷で帰陣した時、朦朧としながら血に塗れた手で主の手を捕まえてしまったことを、内心少し後悔していた。あのことがあって、今こうして主を怖気づかせちまっているのだと、分かっている。
もう大丈夫だと、必ず戻ると、それが本当なのだと。触れた手からも伝わればいい。自分の半分程度の厚みしかない薄い手から、温かな体温が伝わってくるのと同じように。

何があっても、ここへ帰ってくる。
自分のこれまでの道筋がどんなものであろうと、俺は必ずここに帰ってくる。
そういう思いを込めて一度、両手で主の手を握り込んだ。
手の甲を覆っていた手を離し、それから、手のひらに触れていた手を引いていく。
主の指先と、その温度を惜しむ自分の指先が一瞬引っかかって、離れた。

「じゃ、行ってくる」

笠を深く被り直しつつ、主と山姥切に背を向ける。
その一瞬、主が弾かれるように顔を上げるのが視界の端に映った。

「いってらっしゃい! ご武運を!」

背中にしがみつかれるような声が飛んできて、耐えきれず口の端が上がる。背を向けたまま、片手を上げて応えてやった。
その声も、体温も。多分全てを愛おしく思っている気持ちも。
全部を携えて行くよ。