怒涛の一日が過ぎていき、藍色の空に星が散らばり始めた頃。
なまえは夕飯を終えた後、庭に面した回廊で、自室へ戻ろうとする山姥切国広の背中に声をかけた。

「すみません、急に」
「構わない、何だ?」
「重ねて急なことなんですが……明日からの、8月からの近侍、お願いできないでしょうか?」

山姥切は意外そうに目を瞬かせたが、すぐに「俺はいいが……」と了承した。

「突然で申し訳ないです」
「いや、あんたが俺を選ぶんなら俺はそれで構わない……が、てっきり乱あたりに頼むものかと思っていたんでな」

内心を言い当てられて、思わず目を見開いてしまった。本当は、乱に頼むつもりでいた。

「陸奥守が旅立つからか」
「あれ、知ってたんですか?」

さらに重ねて言い当てられて、ぎょっとした内心がそのまま飛び出たみたいに声が裏返ってしまう。

「さっき夕飯の席で本人から聞いたんだ」
「そう、ですか……」

山姥切国広、父の初期刀。
審神者になった父の、初めての刀。修行の旅に出て、父の元へ帰ってきて、今なおこの本丸一番の古株として働いてくれている刀。
自分の初期刀である陸奥守吉行が、そういう刀に自分の胸の内を語りたいと思ったのは、何となく納得がいく。初期刀として目標となるような生き方をしてくれていた山姥切に対して、言うに尽くせぬ何かがあったことは想像に容易かった。

「明日の早朝すぐにでも発つと言っていたな」
「はい。ちょっと休んでからでもいいんじゃないかって話したんですけど……」
「勢いのあるあいつらしくていいと思う。俺が見送ろう」
「ありがとうございます」

小さく頭を下げると、山姥切は前髪を夏風に揺らしながら、目元を柔らかく緩めた。

「あの、それからもう一つお聞きしたいんですけど……父はどんな風に見送りをしていましたか?」
「どんなふう……とは」

こめかみに困惑の汗をかいた山姥切の様子に、なまえは慌てて言葉を足した。

「こう……毎回やっていた恒例行事とかはありましたか? 前の晩に一緒にお酒飲んだりとか、贈る言葉的な何か、とか」
「ああ、なるほど」

山姥切は合点がいったのか、小さく頷いた。
腕組みをしながら無言で考え込んだ後、何かピンとくるものがあったのか、不意に顔を上げた。

「手を、とっていたな……」
「手?」
「ああ、握手というか……手を取って、武運を祈るとか、帰りを楽しみに待ってるとか、そういうことはいつも言っていた」
「なるほど……」
「今回みたいに、修行の申し出が急な奴もいたからな。恒例というか、いつも違わず行っていたのはそれくらいか」
「そっか、そうですよね……ありがとうございます、参考にします」
「あんたはあんたのやり方でも構わないんだぞ」

困ったような、呆れたような、微妙な笑い混じりに言われてしまって、少し恥ずかしくなった。
修行の見送りは、今回が初めてのことだ。何となく気が落ち着かず、緊張でそわそわしているのが伝わってしまったのかもしれない。

「あの、山姥切さんは……なぜ修行に出ようと思ったんですか?」

気恥ずかしさを誤魔化すように、なまえは何となく気になっていたことを問うた。
山姥切は、答えを探るみたいに屋根越しの夜空を見上げた。しばらくそうしていたかと思うと、口の端をほんの少しだけ上げ、視線をゆっくりとこちらへ戻す。

「強くなりたかったからだ。主のため、この本丸のために。それ以外には何も無かった」

言い切られて、山姥切国広がどれだけ父を愛してくれていたのか、今さらのように思い知らされた気がした。
それ以外には何も、というシンプルな言葉一つの中に、どれだけの想いが込められているか、気づかないほど鈍くはない。

「ありがとうございます……ずっと、父のそばにいてくださって」
「当たり前だ。これからも俺はずっとここで生きる。今はあんたの刀として、あんたを支えよう」

低く、一際明るい月に照らされて、山姥切の髪が光を帯びる。月明かりを白く湛えた青い瞳が細められ、この刀の偽りの無さをそこに見た気がした。
父のそばに一番長くあり続けた刀に主として受け入れてもらえたことが、今さらこんなにも嬉しい。



翌日、日が昇って間もない早朝。
山姥切と共に陸奥守を見送った。

「ほいじゃあの、向こうで手紙書くきに」
「うん……」
「そがな不安げな顔するもんやないろうが、見送りいうがは笑顔じゃ、笑顔!」

笠を手で押し上げた陸奥守は、昨日の傷痕などさっぱり消え去った顔で、にっと歯を見せて笑った。
そんなに不安そうな顔をしていただろうか。
自分でハッパかけておいて、今さら不安になるなんてあまりに勝手すぎる。
口の端をほんの少し持ち上げてみせると、陸奥守は満足げに「うんうん」と頷いた。

「陸奥守」
「うん? なんじゃ山姥切」

なまえの半歩後ろに下がっていた山姥切が、その隣に並び立った。

「お前の強さは、その快活さだ。それは多分……一度主を失ったこの本丸に、それから主にも必要なものだった」

陸奥守は、もらった言葉が意外だったのか、目をわずかに見開いた。

「お前は、お前の強さを得て帰って来い。間違いながらでも戦い続けられるくらい強くなれ。俺には無い強さを得て、お前は、お前の強さで主を支えるんだ」

山姥切の揺るぎない視線を受けて、陸奥守は唇を引き結び、無言で深く頷いた。
言いたいことは全て言い終えたらしい山姥切に、手のひらでそっと背中を押された。小さく頷いて、不思議そうにそのやりとりを見ている陸奥守の手を掬い上げる。

「いってらっしゃい。道中、気をつけてね」

覗き込んだ陸奥守の顔に、夏の日差しを受けた笠が濃い影を落としている。不安なんて、もう二度と感じさせないよう、握った手に力を込めた。
最初は不思議そうな顔をしていた陸奥守は、すぐに大口を開けて笑い、なまえの手をがっしりと両手で包み込んだ。

「おーおー、約束のシェイクハンドじゃな! 龍馬伝じゃ!」
「あ、言われてみれば確かに龍馬伝……」
「大河の話をするな」

陸奥守は、真顔でツッコむ山姥切に「冗談じゃ冗談」と笑いながら返した。
それから今一度なまえの手を握りしめ、ゆっくりと離していった。

「ほいじゃあ、いってくるき!」

徐々に熱を帯びていく大気をぶった切るみたいな声だった。
入道雲が積み上がる夏空を背に、太陽を抱え込むみたいに両腕を広げて手を振りながら、陸奥守は旅立っていった。

「いってらっしゃい!」

被っていた笠を手に取って、振り回すように手を振り続ける陸奥守に、大きく手を振り返す。
遠くへ行ってしまう人を見送るのは、いつだって寂しい。けれど、また会うその時を待てる別れには、いつだって希望がある。そういう思いを乗せて、人は大きく手を振るのかもしれない。

しばらく振り返していた手を、置きどころに惑うみたいにしおしおと下げる。

「行っちゃいましたね」
「ああ」

勢いを増していく蝉の声に耳を打たれながら、何となくその場から動き出せずにいると、涼しげな瞳が不意にこちらを向いた。

「あいつの今後に期待だな」

こちらの寂しさを見透かしているみたいに、山姥切はちょっと珍しいくらいに声を明るくした。

「俺も負けられない」
「……そうですよね。私も、負けていられないです」

その声につられて、自分の声にも熱が入るのが分かる。意図して気持ちを引っ張り上げてくれたのだろう、山姥切はうれしげに相好を崩した。

「そうだ、主。日本号が主を探していたぞ」
「日本号さんが?」
「ああ、今朝洗面所で会ったんだ。会いに行ってやってくれ」

とうもろこしやら枝豆やらを育てている畑のほうにいるはずだ、と教えられ、本丸の敷地全体の中央に位置するそこを目指した。



「あつい……」

誰に言うでもなく独り言ちながら、汗ばんできた額を手の甲で軽く抑える。まだ朝早い時間だというのに、少し歩いただけで額や背中に汗が滲む。
低く浮かぶ太陽に肌を焼かれ、熱に炙り出されるみたいに昨日のことがフラッシュバックしていく。

部隊の全員が流す血に怖気付き、動けず固まっていたところを、不動に救われた。
突き動かされるように動いた体で、全員を手入れ部屋まで連れていった。

一番の重傷者だった、日本号。
一番酷い脇腹の傷に当てられていたのは、不動がいつも着ているシャツだったらしい。それが何なのかほとんど分からなくなるほどに、血に塗れていた。
長谷部と和泉守に支えられながら手入れ部屋に入った日本号に、確か、何か声をかけようと思ったはずだった。もう大丈夫ですよ、とか、すぐに治りますよ、とか、ありきたりだけど大事なこと。

あの時、何か言おうとしたくせに、何も言えなくなった。
言うより先に、血塗れの手に、手を捕らえられたのだった。
『慌てるなよ』
『大丈夫だから』
あやすみたいにゆるやかな動作で、節くれだった五本の指が、手の甲から指へ、指をなぞって、指先へ。
弱々しいとはまた違う、明らかな優しさが血の跡を残していき、その手は静かに離れていった。

容赦なく照りつける日差しの元、汗に濡れた手のひらを開いて眺める。
今もここに残る血の生温かさ、べったりとした感触、目に焼きついた、黒々としてさえ見える赤。

それらは全て、つい昨日のことだったのだという実感も湧かないままに歩き続け、ようやく目的の場所へ辿り着いた。

背の高いとうもろこし畑が風に揺れ、ざわざわと音を立てる脇を通りながら畑を見回った。しかし、畑の中に誰かがいる気配はない。
かわりに、畑からいくらも離れていない東屋が目に留まった。
そのそばにはノウゼンカズラの木が植わっており、夏の陽光のおかげか今日も一際元気につるを伸ばしている。藤棚のような形に仕立てられた木の、その根元に、脚立が立てられているのが見えた。
脚立の上に、誰かが腰かけている。生い茂る葉に上半身が隠れて見えないが、腰巻きにしたツナギの袖が揺れるのが見えた。

「日本号さん」

木の根本まで寄っていき、その背中を見上げた。元気に四方八方へ伸び放題なつると何やら格闘しているらしい日本号は、なまえに何か返すでもなく手だけを動かしている。

「……何してるんですか?」

見上げた先で、少しだけ顔が見えたが、ゴーグルを着けているせいで表情は読めなかった。

「支柱増やしてる」
「支柱?」
「こいつ、つるが伸び過ぎてるだろ。地面に擦れちまってたから、急繕だが整えてた」
「ほ、本当に庭師みたいですね……」
「地面近くまで垂れてるとリアカーとかに巻き込みそうだし踏みそうだしで危ないんだよ」

だから仕方なくやってるんだ、と言外で言いたげな口ぶりで、日本号はボヤいた。

「剪定は出来ないんですか?」
「今の時期にやると、来年は花つけなくなるからな」
「へぇ、初めて知りました」
「また庭師とか言うなよ」

先手を打たれて、喉元まで出かかっていた言葉は飲み込まざるを得なくなった。さすがの機動力だ、などと感心している間にも進む作業を、ただ見ているだけなのは申し訳なく「手伝えること、ありますか?」と声をかけた。

「いや、もう終わる」

伸びすぎたつるが新たな居場所に絡められていくのを眺めながら、手持ち無沙汰ななまえは後ろ手に手を組み、畑のほうへ視線を投げた。
『とうもろこしは日の光を好むから』と、日当たりの良い場所に作られた畑周辺にはほとんど日陰がない。それでいつしか東屋が設えられ、さらに畑当番の逃げ場を広げてくれているのが、この木らしかった。藤棚のような形は、効率のいい木の下闇を作ってくれている。
おかげさまで、肌を焼かれる感覚は幾分和らいでいた。

「主、手ぇ出せ」

唐突に呼びかけられて、ハッと顔を上げた。
作業を終えたらしい日本号が、脚立に腰掛けたままでこちらに向き直っている。片手につまんだ濃いオレンジの花を、二つ差し出しされた。子どもみたいに大人しく手を差し出すと、その上に花がすとん、と降ってくる。
手に収まった、明るい生命力の溢れるオレンジ色。
どことなく陸奥守を思わせる気がして、何となく楽しい気持ちになった。

「整えてる合間に取れちまった。やるよ、水鉢にでも浮かべて飾るといい」
「ありがとうございます」

見上げると、日本号は口の端を小さく上げた。光を反射するゴーグルで目元は見えないが、それでも伝わってくるくらい優しく微笑まれたような気がした。
脚立を降りてきた日本号は、ゴーグルを外し、大きく息を吐きながら手拭いで顔中を拭った。

「陸奥守は、行ったんだな」
「……はい」
「そうか」

四方で荒ぶ蝉時雨に負けそうなくらい小さく呟き、かと思うと、日本号は一つ短く息を吐いた。

「さて、主よ。話があるんだけどな?」