※前半陸奥守、後半不動視点


いつものように「お疲れ様です」と、労いの言葉をかけようとでもしたのだろうか。
口を中途半端に開いたまま主の動きが止まり、一瞬、心臓が破裂したみたいに目を見開いた。

「重傷、日本号。中傷、和泉守兼定、へし切長谷部、今剣、陸奥守吉行。軽傷、不動行光」

隊長として全員の状況を説明する。
主はしばらく呆然としたまま、そこだけ時間が止まったみたいに動かなくなった。駆け寄った不動に腕を掴まれ揺さぶられ、主はようやくハッとしたように瞳を揺らし、皆を手入れ部屋へと引き連れていった。

そこからの対応は実に迅速だった。
急ぎ日本号、和泉守、今剣を手入れ部屋に入れた。自分は最後で良いと言ったのだが「隊長は主へ報告があるだろうが」と、爪の先までボロボロになった長谷部の手で半ば無理やり手入れ部屋へ押し込まれた。
手伝い札を惜しみなく全員に使い、手入れはすぐに終えられた。

連中の目的は菊池氏の暗殺だったということ。
それは間接的に「博多湾に集った全国各地の武士の士気を下げ、劣勢に追い込み、日本という国そのものの在り方を揺るがそう」という過激な思想の持ち主が動いていたのを示唆する、ということ。
また延寿派を抱えていた菊池の滅亡を早めることで、後に生まれる同田貫派の誕生をも阻止しようとしていたかもしれないということ。
事前に報告を受けていた分の遡行軍は全て討伐したこと。
今後も同様の考えを持つ遡行軍が、同様の動きを見せる可能性があること。

執務室で、そういう報告を受けた主はすぐさま政府への報告書をしたためた。提出期限は当日中。可能な限り早く。
初動捜査はスピードが命である。出陣は早朝に行われ、帰陣は本丸の時間でいう昼前だったのだが、つまりそういうことだった。情報のやり取りを1日のうちに、迅速に行うための早朝出陣だったのだ。

『被害のわりに得られた情報が少ないですね』

そういうことを面と向かって言われたのは、政府側で初動を預かる課の人間から映像による入電を受けた、夕刻前のことだった。

『遡行軍を泳がせて、より多くの情報を得ることだって出来たはずです。これは普段の合戦とは違う。初動捜査です。現場の判断に任せるとは言いましたが、これが最善だったと貴女は思いますか』

中年の男だった。
言葉遣いはやけに丁寧だが、言葉の端々のトゲ全てが全身に突き刺さる思いがした。
「なぜ特殊任務未経験の刀を隊長に選んだんだ」と、見えない思想で刺され切られ、殴られているような気がした。
主の隣で座している自分の、隊長としての責は吐きそうなほど重く、背中から澱んだ空気にのしかかられているような気分だ。
だが主は、きっともっと重い。
背筋は伸ばしたまま、爪が食い込んでいるんじゃないかと思うほど握り込まれた拳を腿に押し付けている。背中が曲がってしまわないよう、その重さに耐えているのだとわかった。

『どう思いますか、みょうじさん』

重ねて問われた主は、もう何年も息を止めていたんじゃないかと思うほどの勢いで肺に酸素を取り込んだ。

「陸奥守吉行は」

唐突に名前を呼ばれて、驚きに打たれたように顔を上げ、真横にある主の顔を見た。

「よくやってくれました」

言ってから、主は一度、強く唇を噛んだ。ややあって、一度固く閉じた唇を、再び大きく開く。

「被害は大きいですが、そんな中でも敵は殲滅してくれました。状況を聞くに、今回の結果は最善でなくとも良くやってくれたと、私は思います。
最善を追求すれば、天井は際限ないです。おっしゃる通り、もっと出来たことがあったかもしれない。得られた情報で、今後救えた何かがあったかもしれないです。
でも、目の前で、生きた人間が殺されそうになっているのを見過ごせなかったという陸奥守の想いは、人の身と情を得た彼らの想いは間違いでは無いと、私たち人間が肯定せずに誰が肯定してやればいいんですか。
人では無いものに人の道を守ることを強要している私たちが肯定せずに、だれが」

後半ほとんどは、声の震えが隠し切れていなかった。
目を赤くしながら、それでもそこに溜まったものを最後まで溢さなかったのは、多分主なりの意地であり、けじめの形だった。
ぽかんと口を半開いたまま主の顔を見るばかりだった陸奥守は、政府の人間が吐いたため息によって強制的に現実へ引き戻された。

『みょうじさん、確かに最善に天井はないです。ですがある程度決めることは出来る』
「……それは」
『だからこそ、主であるあなたが、最善を明確に定めてやること、それを信じさせてやることも審神者の務めなんです。
彼らに人の身を与えたのが人間なら、導いてやれるのも人間です。もちろん貴女の言う通り、信じることも務めです。
人の身がただの肉と血と骨の集まりであることを知っている我々が、彼らの傷を減らすため、彼らが動きやすい状況を作ってやらなきゃいけないんです。
優先すべきは当然歴史を守ること。ですが、それは刀剣男士がいてこそ成り立つことです。だからこそ、我々にとっての最善、最大限の善い結果を得なければならないんです』

最大限、と強く主張した男の顔は、間違いなく歴史を守る一人の人間の、まっとうな人間の顔をしていた。
この人間はこれまで、どれだけの本丸を見てきたのだろうか。どれだけの数の刀が折れるのを見てきたのだろうか。
彼は「考え続けることをやめてはいけないですよ」と静かに言い残し、それで政府との通電は途絶えた。
相手が話す間、瞬きもせずに息を詰めていた主は、しばらくしてようやく全身から力を抜き、息を吐いた。

「すまん」

地を這うような声を絞り出しながら、首を垂れた。

「わしのせいじゃ、間違いなく。わしのせいで……主の大事なもんを、奪ってしまうところじゃった。歴史を守るいうことの、その最善の選択肢を、あったかもしれん最大の選択肢を……わしは捨ててもうた」

歯茎から血が出そうなくらい強く、歯を噛み締めた。
いけ好かない相手との、くだらない意地の張り合いの延長戦のような場所で、人を守りたいはずの自分は、より多くを救えたかもしれない選択肢を踏みにじったのかもしれないのだ。

「わしのミスじゃ。主のせいやない、ほんにすまん……」

額を畳に押し付ける。細かいい草の目がざりざりと額を痛めつける。
痛い。どこかが痛い。手入れを終えたはずの体の、どこかが確かに痛かった。
任務に穴があったとしたら、それは間違いなく、今まで見ないふりをしてきた自分の弱さだった。

「わしは、どうすればええ……どうすれば……迷わんで済む」

本当はずっと、日本号ではなく自分が重傷になれば良かったんだと、ずっと、ずっと思っていた。
今剣と共に遡行軍を相手にする間も、帰陣の間も、手入れ部屋に入った時も、今でも、ずっと考え続けている。
全員の怪我を自分一人が背負えたら、そのほうがどれだけ楽になれただろうかと、そんなことばかりが何度も頭の中で渦を巻いた。楽になる方法ばかりを考えて、そんな自分に余計に反吐が出た。
任務も責任も、目の前の現実も、命も、全部投げ捨てればそりゃあ楽だ。当たり前だ。

「迷わない人なんて……いないよ」

主は、小さく失笑が混ざった声で「私も迷ってる」と呟いた。
そろそろと顔を上げると、主は何でか少し寂しげな笑みを浮かべている。

「けど……それを考え続けるためには、戦い続けなきゃならないんだろうね」

こちらに言い聞かせるようで、どこか主自身が、自分に言い聞かせるような言い方だった。
主の代替わりの時から、ずっと主と共に走ってきた。随分遠くまで来られたような気がしていたが、案外そうでもないのかもしれない。
まだまだ、これからも、この人と共に足掻きながら生きていくのだろう。

「戦い続けるためには強くなきゃいけない」

主は居住いを正し、今度はまっすぐにこちらを見据えた。

「むっちゃんの目指す強さはどこにある?」

敵意のない刀をまっすぐに突きつけられるように問われて、真っ先に一人の男の顔が浮かんだ。

坂本龍馬。
龍馬の刀としての、陸奥守吉行が生きた場所。

「行ってくるといい、行かなきゃ。それで、ちゃんとここに帰ってくるんだよ。今日みたいに、ちゃんと」

主がそう言って眉を下げると、その顔に浮かぶ寂しさの色がより濃くなった気がした。



陸奥守が主のそばで報告だ何だ、一連の作業を行う間、出陣を終えた他の隊員は各々体を休めるよう言われた。
縁側でぼんやりしているのにも飽きて、厨に冷えた甘酒を取りに行くと、乱藤四郎やら信濃藤四郎やら加州清光やらに「大丈夫か」と声をかけられた。「ああ」とか「うん」とか、適当な返事をして、そのまま甘酒片手にフラフラと廊下を歩いた。
目指す場所は決まっていた。主のいる、執務室。

「不動……」

ちょうど、執務室の戸を後ろ手に閉める陸奥守と鉢合わせた。
視線がかち合った途端、きっちり腰を折って「すまん」なんて言いやがった。

「謝んなよ、俺も……何も出来なかった」

元結の下のあたりをがしがし掻きながら、声をひそめた。

「主になんぞ用かや?」
「あー、その……ちょっとな」

顔を上げた陸奥守に明るく問われ、何となく口籠る。
しばらく互いに無言でいて、かと思うと、奴は懐から小さな藍色の袋を取り出した。
そこから陸奥守が取り出した、小さく細く丸っこいそれには見覚えがある。いつも陸奥守が戦場で使っている、あの銃の弾だ。

「不動」

ぎょっとしているこちらをよそに、陸奥守はそれを握った手と、もう片方の手も背中に隠してしまった。
しばらく背中でもぞもぞやっていたかと思うと、グーにして握り込んだ両の手をこちらに突き出した。

「どっちじゃ」
「はあ?」
「弾が入っちゅうがは、どーっちじゃ」
「一体何だってんだよ……」

適当に「こっちじゃねーの」と右の拳を指差す。

「ほんっにええがか」
「いいよ、別に。ていうか何なんだよ本当に」

投げやりに返すと、陸奥守は静かに目を伏せて、柔らかく口の端を上げた。
固く握られていた拳の、その両方が開かれる。
指差したほうの手には何もなく、弾は反対側にあった。

「わしの勝ちじゃなぁ」
「は? 何これ勝負だったの?」

こちらの問いかけに応えようともせず、陸奥守は再び「すまんの」と言い残し、静かに去っていってしまった。

「だからなんで謝るんだよ……」

突然仕掛けられた勝負の意図するところが分からず、残ったのは勝負への疑問と眉間の皺だけだった。
もやもやした気持ちを抱え込んだまま話をするのは気が引けたが、すぐにでも話さなければならない。今でなければ、きっとまた自分は逃げる。それは自分が、一番よくわかっている。
肺の中の空気全てを深く吐き出し、執務室の戸を引いた。

「あ、不動くん」

人をダメにするらしいクッションに腰を沈めていた主が、こちらを振り仰いだ。

「傷はもう大丈夫?」
「まあ……」

主の前に、そろそろと腰を下ろす。
いつものように胡座はかかず、足はきっちり揃えた。甘酒は脇に置き、指先まで意識的に伸ばし、手は膝の上に添える。
こっちの緊張が伝わったのだろうか、主はわざわざどでかいクッションから降りて膝を揃えた。

「どうしたの?」

視線を合わせるように顔を覗き込まれて、もう引いたかと思っていた涙が勝手に滲んできた。それを堪えながら、肺の奥まで吸い込んだ空気を声に代える。

「修行に行かせてほしい」

涙が滲んだような声になって、それが情けなくて、肺の中の空気を入れ換えるような深呼吸をした。

「何も出来なかった」

強くなりたい。
自分の弱さすら受け入れられず、誤魔化すみたいにしか生きられない自分のままでは、もういられない。

「自分の守れなかったものを直視できないままじゃ、これから俺は何も守れないままだ」

だから、お願いします。

畳の上で指を揃え、そこに額をくっつけた。

守れなかったものも直視できない、守りたいものも直視できない、そういう矛盾を抱えたままなんて嫌なんだと、今日ほど痛感したことはない。
この本丸で愛してもらえばもらうほど、信長様から受けた愛に背くような気がして怖かった。
そのくせ、今この本丸で得た愛を失うのも怖かった。だというのに、愛に応えることにまで怯えていた。
俺は強くなりたい。この本丸のために。
そう願うのはきっと、使ってもらうことこそが最上の喜びである道具としての道理であり、愛に応えたいと願う普遍的な人の願いでもあると思う。

「さっきね……むっちゃんも修行に行くって話、したの」
「えっ……」

主は「みんなすごいね」と、嬉しそうに破顔した。

「修行に行くのはもちろん賛成です。でも、二人同時に修行へは旅立てないから、順番を決めないとね。先着順でもいいけど、その辺りは本人同士で話し合って決めてもいいし」

主に言われて、つい先程あった不可解な出来事を思い出した。

さっきの賭けは、ひょっとして。
陸奥守には、こっちが修行を申し出ることが分かっていたのかもしれない。
多分、互いに同じ顔をしていた。

「いや」

つい、腹の底から笑いが溢れてくる。
俺はやっぱり強くなりたい。ここでこうして、素直に笑っていられるために。

「あいつが先だよ」