※流血描写あり

空が高い。
手足の先がうすら寒く感じるのは、谷底に冷えた空気が吹き溜まっているせいか、はたまた血を流しすぎたせいなのか。

「号ちゃん大丈夫? 俺、どうしたら……」
「あ゛ー、何か……布、とか……無いか」
「布? あ、そっか、血を止めないと……!」

仰向けになって四肢を投げ出す、そのすぐ横であたふたする不動の様子を横目に、思わず苦笑した。

傷口を抑えながら呻くことしか出来ずにいた時、不動が天から降ってきたのには目を見張った。砂埃を舞い上がらせながら軽く受け身を取る様子に驚く間もなく「大丈夫!?」と詰め寄られたのは、ついさっきのことだ。全身が痛いというのに、そのあまりにもアクティブな動きに小さく吹き出してしまった。
全然ダメ刀なんかじゃねぇ、すごいよ、お前は。

「……て、お前さん、何でシャツ脱いでんの」

上着を脱ぎ捨て、ボタンを引きちぎる勢いでシャツを脱ぐ不動にぎょっとしていると、不動は脱いだそれを丸めたものですぐさま傷口を抑えた。

「だ、だって……ネクタイとか腰布だけじゃ到底抑えられそうにないし……俺、手拭いとか、ましてや包帯とかも持ってないし……」
「はは、血で汚れちまうぞ……」
「いいよ、そんなの全然……!!」

だからお願い、死なないでよ。
目に涙を溜めながら懇願するように言われて、改めて自分の体がズタボロらしいことに気づかされる。
当たり前か、脇腹切り裂かれながら検非違使相手に無茶やって、薙刀にぶん回されて、挙句谷底へ真っ逆さまときた。普通の人間だったら2、3回死んでるところかもしれない。

「ふつう、かぁ……」
「え? 何?」
「いや……」

何かを口にするたびに喉の奥がヒュウ、と苦しげに鳴るのが無様だ。

これだけの怪我を負ったのはいつぶりだろうか。主の代替わりの、その前のことだったと思う。
その時、前任はどんな顔で俺を出迎えていたっけか。
何かに耐えるみたいに歯を食いしばって、苦い顔をしていたような気がするが、ピントの合っていない白黒写真のようにしか思い出せない。重傷の状態でそこまで気にしてられなかったのもあるだろうが、あまりにも遠い記憶だから、というのもあるかもしれない。
主は、どんな顔をするだろうか。前任と同じような顔をするのだろうか。
血まみれで帰ってきた俺を、どう迎えるんだろうか。
なぁ、あんたはまた泣くのかなぁ。
それは避けたいはずなんだが、それでも俺はもう何もかも手放せない気がしているよ。

「手放せない……ってのは、何を、だろ……なぁ」
「え? 号ちゃん……?」

血が流れて止まらない脇腹を押さえ込む不動の声が、遠く聞こえた気がした。

酒で酔ってこのザマじゃあ、前の主を悪く言えねえよなぁ。
なあ、主。

朦朧とする意識の中で、そんな愚痴みたいなことを考えて、そういえば出陣前、愚痴っぽくなるあいつに「酒なら付き合う」なんて約束をしてしまったことを思い出した。
こんなことになるなんて、思ってもいなかったから出来た約束だろうか。俺の慢心で、結局主を傷つけるようなことになっちまうのかもしれない。
ずっと、砂嵐が烟るみたいに視界が霞んでいる。
谷底に吹く空っ風で、体が余計に冷えていく。
崖の上で鎬をけずる鋭い音が、かすかにだが聞こえてくる。

この感覚がきれいさっぱり消え去ったら、きっとそこが命の終焉なのだろう。



『付喪神にあの世があるならばついて行きたかった』

いつか長谷部とそういう話をしたことがある。長政の話だ。
付喪神にあの世は無いのだとして、じゃあ折れた俺たちはどこへ行きゃあ良いんだろうなぁ。おれた、おれたち……意図して洒落にした訳じゃねぇんだが、まぁなっちまったもんは仕方ない。
実際のところ、多分俺たちにゃ天国も地獄も煉獄も無けりゃ輪廻なんてもんにも乗り損ねるだろうし、だとしたら、やはりただ一つの本体に戻ることこそが、俺たちに示されるただ一つの道筋なのだろう。

『お願い、死なないでよ』

ついさっき聞いたばかりの不動の言葉。
お前はダメ刀なんかじゃないだろうと、あの場、あの時すぐにでも言ってやれば良かった。
自分を卑下するな。前を向け。取りこぼしてきた命があろうと、それすら胸に掻き抱きながら前へ進め。酒は溺れるために飲むな、明日を迎えるために飲め。
あの本丸には間違いなく、お前が必要だから。
そう言ってやりたかったんだ。

『人間はこんなもんばかり背負い込んで、どうやって生きていくんだろーなぁ』

全くだよ、なぁ鶴丸。
後悔も、愛も憎しみも、喜怒哀楽も。
人間はこんなもんばっかり背負って、生きて、死んでいく。だから全てその死は重く、遺したものにのしかかる。
酷いもんだよ。俺も多分、ずっと苦しかった。
突然失われちまうなんざ、俺だけでいいと思っていた。
正則の元から去った時も、いっとき母里家を離れた時も、いつも突然のことだった。俺はそれでも構わなかったんだ。
なのに、なぁ。あれは本当に酷いもんだった。行き場のない怒りを感じるくらい、酷いもんだった。

『こーいう類いの話は怒っても仕方ないことだよ』

分かってるよ、乱。
言われなくても分かってる。怒ってもどうしようもないことだ。
けど、なぁ。
俺は涙を流すくらいなら怒り続けるほうを選ぶ。そういう男でありたいから。そういう風に生まれてきちまったから。

『生命すべての始まりとなる命は海から生まれたって』

そういう話をしたのは、前任だった。
どうしてそんな話をしたんだったか……そうだ、海の写真を見ながらそんな話をした。
生命は海で生まれ、いつしか人が生まれ、人が道具を生み出した。人がいなけりゃ俺たちは無い。あんたがいなけりゃ今ここにいる俺はいない。
なのに、なぁ。酷いもんだ。
どうしてあんなにも急に逝っちまったんだ。
ずっと文句の一つでも言ってやりたいと思っていたのに、今際の際に追い詰められて、改めて分かっちまった。
人と物。還る場所が違うなら、もう二度とその道は交わらないんじゃないか。あんたが今どこにいるのかなんて分からんが、人の身を得ながら人でない俺たちにとって、人間の死はあまりに虚しい。

こんなもんを抱えながら、どうしてここまで歩いてこられたんだろうか。

『本日よりこの本丸の主となりました、みょうじなまえです』

緊張でこわばった声が鮮やかに胸のうちで蘇った。

開き始めた梅の香が風を紅く染める、春を迎えたばかりの本丸で、あんたは所在なさげに立っていた。

『優しくないです、私は』

静かな怒りすら感じるような、かすかな声。
その胸のうちをそのまま映したような暗闇の廊下で、初めてあんたが泣くのを見た。

『それだけです、私には。もう、本当に、それで充分』

霧雨みたいな優しい声。
あの日飲んだ酒の味は、俺には少し甘かった。いつもは飲まない酒の味が、それでも確かに嬉しかった。

『好きだなんて、酷いわがままだって思います』
『なのに、どうしてこんな酷い想い、手放せないのかな』

弱々しくて悲痛な声。
涙の冷たさ、手の熱さ。
涙を溜めていた瞳。

そういう全てを覚えている目が、手が、耳が、またあの人に会いたいと、人から与えられた身体全部で叫んでいる。身体中に、正しく血が通っているのが分かる。

帰らなければならない。

強く手を引かれるような明るい言葉たちが眩しくて、その光に惹かれるように目を開ける。



白く柔らかな秋の陽光に瞳を焼かれた。結構な時間、瞼を下ろしていた証拠だろう。気でも失っていたのか。

「ほら見ろ、大丈夫だ生きている」

地面に横たわるこちらを不躾に指差す長谷部が、座り込む不動に軽い調子で語りかけた。

「万が一のため、主から御守りも頂いていたしな。それにこいつが崖から落ちただけで死ぬタマか」
「いや、脇腹捌かれてんだからまあまあヤバかっただろ……」

和泉守が呆れたように正論を吐き、隣に並び立つ陸奥守の肩をどつきながら「そーら、全員生きてんだからそんな死にそうなツラすんな」と明るい声を上げた。
陸奥守、今剣、長谷部、和泉守、不動。
血を流していないものはいないが、全員生きている。

「そこうぐんもすべてかたづけました、ひとまずぼくたちのかちですよ!」
「そういう訳だ、とっとと帰って主に急ぎ報告するぞ。日本号、多少は動けるか? 動けないなら引きずっていくが」

マジかよ、正三位だぞ。引きずるってお前。
頭の中で反論している間に、長谷部と和泉守に両肩を担がれ、体が地面から離れた。それと同時に、急に体勢が変わったせいであらゆる傷口に痛みが走り抜けていく。

「うあ〜っ痛ぇ……もーちっと優しくできねぇのかよ……」
「文句言うな。こっちだって手負いなのに、さらに重い貴様を担がなければならないんだぞ」

さあ兎にも角にもまずは帰陣だ、という時。
不意に、不動が絞り出すような声を上げた。

「俺、何も出来なかった……」

涙ぐんだような、歯を食いしばるような不動の声。

「みんなボロボロなのに、俺……号ちゃんのそばでずっとあたふたしてるだけだった」

力なく下がっていた手を固く握りしめて、不動は顎が首につきそうな勢いで視線を下げた。
声を震わせる不動は、腕と足に軽い擦り傷や切り傷があるくらいで、おそらく軽傷といえる。他のメンツはおそらく中傷以上。服のあちこちが破れていて、和泉守と今剣に至っては上半身ほぼ裸状態だった。

「お前が大した怪我をしていなくて助かった」

中傷なわりに一番元気そうな長谷部が、珍しく優しげな言葉選びをした。

「何も出来なかったことを悔やむなら、今、俺たちを守ってくれ。帰陣し、主の顔を見るその時までな」
「そーそー、帰陣するまでが戦だからな!」

帰るまでが遠足みたいなことを言って、和泉守は不動に向かって元気のお手本みたいな笑い顔を作った。

「お前は……ダメ刀なんかじゃ、ねぇよ」

腹の底から絞り上げるみたいにして、なんとか言葉を捻り出す。

「少なくとも、こいつらよりゃ〜優しかったし……な」

両肩を担ぐ二人を顎で示して言うと、不動はほんの少しだけ表情を和らげた。

言いたいことを口にできる。
言った言葉が誰かに届く。
たったそれだけのことが、この世界で生きていくための原動力となる。

「さ、無駄口は後だ。とにかく帰陣……で、いいな? 陸奥守」
「ああ……帰ろう、主のもとへ」

長谷部に促され、隊長が帰陣を言い渡す。
これにて任務は終了となった。

主。
なぁ、俺はやっと分かった気がするよ。

もうどうあっても、胸に火を灯してくれた言葉も、手のひらに僅かに残る体温のかけらも。全てを手放したくないという、子どもの言うわがままにも似た感情を抱えていたことに、こんな命の瀬戸際に来るまで気が付けなかった。今さらあんたの言う「手放したくない」という願いを、自分のものとして理解できちまったんだ。
馬鹿だと笑ってくれれば良い。遅いんだと、怒ってくれたって構わない。
そういう感情に飲まれながら、これが恋なのかもしれないと、凪いだ水面に水紋がゆるやかに広がっていくように、静かに気付いたのだった。