一年ほど前、人の身を得たその日の夜。
信長公が生きていた頃の夢を見た。

自分は短刀「不動行光」のままの姿で、信長公の手の中に収まっている。信長公は、刀の自分を慈しみ、誇るような熱い視線を送ってくれた。
ああ、また会えた。ずっと会いたかった。また貴方の手に触れられたかった。
願いが叶って嬉しい。
貴方が生きていてくれて嬉しい。

嬉しい、という感情が湧いた瞬間、気づけば身を得た自分が刀の自分を俯瞰していた。
畳の上にどっかりと座り込み、一振りの短刀を誇らしげに眺める信長公のすぐ隣で、人の身に宿る温度の高さに少し怖気づきながら、それでもおそるおそる信長公の肩へ手を伸ばした。早くなる呼吸の中、人差し指が触れるか触れないかのところで、目が覚めた。

目が覚めて数秒の間、自分の今の居どころすらすっかり忘れていた。
少しずつ現実に追いついてきた頭が、ようやく「本丸」という場所のことを思い出した。そうした現状の把握と比例するように、体が重く布団に沈み込むような心地になった。
頭だけを少し動かして隣を見ると、同室に割り当てられたへし切り長谷部はすでに目を覚ましてどこかへ行ってしまったらしく、布団もきっちり片付けられた後の、綺麗な畳が空しく広がっているばかりだった。
障子を通して体に降り注ぐ白い陽光が地味に眩しい。刀とは真逆の、柔らかな布団の端を両手でめいっぱいに手繰り寄せて、明るい光から逃げるように顔を引っ込めた。
そうやって、甲羅にこもる亀みたいな格好になりながら、不動は目から溢れそうになるものを堪えるみたいに、歯をきつく噛み合わせた。
夢の中で、嬉しいと感じた不動行光と、信長公に愛でられていた目の前の刀『不動行光』。
体も、嬉しいと思うための心もいらないから、全部を俺に返してほしい。

体が痛い。
苦しいのは心であるはずなのに、身を真ん中から真っ二つに裂かれるみたいな痛みだ。
心があるからこんな痛みを覚える、体があるからこんな思いをしなきゃならない。
喜びも、後悔すら、そういう身を滅ぼしかねない激情というものは有限の肉体にしか宿らない。
そんな激しい矛盾を抱えた、人間という生き物。その器を持つ刀剣男士という存在。

ここにいる連中は、揃いも揃ってどういう気持ちでどうやって生きてるんだろう。

「うわ、布団丸っ! 不動か? 起きているのか?」

布団の壁を隔てて聞こえた長谷部の声は明るくて、やはり随分前に目を覚ましていたらしい。

「……どこ行ってたんだよ」
「今日は主が研修で出かけるからな、見送りだ」

長谷部はダメ刀入りの布団の塊を避けながら、そのすぐ真横を通って部屋の奥へ向かっていった。
この分なら、自分は部屋の奥で寝るべきかもしれない。どうせ、毎日先に目を覚ますのは長谷部だろう。地球がひっくり返ったって、自分が長谷部より先に起きるなんてことはあり得ない。
寝巻きの袖でもぞもぞと目を擦りながら布団から顔だけ出す。大気の冷たさに、思わず数回瞬きをした。
押し入れのほうで何やら片付けをしている長谷部を目線だけで見上げながら、不動は不満げな声を上げた。

「まぁた出かけたのかよ、あいつ」
「仕方ないだろう、主はまだ審神者の任に就かれて間もない。学ばなければならないことも多いんだ」
「はは、ダメ刀にはお似合いのダメ主ってわけかあ」
「貴様……」

あからさまに眉を釣り上げて声を低めた長谷部は、しかしすぐに深いため息まじりに「叩っ斬られたくなかったらとっとと起きろ」と眉間に寄っていた皺を薄くした。忙しいやつ。

この本丸の主は、どうもまだ新人らしかった。長谷部曰く、死んでしまった父親の跡を継ぐ形で審神者という職に就いたそうだ。
刀から生まれ出た自分に対して、腰が引けた感じでおっかなびっくりしながらも「よろしく」と手を差し出してきたのは記憶に新しい。
その手を雑にでも握り返してやったのは、いかにも頼りない女への同情心からか、はたまたやはり人間に対しての、ある一定の愛情というやつだっただろうか。
しかし、そうして何気なくそれに触れたことをすぐに後悔した。
人間の皮膚の薄さ、そのすぐ先にある血肉の熱さ。
あまりにも脆い、人間という存在の証明みたいな手のひらをすぐに振りほどくみたいにして離した。
自分ひとりでは、触れ合わなければ、恐らくは分からなかったことだ。

形あるものは日々を新しく色付けていく。
そうでないものの思い出に縛られることでしか生きていけない自分の小ささ。
思い出は新たなものを生み出さないという悲しい現実。
命あるものの圧倒的で鮮烈なエネルギー。
そういうものが、この本丸という狭い空間に凝縮されている。
そういうものに触れながら、これから自分はやっていかなくてはならないのだと、棒みたいな両足を地面につっぱらせながら、漠然とした不安に苛まれたのだ。



この本丸の主とまともに話をしたのは、新たな刀の歓迎会が開かれた時のことだったと思う。
あの時、新刃として歓迎を受ける側だった自分は、歓迎ムードの中こっそりと大広間を抜け出して、厨に水を飲みに行った。飲んだのは甘酒だけだったが、量と飲み方が悪かったのか。分からないが、とにかく胃のあたりの気分が悪くて、逃げるようにして部屋を後にした。
コップに水を汲んで、喉元に流し込んでやればある程度は落ち着いたが、何となくすんなり戻るのが憚られて、そのまましばらく厨に留まることにした。
人の形をした刀が集まる大広間は熱気がこもっていたが、ここは頬に触れる空気が冷たくて心地がいい。
コップを片手に流し台へ寄りかかって、居心地の良さを楽しんでいたが、人の気配が近づいてきて、思わず身を固くした。

「あれ、不動くん?」

厨に入ってくるなり、その人は少しだけ目を見開いた。

「ここにいたんだ」
「別にどこにいようが俺の勝手だろぉ」
「あ、うん。みんな主役が消えたって騒いでたから……」

言いながら、冷蔵庫に向かっていく相手からは、こちらを無理に連れ戻すような気は感じられなかった。
冷蔵庫の中をしばらく見回したかと思うと、何かの瓶を一つ取り出し、ぽん、と軽い音を立てながら戸を閉めた。
それからすぐに戻っていくかと思っていたが、そういうつもりも無いらしい。瓶片手に冷蔵庫のそばから動かない様子を訝しく思っていると、不意に振り返った向こうが口を開いた。

「不動くんは酒粕派?」
「はあ?」

唐突で要領の得ない話に、片眉を釣り上げながら返せば「あ、ごめん、甘酒の話です」と焦ったような声が返ってきた。

「別に……味にこだわって飲んでるわけじゃない」
「そっか……」

数秒、無言の間ができた。
気を遣われている、ということにはとっくに気付いている。多分、向こうだって、気づかれていることに気付いているはずで、こういうのは不毛な時間だと思った。
こんなダメ刀ほっといてさっさと戻れよ、とでも言ってしまおうかと思った。
鋭い言葉も、自分を卑下する言葉も。
そういうものが、自分だけでなく聞く人ごと傷つけるものだと知っていながら使うのをやめられないのは、自分が弱いからだ。分かっていても、そういう言葉をしまっておく場所がないほどに切迫した胸のうちから勝手にこぼれ出る言葉と、どう折り合いをつけていくべきなのかが分からない。

「米麹の甘酒、牛乳割りで飲もうかと思うんだけど」
「は」

手にしている瓶を掲げながら「これ……」と小さく呟くように言って、
「米麹のやつなんだけど、牛乳割りで飲むと美味しいので……」
などとやや戸惑い気味な感じで言葉を続けた。

「はあ」
「不動くんも、あの……飲んでみないかな、と思って」

甘酒の牛乳割り。
白い雪の降るような甘酒に、さらに白いものを足すところを想像してみる。

「て……何か普通に不味そうだな……」
「そんなことないと思うけど……の、飲まない?」
「え、いや……」

微妙な空気の中で、微妙な好奇心が湧いてしまった自分を少し恥じながら、不動は目を泳がせた。
この人は、何なんだろう。
戸惑うくらいなら、こんなダメ刀ほうっておけばいいものを。ていうか、戸惑ってるのはこっちも同じなんだけど。
そこまで考えて、ふと気がつく。この人は自分と似ているのかもしれない。
大切なものを守れなかった自分と、大切な人を大切にできなかったのかもしれないこの人。器用に生きられなかったこの人と、そもそも器用に生きるための器すらなかった自分。

「一口、試しに飲んでみるくらいなら……」
「本当? じゃあ牛乳も持っていこうか」

ほっとしたように肩の力を抜く様子を眺めながら、何となくこの人が生きる姿をしばらく見ていようと思った。
自分の持ち主としてというよりは、思い出の留まる場所に、わざわざ飛び込んできた一人の人間として。
思い出に押しつぶされずに生きていくにはどうすればいいのか。この人の姿を見ていれば、ひょっとしたら分かるかもしれないと思った。



ここへ来て一年が過ぎた後の、夏のこと。
本丸に覆いかぶさるみたいな入道雲が濃い影を落とす、梅雨晴れの、昼。

「七月は不動が近侍だ、頼むぞ」

わざわざ部屋を訪ねてきた三日月に言われたが、への字にした口を開けてまで返す言葉が見つからなかった。何となく押し黙ったままでいると、三日月は穏やかな笑い声を上げてから、ゆったりと言葉を続けた。

「近侍といっても、大仰に捉える必要はないぞ。気楽に構えていて大丈夫だ」

緊張している、とでも捉えられたのだろうか。三日月はそういうような物の言い方をした。

「それに主の部屋には小さいが冷蔵庫があってな、いつも冷たくて美味い飲み物を出してくれるのだ。俺は抹茶オレが気に入ったなぁ」
「あんた何してたんだこの一ヶ月」
「はは、仕事をしていたぞ」

三日月は、本気なのか冗談なのかよく分からないことを言ってから去っていった。

「どっちみち俺は常に主のお手伝いをさせていただくつもりだ。分からないことがあったら俺に聞け」

部屋の中で、黙って話を聞いていたらしい長谷部の声が背中に当たって、眉間に寄っていた皺が余計に濃くなった。

「んだよぉ、俺が近侍じゃ不安かよ」
「別にそういうことではない。ただ初めてのことは誰だって分からないことがあって当たり前だろう。お前、そういう不安をいちいち恥じるな」

恥じてねえし不安でもねえ、と言ってしまおうかと思ったが、飲み込んだ。
不安でない訳ではないが、不安の種類が違うのだということを、口で上手く説明できる自信が無かった。

仕事どうこうというよりは、不用意な言葉をあの人にぶつけてしまわないかが不安だった。
ここ最近、あの人のことを見ていると、俺は他に答えを求めてばかりで自分の感情と向き合えていないような気がしてくる。延々と悩みながらも正解のない現実に立ち向かい続けている、一人の人間が生きる力に、少し圧倒されているんだと思う。それに多分、劣等感というやつも付随して。
そういうものを抱いたままあの人のそば近くに仕える毎日を思うと、すでに勝手に一振りで傷ついたりしてしまっている。
こんな馬鹿げた、滑稽な自分のまま七月を迎えなければならないのは不本意だ。
夏は何かが起こって、変わる予感を連れてくる季節だと思う。何も変わってほしくないという願いすら乱暴に壊していくような、そういう季節。
何も起こらないといい。もし、何かあるとしても、誰も辛い目に合わないといい。

素直に笑うこともままならないくせに願いばかりはいっちょまえな自分のような刀は、やはり矛盾に満ちているのだと思う。