底無しの泥沼に浸かったみたいな眠りから目が覚めた。
覚めてすぐ、いくらか軽くなった頭だけをもぞもぞと動かして、枕元に置いてある目覚まし時計を確認した。短い針は11のあたりを指している。

「……あれ!? え、昼? 夜?」
「主よ、落ち着け。今はまだ昼前の11時だ」

三日月のゆったりとした声が背後に聞こえて、体を起こす。声のしたほうに顔を動かすと、三日月、薬研、乱の三振りが揃って目をぱちくりさせている。

「主、起きて大丈夫なの?」

今度は反対側から加州の声が聞こえた。予想外な刀の声に驚いて、肩を跳ねさせながら振り返る。綺麗な指が伸びてきて、乱れていた髪を手早く整えてくれた。

「あ、ありがとう……少しすっきりしたかも」
「そ。良かったね」

少し眠くなるような、柔らかな声が優しく耳に染みていく。訳もなくおぼろげに不安だった心が凪いでいくようで、気が抜けたみたいな短いあくびが出た。

「主さん、何かうなされてたみたいだけど大丈夫?」
「え、本当? 何か変なこと言ってた?」
「え?」
「ん?」
「え?」
「……ん?」

乱と不毛な1文字ドッジボールを繰り広げたなまえは、訳もわからず首を捻った。

「え、私ひょっとして、本当に何か変なこと言ったの……?」
「……日本号さんがここに来てたのは覚えてる?」

乱の言葉に、うすらぼんやりした記憶を何とか辿ろうとした。そういえば、何か夢を見たような気がする。しかも二本立てで、種類の全く異なるものを。

「あ」

寝ぼけていた頭がようやく覚醒し始めて、次第におぼろげな記憶が蘇ってきた。

「……薬研、確認したいんだけど」
「ん?」
「倒れたお父さんを最初に見つけたのって、日本号さんだった?」

はっきりと思い出せた訳ではないし、多分積極的に思い出したいようなものではなかった。けれど、それだけはどうしても確認しておかなければならないような気がして、おそるおそる、その疑惑を口にする。

「ああ、そうだが……急にどうしたんだ?」

思わず、目を見開いてしまった。
何で知ってるんだ? と問い返された問題にどう答えるべきか、迷って言葉を探すうちに頭が重くなってきて、前のめりに上半身を倒した。

「夢で見た……かもしれない」
「夢で? その時の光景をか?」
「多分」

布団の山に顔を突っ込みながらもごもごと喋るなまえは、やはりあれは夢というよりは記憶に近い何かだったのだと確信した。
説明がややこしい上に、自分でもこの事象を的確な言葉にできる気がしなくて、とりあえずそれを「夢」と形容しておいた。

「親父さんの……だから大将、あんなこと言ってたのか」
「あ、そうだ。私、何言ってた? 一旦起きてもにょもにょ何か言ったような気はするんだけど、肝心のところがあんまり思い出せなくて……」

布団からのっそりと顔をあげたなまえに、薬研は素早く瞬きをして、なぜか乱に「言ってもいいのか?」と許可を得てから口を開いた。

「人はいつか必ずいなくなると分かっていて好きだなんて言うのはわがままだ、なのに何でこんなもん手放せないんだ……と、まぁざっとこんな感じのことを言ってたな」

少し熱が引いたはずの頭が、薬研がなぞる言葉を拾うたびにだんだんと熱を帯びていく。さながら沸騰直前のやかんのように頭から湯気が昇っていくような心地で、布団の端を強く握りしめた。

「……え、一応確認するけど、誰に向かって?」
「日本号だよ」

なまえの問いに答えたのは、加州だった。口の端を上げながら、少しだけ寂しげに眉を下げている。

「ねえ、主。主は日本号のことが好きなの?」
「……えっと」
「その気持ちは、間違いなく恋? 違う何かでは絶対に無い?」

あくまでも優しい語りかけに、思いがけず傷つけてしまったかもしれない加州の胸の痛みが滲んでいるような気がして、喉の奥に塊のような息が詰まった。
覚えてはいないが、多分こういう顔をさせてしまうくらいにはハッキリと、日本号への思いを口にしてしまったのだろう。
その上で今、バレるかもしれない嘘を吐いたところで、きっと余計に相手を傷つけるだけだ。とってつけたような誤魔化しをすれば、あとで必ず後悔するであろうことだけは確かな気がして、もう潔く首を縦に振った。

「うん、間違いない」
「そっか」

小さく頭を垂れながら、控えめに笑った加州の耳元で揺れたイヤリングが、灰色の雲から滲み出た薄い陽光を静かに反射した。

「主は、ちゃんとしてて偉いね」
「ち、ちゃんと……とは」
「ちゃんと、人間として一生懸命だってこと」

さて、と畳の上に置いてある盆に手を掛けた加州は、無駄のない動作で立ち上がった。

「主、お腹空かない? これ冷めちゃったから、一旦さげてあったかいの持ってくるよ」
「あ、そっか……ありがとう。ごめんね、寝ちゃって」
「いーえ。元気なうちにご飯食べちゃいたいもんね、すぐ持ってくるよ」

待っててね、と言い添えた加州は、足早に部屋を出て行った。
その静かな足音が完全に聞こえなくなってから、改めて自分の軽率な言葉を顧みた。
無意識下でのことだったとはいえ、不慮の事故だったとはいえ。簡単に漏らすべきではないことを自ら口にしてしまった。
けれど多分、そういう不安を口にしなければそのまま息が出来なくなりそうだったんだと思う。鮮明に思い出そうとすると、言い様のない苦しさに襲われそうでハッキリとは思い出せずにいるが、きっとそうして吐き出さなければ、縋らなければいられなかった。体の不調が余計にそれを助長したのかもしれない。
いやしかし、それにしても、だ。

「あの……ごめんなさい、変なこと聞かせちゃって」
「ははっ、別に、何も変じゃねーさ。あんまり気にするなよ」

歯を見せて軽く笑い飛ばす薬研の隣で、乱がうんうんと頷く。

「ボクたちはだいじょーぶ。清光くんも、きっと大丈夫だよ」
「うん……」
「仕方ないよ。悲しい夢を見た後とかさ、ボクだって不安になるもん」

乱は優しく語りかけながら、なまえの頭を柔らかく撫でた。細い指先に髪を梳かれて、ようやく安心できたような気がした。

「でも、そうなるとちょっと心配なのは日本号さんだね」
「え?」

乱の言葉の意味を図りかねて、首を傾げる。

「もし主さんの見た夢が日本号さんの記憶だったら、日本号さんは今もそういう不安を心のどこかに抱えてるのかもしれない」

ボクの憶測に過ぎないけどね、と付け加えられたが、確かに、言われてみればそうだ。じゃなきゃ、意味なく記憶が流れてくるわけがない。
日本号さんが、ひょっとしたらずっと傷つき続けているのかもしれないという仮定。
現実感が湧いてこなかったが、しかし誰だってそういうものを抱えながら生きているものだ。
自分だって、楽しければ笑うし、ご飯を美味しいと思いながら生きている。だけど、だからといって悲しさがキレイサッパリ消え去ったわけではなくて、心の奥底には、ふとした拍子に顔を覗かせる傷がある。
誰にだってそういうものがあって、日の本一の槍にすら、それがあるかもしれないということ。

「なあ、主」

それまで、瞼を下ろして三人のやりとりに耳を傾けるばかりだった三日月が、不意に口を開いた。

「人の魂は、死んだらどこに行くと思う」
「え……」
「墓か、天国地獄、それとも常にそばにあるか、はたまた写真など……偶像のうちに潜むか」

唐突な問いかけに、咄嗟に答えが出てこなかった。
墓、と言われて、何となく鶴丸のことを思い出した。そういえば、鶴丸は五月の最後の日に人を「いつの世も勝手だった」と言い表していた。ぐうの音も出ない。
しかし、そういう思いを抱く鶴丸国永という刀は、墓の中で何を見てきたのだろう。圧倒的な無だろうか、それとも凶暴なほどの生への執着だろうか。もっと、違う何かだろうか。
そういうことに思いを馳せながら、なまえは口の中で小さく呟いた。

「……信じたところ、とか」
「ほう?」
「人は死んだら星になるだとか、千の風になって吹き渡るとか、そういうのも結局はどこかの誰かにとっての『信じたところ』なんじゃないでしょうか。昔の人のお墓だって、全国各地にあったりしますし……」
「うむ、確かに」

結局、死んでみないと分からないところの話を探り探りでするのが恥ずかしいような気もしたが、三日月がゆるやかに頷くのに後押しされて、何とか先の言葉を続けた。

「多分、誰だって救われたいはずで……だから、信じたところにいるとか、言ってしまえばエゴでしかないんですけど、生きているもの全てにとっての救いになり得るかもしれなくて……」
「なるほどなぁ」
「どこまでも曖昧でしかないですが……でも、そういう、信じたところに何かが宿るというのが、皆さん刀剣男士という存在に通じているのかもしれません……すみません、憶測でしかないんですけど」

難しいですね、と濁して、最終的にはどこにもたどり着けないような答えしか出せずに言葉が途切れてしまった。
三日月は「そうだな……」と小さく呟いたきり黙ってしまって、何となく歯痒い気持ちになった。
けれど、三日月はすぐに顔を上げ、なまえの目をまっすぐに見据えた。

「主、そうだ。我らはひどく曖昧だ」

我ら、というのは、刀剣から生まれた彼ら全てを指しているのだろう。
たった今、自分がした話を受けて、三日月が真っ向から同じ言葉で話そうとしてくれているらしいことを感じ取って、なまえは背筋を伸ばした。

「そういう曖昧なものを恋い慕えば、いつかまた」

また、と強調するような言い方をして、先の言葉を紡ぎ出した。

「何度でも泣くことになるかもしれない。それでも主は、日本号が好きか」

優しく、けれどどこか試すような口ぶりだった。
確かに、これから何度も辛くて苦しくて、泣かずにはいられないようなことがあるのかもしれない。それこそ、今日のように。
生物は、体の大小関係なく一生のうちに同じだけ心臓を動かすらしい。ネズミが生きる世界の時間は目まぐるしく流れ去り、クジラが生きる世界の時間はじれったいほど遅く流れていく。それでも、動く心臓の回数は同じ。
人と刀剣男士。
形は同じでも、同じ時間の流れの中で生きられないものたち。
ひょっとしたら、そういう違い一つひとつが、人と人とが普通に恋をするよりもずっと辛いことへ繋がっていくのかもしれない。
そうだとしても。

「でも、そういう曖昧かもしれないものを好きだと思う気持ちは、間違いなく本物です」

これは日本号さんだけの話ではなくて、皆さんのこともですけど、と大事なことを付け加える。

「私にとって、日本号さんを好きだという気持ちは、もう曖昧なものじゃないんです」

好きになった相手がたまたま人ではなかっただけで、思い残すような恋をしたとは思わない。
日本号さんを好きになって、日本号の槍が時代の波を乗り越えて今も博多の地にいるって知って、それが自分にとってはとても明るい希望になった。
はるか昔に生まれた日本号の槍が今、確かにこの世界に存在しているということ。その槍から日本号さんが顕現したということ。
どれだけ苦しいことが待っていたって、その両方が、私にはとても温かい。

「何度も泣くことになっても、日本号さんを好きだと思う気持ちはもう取り消せないです。私の歴史の一部分です」

なまえがそう言い切ると、三日月は目をぱちくりさせ、口を開けて笑い声を上げた。

「歴史の一部か! 大きく出たなぁ」

薬研が「大将も言うなぁ」と感心したように呟くので、今さらながら自分の言葉が恥ずかしくなった。
でも、全部の言葉に嘘はない。
たとえ、どれだけわがままだとしても、この恋が実にならなくても。自分の身に積もった時間という歴史の中に日本号を想った時間があれば、多分それで構わない。そういう恋の明るさが自分の一部となるのなら、私はその気持ちと共に、わがまま一つ引き摺りながらでも生きていける。たとえ、どれだけ勝手だと言われようと、一度抱いた想いを無責任に手放したりは決してしたくないから。
いいんだ、私はこのまま、何度泣きながらでも生きてやる。

「主、お待たせ」
「あ、加州くん。ありがとう」

湯気の立つ雑炊と、大きな湯呑みが乗ったお盆を持って戻ってきた加州は、なまえの布団のすぐそばにそれを置いた。

「それと、これ」

加州は、小脇に挟んでいた雑誌のようなものを何冊か、なまえに差し出した。
よく見ると、それは時々本丸に届く冊子で、万屋のある通りのどの店の何が美味しいとか、そういう紹介なんかを載せているフリーペーパーだった。政府側で作っているものらしく、昔はお堅い内容だったのが最近では市販のファッション誌のようなスタイリッシュな作りになったと聞く。
自分が行きたいと思ったお店はメモをして、あとは本丸内に回してしまっていたのだが、そのほとんどは加州の元にあったらしい。

「ところどころ付箋貼ってあるみたいだけど、これは?」
「日本号のこと誘ってみたら」

パラパラ捲りながら何気なく聞いてみたら、予想外なことを言われて、思わずページを捲る手を止める。ちょうど付箋が貼ってあったカフェ特集のページが開かれて、何となく見覚えのある店が何店か目に留まった。
貼ってあるのは、少し端が丸まった付箋。今さっき貼ったものではないことに気付いて、その丸みが不意に愛おしく感じた。

「加州くん、良かったら一緒に行こうよ」
「え?」
「お雑炊のお礼に。三日月さんも薬研も、良かったら。随分面倒かけちゃったし」

布団の上で雑誌を広げ、一枚の写真を指差す。

「ホラ、この卵サンド美味しそうだし」
「いや、でも……」
「えー、ボクも行きたぁい」

躊躇するように俯く加州のぼやきに、乱の不服そうな声が被さった。
加州はしばらく口を小さく開けたまま、眉をほとんど水平にしていたが、やがて耐えられなくなったみたいに破顔して、一度小さく吹き出した。

「しょーがないなぁ、行ったげる」
「うん、そうしよ」

加州が嘘のない、まっさらな笑顔を浮かべてくれたことに救われながら、雑誌を枕元に置いて雑炊の皿に手を伸ばした。安心したら、急にお腹が空いてきた。

「あれ、これは?」

雑炊と一緒にお盆の上に乗っている湯呑みを指差すと、加州は思い出したように手を叩いた。

「あ、そうそう。それ、日本号が作った卵酒。風邪にいいんだってさ」
「日本号さんが……そっか、あとでお礼言わなきゃ」

湯呑みの中でプリンのような色の飲み物がなみなみ揺れているのを横目に、次はいつ日本号と話せるだろうかと考えた。若干の気まずさがあるにせよ、お礼は言いたいし、寝ぼけて妙なことを口走ったことも謝れたらいい。その前に、まず体調をちゃんと回復させなければいけないけど。

「じゃあ、いただきます」

手を合わせて、皿と匙に手を伸ばした。食べて、飲んで。
いつか無くなる体だとしても、ちゃんと生きていけるように。