六月に入って数日後、煙みたいな霧雨が庭の緑を霞ませるような日。
朝、いつもと同じように目を覚まして起き上がろうとしたなまえは、あらゆる筋肉が突然重くなったような鈍い怠さを感じた。
それですぐに、これは風邪だと直感した。
夏風邪は何とかが引くという言葉が脳裏をよぎったが、兎にも角にも一旦体を起こさねばと、のろのろと髪を梳かしている時に三日月がやってきた。
こちらの顔を見るなりぱっちりと目を見開いたかと思うと、すぐさま踵を返して薬研を呼んできてくれた。しかも、こんのすけに休暇の手続きまでお願いしてくれたらしい。正直そこまで頭が回っていなかったので、すごく助かった。
自分が思っている以上に体調の不良っぷりがバッチリ顔に出ている、ということらしい。確かに、平時とは比べ物にならないくらい顔全体が熱を持っている。
救急箱片手に早足でやってきた薬研は、素早く体温計を取り出してなまえに渡し、体温計をわきに挟むそばから問答無用でおでこに冷えピタを貼り付けた。
とにかく頭がうまく働かない。
頭の中にまで熱気が充満したみたいで、そのせいなのか何なのか、視界すら白く曇っているいような気がした。
薬研は、なまえから受け取った温度計を見るなり眉間にシワを寄せた。
「38度か……かなり熱が高いな」
「ずいぶんと急な発熱だなぁ。主よ、大丈夫か?」
「すみません……三日月さん、近侍になって間もないのに」
「何、気にするな」
「大将、発熱以外に症状はあるか?」
眼鏡の奥からこちらに向けられる薬研の視線は柔らかく、さながら問診票を記す本物の医師のような姿になかば感心しながら、布団に体を横たえたなまえは鈍い思考の中で自分の体の内側を探っていった。
「目がまわるのと、頭痛と耳鳴りがすこし……あと、体が重い、とか……」
「なるほど、じゃあとにかく解熱が最優先だな。解熱剤を飲んで一日休んで、それでも熱が下がらなかったり別の症状が出るようなら、すぐ病院に行こうな」
「ハイ……」
小さい子供に言って聞かせるような言い方には首を傾げたくなったが、薬研の判断はいちいち正しい。おまけに唇一つとってもいちいち重たくて、口の中が異常に乾燥しているような気持ち悪さがあって、あんまり喋りたくなかった。
「薬を飲むにはまず飯なんだが……大将、食欲はあるのか?」
「あんまり……」
「そりゃそうだよなぁ。じゃあ雑炊ならどうだ? あれなら胃が受け付けるんじゃないか?」
「たぶん……」
なまえが小さく頷いたのを見て、三日月はゆっくり腰を上げた。
「では、今日の朝餉当番のものに頼んでこよう。少し待っていてくれ」
「すみません……ごはん当番の人にも、謝っておいてください」
「はは、そう気にすることはないぞ、主」
ではな、と言い残して、三日月は早々に部屋を出ていった。
「さて、大将。雑炊が出来るまで時間もかかるだろうし、少し寝てな。俺はそばについててやるから。しっかり体休めろよ」
薬研は静かに言って、冷えピタを貼ったなまえのおでこに軽く触れた。
何だかもう、まぶたを持ち上げていることさえ辛くなってきて、口の中でもにょもにょと「ありがとう」と言ったか言っていないか、それすらもよく分からないままに、意識は速攻でシャットダウンされた。
*
朦朧とした頭の中に、何度も何度も呼びかける声が響いている気がした。
「主、主! おい!!」
「どうした日本号、大将に何か……」
薬研の声がする。
何も見えず真っ暗で、よく通る二振りの声ばかりがやたらと鮮明だ。
「厨に来たら倒れてたんだよ、おい大丈夫か主!!」
「こんのすけに言って政府に連絡取る、日本号は大将に呼びかけ続けてくれ、体は揺さぶるなよ、肩の辺り叩きながらだ、頼むぞ!」
記憶。
まさかと思ったが、これは記憶だ。
あまりに鮮明でクリアな音声。ピアノ線を張ったみたいに、切迫した空気。
夢だとか曖昧なものじゃない。誰かの記憶が、熱で茹った頭の中へ濁流のようになだれ込んできている。
誰のものか、だるい頭で考えずとも、何度も呼びかける声からして明白なことだった。
「主、目ぇ覚ませ、おい! どうしたんだよ、主、起きろ、主!!」
あるじ、と呼ぶ日本号の声には純粋な動揺だけが滲んでいて、けれど目を開けない「主」への呼びかけはどんどん焦りを含んでいく。
そのたびに、喉元に何かが迫り上がるような苦しさが募って、真っ暗だった視界は徐々にテレビの砂嵐のようなものに覆われていった。
遠く聞こえてきていた救急車のサイレンらしきものが雑音に変わっていき、突然ふっつりと途絶えた。
張り詰めていた糸を、真ん中でプツン、と切ったみたいに、記憶の波はあまりに唐突に終わった。
それから全く異なる場面に変わり、気づいた時には、何故だかなだらかな丘のような場所から海を見下ろしている夢に切り替わった。足元は、靴を履いていても分かるくらい柔らかな草でフワフワしていて、何となく落ち着かない気持ちになった。今度は間違いなく夢なのだろう、現実感の無さがそれを物語っている。
不意に、海に向かって走らなければいけないような気持ちになって、その気持ちに素直に従い、駆け出していく。
草原と砂浜の境目にたどり着き、靴の中に砂が入り込んでも気にはならなかった。
それでも、どうしても海へ行かなければならないような気がしている。
浜に打ち上がった低い波に足を突っ込んだ瞬間、その冷たさに体全体が跳ね上がった。
「主?」
夢の中で受けた衝撃に現実の体ごと反応したらしく、視界が急に開けた。
うすく汗が滲んだ額を、冷えピタではない、ひんやりとした何かが覆っている。
顔のほとんどを枕と布団に埋め込むみたいにしていたなまえの額を覆っていたのは、日本号だった。
「……ごめんなさい」
「はは、何がだよ」
反応が返ってきたことに安心するみたいな柔らかい声を返されて、余計に胸のあたりが痛くなった。焼かれるような痛みは次第に体中の熱に変換されていって、こめかみや背中、いたるところに汗が滲んだ。
「人はいつか必ずいなくなるって、私だってわかってるのに」
目の奥が熱くなって、どんどん歪んでいく視界の中、日本号がわずかに目を見開いたことだけははっきりと分かった。
それ以外には、何も映っていなかった。
「好きだなんて、酷いわがままだって思います」
自分が何を口走っているのか分からないままに、ブレーキの壊れた言葉の羅列がそのまま口から吐き出されていく。
「なのに、どうしてこんな酷い想い、手放せないのかな」
顔の周りで山になっていた布団を手でかき分けて、額に当てられたままになっていた日本号の手に縋り付く。
「どうしてだろう」
何がこんなに悲しいのかも分からないまま、夕暮れの田舎道でひとり迷子になった子供のような気持ちになっていた。
自分がどこにいて、何をすればこんな不安から逃げられるのか、何一つ分からない子供みたいに泣きたくなって、そのまま意識が薄くなった。
遠のく意識の中で、日本号さんのことが好きなんだという動かしようのない、苦しい気持ち一つだけが、ひたすらに鮮明だった。
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