「不動よお」

酔っ払い(偽装)の主を部屋に送り届けた後、次郎太刀の部屋に戻る道すがら、隣を歩く不動に呼びかけた。

「お前、主のことどう思ってるんだ」

何となく気まずそうな顔をした不動がこちらを見上げる。
不動行光という刀剣男士が、前の主の一件で自分をダメ刀呼ばわりし続けていることは、この本丸に不動が来る前から知っていた。
いざ迎えてみれば、確かに何かと自分を卑下する刀ではあったが、酒の席でのノリが悪いわけでも無し、当番であれば仕事は文句を垂れながらもサボることはない。聞いていたほどグレている印象は無かった。
しかし主に対しての話し口は、いつまで経ってもどうにもぶっきらぼうなままである。
前の主の思い出を抱えたまま、今の主に対してどう振る舞うべきか決めかねているのかもしれないとは思っていたが、そういうことについて聞くなら今かもしれない、と思っての問いかけだった。

「何か……あの人、亡くなった父親が過ごしてた部屋使ってるんだろ」

不動は、首の後ろを丸めるみたいにして廊下の床に視線を落とし、ひそめた声を出した。

「ああ、そうだな」
「人って、匂いがあるよね」
「匂い?」
「人によって、汗の匂いだったり酒の匂いだったり、何か分かんないけど、花みたいな匂いだったり……」

刀だった頃は匂いなんて分からなかったけどさ、と拗ねた子どもの泣く寸前みたいな声で言ってから、不動は一度鼻をすすって、再び口を開いた。

「あの人、父親のこと好きだったんだよね」
「ああ」
「もういない好きな人の匂いが残るここへ来て、あの部屋で過ごしてるのは……何か、何ていうか……」

胸のうちで言葉を探しているのか、数秒押し黙った後、ぽつりと一言「強いなって思う」とだけこぼした。
それから、重たげに頭をもたげた不動は、ふいにこちらを見上げた。

「号ちゃんは? あの人のこと、どんな風に思ってる?」
「俺は……」

不動の答えを何となく意外に思っていた日本号は、唐突な問いに、自らの答えを探しあぐねた。
自分が投げかけた問いをおうむ返しにされてみて、ようやくその質問の曖昧さに気付く。どう思っているのか、などという問いは、どこをどう切り取った上で答えればいいのか検討もつかない。不明確極まりない。
しかし裏を返せば、自分の中ではすでに主という人間を一言で示すことが出来なくなっているということだ。
以前、浦島にも同じようなことを聞かれた時は、何となく「優しい」だとか一つの言葉で簡単に答えることができていた。

主のことを知っていけばいくほど、自分の気持ちについては分からなくなっているのかもしれなかった。

「……なんだろうなぁ」
「あはは、何それ」

最終的に、曖昧な答えでしか返せなかったが、しかし不動が主に対してわりと前向きな思いを明確に持っていたことに対しては、結構ほっとしていた。不動が明るく笑い飛ばしてくれたことにも、だ。

その後、次郎太刀の部屋に戻ってからはわりと気分よく飲めていたし、不動も次郎太刀もそれは同様のことだった。
その日、前の晩のような夢を見ることもなく、すんなり眠りにつくことが出来た。
良い酒を飲めたという気分の良さと、背中にあった温度のこと。その両方が手伝って、随分と優しい眠りに落ちたような気がした。



そうして、気持ち良く目覚められた翌朝のこと。

「ありがとうございます、日本号さん。三日月さんも! 私、ちょっと行ってきます!」

そう言って駆け出した主の背中を、何をするともなく三日月と共に見送った。
三日月がしみじみと「若者が元気なのはいいことだ」などと年寄りくさく呟くのを聞きながら、手に持っていた竹箒のてっぺんで手を組み、顎を乗せて体重を預ける。

「……どうするかね、あいつ」

何となく窄まったような声が出てしまったが、そんなことは気にも留めていないようなのんびりとした口調で「まぁ、なるようになるだろうさ」と返された。

「んなテキトーな」
「はっはっは、随分と心配しているのだな。日本号は優しい」

時々、三日月はこういうはっきりとした物言いをする。された側としては、どう反応するべきか何となく分かりかねて、行き場のないため息一つでごまかすことしか出来なくなる。
しかし、やはり三日月はこちらの様子はほとんど気に留めず、ゆったりと言葉を紡いだ。

「きっと大丈夫さ。俺たちはちゃんと、共に生きていける。そういう風に出来ている」
「へえ、断言するねぇ」
「そうなるように、前任は俺たちと共に生きてくれたのではないかと俺は思うぞ」

さて、と腰を伸ばし、三日月は再び箒を動かし始めた。
日本号は、石敷きの地面を見つめながら、前任と共に生きていた時間のことを思った。

刀剣男士は、数多の本丸で数多の個体が、それぞれの時間を過ごしている。元はただ一つの道具であったものらが、まるで異なる時を過ごし、個となっていく。
当たり前のことだが、今ここにいる俺はただ一人だ。
そして、それは主も前任も同じこと。二人とも、この世にただ一人の人間なのだ。
前任がいたから主がいる。
前任がいたから今の俺たちがある。
何気なく過ごしてきた時間の中で、間違いなく形成されてきた、人としての心の在り方。

鶴丸から受けた「主と仲が良いのは、主が前任の娘だからなのか」という問い。
答えは多分、ずっと目の前にあった。
前任の娘であるという揺るがしようのない歴史の一部まるごとが、みょうじなまえという人間なのだ。そこには何の後ろめたさもない。
いつか前任が言っていたことを、今さら思い出す。
「時間とは命そのものである」という、やたらと規模がデカい話を、前任からされたことがあった。
規模はデカいが、すんなりと腑に落ちる話だった。
生まれた瞬間から前任の娘として生き、その時間の中でみょうじなまえという人間が育ち、そして今はこの本丸で共に時を同じくしている。
そういう全てを見た上で、自分は主のことを好きなのかもしれない。その形はいまだ不明瞭だが、好きだという感情に嘘はないということだけが、雲ひとつない今日の空のように、クリアに見えてきていた。



朝飯の時間が主とも鶴丸とも被らなかったのは運が悪かった。
二人のことは気にかかったが、早々に首を突っ込むのは野暮だろう。昼にでも出直そうと決め、一旦部屋に戻ることにした。今日は出陣も遠征も内番もない、何とも気ままな非番の日である。
部屋に戻ると、すでに御手杵と蜻蛉切はいなくなっていた。御手杵は朝から出陣、蜻蛉切は馬当番と言っていたし、当分は戻ってこないのだろう。
一人でゆっくり飲みながら、主から借りている本でも読むか。
頭の中だけでぼんやりと呟きながら畳の上に腰を落ち着け、卓上に閉じたままになっていた本を手に取った。

それで何となく、昨晩の不動の言葉を思い出した。
確かに、人には匂いがある。
執務室は基本的に風通しが良いが、それでも20年ほどの時を経たなら多少古めかしいような匂いが残ってしまうのは仕方のないことだ。
あの部屋に昔からある本を開くと、そういうどこか懐かしくなるような、甘みのある香りがしてくる。

深い意味は全くなくて、じゃあ主が持っている新しい本はどういう匂いがするのか、という単純な興味本位だった。
古本に比べて随分と張りのある紙質を親指に感じながら、パラパラと数ページ捲った本に鼻先を近づけた。
その行為が他から見てどう見えるか、考えるべきだったのだ。

「えっ日本号……?」

口元を押さえながら顔を赤くした御手杵が、開けっぱなしになっていた部屋の障子戸の陰から顔を覗かせていた。

「え、お前出陣だっつってたろ……」
「いや、刀装忘れて取りに戻った……ていうか日本号、それ主から借りたっていう本だよな? 主の本の匂い嗅いで何を……?」
「ちっがうわ!! かくかくしかじかこういう訳だよ!!」
「なんだ、そういうことだったのかぁ」

匂いかあ、不動って結構繊細なとこ気づくよなぁ、などとのんびり語尾を伸ばす御手杵はすっかりいつもの調子に戻っている。

「俺はてっきり日本号が匂いフェチなのかと……」
「馬鹿言ってないでとっとと行け」
「おう、行ってくる!」
「おー頑張れよ」

手をヒラヒラさせてその背中を見送った後、はたと気づく。

「あ……? あいつ刀装取りにきたっつったくせに刀装持っていかないで行ったよな……?」

結局、早々に走り去った御手杵を刀装片手に追いかける羽目になった。自分のせいとはいえ散々な思いをしたが、こういう時に機動力が高いのは便利だな、などとどうでもいいことを考えた。
そんなこんなでバタバタしながらも無事御手杵に刀装を渡し、部屋に戻ろうとした矢先のことだった。

「おい、日本号」

長谷部が過ごす部屋の前を通りかかった時、運悪く気配を察知されたらしく「話がある」と呼び止められた。
非番だってのに面倒なことを押し付けられるんじゃ、と危惧したが、話があるという言い回しからしてそうでもないらしい。

「何だよ」
「とりあえず入れ」

何とも強引な言い回しだったが、しかし声色は何となく落ち着かないような調子だった。
訝しみながら部屋に足を踏み入れると、その途端に長谷部はすぐさま部屋の戸を閉めた。その動きの俊敏さに若干引きながらもとりあえず腰を下ろした。

「え、何お前……怖いんだけど。どうしたよ」
「だから話があると言っただろう」
「だぁから、話って何だよ。説教か?」
「せっ……きょうになるかはお前の返答次第だ」
「はあ?」

珍しく要領を得ない言い方を続ける長谷部に、訳もわからず片眉を吊り上げると、長谷部は目を閉じて一つ、大きく息を吐いた。
かと思うと、急に勢いよく顔を上げ、平手で机を叩いた。

「単刀直入に聞く」
「お、おお」
「お前、主のことを好いているのか」
「は」
「お前やたらと主のことを気にかけているだろう。俺が近侍だった間も毎日のように執務室に顔を出すわ、主と本の貸し借りまで始めるわ……」
「や、それはだな……」

目を据わらせたまま、じりじりと前のめりになってくる長谷部に気圧されながら、何か言わなくてはと考えを巡らせた。
しかし、主はこの件について積極的に周りに知られたがっていないらしいし、本当のことを馬鹿正直に話すなんてのはもってのほかだ。
だからといって、他にどういえば良い。こいつはあくまで「日本号のあんにゃろうは主に気があるんじゃあるまいな」とぎりぎりしているわけで、その点については今のところ肯定も否定もできない。何故ならば、その辺のことについてはまだ自分でもよく分かっていないからである。
そうやって黙っている間に、長谷部は急にスン、と姿勢を正し、口を開いた。

「やめておけ」

低く、意外にも静かで落ち着いた声だった。

「人と俺たちとではそもそもの性質が違いすぎる。お前も主の御父上のことでよく分かっただろう。俺たちは人と同じ時間を生きられない」
「だ〜待て待て、待てって。先走るなよ、まだ肯定も否定もしてねーだろうが」

今度はこっちが前のめりになる番だった。勝手に一人合点して話を先に進める長谷部を宥めすかすように語気を強めたが、長谷部は妙に落ち着き払い、真面目くさった顔で言葉を続けた。

「物と人とでは、流れる時間の速度が違う。特別な情を抱くならそれ相応の覚悟が必要になるぞ」

言うことはいちいちもっともだが、そんなことはとっくに何度も考えている。
他から言われなくとも、すでに何度も考えているし、そこについて考えることはどうしたって避けて通れないことだと、自分自身が嫌というほど分かっている。
うるせえなと悪態つこうとしたそばから、ため息まじりの長谷部が「お前が間違えるとは思わない」と、やけに柔らかい言葉を選んできたので、何となく気を削がれた。

「思わん……が、恋というのは人の情だろう。人の情は、特に恋だとか、そういう生物特有のものはままならんものだ」

思わず目を見開くと、長谷部は「何だ」と怪訝そうに目を据わらせた。いや、と首を振りながら、以前乱と話したことを思い出す。
前任も、長谷部と同じようなことを言っていたらしいということ。
こいつは、長谷部は、こいつ自身が思っている以上に、人の情というものに過敏であると思う。その形を理解しているか否かはさておき、そういう、血の通ったものに というか。
そういうことに気づいた途端、一気に肩の力が抜けていった。

「それで、どうなんだ結局」
「あ?」
「だから! 主を好いているのかという話だ!」
「ああ、それか」

軽い調子で返す。言い合う気力はすっかり抜け落ちていた。

「今は何も言えない」

嘘やごまかしを言う気は無くなっていた。が、やはり主の気持ちについては隠しておいてやりたいから、その辺りについては触れないでおくことにした。

「まだ何の答えも出せちゃいねえし、どうしていくべきなのかもまだ見通しが立ってねぇ」

言いながら、自分が結構不甲斐ない状況だということに気づかされていくような気がして、がっくりと首を前に倒した。それからため息まじりに「んっとに、ままならねぇよな……」とボヤいた。そういう事を言わなきゃやってられないような、道端の石を蹴る子供のような気分だった。

「……お前は」

黙ってこちらの言葉に耳を貸していた長谷部は、ややあってようやく口を開いた。

「いや、俺は……多分、ずっとお前を清濁併呑な奴だと思っていた。ここで再会した時からずっとだ」

それが気に入らないと思っていたこともある、といらん一言を付け加えて、何故か少し笑いまじりの声を上げた。

「だが、案外そうでもないのかもしれないな」
「あ? どーいう意味だそりゃ」
「意味はない、ただ少し嬉しくはある」

言葉通り、やたら弾んだ声を出すわけが分からず「はあ?」と首を真横に傾げた。

「俺も焼きがまわったのかもしれない」
「刀剣だけにってか? なに上手いこと言ってんだ」
「ふん。まぁ精々頑張れよ、悩める酔っ払い」

自分の中で勝手に話を完結させたらしい長谷部は、妙に清々しい顔で軽口を飛ばした。
結局勘違いはされたままなのだろうが、とりあえずはそれでも良いだろうと思って、余計なことは言わないことにした。

「あと、くれぐれも主を傷つけるような真似だけはしてくれるなよ」
「へいへい、わかってら」
「ならいい。話は以上だ」

勝手に呼び止めた挙句、勝手に話を終わらせた長谷部の部屋を後にしながら、他にもこの手の勘違いをしている輩がいるかもしれない可能性について考えようとしたが、すぐにやめた。
別にそういう奴がいたとして、今はそれでも構わないような気がしている。