『どれだけ自分を卑下しても苦しめても』

ほのかに暗い早朝、目が覚めていの一番になまえの頭に浮かんだのは、昨日日本号からもらった言葉だった。
よく似た言葉を、確かに以前、聞いたことがあった。
初めて本丸に来た日の夜だ。あの時もやっぱり同じように、似た言葉を日本号からもらった。そのことを、確かになまえは覚えている。

「日本号さんは、覚えてたのかな……」

誰もいない部屋で独り言ちながら、服に袖を通し襟元を整える。
中庭へと続く縁側から下駄をつっかけ、外に出た。生まれたてみたいに爽やかな空気で肺を満たしながら、本丸の玄関口を目指す。
会って話してみたい人が、そこにいるらしいのだ。

しばらく歩いて、ようやくその姿を見つけた。
本丸の門から玄関まで続く敷石の上を、箒で静かに掃く後ろ姿に声をかける。

「おはようございます、三日月さん」
「おや、今日は随分と早起きなのだなぁ」

三日月は箒を持つ手を止め、なまえと向き合った。
三日月は朝に掃除をするのが日課なのだと、事前に前田から聞いていた。今の時期なら門のあたりから玄関にかけての掃き掃除をしているはずだと教わったのだ。

「あの、毎日掃除してくださってるって、本当ですか?」
「ああ、日課のようなものだな」

口元に小さな笑みを浮かべながら、三日月は何でもないように頷いた。

「すみません、私いままで知らなかったです、三日月さんが掃除してくださっていたこと……」
「はは、よいよい。趣味のようなもの故な。それより、今こうして主と何気なく話をできていることが、俺は嬉しいぞ」

三日月の言葉に、前田の話を思い出す。
昔、三日月に顔を覗き込まれて父の後ろに隠れてしまったこと、三日月がそれを今も気にしていたということ。
ちょっとおかしくて、でもそういう小さなことを覚えていてくれたことが少しだけ嬉しいのは、何故だろう。

「あの、せっかくですし私にもお手伝いさせてください」

明るい声で言って、箒をもう一本持ってくるべく駆け出そうとしたなまえの肩に、三日月は軽く手を置いた。

「大丈夫だ。ほら、ちょうど助っ人が来てくれたぞ」
「助っ人?」

三日月が指差すほうを振り返ると、その先では日本号が箒を片手に固まっていた。
未確認生物に遭遇しちまった、みたいな顔をして、地面に足が吸いついているかのように動かない。
日本号の様子に、なまえは首を傾げた。昨日から、どうも日本号は様子がおかしいような気がしている。
そういう日本号の姿を見てか、三日月は小さく声を上げて笑った。

「はっはっは、日本号は何をしているのだろうなぁ」
「さあ……え、というか、ひょっとして日本号さんも毎朝お掃除されてるんですか……?」
「いや、いつもでは無いぞ。気が向いた時にな。たまーに来て、手伝ってくれているんだ」
「そうなんですか……」

三日月と言葉を交わしている間にようやく動き出した日本号は、少し気まずそうな感じで二人の元へやってきた。

「おはよう日本号、今日は早いのだなぁ」
「ああ、まあ……なんとなく早くに目が覚めちまってな」
「昨日はあの後、飲み会はしなかったんですか?」
「いや、酒は飲んだ。深酒はしなかったけどな」

そうなんですか、と小さく返すと、日本号は何か言いたげに口を開いたまま、こちらの顔をじっと見る。
ややあって、その口からは出てきたのは「あんた、大丈夫か?」という一言。
何が、と言われずとも、昨日のことを言っているのだと分かる。

「大丈夫……かどうかは、分からないです」

でも、と付け加えて、なまえは言葉を続けた。

「日本号さんがくれた言葉は、本当に嬉しかったんです。何かが解決するような言葉じゃなくても」

日本号が「なんの解決にもならない」と言った言葉が、それでも嬉しかったという気持ちは紛れもなく本物だ。
それだけはどうしても伝えておきたかった。

「ああ、その話の続きにはなるんだがな」

日本号は頭の後ろに手をやりながら一つ息を吐いて、それから静かに言葉を続けた。

「言われなきゃ気づけない、なんてのは当たり前のことだ。言葉にしなくても分かるなんてのは、そうそうできるもんじゃねえ」
「そう、ですよね……」
「けどな、だからこそ、ちゃんと伝えられるあんたは強い」

語気を強め、なまえの目をしっかりと見据えたまま、日本号はきっぱりと言い切った。「それが言いたかったんだ」と、日本号は表情を柔らかく緩めた。

ちゃんと伝えられる。そうだろうか。
本丸に来てからこれまでのことを思い返してみれば、確かにそうかもしれなかった。小細工が苦手で、どれだけ取り繕おうとしてみても結局は真っ向から伝えることでしか、自分の中の何かを相手に伝えることは出来なかった。
不安を溢してしまった夜。日本号さんへの告白。
そうだとしたら、私が今鶴丸さんに伝えたいことは、伝えなくてはならないことは、何なのだろうか。

「主、鶴丸のことなら大丈夫だ」

流れでなんとなく察したのか、三日月ははっきりとその名を出した。

「あれも、あれの感情に気付けなかった俺たちも、まだまだ未熟ということだ。けれど鶴丸とて主を嫌っているわけではない。だから大丈夫だ」

口の端をゆるく上げながら、三日月はなまえに柔らかい視線を向けた。

「嫌いが高じて好きになることもあれば、好きが高じて嫌いになることもある。愛というものに一定の形はない。鶴丸の場合、何かに対して怒り、悲しみ続けることが、前任への愛の形となっている」

言い切った後、三日月は不意にぱっと顔を明るくして「の、かもしれないなぁ」とのんびり言葉を続けた。
怒りや悲しみが愛、というのには、なまえにも覚えがある気がした。自分の中で思い当たるより先に、日本号が口を開いた。

「あんたもここに来たばっかりの時は自分自身に、あれは……怒っていた、よな? あれだって、父親を想う故の感情だった……ように、俺には見えた」
「え、それって……私がここに来た初日の」
「ああ、夜に会ったよな。眠れずにいたあんたと」

至極当然とでもいうようにアッサリと返ってきた言葉に、なまえは目を見開いた。

「覚えてたんですか?」
「ああ……あー、イヤ待っ……昨日言ったアレは別にその時のアレを意識したわけではなくてだな……」
「日本号よ、アレばかりで訳が分からなくなっているぞ」

声を上げて笑う三日月が律儀にツッコむのを横目に、なまえは泣きたくなるくらいの嬉しさで、胸の内がふつふつと暖かくなるのを感じていた。
覚えていてくれた。
あの夜のことを、日本号さんが。
昔、ここへ来た時の私のことを、三日月さんも。
覚えていてくれたのだ。

「ありがとうございます、日本号さん。三日月さんも! 私、ちょっと行ってきます!」

体を勢いよく半回転させて、そのまま石敷きの地面を蹴った。

多分、鶴丸さんはあの場所にいるはずだ。
厩の裏の、ひっそりとした美しい景色の中に。一面に咲く青の中、海の波の中で生まれた白い泡みたいに、行き場もなく、気持ちの持っていくべきところも見つけられず。
徐々に登り始めた太陽の光が、瓦屋根を照らすのが眩しくなってきた。もう、明るい初夏の朝がやって来ている。
弾んだ息を整えるように、澄んだ空気を鼻から吸っては吐いてを繰り返して、厩の脇の暗がりを通り抜ける。

そこに、やっぱり鶴丸さんはいた。

「鶴丸さん」

丸めた背をこちらに向けてしゃがみ込む鶴丸の背に呼び掛ければ、鶴丸は首だけでこちらを振り向いた。

「あの、私……」
「おはよう」
「え、あ、はい。おはようございます……」

言葉を遮られたものの、そこに悪意は感じられなかった。
そもそも、挨拶もそこそこに勝手に話し始めようとしたこちらが不躾だったので、それは構わない。構わないし、形式的な挨拶だろうと向こうから言葉をくれたことに、素直に喜んでしまいそうになる。
鶴丸は、膝に置いていた手に力を入れ、「よっと」と声を上げながら立ち上がり、今度こそ体ごとこちらを振り返った。

「きみには悪いことをしたな、随分と仕事をほっぽった」
「いえ、そんなことは」
「きみと普通に話せていることに、案外ほっとしてる」

時間を置いて、少し頭が冷えたのかもしれないな。
小さく呟くように言葉を溢して、鶴丸は静かに目を伏せた。

「普通に話すことで、きみを許せているような気になれているのかもしれないな……許すも何も、きみは何も悪くないんだけどな」

こちらに向けているようでいて、鶴丸が鶴丸自身に言い聞かせているみたいな言い方にも聞こえる。

「きみを許すことで、自分も解放してやれたような気になってるのかもなぁ」
「……それで鶴丸さんの気持ちが楽になるなら、そうして欲しい」

別に許されたいわけでもない。無理やりに何かを許す必要なんてない。
でも、そうすることで、少しずつでも複雑に入り組んだ感情一つ一つが解れていくのなら。きっとそれが、私たちが生きていくための一つの手段となり得るのだろうから。

「その代わりに……私は鶴丸さんが怒ってたこと、ちゃんと覚えておきます」
「お、驚いた……ひょっとして根にもつタイプか……?」
「あ、イヤそーじゃなくて!」

若干引いたような、引きつった笑みを浮かべる鶴丸の言葉に、慌てて首をぶんぶん横に振った。

「鶴丸さんが私を許すことで少しでも楽になれるなら、私が代わりに覚えておきます。鶴丸さんが抱えてた気持ちのこと」
「そいつは……どうしてだ?」
「鶴丸さんは父のために怒っていてくれたんですよね」

金色の瞳が、ほん少しだけ揺らいだ気がした。

「そういうの全部、生きていくために仕方なく忘れるなんて癪じゃないですか。
忘れたら、無いのと同じことになっちゃうんです、全部。辛かったことも、怒ってたことも、泣きたかったことも。そういう痛い気持ちはもちろん、嬉しかったことも、楽しかったことも」

人間は生きていくために忘れるしかない生き物。
それはものすごく悲しい事実だ。忘れたら、全てが無かったことになる。
だからなのだろう、誰かが自分の何かを覚えていてくれるということが、こんなにも嬉しいのは。
時に、いなくなってしまった人は、止まることなく進んでいく時間の中、誰かの記憶の中で生きていることがある。
時に、消化されたと思っていた感情が、誰かの頭の中で記憶として生きて続けていることがある。
そういう誰かの記憶に救われながら、多分人は忘却を繰り返して、それでも前へ前へと足を踏み出しながら生きていくのだと気付くことができた。
それは父を、私を覚えていてくれた、この本丸のみんなのおかげだ。

「父を大切に思ってくださって、ありがとうございます。だから私、ちゃんと覚えておきます。ずっと」

いつだって、何かを伝えるのは怖い。それでも伝えなければならない言葉があるのだと、汗ばんだ手のひらを握り込んで、ようやく言い切ることができた。
鶴丸は、首をがっくりと後ろへ倒すようにして天を仰いだ。

「……負けた」
「え?」
「年寄りとして負けた気分だ」
「え、何かそれは嬉しくない……」
「あはは、すまんすまん」

涼しげな笑い声を上げた鶴丸は、両腕を天に向けて思い切り伸ばし、それから大量の二酸化炭素を一気に吐き出した。

「俺も、怒ったり悲しんだり以外の手段を見つけていかなきゃならんなあ」
「手段?」
「あの人を好きだったってことを忘れずに生きていくための手段さ」

鶴丸は意外なほどに軽い口調でそう言って、花畑に視線を落としながら「今日でサボりは終わりだ」とささやくように呟いた。

「きみ、朝餉はもう食べたのかい?」
「いえ、まだです」
「そうか、じゃあ先に行っててくれ」

何となく気恥ずかしくて、一緒に行かないんですか、とも言えず、「やることがある」という鶴丸を残してその場を後にした。

多分、何かが明確に変わったわけではない。
そう簡単に変わるものなんて、この世にはそう無いものだと分かっている。
殊更に、抱え切れないほど膨大な感情というのは一生消えてくれないことすらある。
それでも生きていきたいと思えた時、人は少しずつでも前を向けるようになる。消えてくれない気持ちを抱えたままでも生きていける何かを、誰かから受け取ったりしながら。
鶴丸さんも、そうであれば良いと思うけれど、それは分からない。

「あ、そもそも人じゃないんだった……」

まあいいか。
廊下にそんなひとり言をこぼしながら、どこからともなく香ってくる味噌汁の香りに導かれるみたいにして、広間へ向かった。

朝食後、なまえは陸奥守に事の次第を軽く話し、今日から仕事の方は大丈夫だからと伝えた。
終始黙って聞いていた陸奥守は、なまえが一通り話し終えるのを待ってから、豪快に笑い声を上げながら思い切りなまえの頭を撫でくりまわし、それから嵐のようにゴキゲンに去っていった。

執務室に戻ると、しゃがみ込んでなまえの本棚を覗き込んでいた鶴丸がこちらを振り仰いだ。

「きみ、漫画とか読むんだなぁ」
「はい、それなりに……」
「そうか」

何となく、どういうことを話すべきか考えあぐねて途切れてしまう言葉がもどかしい。とりあえず今日やる仕事をざっと確認でもしようかと机に向かう。
その机の上に、ネモフィラの花が生けられた、ガラスの一輪挿しが置いてあった。

「これは……」
「ああ、もう花の盛りが過ぎそうだったんでなぁ。せっかくだから一輪持ってくるのも悪くないだろう」

少しの曇りもなく透き通る一輪挿しを手に取って、縁側からさんさんと差し込む朝日に透かしてみた。
一輪挿しの中で揺れる水面に光の波が立つ。青い花びらの端は柔らかく光っている。

「ありがとうございます……綺麗です、とても」
「驚いたかい?」
「はい、とても」
「そりゃ良かった」

に、と歯を見せて笑う鶴丸を前にして、今更ちょっとだけ泣きそうな気持ちになった。
小さな一輪挿しの中で懸命に咲く花はとても綺麗だけど、どうやら花畑の見頃は過ぎていってしまうらしい。

いつか、花が満開の真っ盛りの中で、今日のことを話せたらいい。
そういうことを何でもないように話せるようになれたらいい。
そんなわがままを願いながら、暑くて長い夏を予感させるような、初夏の一日が幕を開けた。