ここの主としてやってきた初日のことを、なまえは今でも鮮明に思い出せる。
あの日、自分の選択が間違っているような気がして、自分を嫌いになりそうで。眠れずに、水でも飲もうかと朧げな記憶を頼りに厨を目指していた。
その先に、日本号がいた。
自分の胸のうちそのままを映したかのような、果ての見えなかった暗がりの廊下。その先にあった、何もかもを受け止められそうなくらい大きな影。柔らかな言葉に、頭のてっぺんから足の先までもが温かくほぐれていくような、優しい感覚。
あの日のことをこれほど鮮明に覚えているのは、きっと自分だけだと思う。それでも構わない。
今は、とにかくまた日本号さんに話を聞きたい。鶴丸さんと同時期に顕現して、長くここにいる日本号さんにも、話を聞きたい。
そういう想いに駆られて、もはや長く住んだ家のように慣れ親しんだ本丸の廊下を軋ませた。

「あれ、不動くん」

内縁の回廊をきょろきょろと見回しながら歩いていたなまえの前に、先の曲がり角から姿を現したのは不動行光だった。
不動行光はなまえにとって、この本丸で初めて自らが顕現した短刀である。
初めましての頃に比べればそこそこ距離は縮まっているとは思う。が、自分が主として信頼されているのか、それは未だに分からない。

「何してんだよ」

なまえの元までやってきた不動は一旦足を止め、怪訝そうに眉をしかめた。こんな時間に何してんだ、と言われずとも聞こえてくるようだ。

「ちょっと、日本号さんを探してて……」
「号ちゃん? 号ちゃんなら次郎ちゃんのとこにいるぞ」
「次郎ちゃんのところ? そっか、お酒だね」
「そ。3振りでな」

短く返事をした不動は、そのまま歩き出しながら「俺も今から合流するから、一緒に来てもいいぞ」と言い添えた。ぶっきらぼうな物言いだが、歩調は随分ゆっくりだ。

「うん、ありがとう」

先に歩き出した不動を早足で追いかけて、その隣を歩いた。

「あ、そうだ。あのね、近侍なんだけど、6月は三日月さんにお願いして、7月は不動くんにお願いできないかと思ってるんだけど、いいかな」
「はあ? なんだよ、藪から棒な話だなあ」
「ご、ごめん……だめかな」
「別に……主の命令なら俺たちは従うしかないだろ」

不動の言葉に、なまえは返事に窮して、代わりに意味もなく小さく頷いた。
鶴丸の件があってから、自分が刀剣男士たちにどう振る舞うべきか、迷いが生じているのも確かだった。



「あっれ〜不動ちゃん! 主も連れてきてくれたんだあ!」

不動が戸を引いた途端、次郎太刀は目を輝かせながら勢いよく立ち上がった。

「うん、拾った」
「拾ったて」

不動の物言いに律儀にツッコむなまえの肩を軽く叩きながら、次郎太刀は部屋の中へ入るよう促した。
ふと、日本号がこちらを見上げていることに気づいた。杯を口元に持っていったままの格好で、幽霊でも見たかのような顔をしている。
何もそんなに驚かなくてもと内心で首を傾げながら、なまえはいつも通りタンクトップにツナギというラフな格好をした日本号のそばに腰を下ろした。

「あ、あの……日本号さんにちょっとお話がありまして」
「え〜、話ならここでしていきなよ! 美味しいお酒あるよ〜次郎太刀チョイスの最っ高の酒! ね!」
「え、あ、あの」

次郎太刀の勢いに負けて言い淀むなまえの横では、不動が「次郎ちゃん甘酒ある?」と楽しげな声を上げている。
もう、そういう流れが出来上がってきていて、それをぶった斬るのも野暮なような気がしてきた。

「あっそーだ、アタシ特製の甘酒作って冷蔵庫に冷やしてあるんだ! ちょっくら取りに行ってくるわ!」
「あーいいよ、俺が行く。どーせ甘酒飲むの俺だけだろうし」

次郎太刀の「悪いね〜」という明るい声を受けて、部屋を出て行こうとした不動は、不意になまえを振り返った。

「いるか? 甘酒」
「あ、えーと……うん、頂こうかな」
「ん」

口を真一文字に結んだまま部屋の戸を閉めた不動は、そのまま駆けていってしまった。

「じゃー待ってる間に用意しちゃおーか! ねっ!」

次郎太刀は、主の好きそうな酒出すから! と張り切って押し入れを開けた。
樽やら瓶やら、どう見ても酒しか入っていない、酒でぎゅうぎゅう詰めな押し入れというヤバさ全開な光景に目を疑っていると、左の耳にこっそりと耳打ちされて両肩が跳ね上がった。
日本号だ。

「で、話ってのは」
「あ、いえ……それは、後で大丈夫です」

どこから出てきたのか、いつの間にか目の前に用意されていたらしい杯を手に取り、指先で弄びながら愛想笑いで誤魔化した。
もう、そういう複雑な話を切り出す空気ではなくなっている。
また今度、改めて話をするでも構わない。こういう、みんなのプライベートな席を邪魔するのは悪いし、次郎太刀の明るさは見ていて気持ちが晴れる。
一時でも、こういう時間を過ごしてもいいんじゃないか、などと甘えた気持ちが湧いてきてしまっていた。

「主」
「はい、何ですか?」

呼ばれて、返事をしながら何の気無しに日本号のほうを見た。
しかし、それきり日本号は一言も喋らずに、ただこちらを見ている。口を開こうともせず、ただじっとこちらを見ていた。
間近にある紫色の瞳に捕まって、頭のてっぺんに大漁のはてなを浮かべるばかりのなまえの様子を見てか、何故か柔らかく目を細めている。
訳が分からない。
意図が分からず混乱したまま、なまえはその視線から何とか逃げようとした。しかし、油をさしていないロボットばりにぎこちないなまえの動きを追いかけるように、日本号はこちらの視界に入ろうとしてくる。
え、面白がってる? 訳が分からない。次郎太刀が酒選びに夢中で、こちらの様子に気づいていないのは幸いだった。しかし訳が分からない。
「な、何ですか……」と消え入りそうな声を絞り出したのを合図にするみたいに、日本号が声を張った。

「次郎ちゃん、主がもう酔っ払った」
「はい!?」
「ええ、何でさ!? ウワーッ顔赤!」

こちらを指差しながら、いけしゃあしゃあととんでもないことを言う日本号の横で、なまえは視線を日本号と次郎太刀の間でいったりきたりさせた。
振り返った次郎太刀は、目が飛び出さん勢いでぎょっとしている。

「いや、酔ってない! 酔ってないです!」
「そういうこと言う子ほど酔ってるもんなんだからぁ〜! ちょっともう、日本号ったら何飲ませたのさ!」
「いや、主には強かったみたいだな。悪い」

いや何も呑んでないんですけど。
いっそ腹が立つくらい何事も無かったかのような顔をしている日本号は「あんたはもう部屋戻りな」と呆れたような声色で言ってのけた。誰のせいだと思ってるんだ。

「送るぜ、ほれ」

言いながら、日本号は背中をこちらに向けた。つまり「背負っていってやる」と、そういうことだろうか。
多分こちらの話を聞くために、わざとこういう芝居を打ってくれている。
それは本当に嬉しいし、ありがたい。分かってはいても、文字通りおんぶに抱っこでは流石に申し訳なくて、両の手のひらをぶんぶんと横に振った。

「いいですいいです、大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ〜、お言葉に甘えときなよ主! 途中でぶっ倒れちゃったら洒落になんないでしょーが!」
「そうだぞ主」

ほとんど二振りに押し切られる形で、結局日本号の背中にお世話になることになってしまった。
体をぺったりくっつけすぎたりしないように、肩に掴まるような体制をつくった。

「主〜、心配だしアタシも行くよぉ?」
「あーいや、不動が戻ってくるだろうし。次郎太刀は待っててやってくれ。俺も主運んだらすぐ戻ってくるわ」

次郎太刀の心遣いを受けたなまえが口を開くより先に、さっさと返事を返した日本号は、軽々と立ち上がって戸を開けた。
「後でお酒の飲み方教えたげるからね!」と眉を寄せる次郎太刀に、なまえは日本号の背中の上で引きつった笑顔で手を振り、部屋を後にした。

部屋を一歩出てみれば、廊下は随分ひっそりとしていた。
寝静まっているのか、全くの無音な部屋もあれば、小さな話し声が漏れ聞こえてくる部屋もある。
けれど、どの部屋もきちんと戸を閉めていて、日本号と、背負われたままのなまえ、二人きりの廊下は、世界がきっちりと切り離されている感じがあった。
なんとなく口を開けずにしばらく経った頃、日本号が先に口を開いた。

「あんたは……」

言い難いことを口にしようとしているのか、少し間が空いた。
背負われている上、体を密着させないようにしているので表情が見えにくいのが不安を助長した。
まさか、重いとでも言われたら、などと勝手に想像して冷や汗をかいたが、実際に続いた言葉は「軽いな」という真逆の言葉で、胸を撫で下ろした。

「そう、ですか?」
「ああ、前任と比べて」
「そりゃ父に比べたらそーでしょう」

がく、と片方の肩を落としながら雑な返事をしてしまった。
あれ、というか。

「父のことも背負ったことあるんですか?」
「ああ、一度だけ」
「それは、とんだご迷惑を……」

どういうシチュエーションかは分からないが、酔っ払った父が面倒をかけたのなら、現状と足して二重に申し訳ない。尻すぼみになりながら謝ると、短く「いや」とだけ返ってきた。

「で、話って何なんだ?」

あんまりにもさらりと聞かれて、拍子抜けした。さっき部屋で起きたことなど何も無かったみたいな口ぶりだ。
泣きそうになりながら、いまだに治まらない顔の熱が伝わってしまわないよう、意識して体を離し気味にした。

「いや、というか酷いじゃないですか……人のこと酔っ払い扱いして。横暴すぎますよ」
「ははは」
「はははて」
「悪かった。でも、何かあるんだろ」

日本号の声が、気持ち低くなった気がした。
もう、こちらが何の話をしに来たのか分かっているのかもしれない。
薄く息を吸って、胸の奥にしまいかけていた問いを吐き出した。

「日本号さんは知ってたんですか」
「何を」
「鶴丸さんの気持ち」

自分が思っていたより随分と湿っぽい声になってしまって、少し焦った。

「知ってた……とも言えない」

どうにも煮え切らない答えは、それでもなんとなく納得できた。

「ただ、鶴丸が一番気持ちの収めどころを見失ってるらしいってのは何となく分かってた」
「気持ちの収めどころ……」
「そういうのは誰にだって必要なもんだろう」

自室にたどり着き、日本号が戸を引いた。頭を打たないように気を遣ってか、十分に腰を低くしながら鴨居の下をくぐってくれた。
そういえば、本当に酔っ払っている訳でもないのに、なんだかんだ部屋の中までずっと背負われてきてしまった。
「すみません」と小さく謝りながら、部屋の中ほどで降ろしてもらった。なまえが降りやすいよう、しゃがんでくれた日本号の背中から離れて、そのまま畳の上で力なく座り込む。

「……他のみんなは、知ってたんでしょうか」

日本号は、ぺたりと座り込んだなまえを振り返り、目線を合わせるように膝をついた。

「私だけ……知らなかったんでしょうか」

長谷部の気遣い、前田の話し口、日本号の優しさ。
そういう中で、自分の無知が悲しかった。

「私だけ気付けなかったんでしょうか」

自分が情けなかった。不甲斐なさで、目の奥が熱を持つ。

「どうしていつも、大事なこと、言われなきゃ気づけないんだろう……」

電気もつけずにいる暗がりの部屋の中で、姿の見えない闇に押しつぶされそうになって、たまらず首を垂れた。両腕をつっかえ棒代わりにして、畳の上に雪崩れ込みたくなる気持ちをなんとかこらえる。

父のことだって、そうだった。日本号に言われて、ようやく気づくことができたのだ。
今回の件だって、直面するまで気づくことは出来なかった。この本丸の主として、鶴丸国永の主として、一番に気づくべきは間違いなく自分だった。

「あんたが……どれだけ自分を卑下しても苦しめても」

柔らかい感触の言葉が、頭の上に優しく落ちてくる。

「俺はあんたを嫌いにはならねえよ」

温かな体温を感じるほどの優しい声に、ゆっくりと顔を上げる。
日本号が、すぐそばでこちらを覗きこんでいた。
薄い唇は緩い弧を描いていて、目は細められているのに、ある種の必死さすら感じるような眼差しを真正面から浴びてしまった。
鼻筋がしっかり通った男らしい顔が思いがけないほどに優しくて、面食らう。静かな夜の底で光る星を見つけたような気持ちになって、思わず瞬きをした。その拍子に一粒だけ流れた涙を、慌てて指で拭う。

「……ん? いや待て、今のは……」

何事かにハッとしたらしい日本号は、眉間に大袈裟なくらい皺を寄せた。

「今のは……何の解決にもならねぇな……」
「へ? いえ、そんなことは」
「いやだから、つまり俺が言いたかったのは」
「え、号ちゃん……?」

日本号となまえ、ほぼ同時に声のほうを振り仰いだ。
いつもの甘酒ではなくコップを一つ持った不動が、部屋の入り口で棒立ちになっている。
眉でキレイな八の字を作った不動は、唇を震わせながらおそるおそる口を開いた。
涙が跡にならないように、目元を手の甲で拭いていたのがいけなかった。

「え、泣い……え? 号ちゃんが?」

日本号は触覚みたいな髪の毛を忙しくひょこひょこさせながら首をぶんぶん横に振った。

「違ぇ違え! ん、あれ? 違うよな?」

顔中が沸騰するみたいに熱くなるのを感じながら、日本号の言葉に何度も頷いた。

「な、泣いてない! 泣いてないです、ごめんなさい!」
「……そうかよ」

なまえの言葉に納得したのか、不動はようやく肩の力を抜いた。不動はしゃがみこみながら「水持ってきた」と、なまえにコップを差し出した。
甘酒を飲むと伝えたくせに、こういうことになったのが申し訳なかった。けれど、わざわざ水を持ってきてくれた不動の優しさが身に染みて、勝手なことと分かっていながら思わず顔がほころぶ。

「ありがとう、不動くん」
「別に……あとこれ、冷えピタ」
「冷えピタ?」
「次郎ちゃんが持ってけって」
「そっか、ありがとう」
「俺じゃなくて次郎ちゃんに言えよ」

後頭部をがしがしと掻きながら、不動はなまえの視線から逃げるように目をそらした。

不動と合流した日本号は、そのまま不動とともになまえの部屋を後にした。

何かに気づけそうな気がしている。けれどまだ、その「何か」が掴めずにいる。
なまえは自分の頬を手のひらで叩いた。小気味良い音が鳴った拍子に、涙が目の奥に引っ込んでいく。

「顔、洗おう」

気合を入れるように独り言ちながら、膝に手を当てて立ち上がる。
涙の跡を洗い流して迎える明日は、きっと少しだけ優しいはずだから。