・三日月の手拭いと日本号の手拭いをすり替える
・主の寝室の天井にこっそり蓄光の星の飾りをひっつける
・主の使っている赤と青のボールペンの芯を入れ替える
・一輪挿しに飾っている花に作り物の虫を仕掛ける
・何でもない日に意味もなくくす玉を仕掛ける

「何だよコレ」
「あっ、おいおい勝手に見るなよ〜」

二十年は前になるのだろうか。
日の高い正午の執務室でのことだった。

鶴丸が、主のそばで腹這いになりながら、小さなメモ帳にこそこそと何事か記しているのを、日本号は背中から覗き込んだ。
へらへらと笑いまじりに語尾を間延びさせながら、鶴丸は白い手でメモ帳を隠した。

「どう見てもアレだろ、驚きってやつだろ、お前さんお得意の」
「きみネタバレ肯定派か? 参ったな、それじゃあきみに驚きをもたらす事ができないじゃないか。ネタバレなんてサプライズにゃ最大の敵だぜ」
「いらねーっての。つーか飯だ、昼飯。主も」
「ああ、うん。ありがとう」

それにしても、と呟きながら、主は鶴丸が指先できっちり折り畳んだメモ用紙をその頭越しにしげしげ眺めながら、感心したような声をあげた。

「鶴丸はなんというか、いつも一生懸命だなあ」
「はは、褒めても何も……ああイヤ、驚きしか出ないぜ」
「あんまり調子いいこと言うとエスカレートするかもしれねえぞ」

日本号のツッコミを軽く笑い飛ばしながら、主はどっこいしょと年寄りくさい感じで腰を上げた。

「人を傷つけない驚きなら良いものだと思うよ、面白くて」
「お、話が分かるねぇ」

嬉しげに弾む鶴丸の声に、前任は「でも」と言葉を重ねた。

「結果、誰かを傷つけちゃうとそれはサプライズじゃなくてただの意地悪になるからなぁ。それだけは気をつけよう」
「そりゃそーだ、サプライズってやつの基本だよなあ。約束するさ、殺伐とした驚きは驚きであって驚きじゃない」

主の言葉に頷きながら、自分がもたらす驚きというもの全てが、誰かにとっての喜びとなればいいと、鶴丸国永は確かに思っていたはずだった。



鶴丸は、まあこういう性格もあってか、よく屋根の上によじ登っては寝転がったり誰かを驚かせたりしていた。
屋根の上はいい。簡単には誰かが登ってきたりしないし、長谷部あたりに見つかると怒られはするが、何事かを一人で思案するのにちょうどいいのだ。

近侍初日、結局執務室には行かないまま夜を迎えた。つまりはサボりだ。誰も咎めにやってこないのは、気を遣われているのか、それともあの子がそうさせているのか。
そういえば、あの子がやってきた日から一度も執務室へは行っていなかった。
うすぼんやりとした夜空に弱く光る星々が、いくつか散らばるばかりの夜だった。西の空に輝いている金星も、多分あと幾日かで見えなくなる。

「きらきら光る、おそらの星よー♪」

人が死んだら星になる、という話を作り出した人間は、優しいんだろう。あれだけ美しい星になれるのならと、誰にでも訪れるそれが少しでも恐ろしくないようにと、願ったのかもしれないから。

「まばたきしては、みんなを見てるー♪」

だけど、あんまり残酷じゃあないか。
星は夜に光り輝くが、昼間だって、見えないだけでいつも空にある。
空から、遺してきたものらを見ている。
優しいようで、苦しいことだ。
自分が約束を違えたことを、見られてしまったことになる。

なあ、俺はきみと約束したことを守れなかったよ。だけどもう、怒ってすらくれないんだなあ。
分かっているよ。死は死でしかない。人は無に還るんだ。星になんかならないさ。
分かっているよ。人は無に還るが、必ず何かを遺していく。生まれて、死んでいく中で、確かなものを、万人が。
きみが遺したのは、あの子だ。
分かっているんだ、じゃなきゃあの子が今生きていない。
あの子の中に流れる血が羨ましいだとか、酷いもんだ。あの子だって、きみと、父親と過ごす時間を俺たちに奪われている。お互いさまだ。
なのに、俺ばかりが無い物ねだりしているのが惨めで、意地悪をした。
なあ、俺はどうするべきだろう。
どうしていつも、何もかもがままならないんだろう。

「きらきら光る、おそらの星よー……」

何も答えやしない星は、しばらくすると雲に隠れて、少しも見えなくなった。



鶴丸に言われて執務室に戻ったなまえは、いつも仕事で使っている文机の上から書類やらパソコンやらを畳の上にどさどさと下ろして、そこに顔を突っ伏した。
泣くのは絶対に駄目だと分かっていたから、勝手に出てくる涙は服の袖に染み込ませて、顔に跡がつかないようにした。鶴丸が来た時、泣き顔を見られたくはなかった。
あの場で泣くのも、ましてや謝ったりすることだけは何としてもしてはいけないと、そればかりに必死だった。
けれど、顔を伏せて冷静に思い返してみれば、あそこで泣いたり喚いたりしたほうが、鶴丸にとってはよっぽど良かったのかもしれない。
ムカつくやつが冷静でいればいるほど腹が立つことだってある。いっそ、イヤな奴を演じたほうが良かったのだろうか。
けれど、そんな打算の含んだ芝居をされたら余計に腹が立つだろう。
もう分からない。何が正解なのかなんて、ショートしてそのまま爆発しそうな脳みそでは、まるで分からない。

分からないなりに一つだけ確かなのは、鶴丸国永は自分の父を大層愛していたらしいということ。
だから、「ありがとうございます」の言葉だけは絶対に正しかったと、それだけは自分の中で曲げてはいけないような気がしている。
だからどう、という話ではないけれど。
そうしてなまえは、感情がだだ漏れるままに結局どこにも辿り着けない堂々巡りを繰り返しながら鶴丸が来るのを待った。

けれど結局、鶴丸は来なかった。
処刑の下される罪人のような心地で座していたが、部屋に戻って数十分が経ち、やってきたのは長谷部だった。
「鶴丸は来ていないのですか」と問う長谷部は困り汗をかきながらも表情は落ち着いたもので、想定の範囲内のことだったのだろう。しかし先程起きた事の顛末までは知るはずもない。
説明すべきかすまいか悩んだ挙句、結局小さく頷くだけに留めた。なんとなく、あの時のことをペラペラ喋るのは憚られる。
結局、そのまま臨時で長谷部が仕事を手伝うことになった。月初は月初で、政府への報告事項をまとめたり、当面の出陣予定に合わせて内番を組んだりとそれなりにやることはある。

一日の終わりに、長谷部は鶴丸について「俺からももう一度、きちんと話をしておきます」とだけ言ったが、なまえは首を横に振った。

「大丈夫です。ちょっとだけ、自分で考えさせてくれませんか」

そう言えば、主命と受け取ったのか、はたまた最初からなまえがそう言う選択をするだろうと予想していたのか、静かに目を伏せ、深々と腰を曲げた。
長谷部が去っていった部屋の中で一人、畳の上に寝転がってみる。暗い天井を眺めながら、なまえは今朝に比べて静かすぎるくらいにクールダウンした頭でもって考えた。

ひょっとしたら、鶴丸のような刀が他にもいるのかもしれない。
当たり前のことだ。逆に、どうして今まで不安に思うことが無かったのか滑稽なくらい、当たり前のこと。
取り返しのつかない喪失がそういうものであると、自分自身も思い知っていたはずだった。
けれど、いざ改めて自分以外のものからそういう感情を突きつけられると、怯んでしまって何も出来なくなった。

「弱いなぁ……」

意味なくぼやきながら、ずるずると布団まで這っていって、掛け布団に潜り込んだ。あれこれ考えているうちに、気づけばそのまま眠りに落ちていた。



次の日の朝、誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。
浅い水の中にあった意識がゆらゆらと水面に呼び起こされていくような感覚に任せて、瞼をゆっくり持ち上げる。

「主君、大丈夫ですか、主君?」
「あれ、前田くん?」

布団を頭から被ったまま眠りこけていたなまえを起こしたのは、前田藤四郎の声だった。
飛び起きて、時計を確認すると短い針が8を少しだけ追い越している。いつもより遅い時間の起床だった。
そういえば、目覚ましをかけ忘れていた。

「ご、ごめん! もう起きます!」
「ああ、すみません驚かせてしまって! 急がなくても大丈夫ですよ、遠征の見送りには十分間に合いますし、朝餉は逃げませんので!」
「あああ、寝坊なんて、ここに来てから初めてだ……」

枕もとに置いてある櫛で髪を撫でつけながら呻くなまえを前に、前田は少しだけ重たげに上唇を持ち上げた。

「あの、実は僕……鶴丸さんに頼まれてここへ来たんです」

バタバタと身支度を整えようとするなまえは、前田の言葉にぎくりとして動きを止めた。

「主君を起こしに行くよう頼まれたのです、僕もどうするべきか悩んだのですが……」
「そっか……鶴丸さん、何か言ってた?」
「いえ、特には……」

目に見えて下がっていくなまえの視線を前に、前田は静かに口を開いた。

「鶴丸さんは……これからどうするべきか、考えあぐねているだけなのではないでしょうか」

自分が見てきた、自分が思う鶴丸国永という刀について、前田はそれを言葉にして伝えようとした。

「僕らは歴史の証明として、ただ存在するだけの物でした。ですが、人の身を得て……経験と同時に記憶をするようになった」
「記憶……」
「はい、そして同時に、忘却も機能するようになった」

なまえが息を飲む音が、静かな朝の執務室を緊張させた。

「多分、忘却が機能しなければ人は生きてはいけません。膨大な記憶や感情に飲まれて、いずれ身も心も傷だらけになって……死んでしまうでしょう。
おそらく鶴丸さんは、思い出という記憶と、それらの忘却の間で、これから自分がどう振る舞うべきなのか……そういうことに、苦しんでいるのかもしれません」
「……うん」
「主君が近侍を任じたことで、鶴丸さんの時間が進もうとしているのではないかと、僕は思います」

だからあまり思いつめないでほしい、という本題を口にするより先に、なまえが「でも」と声を張った。

「それって……良いことなのかな」

きっぱりとした口調が、次第に萎んでいく。

「時間が進むことばっかりが救いになるとは……簡単には言えない気がする」

そんなことはきっと、前田くんだって分かっているのに。
なまえはすぐ、そういう後悔をした。

「正解は誰にも、僕にも分かりません。けれど僕は、この変化はきっと必要なのでは……と思います」

少なくとも僕は、と語気を強めて、前田は言葉を続けた。

「僕は、主君がこの本丸にやってきたことで、前任が亡くなってから止まっていた時間が動き出したことを、喜ばしく思っております」
「……うん」

眉を下げながら、それでもようやく口の端を上げたなまえの口から出た「ありがとう」という言葉に、前田はひとまず安堵した。

「そういえば、気になってたんだけど……私、三日月さんともあんまり話、出来てないかもしれないんだ。やっぱり、三日月さんも鶴丸さんみたいに……」
「ああ、それは……」

前田は、少しだけ唇をもにょもにょさせて、困ったように眉を下げた。
正直、不安でたまらなかった。古株であればあるほど、鶴丸同様の感情を持っている刀も多いのでは、と。ならば、目の前の前田藤四郎も、三日月宗近、山姥切国広、そして、ひょっとしたら日本号も。表に出さないだけで、自分に対する不安や不満、怒りを今なお隠し持っていてもおかしくないんじゃないか、と。
考えるだけで、指の先が冷えていくような心地がして、恐ろしかった。
しかし、前田はなぜか、困り眉はそのままに半笑いで口を開いた。

「あの……主君は覚えてらっしゃらないかもしれませんが、昔、幼い主君がここへ来た時、三日月さんが主君の顔を覗き込んだそうなんです。そうしたら主君、泣きそうになりながら前任の影に隠れてしまって……それを気にしているみたいですよ」

前田の昔話に、なまえは確かに覚えがあった。ほわほわの吹き出しの中で再生された懐かしの一コマを思い返してみれば、確かに自分は三日月のまっすぐな眼差しが恥ずかしくて、父の影へ逃げている。
しかし、そんなのはもう二十年近く前の話である。

「え、いやいやそんな昔のこと覚えて……!?」
「はい、大真面目に話していました。自分は主に嫌われているのでは、と……」
「そ、そんな昔のこと……覚えてるけども……」

へなへなと肩の力が抜けた拍子に、顔中の筋肉までもが力を失って、しまいには前田と同じ半笑いが勝手に浮かび上がってきた。

「ぜひ、三日月さんとも話をしてみてください。きっと喜んでくれますよ」
「うん、そうだね」
「さあ、まずは朝餉です。広間に向かう準備をいたしましょう」

前田の言葉に頷いて、なまえは着替えのため箪笥を漁った。



なまえが朝食を済ませて、遠征部隊の出発を見届けても、近侍役は姿を見せなかった。
朝からなまえのお供をしていた前田も、昼から出陣を控えているため、ずっとそば近くに控えていることはできない。

「で、わしの出番じゃな!」

拳で胸を叩く陸奥守の、いつもと変わらぬ明るさに、全身を強張らせていた緊張がとけるような心地がした。

執務室に陸奥守が控えているという様子は、どうも久しぶりのような気がする。
たまに手伝いに来てくれてはいたが、近頃は執務室へ出入りする男士の数も増えていたから、二人きりというのは事実、久しぶりだ。あとから長谷部も来ると言っていたが、炊事当番なのだから無理はしないよう伝えてある。連日頼りっぱなしは、さすがに申し訳なかった。

「ごめんね、急に」
「かまんかまん、任せちょけ! それに、事情が事情じゃしのう」
「うん……」

今にも特大のため息を吐き出してしまいそうな主の顔を見て、陸奥守は眉を下げながら静かに口を開いた。

「わしは、鶴丸国永が前任さまをどれほど思うちょるか、ましてや前任さまに会うたこともないけんど、大事な人がのうなるっちゅう苦しさは……分かるぜよ」

それは主もそうじゃろ? と問われて、無言のまま頷いた。

「ここにいるみんな、おんなじような思いを抱えちょる」

あやすようでいて、諭すようでもある、その中間をいく口ぶりで、陸奥守はなまえの顔を優しく覗き込んだ。

「簡単にぼんと元通りに、なんてならんぜよ。仕方のないことじゃ」
「うん……そうだよね」

短い息を吐いて、両方の腕を天井に向かって思い切り伸ばした。背中の筋肉が伸びきった感じがして、勢いのままに腕を下ろす。
ここにいるみんなが、同じ思いを抱えている。
それは確かなことだ。
誰もが、無かったことにできない何かを抱えたまま、それでも生きていくしかなくて、もがきながら、けれどそれをしまいこんで生きている。

「むっちゃんもさ、新撰組の刀とは……」

改めて書面に向かいながら、ずっと引っかかっていたことを問いかけた。

「すまんちや」
「ううん、大丈夫」

陸奥守から短く、小さく返ってきた言葉を、なまえは否定しなかった。
本丸の中という小規模なコミュニティであろうと、全てのものとすぐに仲良し、なんて無理があるのは仕方のないことだ。
まして、元の主同士で因縁がある刀たちにしてみれば、それこそ簡単にはいかない感情というものがあるだろう。
そういうことを踏まえた上で、なまえはあくまで積極的な立ち入りはしないでいた。



その後、大きな問題が起きることもなく、事態が好転することもなく、日が落ちていった。
とりあえず明日も仕事を陸奥守に頼むことにして、なまえは部屋で床につく準備をすることにした。
しかし、いざ部屋で一人になってみれば、全く眠れそうにない。

このまま、時間ばかり過ぎていくのだろうか。
果ての見えない巨大な不安が、触れることの出来ない大きな塊となり、のしかかってくるような夜だった。

いつかの夜もそうだった。
ここに来た初日、なまえは偶然鉢合わせた日本号の言葉に背中を押された。

日本号さん。

答えをもらいたいわけでも、また救ってほしいなんて高慢な考えもない。
ただ、話をしたいことだけは確かだった。