この本丸の鶴丸国永の趣味はガーデニングである。
理由は、前任のたった一言だった。

『ガーデニングが趣味って言われたら驚くかも』

聞けば、暇を持て余した鶴丸に「俺が何をしたら驚くか?」と何気なく聞かれた前任の、その一言を受けてのことらしい。
多分、前任はなんとなくノリで答えていただろうし、まさか本当に鶴丸がガーデニングを趣味にするなんて微塵も思っていなかったのだと思う。
それを分かっていたからこそ鶴丸も、そういう前任の思惑を明るく壊して、とびきりの驚きを届けようとしていたのではないだろうか。
そういう様子を見るに、多分鶴丸は前任に対して、けっこう好意的だった。



長谷部が鶴丸に近侍交代の旨を切り出したのは、次郎太刀の部屋で開かれた飲みの席でのことだった。
後から何であの場で切り出したんだと長谷部に問えば「あくまで何気なく伝えたほうがいいと判断したから」だそうだ。気持ちはわかる。

数は多くないが、複数人での飲みだった。
わりと騒がしくて、多分長谷部と鶴丸のそばにいた奴だけがその話を聞いていたと思う。
日本号は、鶴丸を挟んで反対側にいた長谷部が「次の近侍はお前だ」と手短に伝えたのを聞いていた。
今まさに焼き鳥を頬張ろうとしていた鶴丸は、口を半端に開けたまま、口元に持っていっていた皮タレの串を静かに皿へ戻した。
たっぷり数秒かけて、視線を皿に落としていく。まぶたの裏で何事かを思案するように、ゆるやかなまばたきを数回繰り返した。
かと思えば、何も無かったかのようにすぐさま顔を上げて、温度の読めない声で「分かった」と返事をした。



なんとなくだが、あの時の鶴丸の一連の動作の中に、日本号は自分を手放した時の正則の姿を見た気がしていた。
窮地に立たされた者が、やるせなさの先で待ち構えているものを呆然と見つめる時の眼差し。
そういうものは、長い歴史の中でさんざ見てきたものだった。
日ノ本一の槍を賭け事なんぞで手離すことになった正則、戦国の世を生きながら船の難破なんぞで息子を失った太兵衛。光明見出せぬ貧困や精神状態の果てに、己の思惟や、義理までもを捨てねばならなかった人々。
そういう者たちを見てきたせいなのだろうか、近侍の交代を受けた鶴丸の感情が、その類のものであると、分かったような気がしていた。

だからといって、何をどうこうしようとは思っていないはずだった。

「こんな場所が本丸にあったの、知らなかったです……」
「そうだろうなぁ」

ましてや主と鶴丸の会話を盗み聞きするようなことは、微塵も考えていなかった。

内番が馬当番だったのがいけなかった。
なんとなく早くに目が覚め、することもなく早めに厩へ向かった。同じく馬当番の明石はまだ来ていないようで、暇を持て余していたら不意に主と鶴丸の声が聞こえたのだ。
朝の日差しが当たらない、厩の脇の暗がりを通り抜けると、途端に視界が開けて明るくなる場所がある。
そこに、主と鶴丸がいるらしかった。

「すごいです、ネモフィラですか?」
「ああ」

そう、そこには鶴丸がほとんど一振りで作り出した花畑があるのだ。海がなだれこんできたみたいな、空が落ちてきたような、青の花が咲き乱れる一画は、厩の奥にひっそりと広がっている。

「こんなに広いお花畑、どうして今まで気づかなかったんだろう」
「俺が見せなかったからな」

鶴丸がアッサリと口にした言葉に、主が息を詰めたのがこちらまで伝わってきた。

「俺はきみに意地悪をした」
「意地悪……?」
「きみをここに連れてこなかった」

投げやりな言い方をした鶴丸はそのままの調子で言葉を継いだ。

「前の主には、毎年この景色に招待していた。でもきみにはしなかった」
「……もう、意地悪はしなくていいんですか?」
「ああ、もうやめだ。変化を受け入れないなんざ俺らしくないし、いつまでもこんなこと続けるなんてアホらしい」

鶴丸の言う「変化」とは、流れからして明らかに審神者の交代のことを示している。
主は、何と返すべきか考えあぐねているだろう。聞いているほうまで嫌な汗をかくような、長い沈黙が降りてくる。
喉の奥に言葉ごと息を押し込めている主の顔が目に浮かぶようで、日本号は手が軋むほど強く拳を握り込んだ。

「むしろ刀であれば、俺もあの人と同じ墓に入れたのかもしれないな」

皮肉なもんだ、と小さく押し殺した鶴のひと声が宙ぶらりんになったまま、再び重たい静寂に空気が押し潰されていく。夏へと向かっていく空ばかりが明るいのが、やはり皮肉のようである。
たっぷり間を置いて、ようやく主の声が聞こえてきた。

「あ、の……ありがとう、ございます。話してくださって……」

その返答を意外に思っているのは、多分鶴丸も同じだと思った。
鶴丸が鋭く息を吸う音が短く聞こえて、思わず息を詰めた。

「なあ、聞いていいかい? きみはどうしてここへ来たんだ」
「えっと、父の……過ごした場所を、自分で守れるのなら、と思って……」

良くも悪くも、正直な答えだった。

「きみは……」

一旦言葉を切った鶴丸が、重量感のある長いため息をついた。

「優しいんだな」

使っている言葉とは裏腹に、抜き差しならない感情の全部を胸の奥底へ押し殺したような、歪んだ声色だった。ぺしゃんこになっている心の形をそのまま、隠しきれずに出してしまったのだろうか。
鶴丸だって、何もわざと相手を絶望させてやろうという魂胆はなかったと思う。そういう奴ではないということは、長い付き合いであれば当たり前に分かることだ。
それだけ、今回の件が人の身に見合わず大きすぎたのだと、分かった。

鶴丸に「先に部屋に戻っていてくれ」と言われた主は、こちらに聞こえないほど小さく返事をしたのか、はたまた頷いただけなのか、ややあってその場を離れていく足音だけがはっきりと聞こえた。
寂しげに遠ざかっていくそれが完全に聞こえなくなった時、鶴丸に名を呼ばれた。

「日本号、いるんだろう?」
「……気づいてたのかよ」
「きみ、自分の隠蔽値わかってるか?」
「イヤお前さんも大概だぞ」

何やらメタい話をし出した鶴丸に軽い調子で合わせながら、厩の影から身を出した。

「なあ、お前は……何に対して怒ってるんだ?」

まず何を言うべきか少し思案したが、兎にも角にも鶴丸の感情が向かう先を知るべきだと思った。
しかし鶴丸は、目を丸くして心底意外そうな顔をした。

「怒ってるように見えるか?」
「え、イヤ、まあ」
「うーん、そうだな。言われてみれば、種類としては怒りに近いのかもしれない」
「主に対してか」

鶴丸は口を閉ざして、顎を引きながら視線を地面に落とした。頷いているようにも見えたが、それは分からない。

「なあ、例えばの話だがな」

言いながら、腰を下ろした鶴丸は、盛りを迎えた花を人差し指の腹で撫でつつ、言葉を続けた。

「俺たちが物だった時の記憶を、人に当たり前に備わる……そうだな、血管のようなものだとする」
「……ああ」
「でもな、俺たちが人の身を得た時からの記憶は本当に、ただひたすら記憶でしかない」

のどかな花畑をぐるりと見回した鶴丸は、不意にこちらを見上げた。

「なあ、分かるか。忘れるんだぜ」

何がこいつを追い詰めていたのか、その一端が見えた気がした。忘却だ。

「かたやあの子の血管には、あの人と分けた血が流れている」

言わんとしていることは、理解できた。
忘却。羨望。それからおそらく、嫉妬、悔恨、諦観。そういう計り知れない感情の全てが、この飄々とした男の身の内でせめぎ合っているのだ。多分、一年前からずっと。
鶴丸の抱えているものの正体は分からずとも、そこに何かがあることは、日本号含め古株の面々は何となく察しがついていた。それは多分、哀惜とかの類だとか。
そう思っていた。
けれど、結局は何も分かっていなかったのかもしれなかった。千年近くを生きた刀の刃紋が大きく揺らぐことを、誰も予想できなかった。

鶴丸国永は、一度墓に入っている。
そうして人にとっての死というものを、間近に追体験したやつだと思っていた。
自分たち武器にとって、人の死は武功としてそば近くにあった。武功だけではない、夢の終焉をもたらす形での死、すなわち腹切りとか。
かたや、弔いの意を持って人と共に土の下、なぞはそうあるものじゃない。
だからこそだろうか、鶴丸国永という刀に対して過信をしていたのは。
目の前の刀が、濁流のような錯綜に飲まれるか飲まれないかの瀬戸際にいた事実を、今まさに突きつけられているのだ。

「人の情ってのは……」

ため息と一緒くたにして吐き出された日本号の言葉に、鶴丸は首を傾げた。

「ん?」
「いや、何で人の情ってのは、こうも重いのかね」
「はは、全くだな。人間はこんなもんばっかり背負い込んで、どうやって生きていくんだろーなぁ」

口をついて出た言葉はあまりにも軽くて場違いな気がしたが、鶴丸は案外ヘーキそうな顔で笑っている。

「とはいえ、俺たちは道具だ。自分の意思で死んだりはできないからなぁ、まー何とか生きていくしかないだろうさ。
あの子が俺に斬られたり靴を隠されたり、茶碗蒸しをプリンにすり替えられたりしてないんだ。俺の中にある情ってのは所詮大したことはないってことだろう」

などと軽い調子で、鶴丸は言ってのけた。

「なあ、日本号。きみはあの子と仲が良いよな?」

鶴丸は腰を伸ばしながら、明るい瞳をこちらに向ける。
なかがいい、と言われた当の本人は一瞬ひるみながらも口を開こうとしたが、鶴丸が先に質問を重ねてきた。

「どうしてだ?」
「いや、どうしてって言われてもな……」
「それは、あの子があの人の娘だからか? それとも何か別にあるのか?」

主が自分に向けている好意が露呈しているのかと、少々心臓に悪い心地がした。しかし、そういう意味合いは全く含まれていないらしい。
鶴丸自身も葛藤しているのだろう。どうすれば受け入れられるのか。どうすれば、何かを変えることができるのか。
しかし、言われて気づく。自分がこれだけ主から受け取った想いに向き合おうとしているのは、何故なのか。
主が前任の娘であるから、という理由が、決してゼロではないこと。

「いい主だよ、あいつは」

図星をつかれた内心を取り繕うような短い返事を、鶴丸がどう受け止めたのかは分からない。
「そうか」とだけ、やはり短く返ってきた。



その晩、久しぶりに深酒をした。
次郎太刀の元で飲んで、さあ部屋に戻るかという時、若干だがクラリときて、飲み方をしくじったと思った。
このクソ酔っ払いが、と心中で自身に悪態をつき、瞼の上から眼球を指で抑えつけながら部屋へ戻った。
御手杵も蜻蛉切も先に寝ていたが、入り口側に自分の布団が敷いてある。騒がしくせず、問題なく床につけた。

泥に沈むみたいにして眠りについた後、夢を見た。
鉄の塊になって、海に沈む夢。
いつか、同じような夢を見たことがあった。

『むしろ刀であれば、俺もあの人と同じ墓に入れたのかもしれないな』

鶴丸の声が聞こえた気がした。

違う。
違うだろう、なあ。
人の身を得ちまったからこそ、お前はそこまで前任に入れ込んじまってる。全てはこの身があってこそだった。違うのか。
言ってやりたいのに、鉄の塊となっている自分には、何もしてやれなかった。
自由になる身がほしい。
言葉がほしい。
誰かに、何かに、かけてやりたい言葉が山のようにあるんだと、そういう気づきが暗い海底に降りてきたが、ただそれだけだった。
いっそ博多の言っていたように、鯨にでもなってしまえたほうが、よほど良いかもしれなかった。

次の日の朝、強い日差しが目に刺さるような感覚に叩き起こされた。
すでにそこそこ日が高くなってきているらしく、体を起こす気力も沸かないまま、寝坊したことを直感した。
鈍く痛む頭の中で、なんとなく、主の声を聞きたいと思った。