書物がたくさんあるところを「本の海みたいだ」と言うのは、言い得て妙だと思う。
天井につきそうなほど背の高い本棚にぎっしり詰まった本の背表紙が、多弁な無言でじっとこちらを見ている。あまりにも膨大なそれらと、限られた自分の命とのアンバランスさが恐ろしくて、時折足が竦むような思いをする。まるで、海の底に沈んでしまったみたいに息が苦しくなるような気持ちになるのだ。
それから、一度入り込むと止まらなくなるところも。一度沈んでしまうと、誰かの手を借りなければ溺れて這い上がることが出来なくなる、そういうところが海に似ているかもしれない。
本の海、という言葉を作った人は多分、本が好きで、でも少し苦手だったんじゃないだろうか。



浦島虎徹の明るい声が、執務室を元気に跳ねる。

「主さん! 金田一の続きどこにあるー?」
「あ、そっちの漫画棚にあると思うんだけど……ごめんね、お父さんの棚と私が新しく持ってきた棚で時々ごちゃごちゃになっちゃってるかも」
「大丈夫、あったあった! 今いいところなんだよー、怪盗紳士に殺人事件に!」

浦島がお目当てを探し出したのを見届けたところで、今度は博多藤四郎ののんびりとした声に動きを止められる。

「主人ー、この先生の本、また借りてもよかと?」
「うん。面白かった?」
「うん! この本丸のお算用係として勉強になるったい」
「良かった、何でも借りてっていいからね」
「ありがと、主人!」

声を弾ませる博多を微笑ましく見ていたなまえが、止めていた手を動かそうという時、それは日本号からの問いかけによって引き止められた。

「なあ主、この作者の他の本どっかにあるか?」

部屋の隅で片膝を立てながら腰を落ち着かせていた日本号が、本の表紙を軽く叩いた。
少し前になまえが貸した本だ。とある写真家の手記のようなもので、旅の様子や出会った人、動物の話なんかが写真と共に記されているエッセイ。
なまえは「ええと…」と独り言ちながら、自分用の本棚に膝立ちのままにじり寄る。父が使っていたものよりは小さいけれど色合いは近く、ガラス扉付きで、造りはかなりしっかりしている。この本棚は、なまえのお気に入りだった。

「じゃあ、次はこれとか」
「おお、んじゃ借りるわ。こっちも面白かったぜ」
「本当ですか? 良かったです」

ほっと胸を撫で下ろしながら、日本号に一冊の文庫本を手渡す。先に貸した本と同じ作者の、旅先で過ごした日々を綴った本。ドキュメンタリーに近いかもしれない。

日本号がなまえに『何かあんたが好きな本を貸してほしい』と、藪蛇なことを言い出したのは数日前。一緒に行った酒屋で『もっと話をしたい』と言われた、そのすぐ後のことだった。
宣言通り、特別な用はないらしいのに執務室へやってきて、仕事をするなまえや長谷部を横目にしばらく本棚を眺めていたかと思うと、急に『本を借りたい』と。
一緒にいた長谷部が片眉を持ち上げた怪訝な表情をしていたのを思い出し、なまえは苦笑した。
長谷部さんにしてみれば、なんとも唐突なことだろうし。日本号さんが、私が好きな本を借りたいと言うのは結局、あの告白の答えを探すための道筋の一つなのだろう。
唐突に始まった、なまえと日本号との間での、そういう意図を後ろ手に隠したやりとり。
しかしそんなこと知る由もない他の刀たちは、その流れに便乗するようになまえから本や漫画を借りることが増えていった。浦島や博多も、そのうちの二振りである。
で、その現状にずっと不満顔な刀も一振り。

「い〜加減にしろ貴様ら! 主も俺も仕事中なんだぞ、暇なら手伝わんか!」

顔に青筋を立てた長谷部は、政府に送る報告書を一束にまとめながら声を荒げた。

「俺は主さんのおやつ作って持ってくる仕事したもん」
「おれも主人のために勉強しとるばい」
「いいだろオフなんだから」
「日本号、貴様だけ態度がデカイ」

目をじっとりと据わらせながら、長谷部は声を低くした。

「というか日本号、貴様最近やたらと執務室に顔を出すな」

自分が言われたわけでもないのに、なまえは長谷部の言葉にこっそり息を飲んだ。
別にやましいことをしているわけでもないが、自分の気持ちが露見するのは、やっぱり出来れば避けたいところだ。表情には出来るだけ出さないよう、顔の筋肉がぴくりともしないよう意識した。
しかし当の日本号はケロリとしていて、表情一つ変えずに「別にいいだろ、知らねーのか4月23日は世界本の日なんだぞ」とのたまっている。

「ほお、それでここに来て読書という訳か」
「そーいうこった」
「殊勝なことだ……って違う、論点が違う! この間など俺が主に頂いた酒を、主と共に頂こうとしていたところに次郎太刀と二振りで邪魔しに来ただろうが……!」
「それは日本号と次郎太刀が悪かね」
「そーだね」
「イヤあれは本当に違うんだって……次郎太刀がどーしても主と酒飲みたいって聞かなくて……あれは本当に悪かったと思ってるぜ」

ぎりぎりと歯ぎしりしながら敵意剥き出しな長谷部に対して、日本号は意外にもしおらしく頭を垂れている。次郎太刀との乱入に関しては本当に悪く思っているらしい。

「あ、あの! みなさん、父からも本を借りたりしていたんですか?」

なまえは焦り気味に手を叩いて、その場にいる全員の気を引こうと努めた。
なんとか話題を変えようと言う気持ち半分、本当にただ純粋な疑問半分、という問いだった。

「ええ、俺は何度も。出陣先の時代や土地について知識が足りないと感じた時には、必ず主の御父上から本をお借りしていましたよ」

長谷部は目元をぱっと明るくして、なまえを振り返った。

「へえ、さすがですね」
「俺も借りてたよー! 主さんのお父さん、漫画も少しだけ持ってたし!」
「そっかあ。じゃあ本当に、みんなよくこの部屋に来てくれていたんだなぁ……」

この部屋に父がいて、みんながいる様子を思い描いてみる。父がいない今が自分にとって苦しいのは紛れもない現実だが、それでも父がちゃんと慕われていたこと、寂しい思いはしていなかったこと、忙しいばかりじゃなかったこと。
そういう歴史がこの部屋に、この本丸に積もっているということの嬉しさがまさって、柔らかく目を伏せた。

「俺もたまに借りてたよ」

静かな声に顔を上げると、日本号は前任の本棚から一冊の本を取り出す。

「初めて見たのはこの本だったな、そういえば」

言いながら、日本号は本を片手になまえの元へ歩み寄る。鮮やかなオーロラの写真が表紙を飾る写真集らしかった。

「これ、あんたが貸してくれた本の作者のもんだろ」
「はい、確かに」

なまえは頷き、日本号から写真集を受け取った。
ここに来て以来、父の本棚は結構な頻度で覗いていたから、この写真集の存在も知っていた。アラスカで撮影されたオーロラの写真や、たくさんの動物たちの写真。世界のどこかで躍動する生命の写真を見ながら、父は何を考えていたのだろうかと考えを巡らせたこともあった。
日本号に貸す本を、この作者の著作にしたことに他意はなかった。ただ、自分が好きな本をと思ってのことだった。

「日本号さんがこの部屋で初めて開いた本が、私が好きで貸した本の作者さんと同じだった……って、なんだか面白い偶然ですね」
「親子で趣味が似てんだな」
「そうかもしれません」

ふ、と小さく笑いが溢れる。
ずいぶん長い時間離れて暮らしていたけれど、それでもどこか、何か、通じるものがあったのかもしれない。

「俺も見たことがあるな、その本は」

もう作業を諦めたらしい長谷部が、腰を上げて日本号となまえと共に本を覗き込む。一部始終を見ていた浦島と博多も、それに倣うようにして集まってきた。

「主の御父上から海の話をお聞きしたことがありますよ。少々失礼致します、ええと……ああ、そうです。この写真」

なまえの手から写真集を借り、親指でパラパラと軽くページを捲っていた長谷部は、ある1ページでその手を止めた。
鯨が跳ねる瞬間を大きく写した、1ページ。

「主の御父上が一番好きなお写真だったそうです。海は生命の始まりの場所。海で生命が躍動するさまは見ていて心が躍る、と……そう仰っていましたよ」
「生命の始まり、かあ。やっぱり海はいーよねぇ」

浦島が頬をゆるめながらのんびり言うのに頷き、そのページを指でなぞる。

「確かに、鯨みたいな大きい生き物って悠然としてるからこそ跳ねる瞬間はダイナミックでかっこいいし、私もこの写真好きだなあ」
「うーん、そう言われると鯨って日本号と似とるね」
「えっ?」

博多が何気なく呟いた言葉に、心拍数が尋常じゃないくらいに跳ね上がった気がした。

「ほら、背ぇば高くて、普段は悠々と酒ばーっかし飲んで、ばってん戦さ場じゃあ働きは人一倍ったい。どげんね、当てはまっとるばい」
「あ、あは、うん……」

なぜか誇らしげに胸をそらす博多に、特別な他意はないらしい。親戚のおじさんを自慢する子どものような仕草だと思った。
かっこいいだの好きだの言った手前、なまえ的には若干というかかなり寿命が縮む思いだったが、とりあえず事なきを得た。
「まー俺はこんな大海泳げねーけどなあ」と語尾を緩ませながら後ろ手で頭をかく日本号も、気にしている様子はなかった。

「鯨というよりはウワバミだな此奴は。さて主、仕事に戻りますか……ああ、それとももう少し休まれるようなら、新しく茶を淹れ直して参りますよ」
「あ、いえ! 仕事しましょう仕事! すいません、手を止めちゃって」

長谷部の言葉に慌ててかぶりを振る。

「いえいえ、主のペースで構いませんよ」
「あ、でも、近侍の交代もそろそろですし……長谷部さんとの仕事、ちゃんと頑張らないとですね」
「近侍の交代……そういえばそうでしたね、口惜しいですが。しかし近侍のお役目から外れても俺は主の手伝いを続けさせていただくつもりですので、何かございましたら遠慮なくお呼び立てくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「長谷部さんめっちゃ早口〜」

茶化すように笑う浦島の隣で、日本号がおもむろに口を開いた。

「次は誰か決めてるのか?」
「はい、今度はあまりお話したことがない方に、と思っています」
「へー、どいつだ?」
「鶴丸さんにお願いしようかと」

言った途端、なんとなく空気、というよりはみんなの口が重くなったような気がした。
博多だけがその空気の外で「へー、主人は鶴丸と話したことなかと? なんか意外ばい」と不思議そうにしていて、他のみんなはどこか居心地悪そうに目を逸らしたり、気まずそうに頬をかいたりしている。
急変した空気の悪さにうろたえながら、助けを求めるように視線を泳がせることしかできない。鶴丸国永に何かあるのは明白だが、なまえには思い当たる節がほとんどない。
それくらいに、関わり自体がなかった。
しかしよくよく考えてみれば、少し不思議ではある。演練場に行くと、他の本丸の鶴丸国永はかなりの確率で人懐っこそうに笑いながら主や他の男士たちと言葉を交わしている。もちろん、この本丸でも遠巻きに見る鶴丸は誰かと笑って話していることが多い。だが、そうだ、そういう光景は遠巻きに見ることばかりだった。
まさかとは思うが、自分は避けられているのではないか。
出来れば外れていてほしい仮定がひとつ頭に浮かんで、背中に嫌な汗が滲む。

「では、とりあえず鶴丸には俺から話しておきましょう」

長谷部が気持ち明るい声で、仕切り直そうとしているのが分かった。さっきまでの空気を無かったことにするような気遣いが透けて見えるようで、それが逆に何事かあるということの裏付けとなっているような気がしてならない。
「お願いします」という返事の言葉尻が萎まないよう、なんとか堪えた。
何かあるのだとして、理由を聞いて今さら「じゃあやめます」ではあまりに無責任だ。事情を聞くのが怖くもあるが、何らかの感情が鶴丸から自分に向かっている以上、いつかは向かい合わなければならないことなのだろう。例えそれがどんな形の感情だろうと。
日本号さん、そうですよね。
口に出さずに見上げると、何か言いたげな、どこか不安そうな日本号と目が合う。こわばっていた肩から力が抜けて、急激な混乱状態に陥っていた頭の中がゆっくりと凪いでいく。

日本号さん、大丈夫です。
何をどうしたらいいのかさえ分からないけど、それでも私は頑張りたい。
こちらが伝えた気持ちと向き合おうとしてくれているあなたを見ていると、そう思えるんです。