明日の出陣に向けての会議を終えた執務室で、さあ解散となってすぐ、なまえのもとに一振りの短刀が駆け寄る。

「主人、ほい! 先月分の収支報告書。確認してほしか」

博多藤四郎が、会議中もずっと懐に抱え込んでいたクリアファイルを両手で差し出すのを、こちらも両手でしっかりと受け取った。

「ありがとう。すごく助かるよ」
「へへ、良かよ。ほとんど趣味みたいなもんやけん」

メガネの端を指で持ち上げながら得意げに胸をそらす様子は、いかにも経理担当の申し子といった具合だ。
本丸内の金の流れに四苦八苦していたなまえからしてみれば、自分の手で顕現した博多が、やってきて早々嬉々として金銭の管理を申し出てくれたことは有難いことこの上なかった。小さな体に赤い縁のメガネという、少し背伸びをした子どもを思わせる見た目からは想像も出来ない頼もしさに、顕現した時からずっと感心しっぱなしだ。

「あとで美味しいお菓子でも持っていくね」
「気ぃ遣わんで良かよ? おれは主人の役に立てればそれで良かけん」

博多はきっぱりと言い切った後、でもまぁ、と笑顔で付け足した。

「くれるっていうんなら、遠慮なくもらうばい」

イタズラっぽく笑うあどけない表情とちゃっかりした発言に、つい笑いがこぼれる。

「ほんじゃ、主人! お菓子待っとるけんね!」
「あはは、はいはい」

博多は手を振りながら、先に部屋を出て行った刀たちを追いかけるように駆けていった。
小さな背中を見送るなまえの、そのすぐ横に控えていた長谷部が「全く、主に対して失礼な……」とため息まじりに呟く。

「でも、博多くんがいてくれると本当に助かるから。すごくありがたいです」
「それは、本当に……主がいらっしゃる以前は、俺と主の御父上と、他の一部の刀とで経理の処理をしていたので」

長谷部が昔を懐かしむように目を細めるのを横目に、視線だけで執務室を見回してみる。
父も、審神者になる前は普通に働いていたとはいえ、経理の実務なんていうのはきっと無縁だったのだろう。みんなで、この部屋で、顔を突き合わせながら悪戦苦闘していたのだろうか。

「主のおかげで、俺たちは本当に助かっていますよ」
「私がやったのは博多くんをこの本丸に呼び出すところまで。あとはもう、みんな博多くんのおかげです」

刀は、それぞれ性質がまるで異なる。前の主の影響を受けるもの、逸話や名前に影響をうけるもの。
手伝いを好む脇差の存在に助けられたり、おおらかでゆったりとした大太刀の立ち居振る舞いにほっとしたり。
その中にいる、人間の自分に何が出来るのか。ずっと考えながら過ごしている。慣れた分だけある程度周りが見えるようになって、このままでいいのか、もっと出来ることがあるんじゃないか、とか。
そういう無限に続いていきそうなもどかしさは、ずっと抱いていた。

「主がいなければ、この本丸に、あの博多藤四郎はいなかった。それだけが間違いのない事実です」

優しく言い聞かせるように、けれどはっきりと言い切った長谷部の目は、まっすぐにこちらを向いている。

「俺は、また博多に会わせてくださった主にも、博多にも感謝していますよ」

曇りのないまっすぐな眼差しを受けて、この刀は本当に、偽りのない刀なのだと思った。
長谷部はこの本丸を、父の初期刀である山姥切国広と共に支えてきたのだという。顕現順でいえば少しばかり後にはなるものの、ずっと、いつ如何なる時も、主と本丸のことを一番に考えいる刀なのだと、何振りかの刀からそう聞いている。
初めて会った時は、しっかりして見えた分もう少しビジネスライクな刀なのだと思っていた。織田信長の刀であったが、信長から黒田長政の元へ下げ渡された、その来歴を憂い続けている刀なのだと、研修中に他の審神者から聞いたこともあった。そういうわけで初めの頃は、相対するのに少し勇気がいるかもしれないと勝手に構えてしまったこともある。
けれど一緒に過ごすうち、そんな懸念は消えていた。
近侍でない時も、暇さえあれば雑務の手伝いを申し出てくれた。出陣の折は、自分の働きだけでなく周囲をよく見てくれていた。淹れてくれたお茶は、渋みが少なくしつこくなく、甘味があって美味しかった。

「私も、長谷部さんには本当に助けられています」

いつもありがとうございます、と小さく頭を下げる。
長谷部は、そんななまえの様子を見ながら人差し指の背で顎を触り、おもむろに口を開いた。

「俺も、ここに来て初めの頃は分からないことだらけでしたよ。そう……出陣中に勢いで日本号を殴ったこともありました」
「え、殴っ……
「焦っていたのです、多分。」

顕現してからしばらくの間、本丸に先に来ていた面子に遅れを取らないよう、そればかりに気を取られていたのだ、と。長谷部は問わず語りに打ち明けた。

「時間が全てを解決してくれるわけではありません。しかし、時間が解決してくれることだってある」
「そう、なんでしょうか」
「ええ、だから焦ることなどありませんよ」

諭すように笑いかけられて、なまえは肩の力が抜けるような思いがした。
自分の中に燻り続ける焦りを見抜かれていたのだ。きっとその上で、自身もかつて駆られていたという焦りを、その記憶を晒してくれたのだと分かった。
多分、憶測でしかないけれど。この刀は辿った歴史の中で傷ついた分、人が抱いたそういう痛みに気づけるのかもしれないと、なんとなくそう思った。
じゃあ、そういう長谷部さんに、私がしてあげられることは何なのだろう。

「おや、誰か来ますね」
「え?」

言われて、耳を澄ましてみれば確かに廊下の床が重く軋む音がする。短刀のような軽快さとは異なる重みのある音からして、大太刀か薙刀か、それとも槍か。

「邪魔するぜ」

足音が近づいてきてからほとんど間を開けず、戸が開かれた。

「よう、軍議終わったんだな」

お疲れさん、とのんびり言いながら部屋に入ってきた日本号を見上げていた長谷部は、なまえのほうを見る。なまえもまた、急にやってきた日本号の姿に、思わず長谷部のほうを見た。

「噂をすれば影、とはよく言ったものですね、主」
「ほ、本当ですね……」
「は?」

長谷部は、眉をひそめながら首を傾げる日本号を手のひらで制すようにして「いや、こっちの話だ」と受け流した。

「それよりなんだ、何か用か?」
「いや、ちっと万屋に行こうと思ってな。何か買っといたほうがいいもんあるか?」
「へえ、珍しく気がきくな。主、何か御用は御座いますか」

こちらに対してあからさまに声色を柔らかくする長谷部の様子に苦笑しながら、何か買うものはあったかと考えた。
資材はそれぞれ常に五万は下回らないようにやっている。手伝い札や依頼札も余裕はあったし、あとは、何か足りなくて困っているものは。
そうしてあれこれ考えていると、ふいに日本号の声が頭上に降りてくる。

「あんたも行こうぜ、一緒に」
「え?」

思いもかけない言葉に、思わず「私? 」と自分を指差しながら問うてしまった。
日本号は、目をまん丸にしているなまえの様子に小さく笑いながら「あんた以外に誰がいるんだよ」とあくまで平然と返す。

「長谷部さんとか……」
「こいつと二人で買い出しなんてな、またいつ殴られるか」
「あ、日本号さん本当に殴られたんですね……」
「あれ、何だ長谷部、あの話したのか?」
「ええ〜い、うるさいな! その話は今はいい! 主はお疲れなんだ。無理言うな」

はよ行け、とでも言うように、手の甲でしっしっと日本号を追い払いながら、長谷部は眉間に皺を寄せた。そういう長谷部のあからさまな態度に、日本号は引き下がる気配を微塵も見せず、からからと笑いながら軽い調子で返す。

「ちょっとくらいいいだろ。気分転換だよ、なあ」
「気分転換……主、いかがなさいますか?」

殴った殴られただ物騒な話を聞いた後の、二振りの様子を「案外仲が良いんだなぁ」とぼんやり見上げていたなまえは、急に話を振られて肩を揺らした。

「えっ? ああ、えっと……じゃあせっかくですし、行ってきます」
「うし、決まりだな」

心なしか嬉しげに言葉尻を弾ませる日本号に、長谷部はため息をつきながら「酒ばっかり買いすぎるなよ」と釘をさす。

「長谷部さん、すいませんが留守の間、本丸のことお願いしますね」
「もちろんです。主は何も気にせず、羽を伸ばしてきてください」
「ありがとうございます、じゃあ行きましょうか」

なまえは言いながら立ち上がり、何だか満足げな日本号に向き合った。
「考える時間をくれ」と言われた日から数日、ずいぶんと久しぶりに紫の瞳をのぞいたような気がして、今さらのように心臓が縮んだような気がした。



まだ日が高く、他の本丸の審神者や刀が行き交う往来で、なまえは意を決して口を開く。

「あの」
「ん?」

腰巻きのツナギに手を引っ掛けながら隣を歩いていた日本号の視線が、ゆるやかにこちらへ向く。受けた視線は少し怯むくらいに柔らかくて、一瞬なにを聞こうとしていたのか忘れてしまいそうになった。

「いえ、その……長谷部さんに殴られたのって何が原因だったのかな、と」
「そっちかよ」

日本号が若干ずっこけながら笑いまじりに言った「そっち」という意味が、分からないわけではない。だけど、相手が想定していたであろう話題をこちらから振るのは野暮な気がした。時間がほしいと言われたからには、時が来るまで待つべきなのだろうから。
はて何だったか、とでも言うように天を仰ぎながら、日本号は口を開いた。

「出陣帰りだったな。ちょいとからかったつもりだったが、どっかしゃくに触ったのかね。それで殴られた」
「ええ、何言ったんですか……」
「まーいいじゃねえか。それよりどうだ、あいつとの仕事。もう慣れたか?」
「はい、長谷部さんすごく仕事が早くて。とても助かってます」

頷きながら、なまえは初日に長谷部が言った言葉を思い出す。
「俺は必ずや彼奴、日本号の倍以上働きますので。どんな仕事でも、ご随意にどうぞ」と頭を下げられて、実際どんな仕事もサクサク進めていくものだから、毎日つい甘えてしまっている気がする。

「助けられているからこそ、私も何かしたいんですけど……」
「何をしたらいいのか分からない、ってところかい」

胸のうちが、言わずとも伝わったらしい。頷きながら、それこそ日本号さんに聞けばいいのでは? と思い至る。なんだかんだ仲良さげな二振りだ、聞けば何か得るものがあるかもしれない。
呼びかけようとして、しかしなまえのそれに被さるように日本号が声を上げた。

「よし、着いたぞ」
「え?」

日本号が、古びた木造平家の店先で立ち止まるのに合わせて足を止めた。
その店先には、何やら植物で出来ている玉がぶら下がっている。これは、確か杉玉というやつでは。極めつけに、軒下にかかる藍色の暖簾には白抜きで「酒」という文字がでかでかと掲げられている。
全然万屋じゃない。

「あの、日本号さん。私たちが行くのは確か万屋では」
「まーまー、固いこと言うなって」
「イヤ固いこととかではなく」

こちらの反論に耳を貸さず、邪魔するぜ〜と緩く声をかけながらさっさと店に入っていく日本号のあとを慌てて追いかける。
三和土特有のひんやりと固い感覚を履き物越しにも感じながら、四方八方を囲う色とりどりの瓶や、端のほうに積まれた酒樽をきょろきょろ見回した。小さな平皿をひっくり返したようなシェードのライトがいくつもぶら下がり、低く店内を照らしている。淡い電球色の光が、飴色の棚に鎮座しているたくさんの酒を淡く浮かび上がらせていた。
古風な店構えにしてはモダンな店内に目が忙しくなって、万屋を目指していたことをつい忘れそうになった。

「おい、主」

呼ばれて、ようやくはっとした。
店の奥にある棚の裏側から日本号が手招きしているのが見えた。なまえはなおもキョロキョロしながら、日本号のほうへ足を運ぶ。

「ここは品揃えが良くてな、前任ともたまに来てたんだぜ」
「父と……そうなんですか」

背を伸ばしながら一周、二周と店内を見回して、しかし無い面影を探す子供のようなその仕草が急に恥ずかしくなり、すぐにやめた。

「俺も久しぶりに来たな」

久しぶりに来た、という何気なく発された一言に、胸の端っこのほうを小さな針でつつかれたような心地がした。
父がいなくなってからは、ずっと来ていなかったのだろうか。
だとしたら、何故いま私たちはここにいるのだろう。
無い面影を探す自分より、はっきりとその影を追えてしまう日本号のほうが辛いかもしれない。思い出が散らばる場所が辛いというのは、誰にだって当然のようにある感情だ。こればっかりは時間が解決してくれるものではないと、それはなまえもよく知っている。
けれど当の日本号の様子を窺ってみれば、酒の瓶をあれこれ手に取りながら上機嫌に口の端を上げている。鼻唄でも歌い出しそうな顔で棚を物色していくうち、一つの瓶を手に頷くと、それをこちらへ差し出した。

「ほれ」
「え、これは……」
「長谷部が好きな酒」

戸惑いながらも、淡く青みがかった瓶を受け取ると、日本号はなまえが手にしたそれを指差した。

「そいつを買ってって、たまに一緒に呑んで、それで話してやるといい」

ついさっき、自分が口にした悩みへの答えなのだと、一拍おいて気がついた。
長谷部さんに、私が出来ることは何か、という問い。

「あいつにとっちゃそれが一番だろうからなぁ」

間違いねぇよと念押しされて、滑らかでつめたい瓶を持つ手に力が入る。
本当に、そんなことでいいんだろうか。
きっと自分一人で考えていたら出なかった答えだ。自惚れているみたいで、恥ずかしくて。けれど他でもない、日本号からの太鼓判はなまえにとってこの上なく心強かった。

「ありがとうございます、日本号さん」

なまえの声色が明るくなったのに釣られるようにして、日本号も頬の筋肉をゆるめた。
なまえにとっては何よりも、頭の中でずっと考え込んでいたことへの、一つの答えを何気なく示してくれたことが素直に嬉しかった。
答えは必ず導くと言ってくれたことは信ずるに値する、確かな言葉なのだと、行動でもって示してくれたような気がした。

透き通る青の瓶に視線を落としながら考えた。長谷部さんと、何を話そうか。
このお酒を日本号さんが教えてくれたこと、このお酒を売っている、このお店のこと。長谷部さんは来たことがあるのかな。
ずっと父を支えてくれてありがとう、長谷部さんは父とどんな話をしていましたか。
昔馴染みの日本号さんは、長谷部さんから見たらどんな槍ですか?
他愛もない話の中で、もっとたくさんの刀と、もっと親しくなれたらいい。

「すごく楽しみです、長谷部さんとお話するの」
「ん、そうか」

日本号の声音が思いがけず、ほんの少しだけ固くなった気がして、なまえはその顔を見上げた。
日本号は人差し指で頬をかきながら、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせる。浅く息を吐いたかと思うと、観念したみたいになまえと視線を合わせた。

「俺も、もっとあんたと話をしたいんだが」
「え」
「もっとあんた自身のことを知らないと、出せる答えも出せねーだろ」

実にごもっともだ。
「話をしたい」という言葉にシンプルな喜びが湧き上がるのと同時に、それによって、いつか「答え」が出されてしまうのだという不安が同じ量だけ湧いてきて、顔が暑いやら背中に冷たい汗が滲むやら、体中の機能が一気に大忙しになった。

「つーわけで、たまに執務室に邪魔するわ」

こちらがどれだけ嬉しくて、どれだけ焦っているのか。
分かっているのかいないのか、日本号はわざわざ腰を屈めてなまえの顔を覗きこみ「いいよな?」と再び問いかけた。
「たまに」の頻度を教えてほしいとか、お酒は用意したほうがいいですかとか、聞きたいことも話したいこともありすぎて混乱している頭のまま、なまえは何度も頷いた。

満足げに笑いながら店内を悠々と歩き出す日本号さんに、とにもかくにも、今すぐ聞きたいこと。

「日本号さん、日本号さんが好きなお酒はどれですか?」

私もたくさん話がしたいから、いつでも待っていますから。
振り返った日本号が、眩しそうに数回瞬きをして、それからふっと目元をゆるめた。

「よし、じゃああんたが好きな酒も教えな。買ってこうぜ」

少し離れていた距離が、二人同時で歩み寄ったことですぐに縮まる。

二人で話すためのお酒を腕に抱えながら、そういえばすでに少なくとも三本は酒を買っていくことになっていることに気づく。そして長谷部さんの「酒を買いすぎるな」という言葉を今さらのように思い出した。
長谷部さん、ごめんね。