主の一周年記念の、数日前。
山姥切を隊長とする部隊での出陣帰りのことだった。

「前任さまの一周年記念の時は、どがな祝い方をしたんじゃ?」

日本号は、陸奥守から「主就任一周年を祝う参考にしたいから」と相談を受けた。
最近、出陣予定もないのにそわそわ忙しそうにしている奴らがいたが、なるほどその準備に駆け回っていたのかと合点がいった。
日本号は当時を思い出しながら口を開こうとしたが、写真を見せたほうが早いという山姥切の言葉に、陸奥守が前のめりに食いついた。

「写真! そりゃええのう、ぜひ見させとうせ!」

それで帰陣早々、主への出陣報告もそこそこに、山姥切のいる国広兄弟の部屋でアルバムの仕舞われた段ボールをひっくり返すはめになった。
まだ二月も後半に差し掛かったばかりだからか、一度の出陣を終える頃には日が落ち始めてしまう。山の稜線に飲まれつつある赤い太陽が部屋の中を照らして、いっそ愉しげに舞う埃を煌めかせた。

「あった、これだな」

アルバムの山を手分けして漁っていると、日本号の背後で山姥切が小さく主張する。

「おおー、これが主の御父上さまじゃな? 主とよう似ちゅうのう」

陸奥守がしみじみと溢した、その何気ない言葉を背中で聞きながら、今の主の顔と前任の顔を頭の中に思い描いてみる。確かに、似ているのかもしれない。思った以上にぼんやりとしか描けなかった二人の顔を比べてみても、確かな手応えはなかった。
どれ、と山姥切の肩越しにアルバムを覗き込むと、一枚の写真が目につく。
前任が審神者になってまだ一年の頃のメンツが並び、その中央に前任がいた。確か、あいつが持っていたカメラのセルフタイマーかなんかで撮ったものだ。大広間の長押には、流れるような字で「審神者就任一周年」と書かれた紙が貼られていて、その下ではなんとか全員写真に収まろうとする野郎共が押し合いへし合いしていた。

強い西日に照らされた淡いオレンジ色の思い出に、思いがけず胸が潰れそうになる。
一度、強く瞼を閉じて、仕切り直すみたいに、また開く。
何事もなかったかのように、陸奥守に当時のことを説明しながら、なんとなく、今の主の顔が見たいと思った。



初めて違和感を覚えたのは、足元の小さな花が春を告げはじめる、三月の始め。主がここへ来てちょうど一年の日のことだった。

底冷えする風を温くするような黄色い日差しが、春の顔をし始めた朝。
槍部屋の障子をスパンと景気よく開け放った陸奥守吉行の「日本号はおるがかー!」という声が響き渡った。
畳に寝っ転がって朝から酒盛りをしていた日本号の視界の端で、御手杵と蜻蛉切が苦笑いしているのが見える。

「んなでけぇ声出さなくても、見りゃ分かるだろ。ここにいるぜ」
「お、すまんすまん。しかし朝から酒とは景気がええのう」
「んえ? 酒と景気は関係なくないか?」
「景気のええ時に飲む酒は美味いじゃろ、なぁ?」
「うむ、確かに」
「まぁ酒っちゅうもんはいつ飲んだって美味いけんどの」
「はは、朝から飲むのはどうかと思うけどなぁ。同室の身にもなってくれってな」
「がはは、それもそうじゃ」

名前を呼ばれた日本号そっちのけでどうでもいい会話を繰り広げ始めた挙句、自分の行いにケチをつけ出した陸奥守と同室二人に対して咳払いをして、話を制するみたいに手を挙げた。

「で、むっちゃんよ。何か用か」
「おお、そうじゃ。主が、話があるき部屋に来い〜ち言うとったぜよ」
「話?」
「うん。近侍を日本号に頼みたい言うとったき、そん話じゃろうな」

かなりアッサリとした口調で思いがけないことを言ってのけた陸奥守は、重ねてアッサリと部屋を後にしていった。ほいじゃあのー、と手をヒラヒラさせながら部屋を出て行った陸奥守の背中を、三槍揃って目を点にしながら見送った。
空だった頭の中に大量のはてなが湧いてきたのは、部屋が静かになった後だった。

「……急だな?」
「ああ……しかし、主がこの本丸に参られて一年が過ぎようとしているのだ。これを機にもっと我々のことを知って頂ければ何より」
「確かに、そりゃあそうだ。さ、案ずるより何とやらだぜ、日本号」



てな具合で、大男二人に猪口を取り上げられ、ぐいぐい背中を押されながら槍部屋を後にしたのだが、しかし本当に急である。

目の前で正座なんかして、妙に畏っている主は、自分の考えていることを積極的に言うタイプではない。単に口数が少ないというよりは、こちらへの遠慮が透けて見えるような気がする。
命じる、というよりは頼まれる、という言い方のほうが近いかもしれない。

すみません。
お願いしてもいいですか。

遠慮がちなのは、まだここへやってきて一年しか経っていないからだろうか。しかし主人が従者へ物を命じる姿勢らしからぬ腰の低さに、日本号は苦笑するしかなかった。
あの、まだ頬がふくれていた頃に比べれば、なまえもいっぱしの大人らしく背筋が伸びていたが、軍を統べる器としてはまだまだ拙い。自分の立場への自覚が足りていない、と言ったところだろう。一年にも満たない月日の中で、自分の置かれた立場を自覚しろと言うのも無理があるのだろうか。
一年、という時間が長いのか短いのか。人の姿を得てから、その感覚の境目が分からなくなっていたのも確かだった。
なんにせよ、今までは陸奥守にのみ近侍を任せていたのを、急に変えたのには彼女なりの訳があるのだろう。それこそ蜻蛉切や御手杵の言うように、今まであまり関わりのなかった連中のことも知っていこう、とか、そんなん。
聞けばやはり、ひと月ごとに近侍を変え、それぞれの刀のことをもっと知りたい、とのことらしい。それならこっちも多少は歩み寄ってやらなきゃならないのが筋ってもんだ。

「任せな。酒さえ切れなきゃ、仕事はまともにするぜ」
「はは、じゃあいっぱいお酒用意しますね」
「お、話が早ぇな」

助かるぜ、と小さく笑えば、向かい合う相手もまた小さく笑いを溢す。
こうして向かい合ってみて、ようやく答え合わせが出来た気がした。確かに彼女が顔を綻ばせると、前任の面影が少し現れるような気がする。血の繋がりという曖昧なものが一気に現実味を帯びたような気がして、その一瞬がなんとなく、人間じみていて好きだと思った。

「んじゃあ、よろしく頼むぜ」
「あ、はい! よろしくお願いします」

恭しく畳に拳をついて頭を下げてみれば、主も慌てるような感じで頭を下げた。
やっぱ自覚が足りねぇなぁと、半ば呆れながらその様子を見ていた時、日本号はふと、主の耳元で何かが揺らめくのを見た。

単純な興味本位だった。
今まさに下げていた頭を上げようとしている自分の主人のそばへ、膝と膝が付き合うくらいににじり寄り、垂れ下がっていた前髪に手を伸ばし、横に流した。

「おっと、随分と早咲きの桜だな?」

その先にあったのは、桜の花びらを模したようなイヤリングだった。なるほど洒落てんなぁ、などと余裕こきながら冗談めかして言った言葉への返事が、返ってこなかった。
訝しく思い、桜の耳飾りに集中していた視線を、そのすぐ横へずらした。
しまった。
と、その顔を見て、ほとんど反射でそう思った。
ぎょっとしたように見開かれた目と、目が合った。何か言いたげに開かれた口は開いたまま塞がらない。何より顔が、よく見てみれば、いま自分の指先のすぐ近くにある耳まで赤くなっている。

しまった。
なんて思ったことを悟られないよう、あくまでさりげなく手を引いてはみたが、なまえのほうは石膏で固められたみたいに動かない。

「風流だな。桜、好きなのか?」

言葉を失った相手に対しての雑な問いかけ。見え透いた誤魔化しである。
けれど、見え透いていようと、とにかく場の空気をうやむやにしなければ、ここにいられなくなるような気がした。

「はい」

顔を深く俯かせながら、消え入りそうな声で、何とか絞り出せた一言だったらしい。

初めて抱いた違和感は、これだった。



愛、というものにも様々な形がある。
友愛、親愛、それから恋愛。
古来から人は人に、あるいは人ではないものにも愛を注いできた。その想いを歌に込める者もいれば、紙に記して遺す者もいる。
いつの時代にも、なんだかんだで「愛」というものがこの世から無くなることはなかったのである。人と人とが傷つけ合う時代にもそれは存在し、思い合いがあるからこそ生まれる諍いもあった。
感情というものの、なんと面倒なことだろうか。
しかし付喪神だって、悠久の歴史の中、人間から受けた絶えることのない愛の結果である。

自分らの存在が、人の愛という曖昧なものから生まれたこと。
そんな曖昧な存在を形として顕したのが、この本丸の前任であるということ。
そして、自分が人の形を保って、世界に存在し続けていられるのは、今の主のおかげであるということ。
それを思えば、自らの主たちに対してそれなりの愛情を抱くことは、わりと自然なことだ。
と、簡単に思えていた。

違和感を感じた日から、なんとなくだが、今の主から向けられている感情の意味に気づき始めてしまった。
仮にも人の形を得てしまったがために、自分たちは人が抱く感情まで得てしまっている。もはや人の体を得、生き始めている自分たち刀剣男士と呼ばれる存在は、主従だけでない感情を、主に対して抱いている。それこそまさに、友愛や親愛といった類のものだ。
そして、それは主も同じだったのだ。
家族を慕うように、友を思うように、そして、懸想をするように。
そういった感情を、自分たちに抱いている。
殊更に、なまえから日本号に対してのそれは恋い慕う、というそれに近いものだと、日本号自身もうっすらと気付いてしまった。
伸べた手に固まり、頭に血がのぼったみたいに赤みがさした頬。それに気づかないフリをしたこちらの狡猾な思惑も知らず、こちらを見つめ続ける瞳。
思い違いかもしれないかと思って、共に過ごせば過ごすほど、それは確信に変わっていった。

思い違いであってほしいと、思っているのだろうか。
仮にそういう感情を向けられているのだとして、それを受け取ることで、180度世界が変わってしまうとでも思っているかのように、自分は今、主の気持ちから半ば無理やり目をそらし続けている。
近侍を代わった日から、主は時々自分を晩酌に誘った。時折感じる視線も、多分気のせいじゃない。
好意が透けて見えそうになるたび、見ないフリを決め込み続けて、頑なに今まで通りを演じ続けた。

そして、それは本当に突然のことだった。

「あの」

明日には近侍をバトンタッチする、という日の夜のことだった。
三月の終わり、桜はちょうどまっ盛りで、その姿を肴に、なまえと日本号で二人、盃を傾けていた。
小さな盃を卓に置き、背筋を伸ばしたなまえは、日本号のほうへ改まった様子で向き直る。

「ひと月の間、近侍の仕事お疲れ様でした。急だったのにありがとうございます」
「ま、疲れるようなことは大してしてねぇし、毎日酒は飲めたし、礼には及ばねぇよ」
「でも、やっぱり……色々お話も出来て、嬉しかったので。私にとって、昔はじめて日本号さんに会ったこの場所で、またお話出来ていることが未だに信じられないくらいで……」

なまえは一言ひと言、発するたびに赤くなっていく顔を隠すみたいに深く俯く。けれどもう、隠そうとしても隠せないほどに切羽詰まった心情は、膝の上で握りしめた拳からも痛いくらいに伝わってくる。

「次の」
「え?」
「近侍。次はどうするんだ? 代わるなら呼んでこねぇとな」

そば近くに仕える役目が終われば、適度な距離をとれる。
すぐに染まる頬も、焦がれるみたいな、縋るみたいな黒目からも。控えめだけれど胸の内が見え隠れする言葉からも。
目を逸らすことが容易くなる。
そうすれば、気づかないフリもしなくていい。無駄に騒つくこともない。

「あ、の……次は、長谷部さんに、と思ってます」
「長谷部な、ちょっと待ってろ」
「へ?」
「呼んでくるわ、せっかくだし俺の時みたいに二人で酒でも飲めば、あの堅物とも少しは一緒に働きやすいんじゃねぇか?」

気持ち悪いくらいに舌がよく回る。
逃げるための口実が、酒の回った頭の中に湧いてすぐ、口先からこぼれた。
よっこらせ、と立ち上がろうとした日本号の腕を、なまえは慌てて抑えた。

「い、いや、あの!」
「何だ?」
「まだ、話したいことが……」
「それは、今じゃないと駄目なことなのか?」

わざと低く、潜めたような声を出せば、なまえは怯んだように身を固くした。
思った通りだ。主には、それを簡単に口に出すことができない。

小賢しいと言われようと、ここから逃げたくてたまらなかった。
人を愛しているけれど、自分は決して人ではない。
そんな自分が、主から確かな想いを告げられてしまえば、槍として存在している自分が揺らぐような、そういう怖さがあった。
今まで触れたことのなかった感情を向けられることには、やはりどこかで違和感が生じる。所詮は物であるのだと、言われずとも分かっていることを余計に自覚させられそうで、その感覚はできれば避けたいものだった。
全部見なかったことに、聞かなかったことにしよう。
はっきりと言葉にされることさえなければ、想いが形になることもない。形がなければ、どんなものでも曖昧で在れる。それを自分は、よく知っている。
腕に添えられているなまえの手をとり、それを押し戻そうとした。

「好きです」
「へあ?」
「好きなんです」

ギリギリまで追い詰められた結果、用意していたたくさんの言葉をすっ飛ばした先の本音だけを見せたなまえの黒目が、いつの間にやら自分の姿をはっきりと写していることに、日本号は今さら気づいた。ずっと俯いたままだとばかり思っていた分、今度はこっちが怯む番だった。
一方の日本号は、あ、と口を開けたままの、間の抜けた顔をしたまま、いつぞやのなまえみたいな固まり方をしている。
唐突に投げつけられた言葉が脳天に突き刺さったまま、中途半端に上げかけていた腰をゆっくりと、というよりは、腰が抜けたみたいな有様で、へなへなと下ろしていく。

「……いや、あの、違うんです……本当は、もっとちゃんと言おうと思ってて……」

短い一言をはっきりと口にしたくせに、その言い訳を探り探りで話そうとするうち、やっぱりしぼんでいく言葉に、主はまた視線を下げていった。

「もう、後悔したくなくって……」

なまえがぽつりと呟くのを、日本号はおうむ返しで尋ねる。

「後悔?」
「言えないでいた、やらないでいた後悔が、あとでどれだけ大きくなるか思い知ったから……」

父親のことだろうか、と咄嗟に思ったが、それだけではないのかもしれない。みょうじなまえという人間が生きてきた人生をほんの一部しか知らないのだから何とも言えないが、はっきりと告げられた想いの強さは多分、山積みになった哀しみや苦しみを超えてきた彼女の芯の強さがあってこそだ。物には物の事情があれば、人には人の事情がある。
今の俺ときたら、どうだ。
不器用なりに真正面から勝負をかけようとしていた相手に背中を向けようとした。逃げ出そうとした。一年前、暗がりの廊下で俯いていた主が今、自分と真っ向から向き合おうとしていたのに、それを無碍にしようとしたのだ。

改めて想いを言葉にされた今、尻尾を巻いて逃げ出そうとしたついさっきとは、明らかに胸のうちの雲行きが違っていた。妙な話だが、はっきり口にされたことで、むしろ雲は晴れている。
人間が言葉を生み出したのは、こうして、感情をそのままストレートでぶつけるためなのかもしれない。たった四文字の言葉にアッパーカット並みの衝撃を受けながら、そんなことをぼんやりと考えた。

今にも泣き出しそうななまえの目を、日本号は片方の手のひらで柔らかく覆い隠した。

「わっ、何ですか?」
「とりあえず謝らせてくれ。俺はあんたを見くびっていた節がある」
「え……」
「あんたが、ここまでハッキリ物を言えるタチだとは思ってなかった。その分ちょっと驚いててなぁ」
「はあ……」
「だから、何だ……あんたの言葉に、すぐには返してやれない」

息を飲んだのか、主の喉のあたりが、少しだけ動いた。目を隠してしまったので表情は読み取りにくいが、こちらが向けた言葉に対して、なんとなく全身が強張ったように見える。
結局、俺自身まだまだだってことだ。
なんせ、まだ四半世紀そこそこしか生きてないような人間に、何の言葉も返せず白旗をあげている体たらくだ。

「未熟者なんだ、きっと。あんたも、俺も」
「……そう、なんですか?」
「ああ。だから少し時間をくれないか」

目元を覆っていた手をそっと引くと、目をまん丸くした主と視線がかち合った。
緊張したように真一文字に結ばれていた口が、おずおずと丸く開いていく。

「返事、待っててもいいんですか」
「ああ」

答えは必ず、導くから。
主が泣き出しそうな、けれど心の底から嬉しげな表情を見せてくれたことに、少しほっとする。この時、自分は一年前からこの人に、出来るだけ笑って過ごしてほしいと思っていたのだと今さらのように気がついた。

桜が散れば、あっという間に夏が押し寄せてきてしまうのだろう。季節が巡るのは、いつの世もあっという間だ。答えが出るのがいつになるのか、その検討すらつけられない。
けれど、投げかけられた「好き」という言葉が胸の内で温度を失わないことは、何かの手がかりになるのかもしれないから。
生温い風が桜を散らし尽くそうとする春の夜に、向けられた瞳も、魔法のような言葉も、その全てを、ひとつも残さず覚えていようと思った。