この感情に名前をつけてはいけないような、そんな気が、もうずっとしていた。
日本号さんに近侍をお願いした日からか、審神者になった日、日本号さんと話をした夜からか、それとも、もっとずっと前からだろうか。
分からないけれど、止められない想いをそのままに踏み出してしまった一歩は、もう引っ込みがきかなくなっている。にっちもさっちもいかない状況で、それでもなお自分の気持ちに名前すらつけられずにいた。

「恋なんじゃない?」

そんな迷いも、翳りの一切も、全て吹き飛ばす乱藤四郎・会心の一撃に、体ごと吹っ飛ばされたような気持ちになっていた。



日本号、近侍初日。
開け放った障子戸の向こうに広がる昼間の中庭から、梅の香をのせた温い風が漂ってくる。

「私、実は昔、日本号さんのこと普通に本丸専属の庭師か何かだと思ってたんです」
「あー、その話な。前任から聞いてるぜ。失礼極まりねー話だよ」

締まりのない声で全く、と独りごちながら、縁側に座り込んだ日本号は何杯目かも分からない盃を傾けた。
日本号はこちらを振り向きもしない。
政府から月初めに提出するよう言われている書類を片付けているのを、知っているのかいないのか。新たな近侍のそんなマイペースさに苦笑して、なまえはいまだ埋まらない真っ白な紙に向き直った。

陸奥守から日本号へ、近侍のバトンが渡されたのは今朝のことだ。
床が軋む音が徐々に執務室へ近づいてきて、心の準備が整う間もなく「入るぞ」と言う低い声と共に、日本号がやってきた。鴨居を気にしながら腰を屈めて執務室に入ってくるのを眺めながら、なんだかとんでもないことをしてしまったんじゃないかと今更なことを考えた。
ちゃんと、納得してもらえそうな説明をしなければ。こちらの余計な思惑に勘付かれでもしたら、これからの仕事にも支障が出かねない。
乱や加州に「似合っている」と褒められたことがある服をわざわざ選んで着てみたり、お気に入りの桜の花びらのイヤリングをつけたりなんかしてしまった、その理由も、決してバレてはいけない。それだけは、どうしても避けなければならなかった。

目の前にどっかりと腰を下ろした日本号に、昨日まで近侍を務めていた陸奥守と話したこと、本丸のみんなのことをもっと知るためにも、これから一ヶ月ごとに近侍を交代していくつもりだということをあくまで事務的に説明する。
そのトップバッターが日本号であることについての理由は、上手く説明できない気がしてあえて飲み込んだ。適当に御宅を並べてごまかすことも出来たかもしれないが、余計なことは言わないで済むなら言わないほうがいいに決まってる。
幸運なことに、その辺りの理由を深く掘り下げられることはなかった。

多分、最難関だと思っていたところを難なく通り抜けられて、気が抜けていたんだと思う。

「んじゃあ、ひと月の間よろしく頼むぜ」
「あ、はい! よろしくお願いします」

畳に拳をついて頭を下げる日本号に、なまえも慌てて頭を下げた。
波風立てず無事に近侍の交代を終えられたことに胸を撫で下ろしながら、顔を上げようとした時。
ふと気づくと、日本号との距離がさっきよりも明らかに近くなっていた。

あ、日本号さんが近づいてきてたんだ。

頭の中で思うのとほぼ同時に、自分の左の耳元に手が伸びてきた。

「おっと、随分と早咲きの桜だな?」

早咲きの桜、という言葉の意味を、一瞬遅れて理解した。
あ、イヤリングのことを言っているんだな。
ようやく気付いて、何か言わなければと頭を働かそうとしても、適切な言葉が何一つ思い浮かばないほどに平静を欠いた。

節くれだった長い指が、顔の横に垂れていた髪をかき分けている。
厚い手のひらと自分の頬との間には、ほんの少しの距離しかない。

触れるか触れないかの距離にある手のひらから未知の温度が伝わってくるような気がして、自分の体を巡る血や肉の全部が、いっぺんに沸騰した。

「風流だな。桜、好きなのか?」

何事もなかったかのように手を引いた日本号に、上手い返しが何も思い付かず、絞り出すように「はい」と答えることしかできなかった。



今朝起きたばかりの出来事だ。

結局、特別妙なことにはならずに済んだ。日本号はいつも通り酒を飲んでいるし、なまえはいつも通り仕事を進めている。
ごまかせた、とは思わない。
多分、お互いのいつも通りを守るために、相手に相当気を遣わせていることは、なまえも気付いていた。
そういう気遣いのできる槍であることに救われながら、同時に少なからず傷ついている自分の身勝手さも、イヤというほど分かっていた。目を逸らしたいけれど、日本号が近くにいればいるほど、自分の厄介な感情にどんどん気づかされていく。

大変失礼なことに、昔むかしは庭師だと思い込んでいたこと。
春の陽気に負けた、いかにも子どもらしい眠り顔を見られたこと。
幼い自分のどうしようもない無防備な様を晒したこと。
寝顔をじろじろと眺めてしまったこと。
なんとなく気まずいような、歯がゆいような、幼い頃の曖昧な感情に、現在進行形で形の異なる別の感情がどんどん上乗せされていっている。
一年の間、日本号という槍のことを少しずつ知っていくたび、気持ちはどんどん大きくなった。
短刀に飛びつかれても案外寛容で、脇差の頭を通り過ぎざまに撫でくりまわしたりする気安さもある。槍同士で話している時の表情は力がすとんと抜けていて、お酒があると、いつでもどこでもやっぱり上機嫌。
何となく目で追い始めてしまうと、それが癖みたいになってしまって一年が経ち、今に至る。それがかなり一方的な行為だということは、ほとんど目が合わないことから自覚せざるを得なかった。
そうして日本号と自分との距離感に気づくたび、あの、春の昼間のひと時を思い出す。そして、つい考えてしまうのだ。
私がまだ小さかったあの頃に戻れたら、と。
あの時たしかに、大人も子どもも、人も刀も関係なく、温い光に目をこするような、幸せをそのまま大気に混ぜ込んだような空気がここにもあったはずだ。
お互い何も知らなかったからこそ、日本号との間を隔てるものは何一つ無く、自分のもみじのような手のひらですら、彼に届いていたはずだった。
今はどうだろう。
少し腕を伸ばせば手は届く距離だ。
小さな頃よりも、一緒にいる時間は遥かに多いはずだ。
なのに、その大きな体が遠く思える寂しさの正体が、私には分かっている。
大きな背中も、手も、癖のある柔らかな髪の毛も、多分あの日から、ずっと焦がれていた。

日本号さん。

声に出して名前を呼んで、手を伸ばしたら何か変わるのだろうか。
心の中で繰り返しその名前をなぞれば、胸は苦しくなるのに、それ以上に甘やかな響きを持つ気がした。



「しっかし、執務室だいぶ変わったよな」

夕飯のため、大広間に向かう廊下の途中で、日本号は思い出したように口を開いた。

「模様替え、むっちゃんや乱ちゃんが手伝ってくれたんですよ」
「なるほど、あのマイクロビーズクッションってのか? あのソファはいいよな」

日本号の口から「マイクロビーズクッション」という言葉が出てきたのがちょっとだけおかしくて、大きな背中の後ろでこっそり笑ってしまった。
なまえが主になった日から、日本号が執務室を訪れるのは出陣後の報告時だけになっていた。じっくり部屋の中を見たのは今日が初めてだったためか、しばらくは部屋の中に新たに増えた本棚やテレビ台を、まるで博物館の展示物でも見るみたいに物珍しげに見ていた。最終的に、人をダメにするソファに体を沈み込ませながら「あ゛ー……」と温泉にでも浸かったみたいな声を出していたのを思い出す。

「あ、主さん、日本号さん! お疲れさま!」

廊下の曲がり角から、跳ねるようにパタパタと飛び出してきた乱の姿に足が止まる。
乱は駆け寄ってくるなり、日本号にちょいちょいと小さく手招きをし、背伸びをしながら何やら短く耳打ちした。日本号が素早く頷いたかと思うと、乱は一瞬のうちに行われたやりとりを目線で追うことしか出来ずにいるなまえの手を取った。

「主さん、ボク今から厨に甘いお酒取りにいくから、一緒に来て!」
「あ、うん……て、あれ、日本号さんは」

手を引かれて、訳も分からず走り出しながら元いた場所を振り返ると、日本号は乱となまえを見送りながら目を線にしてヒラヒラと手を振っている。
え、なんですかその微笑ましげな顔は。

なんだかとってもご機嫌な乱の様子に若干困惑の汗をかきながら走り続け、誰もいないらしい真っ暗な厨にたどり着く。入り口近くを手で探って、電気のスイッチを入れた。

「ちょっと待っててね、主さん」

確かこの辺りに、と呟きながら棚を物色し始めた乱は、ホワイトに青の水玉がいかにも甘いお酒ですよ、なパッケージの瓶を取り出した。

「あった、これこれ!」
「可愛いね、なんのお酒?」
「ヨーグルト風味なんだって、美味しそうでしょ?」
「へえ、初めて飲むかも。楽しみだなぁ」

じゃあ戻ろうか? と問うなまえの目を、何故か嬉しげにじっと見つめたまま、乱は動こうとしない。

「主さんは、何で日本号さんを近侍に選んだの?」

どうしたの、と問おうと開いた口の形のまま、顔の筋肉が固まった。

「日本号さんって、主さんにとってどういう存在?」

何か言おうとしても、取り繕う暇さえ与えてもらえずに次の質問が来て、急な展開に戸惑うことすらできず頭がこんがらがった。
何で日本号さんを近侍に選んだか。
日本号さんは、私にとってどういう存在なのか。
二つの質問の答えがニアリーイコールになることを見透かしているかもしれない水色の瞳が、蛍光灯の灯りできらきらと輝いている。

誰にもバレたくはないと思っていた。
大勢の中から「特別」を選び出す行為は仕事をやりにくくするかもしれないし、単にひけらかしたくなかったのもある。下手に広まってしまえば、相手にだって迷惑がかかるだろう。
出来る限り、しまっておくべきものだったはずだ。
勘のいい刀から見れば、今回近侍に選んだ相手が不自然であることは明白だったかもしれない。そう思うと、なおのことまずいことをしてしまったような気がして、なんとかしなくてはと焦る。気が急くほど、体中の熱が顔まで昇ってくる。それで、余計に焦る。
自ら負の連鎖にハマっていくのが、あまりにも無様だ。
「返事がないのが返事になっちゃうよ」と明るく言われて、喉を塞いでいた固唾を飲み込んだ。どこまでも察しがいい。

「主さんが日本号さんに抱いてる気持ちってさ、ひょっとして恋なんじゃない?」

名前をつけたくなくて、ごちゃごちゃ理由をつけながら散々目を逸らし続けていたその感情に、めちゃくちゃあっさりと名前をつけられてしまった。
なんとなく分かってはいたくせに、改まって言われると雷に打たれたみたいな衝撃を受けてしまって、身動きすらできなくなる。

恋。
この感情が恋なんだとしたら、私の初恋は。
日本号さんを庭師だと勘違いした日から始まってしまっていたのかもしれないのだ、この感情は。
つまり、初恋が地続きでここまで来てしまったのだということになる。
初恋。

「……負けた」
「え、主さん何に負けたの?」
「乱ちゃんに……」
「ボク別に勝負してたつもりはないんだけどなぁ」
「いや、何か……人として」
「人じゃないよ、ボクは強くてチャーミングな刀だよ!」

語尾を楽しげに弾ませる乱を前に、やっぱりどうあってもこの子には勝てないことを思い知らされた。センスがあって勘も良くて、可愛くてキラリと鋭い、粟田口の小さな刀。
恋、というのをほとんど認めてしまったみたいな返事に、乱は満足したように目を細めて頷きながら「大丈夫、誰にも言わないから」と安心させるようにゆったり語りかけた。

「あ、でも気付いちゃったからには応援するからね!」
「えっと、でも、私……日本号さんに何か言ったりするつもりはないよ」

細めていた目をまん丸に戻した乱が「どうして?」と問う。もう隠す必要がないと分かると、すんなりと口が開いた。

「だって、恋って結局特別を選び出すことだから。率いる立場でそれは身勝手だし……それに、日本号さんにも迷惑がかかるかもしれない」

波風立たない今の関係で充分なんだと、心の中で言い聞かせるようにして目を伏せた。

「逃げちゃダメだよ、主さん」

延々と続いていきそうな言い訳の連なりを断つみたいな、きっぱりとした物言いに顔を上げる。強い言葉のわりに、乱の目は柔らかく細められていた。

「出会って言葉を伝え合えるって、ホントにステキなことなんだから!」
「言葉を、伝え合う……」
「そう! ボクたちは物言えぬ道具だったから、余計にそれが解っちゃうんだよね」

優しい語り口だからこそ、余計に胸に染みる。
言葉を持たなかった彼らだからこそ、分かる言葉の重みがあるのだろうか。
人間は集団で生きていくための手段として言葉を得て、何万年もの時が経っているという。言葉とは、太古の昔から連綿と受け継がれてきた、気持ちを繋ぐための手段なのだ。だというのに、人間ときたら未だにそれを使いこなせずにいる。
果たして自分がしてきた言い訳は、正しい言葉の使い方なのだろうか。もちろん言い訳とはいえ本心ではある。だけど、やはりどこか逃げたい気持ちがあったのも事実だ。
行き場のなくなった言葉には何の意味もないことを、私は十分に思い知っていたじゃないか。

「それに、ここが刀の集う本丸だろうとどこだろうと、恋なんてどこでしたって身勝手なものじゃない? きっと」
「身も蓋もないなぁ」

付け足すように言った乱の言葉に苦笑いしながら、自分の気持ちを伝えない理由をみんなに押し付けようとしていたことにも気付いて、なまえは自分がどこまでも勝手だったことを思い知った。それでもなお背中を押そうとしてくれる目の前の小さな刀に、これ以上の不義を重ねるのはあまりに野暮だ。
今すぐではなくとも、どれだけ時間がかかろうとも。

「少しずつになっちゃうかもしれないけど」

なまえの言葉に、乱が何度も頷く。

「それでもいつか、ちゃんと伝わるよ! 必ずね」
「うん、ありがとう乱ちゃん」

好きだという気持ちは、言わでも伝わることもある。けど、だからといってきちんと伝えず逃げるのは、もう嫌だ。
父に届けられなかった言葉が今も暗く沈み続けている胸の中で、いま、恋と名づけられた感情がほっと灯った。
たとえ、一方通行で突き放されても構わない。身勝手で格好悪くても、なんだっていい。強く強く、ただ伝えたいと思えた。

「あっ、いっけない! 主さん、急いで!」
「えっ、今度は何?」

いーからいーから! と手を引かれながら厨を飛び出し廊下を走る。
さっきからやけに目まぐるしいが、そういえば乱ちゃんと日本号さんが何やら耳打ちしていた件。あの謎が解けずにいた。
恋をしている相手からの突然の接触やまさかの乱藤四郎恋愛相談タイムに加え、これ以上何があるというのだろうか。
一つ角を曲がった先の大広間から、何やら大勢でざわついている声が漏れ聞こえる。

「さ、主さんの御到着だよ!」

乱が障子戸を威勢よく開け放つ。

「主、一年間お疲れ様!」

本丸の刀みんなから同時に送られた労いの言葉に、拍手の嵐。
色々ありすぎてすっかり頭から抜けていたが、そういえば今日が一年の区切りその日だったのだ。
長テーブルの端ギリギリまでご馳走が犇いていて、お酒も大量に用意されている。何故かすでに栓の空いたお酒もあるし、すでに顔が赤い刀もいくらかいるのには目を瞑った。
今剣が「ほら、みてください!」と指差すほうを見ると、大広間の長押に「審神者就任一周年!」と筆で豪快に書かれた紙が貼ってあった。きっと陸奥守の字だろう。
一年頑張ってきた実感が今更じわじわと湧いてきて、思わず頬が緩む。

「わあ、すごい。なんか照れるな……」
「照れちゅう場合じゃないぜよ、ほれ!」
「わっ」

陸奥守が、自分の顔より一回りも二回りも大きい花束をほとんど押しつけるように差し出す。

「おまさんもわしも、ここに来て一年じゃ。いつまでも新人顔はできんのう」

挑発的な笑みを浮かべて、陸奥守はなまえの顔を覗き込んだ。
厳しい言葉は、常に前を向く刀だからこその言葉だと分かっている。自分にも他人にも厳しい、けれどどこまでも優しい刀だからこその言葉だ。

「うん、ありがとう。私、もっと頑張るから」
「よっし! わしも気合入れていくぜよ!」

主の席はわしの隣じゃ! と腕を引かれながら、あっという間だった一年を思った。
この、広いようで狭い本丸という世界の中で、拙いなりに精一杯やってきた。また巡る一年が、この一年と同じように、あっという間に過ぎてしまうのか。
まだ見ぬひととせがどう過ぎるのかは、自分次第だ。

少しずつになっちゃうかもしれないけど。
もっと頑張るから。

誓った言葉が嘘にならないように。
もう、後ろは振り向かない。