人の身を得た日のことは、色々な意味で忘れられないだろう、と思う。

陸奥守吉行。
人の身を得て、この本丸に来て、初めての朝のこと。
寝癖で右へ左へあらぬ方向に跳ねまくった髪をそのままに、陸奥守は昨日あてがわれたばかりの自室から飛び出した。
目指すは、主の執務室である。
昨日、主と山姥切と浦島とで歩き回った記憶を頼りにドタドタと足音を立てて走っていたら、すでにきっちり目を覚ましていたらしいジャージ姿のへし切長谷部に叱られた。すぐさま早足に切り替えたが、早く主に会わねばならないと、そればかり考えていた。

夜中ずっと、気にかかっていたことがある。
無論、主のことだ。
あの場所、執務室で山姥切と話した時から、主の纏う空気はあからさまに変わった。
「執務室はここがいい」と言った笑顔はまことで、嘘はなかったと思う。だが、それから後、慣れない場に対する緊張だけではない何かが、自分の主を苦しめているように思えてならなかった。
思えば、すぐにでも話を聞いてやるべきだったのかもしれない。
しかしこちとら人間の器一日目、まだまだ人の心というものに対しての確固たる自信がなかった。付喪神などと大層な呼称があるのなら、それに応じた力がもっともっと欲しいと思うのは、我儘なのことなのだろうか。
神だというのなら、人の心のひとつくらい読めたってええじゃろうに。

考えてすぐ、もげそうな勢いで首を横に振った。
人の心は、読めぬからこそだ。もどかしくとも、もどかしいからこそ互いを思い合い、その思いを繋げようとする。それが人間のあるべき姿であり、人間のおかしみであり、愛嬌でもある。そんな人間だからこそ、愛おしいと思うのだ。
これが、刀としての自身が信ずるもの。
人としてまだ半人前だとしても、これが刀として生まれてから今までの刃生観である。人生、刃生。うん、よく言ったもんである。

足をせかせか動かし続け、ようやくたどり着いた見覚えのある障子戸を前に、肺の奥深くまで浸透させる勢いで息を吸い込んだ。
そうして思い切り吸い込んだ息を、細く、出来るだけゆっくりと吐く。時間をかけて深い呼吸してみると、熱の上がっていた鉄が落ち着くみたいに、頭の中がくーるだうんしていった。

この本丸の、前の主の初期刀である山姥切の、板を入れたみたいに真っ直ぐな背中を思い出す。あれは、主人の最期の時まで折れず曲がらず支え通した、立派な初期刀の姿であった。
自分がこれから、あのみょうじなまえという名の主にとって、そういう刀とならなければならないのだ。
意を決し、戸の向こう側へ声をかける。

「主、起きちゅう……って、何しちょるんじゃ?」

戸をひいた陸奥守の目に飛び込んできたのは、何故か執務室の真ん中で腕組みしながら俯く主の姿だった。
何をするでもなくぼんやりしている姿を訝しんで声をかけると、主ははっとしたように顔を上げた。不安ばかりの初日にずっと一緒だった初期刀の姿を目に留めてか、ほっとしたように力の抜けた声を出した。

「なんというか、やっぱり父の部屋らしいなぁと思って」
「ちち……ああ、父! 前任さまのことじゃな」
「そう、ちょっとシンプルすぎるなぁって。本当に、必要不可欠のものしかないや」
「あー、確かにの。ほいたら……模様替えなが?」

昨日、顕現してすぐのうちに、敬語はくすぐったいし陸奥守「さん」もどことなくざわざわするから、と言っておいたのを、一夜越してもきっちり覚えていてくれたらしい。いちいち喜びそうになりながらも、改めて部屋をぐるりと見回した。
壁際には隙間なく深いこげ茶の本棚が並んでおり、部屋のど真ん中には執務用の文机が鎮座している。そして部屋の端にいくらか積んである赤紫の座布団とは違う赤茶色の座布団が、文机の前にちょこんと置かれていた。
それだけの、質素、いや「しんぷる」な部屋だった。

「気分転換はええことぜよ。わしも手伝うし、みんなぁにも手伝うてもろうて、の!」

部屋を見回しながら主の元へ歩み寄り、薄い肩を片手で軽やかに叩くと、小さく笑みが返ってきた。
刀が部屋の模様替えをしちゃいけないなんて法はないのだ、自分が真っ先にこの主の手を引かずしてどうする。
ここは前任さまの部屋だったのかもしれない。けれど、今はもう、主の部屋になったのだ。

主は何色が好きなんじゃ?
女子はいつの世も彩り美しい服をこじゃんと持っちゅうじゃろう、箪笥が足りんかもしれん。
そうじゃ、平べったい座布団じゃのうて、もっとふわふわした何かがあったってええじゃろう。

こうして変わっていく未来を喜べることの、なんと嬉しいことだろうか。
そうして陸奥守は、胸の奥底からふつふつとこみ上げてくる喜びを奥歯で噛み締めるようにして笑った。

「じゃあ、模様替えする時はお願いしようかな」

頷きながらそう言う主の顔からは、そういえば昨日抱えていたらしい苦しみは薄らいでいるように見えた。

「よろしくね、むっちゃん」
「おう、任せちょけ!」

握った右手でドン、と胸を叩いてみせた。
心の底を見せてくれたみたいな、嘘のない笑顔が見られて、自分にとってはやはりそれが一番なのだと思った。



一年前のことがこうも懐かしいと感じるのは、人の身を得たからだろうか。

「忙しいのう、人は」
「本当にね、ようやく落ち着けそう」

一年前のことを思い出しながら漏らした感嘆は、主にとってはいま現在の状況を示すものに聞こえたらしい。
主が審神者になってから、もう何度目かも分からない研修を終えて本丸に戻る頃には、庭の石灯籠に明かりが灯っていた。執務室で『人をだめにする』と噂の小さなソファに腰を沈めた主は、目を閉じて両の腕をぐん、と真上に伸ばした。

主が審神者になってからの一年は、酷と言っていいほど忙しなく、あっという間だった。
出陣におけるシステムや鍛刀のやり方、配合など、覚えるべきことは山のようにあったし、出陣や遠征の命は当然、審神者の仕事に慣れるのを待ってはくれない。そのほか演練への参加や新たな仲間を迎えるにあたっての準備などなど。
何より苦労させられたのは必修の研修である。ベテラン審神者に話を聞く講演会や正しい歴史を学ぶための長ぁい講義など、泊まり込みの研修も多かった。挙げ句の果てには宿題まで出て。
主の、審神者として初めての一年は、審神者の仕事より研修で走り回っていた時間のほうが多かったんじゃなかろうか。
それも、ようやく落ち着く兆しが見えてきていた。
主はよく頑張った。鬼のような忙しさにも、人をだめにするらしいヤバめのソファにも負けず、だめにならずにここまで走ってこられたのだから。

主と対面するように置いてある、もう一つの人をダメにするソファに腰を下ろすと、確かに立ち上がる気力を奪われていくような心地がした。恐るべし、人をダメにする力。

「ほうじゃ、主。話があるんじゃ」
「ん? なに?」

陸奥守は一旦ソファからずるずると体を落として、改めて畳の上に胡座をかき直した。

「近侍のことなんじゃが」
「近侍?」

わざわざソファから降りて体勢を整えてくれた主に、頷きながら言葉を続ける。

「そろそろ研修やらなんやらも片付いてきて、くつろげそうじゃき。わし以外の誰かに近侍をバトンタッチして、みんなのことももっと、もっと知っていく……っちゅうのもええんじゃあないかと思うての」

こちらの提案に、主はぱちぱちと目を瞬かせた。
ここ一年、近侍はずっと自分が務めていた。単にそういう役割をわざわざ切り替える暇がなかった、というのもあるが、主とその初期刀、この長く続く本丸においては「同期」であるという意識が強かったせいもあるかもしれない。
共に学び、共にあっちへこっちへあくせく走り回る仲間として一年を共に過ごした。
けれど、主もそろそろ他の刀たちと過ごす時間をとってみてもいいのではないか、と思ったのだ。
もちろんこの一年は自分にとっても、忙しくとも充実した時間であった。主に一番そば近いところで、人の体をもって共に駆けた時間はきっと得難く有り難いものだ。
けれど、せっかくこれだけ多くの刀が人の体を持って、一堂に会しているのだ。物であろうが、言葉を持って、それを交わせるのであれば、そうしなくては勿体ないではないか。

「そっか、そうだよね……言われてみれば、私みんなとじっくり話したこと、あんまりないや」
「ほうじゃろ? ちょうど明日は主が審神者に就任して一年の日じゃ、区切りもええし」
「確かに、いいタイミングだね」

じゃあそうしよっか、と頷く主が、自分の提案を前向きに検討してくれたことに内心ほっとした。
実は、他の刀剣数振りから散々近侍の仕事を羨ましがられていたのだ。ちょっとした優越感はあれど、気持ちも分かる。
話によれば、どうやら前任さまは気分でちょくちょく近侍を変えていたらしい。なんとなく出来上がったそういう仕組みの中で過ごした彼らが、前の主の娘ともっと話す時間が欲しいと思うのは、ごく当たり前のことだろう。

「ほいたら、次の近侍は誰がええじゃろ。主は何か考えちゅうか?」
「あ、うん……」

一言返事をしたきり、主は小さく顎を引くように俯いて、しばらく考え込むような素振りをした。
ややあって、えっと、と後ろめたそうに口ごもりながら、ちょっと意外な名前を口にした。

「日本号さんに、お願いしてみようかな」
「日本号! して、その心は」
「えっ」
「いやー、なんじゃ、予想外じゃったき。何でじゃろうかと」
「あー……うん」

言い淀んで視線を右上に泳がせる主は、しかしすぐに顔を俯かせてしまった。それでもなんとか持ち直したようで、口元に手をやりながらもポツポツと理由をこぼし始める。

「ええと……審神者になった初日に、ちょっと話を聞いてもらって……それで、なんというか、また話がしたいなぁと思った、というか」
「話?」
「うん。お父さんの話とかも聞かせてもらって、励ましてもらった……って、私は思ってるんだけど、だから何というか、またお話できたらなぁ、と……」
「なーるほど」

うんうん、と涼しい顔で首を縦に振りながら、しかし内心ではちょっとした焦りが生まれていた。
もはや、煮え切らない言葉尻こそが何よりも理由を語ってしまっていた。さらにダメ押しするみたいに、俯きがちな主の頬がだんだんとほのかな朱に染まっていく。
まだ、まだ確証はないにしても、ひょっとしたらそうかもしれないという本当の「理由」にたどり着いてしまったような気がして、今度はこっちが後ろめたくなる番だった。

今まで、全く気がつかなかった。
それは主と日本号が一緒に過ごしているところをあまり見たことがなかったからであって、主ときたら日本号の話をしているだけでこれである。これじゃあ、向こうに主の気持ちがバレるのも時間の問題なんじゃなかろうか?
それに、近侍を交代して、日本号と共にいる主の様子を見て、果たしてみんなにそれを気づかれずに済むのだろうか? 主の今の挙動からして、積極的にその想いを押し出したい訳でもなかろう。
かといって、想いを隠すこともできないくせに、それでも懸命に踏み出そうとする主の一歩を邪魔するのは野暮だ。
膝を叩きながら、出来るだけなんてことない感じで口を開いた。

「よっし! ほいたら明日の朝、わしは日本号を呼びに行くき、主は部屋で待っちょれ」
「うん、ありがとう」

主は安心したように胸を抑えながら息を吐いた。
まだ、主の気持ちが本当に分かったわけではないにせよ、主が日本号に歩み寄りたいと思っている。それは確かなのだろう。その好意の形が、果たして自分の想像通りのそれなのかは分からないが、主が新しい一歩を踏み出すならば、背中を押すのはまず一番に自分でありたい。
主の笑った顔が何より一番だと思う自分が、願うことはただ一つなのだから。

目の前ではにかむこの人の気持ちが、少しでも良い方向へ向かっていきますように。