『好きなの?え?』

あの日の、照代ちゃんの声を思い出す。まるで魚が勢いよく跳ねるみたいな元気な声に、私も元気をもらった気がした。

私は伊作が好きだ。
善法寺伊作という男が好きで、それ以前に、人として好きだ。
そうなったのは、多分。




善法寺とよく話すようになったのは、確か忍術学園3年の頃だ。
私は今4年。正確に言えば、今日、空気の緩んだ春の陽射しの中、新たな学年に進級をした。4年になってからは、私たちを受け持つ先生が変わった。黒の衣に身を包み教壇に立つ彼女は、進級を祝う挨拶を簡単に済ませ、赤い唇の端を上げ、さて、と言葉を続けた。

「さっそくですが、進級した貴女たちに、4年生最初の課題です。いきなりで申し訳ないですが、学園生活も折り返しに来ました。モタモタしていられませんよ」

先生がおっしゃったことに、はっとして、目が飛び出そうになった。そうだ、もう、いつの間にか学園生活の半分を過ぎてしまったのだ。私たちはすでに忍術学園の折り返し地点に立たされていた。そのことに、言われてようやく気付いた私は目だけで隣に座る友人を見た。彼女も私と同じことを思ったのか、はたと目が合う。ほんの少しだけ肩を竦めてみせると、彼女は小さく口角を上げた。

「さぁ、課題の内容ですが…とりあえずざっくり言ってしまいますね。貴女たちには、忍たまたちを誑かしてもらいます」

私たちが進級してまず初っ端に課されたのは、そういう課題だった。つまり、忍たまたちを騙くらかせ。ざっとこんなもんだ。
そういう課題は、今までにもなかった訳じゃない。忍たまに激苦な薬草入りの手料理を食べさせろとか、騙して菓子を買わせに行かせろとか、そんなもん。

でも今回は少し勝手が違った。先生は「忍たまの部屋に忍び込んで、色を使い誑かす」、そうおっしゃった。ああついに来たか、と胸のあたりが重くなった。それとほぼ同時に、前の席の同級生が挙手をした。先生に指名された彼女は、戸惑いの色を滲ませた高い声で質問を投げかける。

「その課題をクリアした、ということを示すには…どうしたらいいのでしょう」
「まぁ…それはこちらで勝手に判断させていただきますわ。貴女たちは期限までに課題を終わらせてくだされば、それで結構です」

先生のアバウトな答えに、クラス内には明らかに不満の色が蔓延した。


なんとなく、くノ一にはそういう仕事があるという話を授業で聞いてはいたのだ。城仕えになれば、当然敵対した城へ情報収集のため忍び込むこともある。調略の手引き、敵対する城の空気に隙を作る、などなど。
男には出来ない「技術」を使って、くノ一は戦を勝利に導く女神になるのです。
滑らかな、撫でるような、蕩けるような口調でそう言った先生のことを、素直にかっこいいと思った。憧れも抱いた。けれどその分、不安も募った。私もくノ一を目指すなら、この人のようにならなければならない。
忍びの仕事に憧れて忍術学園に入ったものの、私はいわゆる「くノ一ならでは」な仕事に未だ抵抗があった。
抵抗というか、恥じらいを捨てられない。多分私はそれが顔に出てしまうのだ。それを私はこの実習で、身に染みて実感した。


普段はほとんど使わないような白粉を使ったり、紅を使ったり。カサついて出来た凹凸が指に引っかかるのを感じながら、唇に紅を引いたのが半刻ほど前。これから向かう部屋にいるであろう相手のことを考えて、胃がずしりと重くなった。

課題の話を聞いた時、真っ先に善法寺のことが頭に浮かんだ。他のくのたまたちも、善法寺ならすぐ騙されてくれそうだよね、あいついかにも優男だし、と冗談まじりにくすくすと笑っていた。級友たちのおふざけにそうだね、と曖昧に笑いながら、私は別の思いを抱いていた。
善法寺が騙されやすそうな男だから、私は彼を思い浮かべたのだろうか。彼の包帯を巻く手や、患者を見つめる柔らかな、けれどまっすぐで意思的な面差しを思い出したのだろうか。
いや、違う。私は多分、善法寺に他の級友とは違う感情を抱いている。言ってしまえば、それは恋情かもしれないし、その言葉一つで言い表せるようなものではないかもしれない。
忍たまたちと開いていく力の差に怯えて焦る私を、救ってくれたのは善法寺だ。彼には、そんな大層なことをしたという意識はないのかもしれない。けれど、七松と手合わせをして怪我をしたあの日、私は確かに善法寺伊作に救われていた。


春を連れてやってきた、生温い湿った風が吹く新月の晩のことだった。頼りなく光る春の星々には地上を照らすほどの力はなく、学園の塀沿いに咲く桜がぼんやりと暗闇に浮かび上がる。
私は課題をこなすべく、善法寺の部屋の天井裏へ忍び込んだ。足音を消すのは、もう当たり前にできることだ。けれど、それと同時に気配まで消せているのか。入学してどれだけ経っても、私にはそれが分からなかった。対象に気づかれないようにしなければ、という緊張で、心臓の動きは分かりやすく早くなる。通常の倍早く動いているのでは、と思い胸に手を当てれば、案の定全力疾走した後のような跳ね方をしている。

「伊作」

だからだろう、そっと部屋に降り立った私の声が震えたのは。いつも善法寺、と呼んでいた。だから、とりあえずなんとかして特別な空気を作ろうと思って、伊作、と名前を呼んだ。なんとも安直な考えだ。
しかし、善法寺が目を覚ます気配はなく、規則正しい寝息を立てながら胸を小さく上下させている。衝立を挟んだ反対側で寝ているであろう食満を起こさないように、喉の奥に圧し殺すような声だったからだろうか。
焦りと苛立ちで半ばヤケになり、仰向けで寝ている善法寺の頭の両側に手をつき、彼の上に跨るような体制になってみた。
もうやるしかないんだ、どうとでもなれ。そうして思い切り顔を近づけ、耳元で再び名前を呼んだ。

「ね、伊作」
「んえ…?って何むぐっ」
「ちょっ静かに!」

デカイ声を出そうとする伊作の口を慌てて手で抑えた。あ、今の口で抑えたりしたほうが評価高かったのかな。先生がどうやって課題の評価をするのか分からないけど、ひょっとしたらどこかで見ていて、それで採点している可能性もある。
しかし、そうだとしてもうるさい口を口で塞ぐなどという技が私に使えるかというと、多分無理だ。そういうこと自体したことがないから、多分とんでもなく下手くそで、善法寺にも呆れられるほどかもしれない。
勝手に落ち込んできた頭を切り替えようと、状況を理解出来ないからか何度も高速で瞬きを繰り返す伊作に、可能な限り甘く、先生の声を真似するように、声を出した。

「ねえ伊作、私ね、伊作のことずっと好きだったのよ。今日なんでここに来たかわかる?」
「…なまえ」

善法寺の口を抑えていた手をどけた途端、彼の口は私の名前を紡いだ。
善法寺の、猫の目のような瞳が、太陽の照る空を仰ぎ見る時のように細められ、薄い、桜の花びらみたいな唇が数回形を変える。それらを見ただけで、私の顔はかっと熱くなった。だというのに、善法寺はゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れた。
どうしよう、もう戻れない。いきなりそういう仲になってしまうのだろうか。自分から仕掛けておいて何を今更。生半可な覚悟でこんなことをして、善法寺にも私自身の想いに対しても、申し訳ない気持ちが心の奥底に湧いてきた。こんな気持ちのまま、私は善法寺と。

「ちょっとむくんでる?顔」
「……はぁ?」
「いや、なんかそんな気がして。血行が悪いのかも」

言いながら、ぺちぺちと私の頬を触りまくる善法寺は、私の下で普段となんら変わらない気まぐれな猫みたいな目で、さらさらとなんでもないような口ぶりだ。

「あ、あんたねぇ!むぐ」
「あ、ちょっと、留三郎が起きちゃうから!」

善法寺の手が、私の口をぐい、と塞いだ。すっとするような、辛いような、色んな薬草の匂いがする手だ。鼻の奥が冷えるような匂いは爽やかではあるけど、ずっと至近距離で嗅いでいると鼻の奥まで薬を塗られたような気さえしてくる。早く離してほしくて何度も頷けば、善法寺はすぐに手を離してくれた。

「そういえば今日、打撲した時のための塗り薬を作ったんだった。匂った?」
「うん…眠気覚ましにはちょうどいい匂いだと思う」
「なるほど。じゃあ今度会計委員会に眠気覚ましの薬として売ってみようかな。予算の足しになる」
「いやちょっと、何で普通に会話してんの」

善法寺は私に跨られたまま平然と会話をしている。そして私も普通に受け答えをしてしまった。他の人が見たら顔が引き攣るような訳が分からない状況だ。

もう、ここから課題をクリアできるような雰囲気に持っていける自信がない。持っていく気も起こらないほど、なんだか気が抜けてしまった。善法寺にしてやられたような気分だ。誰だ、善法寺ならすぐに引っ掛けられそうとか言ったのは。
もう何もする気が起きなくなって、私は善法寺の上から退いて、そのまま善法寺の横にごろりと転がった。頭の上に持っていった腕からもだらりと力を抜いた。

「…私なにやってんだろ」
「それ僕のセリフじゃない?君なにしてるの?」
「ほんとにね」

半笑いで適当な受け答えをする私を、善法寺は半身を起こして見下ろした。何?というと、善法寺は立ち上がり、私に手を差し伸べた。

「起きて」
「もう何もやる気が湧かない」
「いいものあげるから」
「善法寺のいいものなんてどうせアレでしょ、骨格標本」
「なんでそうなるのさ。違うよ、美味しいものだよ」
「こんな時間に美味しいもの食べたら太るじゃない」
「太らないものだよ。僕が取ってくるから、みょうじさんは待ってればいいから」

いつまでも渋る私に、懲りることなくほら、と手を差し伸べ続ける善法寺に根負けして、私は闇に柔らかく浮かぶ、少し大きな手を掴んだ。