「あれ…?」

目の前でご飯を食べていた伊作の目元がぴく、と動く。柔らかい顔立ちに、ほんの少し綻びが生じた。表情が、強張っているのが分かる。
ご飯が、いつもの半分も食べられなかった。米粒一つ残したくないという気持ちとは裏腹に、私の胃はそれを受け入れてはくれなかった。これ以上食べれば、多分、ちょっと、良くない気がする。

「ごめん、ちょっと残すね」
「うん…まぁ、無理して食べるのも良くはないしね」

そう言って口角を上げつつ、伊作の瞳はやはりどこか落胆の色が滲んでいる気がした。
朝、鳥のさえずりに目を覚ました時から、肺のあたりに痛みがあった。胃も、なんとなくいつもより調子が良くない。お腹は空いている。空っぽなような気がしていた。だからそこを満たしたいと思うのは当然のことなのだが、食べれば食べるほどに、私の胃はそれを拒否した。胃の中に入っているものが激しく渦を巻くような、それが体の内側で嵐のように暴走している奇妙な違和感。

「横になる?」
「うーん…」
「無理しないほうがいいよ。そうだ、ちょっと今までとは違う薬を煎じよう。薬草、取りに行ってきてもいいかな」
「いいよ、そんな。ちょっと休めば」

大丈夫、と言おうとするのを遮るように、ドンドンッ、と激しい音が響いた。
それが戸を叩いている音だと、一瞬間をおいて気づいた。伊作と顔を見合わせる。伊作は眉間に深く皺を寄せて、ここへ来てから見せたことがないほどに険しい顔をしていた。二人して身を固くしていたが、戸を叩く音の、その向こうに人の声が聞こえてきた。耳をそばだててみると、それは女性のもので、私には聞き覚えのあるものだと気付いた。

「ちょっとなまえ!いるの、いないの!?いるなら返事!して!」

どこか泣き出しそうに、それでいて怒ってもいるように声を荒げているのは、紛れも無い。

「照代ちゃん…?」
「あ!なまえっ?なまえー!ちょっと、開けて!顔見せなさい!」

なおも続く扉連打に眉をひそめる伊作は、私が頷くのを見て、しぶしぶ立ち上がり、土間のほうへ向かった。
伊作が戸を開けてすぐ、その来客は伊作の顔を手でグイと押し退けて、ドタバタと履物を脱ぎ捨て、なまえなまえと繰り返し私を呼びながらこちらへ駆け寄ってきた。

「わーっなまえ!もう!なにしてんのよ!!」
「照代ちゃん、何で…?」

フリーター忍者、北石照代。以前、忍術学園で教育実習をしたこともあり、フリーの若手という共通点もあってか、私は何かと彼女に良くしてもらっていた。色んなことを教わったし、一緒に仕事をさせてもらったこともある。歳も四つ違いで、本当の姉のような先輩。
だから私は彼女のことを照代ちゃん、と呼んでいる。でも、照代ちゃんの名前を口にするのも久しぶりなような気がした。駆け出しの私に散々目をかけてくれた照代ちゃんにも、何の恩も返さないままに、私はここへ来てしまった。

「私だってやる時はやるってこと!なまえのいるところなんか、すーぐ分かるんだから」

照代ちゃんは、私はなまえの先輩よ?と、小首を傾げて片目を瞑ってみせた。その茶目っ気のある仕草に、私はどこか安心していた。様々な場所で仕事をこなす彼女は、きっと目まぐるしい日々の中で色々な思惑や感情に揉まれている。でも、彼女はちっとも変わっていない。

「あ、うーんと、北石先生」
「え?ああ、あんた確か、乱太郎と同じ保健委員の…」
「善法寺伊作です…それにしても、よくここが分かりましたね」
「まぁね、私もなんだかんだこの仕事長いから、本気を出せばこんなもんよ。あんたたちより断然キャリア長いんだからね、私」

むん、と得意げに胸を張る照代ちゃんに、伊作は微妙な笑顔を浮かべ、乾いた笑いをこぼした。

「うん、うん。そうだな…北石先生。僕ちょうど、薬草を採りに行こうと思っていたんです。なまえとゆっくりお話でもしていってください」
「あら、そうなの。いってらっしゃいな」

照代ちゃんはそんなことどーでもいいやい、とでも言いたげに、手をひらひら振った。伊作は苦笑いを浮かべて、不意に私のほうを見た。そして困ったような笑みを浮かべ、いってきますと、外へ出て、静かに戸を閉めた。
とん、と戸が閉まる音がしたきり、急に静寂が降りてきた。気づくと、私のそばに座る照代ちゃんは、唇を噛み締め、むくれていた。さっきまでの勢いはどこへやらな、そんな照代ちゃんにじぃっと見つめられた私は、おろおろとまごついてしまった。

「照代ちゃん…?」
「なまえ、私怒ってたのよ、そういえば」
「そ、そういえば」
「そうよ!勝手にこんなところに引きこもっちゃって!見ない間にこんな痩せちゃって!なんなのよ、もう…酷いじゃない、私には何も言わずに」

照代ちゃんは、どんどん勢いを無くして、肩を落としていって、終いには顔も見えないほどに深く、俯いてしまった。
そうだ、見えていなかったのだ、結局。自分がこんなになるまで、周りがどれだけ自分を想ってくれていたのか。伊作も、食満も、照代ちゃんも。
もっと早く、こんなになる前に気付けていれば、ちゃんと想いの渡し合いができたのかな。これから先もずっと、先が見えないほど膨大な長い、人生という時間の中で、助けたり、助けられたり。考えてはみたものの、馬鹿な私はきっといつまでも気づくことなく、漫然とした日々を生きていただろう。
こんなのはいけない感情かもしれないから、誰にも言えないけれど、ほんの少し、こんな気持ちに気づかせてくれた自分の病に感謝すらしていた。これは、私の体と共にある病と分かり合えてきた証かもしれない。分からないけど、私自身はこの気持ちを大切にしたいと思い始めていた。
照代ちゃんは、小さく鼻をすすって、赤らんだ目を隠そうともせずに、バッと顔を上げた。

「だって、水くさいじゃない!私が来なかったら、私ずっと、なまえに会えずに…んもう!」
「ごめん、本当に…照代ちゃん、私ね、ちょっと…その、病気で」
「いいの、なんか…ね、分かっちゃうから。言わなくて、いいの」

照代ちゃんも、知っているのか。一転して落ち着いた口調で言われてしまって、目元のあたりがじわじわと熱くなっていく。

「ごめん、照代ちゃん、ごめんね」
「ホントよ…あんな、なよなよーっとした優男風なんかと一緒に住んじゃって…」
「優男風て」
「で、なに!好き同士なの!あの男」
「照代ちゃん急に元気になる…」
「だって何であいつがいるのよ、ちゃんと説明なさいな。好きなの?え?」
「うーん……秘密かな」

なにそれ!と身を乗り出して伊作について聞こうとする照代ちゃんを前に、私はその時、ただの年相応な女に戻れた気がした。確かに、まだ私や伊作くらいの男女が一つ屋根の下、となれば、気にするなというほうが無理かもしれない。

「あ、そうだ」
「ん?なに、なまえ」
「あのね…ちょっと照代ちゃんに手伝ってほしいことがあるの」



「ただいま…って、あれ?北石先生は?」
「今日は帰ったよ、また来るって」

土間のほうから、床で休んでいる私のほうへ声を投げかける伊作は、小さく、ふぅん、また来るのか、と独りごちた。何話してたの?と何故か訝しげに問う伊作に向けて、私は少しだけ身を起こして、ふふん、と笑ってみせた。

「秘密!」