善法寺は、部屋を出てすぐに私にここで待つよう言い、走っていってしまった。途中、何かに躓いて転がりそうになったが、そこは一応忍者のたまご。物音一つ立てずに立て直した。
そんな善法寺も、すぐに暗闇の中に消えていった。することのない私は、縁側に腰掛けて、彼を待つことにした。

課題はクリアならず。補習は確実だろう。はあ、と思わず大きなため息が出たが、すぐ後ろの部屋で食満が眠っていることを思い出して、慌てて口を抑えた。さっき善法寺にしたみたいだ、されたみたいだと思った。
つい先ほどまでのことを思い出し、急に羞恥心の大波に飲まれて、私はとうとう真顔を保てなくなった。にやけそうなのか羞恥で歯を食いしばりたいのか。自分でも何がしたいのわからなくなり、誰に見られる訳でもないが、思わず手で顔を覆い隠した。一人で百面相して、はたから見たら馬鹿みたいだろう。
善法寺の手は、想像していたより冷たかった。すっとする薬草の香りの所為もあるかもしれないけど、まるで水を溜めた水瓶みたいにひんやりとしていた。それは不快感はなく、むしろ人を落ち着かせるような力さえあるように思える。私の顔がかっかと熱くなっていたのもあるかもしれないけど。
変な例えかもしれないけど、まるで神様かなにかみたい。でも、あんな不運な神様いるはずもないか。ふ、と小さな笑いがこみ上げる。

「何笑ってるの?」
「なんでもない、てか急に声かけないでよ。驚くじゃない」

意図的なのか忍たまの性なのか、気配を暗闇に溶かして戻ってきた善法寺は、声をひそめる私を見ながらしかめっ面を作った。

「全然驚いてないじゃないか」
「気づいてたから」
「まぁいいけどさ。そんなことより、はい、どうぞ」

どこへ行っていたのかは分からないが、おそらく医務室だろう。戻ってきた善法寺は両手に一つずつ、計二つの湯呑を持っている。彼の部屋の前で腰を下ろしている私に、片方の湯呑を差し出した。

「ありがとう…わあ、すごいいい香り」
「よかった、桜茶だよ」
「へえ、風流」

縁側から外へ足を投げ出して座る私の隣に、善法寺が胡座をかいた。正座できっちり座っているイメージがあるのだが。その何気ない動作が、なんとなく気を許してくれているようで嬉しい。隣からは、ほんの少しだが緩やかな風にのって、医務室特有の香りが漂ってきた。

「塩漬けにしてあるのが医務室にいくつかあるんだ。血行促進とか、心を落ち着かせる効果があるんだよ」
「薬にもなるんだ、知らなかった」
「意外なものでも薬になるし、毒にもなるんだ。薬草の勉強は面白いよ、すごく面白い」
「二回言っちゃうくらい面白いんだ」
「うん、そりゃもう」

無意識なのだろうけど、自然に強くなった語尾が、善法寺がどれだけ真剣に楽しんでいるのかを物語っている。

「で、なんで今日はここに来たの?」
「え」
「だってさ、実は…」

は、という口の形のまま、善法寺は固まってしまった。次の言葉がそこから出てくるのを今か今かと待っていたが、彼は目を閉じて大きなため息をつき、やっぱりいいや、と首を横に振った。釈然としないその言葉に、今度は私がしかめっ面になってしまう。なんだそれは、全く納得がいかない。

「実は何?気になるじゃないの」
「いや、ちょっと、あんまり…全然、面白い話じゃないから…」
「善法寺、言わなきゃ手裏剣打つ」
「何でそうなる」

二人であれやこれやと言葉を交わす、そのすぐ後ろから、食満が寝返りを打ったのか、衣摺れの音がした。二人して自分の口元を抑えながらしばらく様子を伺ったが、それ以後、食満が動くような気配はしなかった。どうやら起きた訳ではないらしい。

「…で、何なの?」
「いや、実はさ、今日みょうじさんの他にもくのたまが何人か来たんだよ」
「…え?え、嘘」
「ほんとに…」

嘘、とは言ってみたものの、級友たちはああ言っていたし、それは当然のことなのかもしれない。

「その度に逃げ回って隠れて、大変だったんだよ。気配がしたら部屋を出て、医務室の押入れやら喜八郎が掘った穴の中やら…」
「それただ落ちただけじゃないの?」
「とにかく、大変だったんだよ」
「はは、で、私からは逃げらんなかったのね」

ご愁傷様、というと、善法寺は乾いた笑いをこぼした。

「もうどうせ失格だろうし、可哀想な善法寺には教えてあげる。試験よ、色仕掛けで忍たまを誑かせ!っての」
「はあ、なるほど」
「みんな善法寺なら簡単にクリア出来そうって言ってた」
「心外だなぁ…」

確かに、善法寺にしてみたら不名誉極まりない話だ。ため息まじりに、善法寺はまた心外だ、と繰り返した。

「みょうじさんは、もう失格なの?」
「分かんないけど…先生がどこかで見てるんだとしたら失格なのは確実でしょ」
「なるほどね」

先生が見ているかもしれない、という私の言葉を受けてか、善法寺は辺りをきょろきょろと見回す。それから顎に手を当て、少し考え込むような仕草をしてから、奇妙なほど真剣な顔になった。

桜茶が半端に残っている湯呑を縁側に置くなり、善法寺は私の肩に手を置き、その腕に力を入れた。薄闇の中で善法寺の顔ばかり見ていた私の視界は急にぐらりと揺れて、気づけば私は善法寺の腕の中にいた。
さっきまで、闇に浮かび上がる桜の、頼りない薄明かりの中にうっすらと見えるばかりだった善法寺を、いま私は自らの皮膚で感じている。善法寺の白い寝間着を映す目、寝間着に染み付いた薬草の匂いを敏感に感じとる鼻、人の温もりや厚みを実感する皮膚。体全てで、人を感じているようだ。
薬の香りは鼻の奥をひやりとさせるのに、私は顔どころか体中が一気に熱くなる。汗が滲んで匂いが気になったが、そこは薬の匂いに助けられた。
そんな私の様子に気づいていないのか、善法寺は私の耳元に口を寄せて、ほとんど声になっていないような、空気みたいな声で囁く。

「まだ分からないよ、なまえ」
「…は、は?」

善法寺が、私の名前を呼んだ。
耳から体の奥のほうに響くみたいな感覚がこそばゆくて身動ぎをしたが、離れることはできなかった。訳がわからず頭が混乱したが、私の背中をゆっくり撫ぜる善法寺の手つきは意外にも穏やかなもので、徐々に冷静さを取り戻していった。
まだ分からない、とは。話の流れ的には試験のことだろう。そういえば、先生はまだ見ているのだろうか。
見て、いる。

「もし先生がまだ見ているならさ」
「…なるほど。すごいわ、伊作」

善法寺に習って、私もわざと彼の名前を、気持ち大きめに呼んでみた。
まだ先生が見ているなら、今からでも挽回できる可能性があるわけだ。しかし、これからどうするべきか。善法寺にばかり任せていられないだろう、これは私の試験なのだから。

「ね、善法寺…ううん、伊作」
「なんだい?」
「これからは、ずっと伊作って、名前で呼んでもいい?」

互いに、名字で呼び合う関係から名前を呼び合う関係に。二人の関係が変わったことをあからさまに示すためには、いい策だ。我ながら咄嗟によくやったと思う。どうせ茶番なら、堂々としてやろうじゃないか。

「もちろんだよ、なまえ」




ガタガタと家中が軋む。家中のあちこちで雨漏りをしているせいで、水瓶や皿に雨水が滴る音が四方からする。野分だ。

「飛ばされそうだね」

言いながら、伊作は私の肩を抱く腕に力を込めた。
こうして伊作の腕の中に収まるのは、学園にいた、あの時以来だった。伊作は、ここに来てからこういう触れ方はしなかった。今日、いつものように眠ろうとした時のことだ。空が黒い雲に覆われ、全てを空に巻き上げるような風が吹きはじめた時、伊作は私のそばに寄ってきた。
相変わらず薬の匂いが漂ってきて、しかしそれが、今はとても居心地がいい。

「ホントに…大丈夫、かなぁ」
「また留三郎に来てもらうようかもね」
「ああ、いいね」

咳が出て、息が詰まった。伊作の腕に、さらに力がこもって、少し苦しくなる。学園にいた頃より、胸板とかは厚くなったかもしれない。久しぶりに伊作を目にした時も、体格が少し良くなったように見えていたが、触れてみるとそれはかなり顕著だ。固いけれど、しなやかさもある。それに、触れたところからじんわりと温かくなるような気もする。全身が、善法寺伊作という人間を感じている。あの時のように。

「伊作、桜茶、また飲みたいな」

伊作が、返事をしない。代わりに自分の頭を私の肩のあたりにぐい、と押しつけてくる。まるで寝つけない子供みたいなその仕草がおかしくて、伊作?と笑いまじりにもう一度名前を呼んでみた。変わらず返事はなく、代わりに息を詰めるような、押し込めるような呻きが小さく聞こえた。
ようやく、伊作が、堪えていることに気づいた。大丈夫だよ、と言葉にするのは容易い。でも、それを簡単に言ってしまえないほどに体が以前のように動かないのも、自分自身がよく分かっている。結局、何も口にすることができないまま、私は嵐の音に耳をそばだてた。
遠くで雷鳴が低く響くのが聞こえた。早く、こっちへ来てほしいと思った。どんな音も消し去って、大きな雨粒をたくさん落として、紛らせてほしい。そう願わずには、いられなかった。