「じゃあ留三郎、そろそろ行くね」
「……本当に行くんだな」
「うん」

伊作がみょうじの元へ行く、最期まで共に過ごすと知った時。
愚問だと分かっていても、聞かずにはいられなかった。みょうじはもう助からない。最終的にその瞬間がやってくることは、ごく当たり前のこと、自然の摂理であった。

俺は、伊作とみょうじが本当のところどういう関係なのか、二人の間の距離感を測りかねていた。互いを好いているような空気を匂わせながら、夫婦になる気配はなく、情を通じることもない。
確か、俺たちが忍術学園4年生の頃。くのいち教室で行われた実習の課題だかなんだかで、みょうじが忍たま長屋の、伊作と俺の部屋に忍び込んだことがあった。あの後、伊作もみょうじも何も聞いてこなかったし、俺には気づかれていないと思っているのだろう。あれで気づかないほどの鈍感だったら、俺は今頃、城になんか務めることが出来ていないだろう。毎日走り回って転げ回って、まだまだ新人ではあるのだが。
あの日の二人の会話を半ば不可抗力で全部聞かされることになった俺は、二人が名前で呼び合うようになった経緯を知っている。
決して二人が恋仲になった訳ではない、ということ。

けれど、二人が形容しがたい、何か特別な想いを互いに抱いているのも、なんとなく分かっていた。
だからこそ、伊作がみょうじの元に行き、その時が来るまで共に暮らすというのは、簡単に出来ることではないのでは、と思った。それは、最終的に、伊作の心に必ず何らかの傷を残すのでは、と思ってしまったのだ。
そんなのは、きっと伊作自身が一番分かっている。
それでも行くと、はっきり言い切ったのは、やっぱり。伊作、お前は。



伊作が俺の務める城にやって来たのは、山が燃えるように赤く色づいた、ある深秋の日のことだった。
やってきた伊作は袈裟姿だったが、それをあちこち土まみれにして、さらに紅葉を大量にひっつけて、なんというか大層な居立ちだった。その所為で城の見張りに散々怪しまれたのは仕方のないことであると言えた。
大体何があったか予想はつく。大方どこかの木に足でも引っ掛けてけっつまずいて、そのままゴロゴロと紅葉が敷かれた地面の上を転がった、とかなんとか。まぁ、そんな感じだろう。顔もかすり傷やら泥やらが、頬に額に、あちこちついている。
当の本人は意外と平気そうで、眉を八の字にしながら、しかし口元には笑みが浮かんでいる。とりあえず井戸で顔を洗ってくるよう、伊作の背中を押した。

伊作が来た訳は、すでにわかっている。あいつが病床に臥せっているみょうじを放って歩き回るような奴じゃないことは、俺がよくわかっている。
それならもう、答えは一つしかないではないか。


「なまえが死んだよ」

厨の脇に、小さな卓が置かれた、ちょっとした話をするのにもってこいな座敷がある。そこへ伊作を通すと、用意された茶を一口啜るやすぐに口を開き、ゆっくりと、けれどはっきりと、そう言い切った。

「そうか…」
「うん」
「……大丈夫か」

何がだよ。もっと何か、言い様があるだろうが。
心の中で自身に向かって悪態をつきつつ、しかしそれ以外に何と言ってやれば良いのか分からない。

「うん。なまえのお母上にも会ってきた。それから学園にも行ったよ」
「そうか、疲れたろ」
「いや、久しぶりに仕事以外で色々歩けて、なんか……疲れは、しなかったな。色んな人に会えたし」

話しながら、伊作はずっと笑っていた。
始め、それは哀しみを覆い隠すための、表面的なものなのではと思っていたが、どうもそんな雰囲気でもない。学園で、仲間内で馬鹿をやっていた俺たちを見守っている時のような、怪我をした者の手当てを無事終えた後のような。そんな、ごく自然な笑みった。

「……伊作、一つ聞いてもいいか?」
「ん?」
「お前は…伊作は、みょうじのことが好きだったのか?」

聞くなら今だと、何となくそう思った。ずっと、何年も聞けずにいたことだ。

伊作はややあって、手にしていた湯呑みを置き、小さく口を開いた。
言葉を紡ぐため、薄く開いた唇から空気を吸い、一瞬、伊作は目を伏した。その目の下に、うすく睫毛の影ができる。
その瞬きは、彼らが共に過ごした、短く、長い時間を、そこに閉じ込めたような、そんな瞬きだった。

「うん…好きだったよ。大好きだ」

伊作は、口の端をく、と上げ、目元を子供みたいにくしゃりと崩して笑った。差し込む太陽の光が、伊作の輪郭をぼやかす。袈裟が白く光って、少し眩しい。
そうか、と言うより先に、伊作が口を開いた。

「最後まで、彼女は彼女だったよ」
「ん?」
「不器用だけど、どこまでもまっすぐ、強くあろうとしていた」

みょうじはみょうじらしく、最期を迎えられたのだ。それは多分、伊作のおかげなのだろう。なぁ、そうだろ、みょうじ。
二人は今も、一つなような気がした。

「それから、遺してくれたものもあって……」
「遺してくれたもの?」
「…ううん、これは秘密、だな。留三郎にも」
「なんだそりゃ」

訝しく思い首を捻る俺を前に、伊作は愉しげに笑うばかりで何も教えてくれなかった。でも、そんな伊作の様子に、俺も少し、心が晴れた気がした。

「じゃあ、そろそろ行くよ」
「え、もう行くのか?」
「うん、ちょっと調べたいこととか、行かなきゃならないところがあって」

忙しい奴だ思いつつ、俺自身も明日からまた戦支度に走り回らなければならない。

俺たちには明日がある。
生きるために動き、働かなければならない。噴き出す汗をそのままに流して、上司に叱責されれば小さな憤りを感じ、けれど自分の目指すものを見据え、そうして生きていくのだ。



城の門を出て手を振る伊作が、紅葉の山の中に吸い込まれていくまで、その様を見送った。

俺は天に向けて、ぐん、と腕を伸ばした。背中や首の筋肉が解れていき、体中が柔くなるような心地良さを感じる。
そのまま、綿を引き伸ばしたような雲が浮かぶ淡い空に、手を透かしてみた。

「みょうじ、お前は伊作のことが……好きだったろうな」

忍びのたまごとして心配になるくらい分かりやすかったぞ、お前は。
でもきっと、そんなお前だからこそ、伊作もお前を好いたんじゃないかと、俺はそう思うよ。俺もお前のそういう、強くあろうとしながら、妙に素直で決して器用じゃないところが、いかにも人間らしくて、好きだった。伊作の「好き」とはまた違うものだけどな、同じ学び舎で共に過ごせたことは、決して忘れず、覚えていようと思う。

目を閉じれば、そこにはみょうじと伊作、二人並んだ姿が未だはっきりと、鮮明に映し出される。連れ合う夫婦のように肩を並べ、寄り添い合う二人。
二人が共に居たことを、二人と共に居られたことを、俺はいつまでも心の中に、留めておこう。
そうすることで、みょうじが生き続けることを願って。

枯れゆく終りの秋が過ぎれば、息を潜める生き物の鼓動の音が、近く聞こえてくるような、冬。そして花開き、霞の空に鳥も羽ばたく春が訪れる。水の音絶えぬ雨の日々を超えて、夏が来る。
季節が巡るように、命もまた、巡る。

二人の日々も、また、いつか。