※視点が色々変わります


留三郎が来たのは、とても明るい秋晴れの日だった。以前来た時よりも随分と様子の変わったなまえの姿に一瞬面食らったが、すぐに笑顔で取り繕って、小屋のボロが目立つ部分の修繕を始めた。仕事と仕事の合間を無理に縫って顔を出した留三郎は、大した時間は居られないらしく、「絶対にまた来るからな」とどこか心の内を覆い隠すように声を張って、そうして山道を下っていった。

その日から、なまえの容態はみるみる不安定になっていった。
まず起き上がるのに、必ず助けがいるようになった。背中に手を添えると、見た目からただでさえ頼りなく弱り切った様だというのに、尚のことそれを思い知らされた。あまりに軽い。少し前までは柔らかなほどよい脂肪がついていた背中は、触ると骨が浮いていた。ゴツゴツした感触に、かつて学園の医務室にあった骨格標本が脳裏をよぎった。
一週間、なまえの容態は良くなったり悪くなったりを繰り返した。良いと言っても、ほんの一口、二口分の水や味噌汁を飲むくらいだったけど、そういう日はきまって顔色が明るかった。まだ大丈夫かもしれない、そう思うや、すぐ次の日には言葉を口にするのも辛いという様子だった。

それに合わせるように、自身の心の底のほうも、ゆらゆらと波立った。ここに来ると決めた時、決して彼女を不安にさせるようなことはしまい、と決めていた。そんな思いを乗せた船が荒波に飲まれて沈まぬよう、どう振る舞うか精一杯に考えた。考えながら、毎晩ほとんど眠ることができなかった。

一週間が過ぎ、昏睡状態になった彼女が急に口を開いた。目を閉じながらではあったが、彼女の手を取る僕の名前を、確かに呼んだ。なんだい?と、顔を近づけ答えると、彼女は「明日、ドクタケ城からの依頼で仕事に行くの」と弱々しい声を絞り出した。
記憶が混乱しているらしかった。そうか、気をつけて行くんだよ。震えそうになるのを堪えながらそう言ったが、彼女は少し口角を上げただけで、それきり何も言わなくなった。
その時が来るのは、随分と呆気なかった。

布団に入って目を閉じてはみたものの、結局一睡も出来ずに夜を明かした。目を開けると、まず彼女が目に入る、そんな生活も多分一月、二月ほどになっていた。起きると、毎朝僕は彼女の脈を図っていた。その日も毎朝そうしてきたように、枯枝のように細いその手首に手を当てた。
そうして、僕はようやくそれに気がついたのだった。

白い光が四方から入り込んで部屋の中を飛び回っていた。虚しいほどに明るくて、すでに固まり始めている遺体もどこか生命を持っているように見えたが、触るとやはり冷たかった。
どんな人間でもそうだ。固く冷たくなって、その度に疑問に思う。身体とは、一体何なのか。結局は、生き物の命の依り代に過ぎないのか。何度考えたって、生きている僕には結局何ひとつ分からなかった。
けれど、彼女の遺体を前にして、ひとつだけ分かったことがあった。ただの依り代だとしても、彼女がそこにいたこと。彼女がその中に生きていたこと。身体があったからこそ出来たことがある。それだけは揺るがしようのない事実だった。
その事実が朽ちてしまうより先に、その遺体を見晴らしのいい、山の中の拓けたところに埋葬した。穴を掘っている時は、一瞬、綾部喜八郎のことを思い出しただけで、あとはほとんど無心に近かった。

そんな状態の僕を、空っぽでちっぽけな小屋が迎え入れた。
そこで、僕はそれを見つけたのだ。



「ありがとう、一年くん」

たどたどしくも、無事細い腕に包帯を巻き終え、思わず安堵のため息がこぼれた、そんな時。みょうじ先輩は軽やかな笑顔で、僕の頭にぽすん、と手を置いた。嫌味な感じは、微塵もしなかったと思う。
だというのに、当時一年生だった僕は「一年くん」という呼び方に、必要以上にムッとしてしまった。自分で言うのもなんだが、まだ幼かったのだ。

「数馬です、僕、三反田数馬って言います」

何故だか僕は昔から、もの心ついた時から、なかなか人から名前を覚えてもらえなかった。誰が言ったか忘れたけれど、それには「影が薄い」という、なんとも不名誉な原因があるらしかった。そんな失礼なことを言われたら相手の顔くらいは覚えていそうなものだが、不思議と当時の記憶は曖昧なものしかない。僕にとって欠点でしかなかったそれは、数年後、利吉さんの一言でむしろ誇れることに変わるのだけど、それはまだ先の話。
一年生の頃、まだ幼い僕は、とくにその辺りの話に敏感で、繊細だった。

「うん、知ってる。善法寺の後輩だもんね」
「伊作先輩?」
「うん。伊作、パイセン」

目元をきゅっ、と細めて、いたずらっぽく笑う、自分よりも3つ年上の、くのたまの先輩。その笑顔は、同級生のくのたまたちとは一線を画するものに思えた。なんだかとても、鮮烈なほどに眩しかったのだ。
自分と同じ学年のくのたまは、やたらと忍たまに手厳しい上に手酷い扱いをしていて、とにかくメチャクチャな子ばかりだった。不運委員、もとい保健委員の僕も、何度罠に嵌められただろうか。いちいち数えるのも面倒なほどだ。みょうじ先輩は年上だったから、きっと後輩の僕に対してはからりとした笑顔で接してくださったのだろう。
そんな、秋晴れの空みたいななまえ先輩は、どうやら伊作先輩とは知り合いらしかった。お二人がどんな関係なのか、それを分析できるだけの観察力は当時の僕にはなかったが、今ならなんとなく分かる気がした。お二人で過ごしている時、先輩方の間に流れる空気はとても自然なものだったけれど、どこか甘やかさもあったような気がする。

「それにしても、数馬くんは包帯巻くの上手いね」
「そ、そうですか?」
「うん、すごく。ホントだよ?お世辞とかじゃなくて」

お世辞でも嬉しい、と思っていた僕の胸の内を見透かすみたいな物言いに、僕は肝が冷えた。やっぱりくのたまは怖い。

「い、伊作先輩の指導のおかげだと思います」
「だとしても、よ。善法寺にはない丁寧さがあるよ。ちゃんと噛み砕いて自分のものに出来てるってことじゃない?」

すごいよ、それ。みょうじ先輩は、傷がたくさんついた、けれど薄く細い手のひらで僕の頬をぺしぺし、と軽く叩いた。なんだか母親みたいだ、と思ったことは、未だに心の内にしまっておいている。



「数馬くーん」

聞いただけで気の抜けるような声に、我に返った。
包帯巻き機をぐるぐるぐるぐるしながら、随分と昔のことをぐるぐると思い出していた。もう5年前のことだ。何で今になってそんなことを。分からないけど、なんだか久しぶりに、昔お世話になった先輩に会いたくなったのだ。
振り返ると、医務室の入り口には案の定、小松田さんがいた。ただ、完全に不意打ちだったのは、隣に立っている人。まさか自分の願いが天の神様にでも届いたのだろうか。

「大きくなったねぇ、数馬」
「…伊作先輩!!」

弾かれたように立ち上がり、伊作先輩の側に駆け寄った。
なぜ、急に忍術学園に? 仕事で来られたのですか? 仕事はどうですか? 僕は今、保健委員長を務めています。ああ、そういえばさっきみょうじ先輩のことを思い出していました、伊作先輩はみょうじ先輩が今何をしているかご存知ですか?
色々話したいことがあった。医務室で話すのもなんだし、食堂あたりに行ったほうがいいだろうか。久しぶりに先輩に会えて浮かれる僕は、ふと伊作先輩の目元の隈に気づいた。疲れていらっしゃるのだろうか。

「伊作先輩、大丈夫ですか? お疲れのようですが……」
「数馬、実はね」



「……そう、そうなのね」
「はい、申し訳ございませんでした。文の1つも送らず…」
「謝らないでください、なまえがああいう仕事に就いてから、覚悟はしていたのよ。むしろ、1人で逝くようなことにならなくて、本当に……」

そこで言葉を切り、なまえのお母上は、着物の袖で目元を抑えた。
小さいけれど、多くの人が行き交っている、賑やかな村だった。おそらく、ひと山越えた向こうに城があるためだろう。その村の小さな食事処で、彼女の母上は働いていた。ちゃきちゃきと働き、店中を動き回る無駄のない動作は、やはりどこか彼女を思わせるものがあった。店が落ち着くのを待って、僕は彼女の身に起きた全部を打ち明けた。

「病だったの……」
「はい。僕が行った時にはもう、かなり進行していたみたいで、何も、本当に何も……出来ませんでした」

すみませんでした、という言葉を言おうとしたが、目の奥が熱くなり、喉の奥からは聞き苦しい嗚咽が込み上げて、言葉が続かなかった。涙は落とすまいと唇を噛みしめて、視線を落とす。
果たして僕に、この人の前で泣く資格があるのだろうか。彼女を病から救ってやれなかった僕が、彼女を生み、育てた方を前に、泣く資格も、謝る資格も、そもそも顔を見せる資格だって、あるのだろうか。とにかく彼女の死を知らせなければならないと思い足を運んだけれど、僕は、ここに存在していていい人間なのだろうか。

「何も出来なかったなんてこと、全然ないんですよ」

肩に手を置かれ、咄嗟に顔が上がる。彼女の母上は、目に涙を浮かべ、けれど笑顔で僕の顔を覗き込む。

「さっきも言ったけど、あの子が一人で寂しく死んでいく…なんてことにならなくて、私は本当に、そのことに救われているんですよ。それは善法寺さん、貴方のおかげです」

じっと目を見ながら、丁寧な言葉を投げかけられ、肩の力が緩んでいった。涼しい風が頬を撫でていき、ふと彼女の言葉を思い出した。


私が住んでいたのはね、近くに大きな湖のある、夏でも爽やかな風が吹くところなの。村に帰る時、その湖を見ると、ああ帰ってきたなって思うのよ。

彼女の言う通り、学園からこの村に向かう途中、とても大きい湖に出会った。

息を切らして、鬱蒼とした山道を下っていた時のことだ。木の根に足を取られないよう足元に視線を落とし、脇目も振らず、ひたすらに足を前へ前へと動かしていた。すると急に、風が変わったのだ。湿気を含んだ、ひやりとしたみずみずしい風が吹いて、顔を上げた。そうして気づいた時には、嘘みたいに視界は開け、目の前にはさざ波が揺れる湖がどっしりと僕を待ち構えていた。

君が言っていたのは、これか。

独り言ちて、湖畔に転がっていた大木に腰を下ろした。そこでしばらく足を休めた。四方から聞こえるのは、波の音、鳥の鳴き声、木々が擦れるささやかな音。風に乗って、かすかに人の声も聞こえた。村から流れてくる、威勢のいい商人たちが、客を呼び込む声。

君は、これらを耳にすることで、帰ってきたということを、しみじみ感じていたんだね。


「すみません、僕、そろそろ行かないと…」
「もう行ってしまわれるんですか?」
「はい…まだ少し、行かなきゃならないところがあるんです」
「じゃあ……善法寺さん、ちょっとだけ待っていて頂ける?」



啜り泣くような、ず、と鼻をすするような、なんだかおっかない声が聞こえて、足が止まった。ついさっきまでなかったはずの、何かの気配を、確かに近く感じる。

お前がこれから行く城、向かう道中にある湖の近くな、出るって噂だぞ。

俺に命を下したお頭の、わざとらしく低くした声が、頭の中に木霊して繰り返された。
ドクササコの次なる戦に向け、相手方の城の様子を探ってこいと、そういう仕事が俺に課されたのだ。
これから向かうって時に、わざわざ怖い話をしないで頂きたいものだと思った。あからさまに体が縮み上がった俺の様子を見て、お頭は呆れていた。だって怖いもんは怖いんだから。仕方ないんだ。
しかし人間ってのは不思議なもので、怖いと思うものの正体を明らかにしたくなってしまうものらしい。情けなく止まっていた足を、自分の能力を最大限に使い、音も気配も無くしてそれに近づいた。じりじりと距離を詰める間も、啜り泣きは止まない。いよいよそれの頭が見えてきて、俺はどこか既視感を覚えた。

「あ、お前、忍術学園の保健委員の…?」
「あ、ドす部下さん」
「出会い頭に略すなよ……」

草陰から垣間見たその正体にあまりにも拍子抜けしたせいか、気の抜けた声が出た。気配を消すも何もない、がさがさと草場から身を乗り出して、それに近づく。
なんだよ、普通に人間じゃないですか。無駄に不安を煽ってきたお頭へ頭の中で文句を言いつつ、しかし改めて目の前のそいつの顔を一目見て、ギョッとした。

「お、おいおいなんだ、顔から出るもの色々出てるぞ」

握り飯片手に、両目からは涙、鼻からもなんか微妙に輝いてる何かが流れて、口元には米粒がついている。端正な顔をしているイメージがあったが、くしゃくしゃのぐしゃぐしゃで顔のほとんどがテカテカ光っていて、とてもじゃないが整っているとは言い難い。
一体全体どういう状況だ、飯食いながら泣いていたのか。

「あ、あー、よくあるよな、握り飯の具が自分の好きなものじゃなかったりな、分かるぞ俺は」
「違うので、もう、ほっといてください」
「ええ…お前人が心配してやってんのによ」

しゃくり上げながら、残っていた握り飯を口に詰め込み、水が入っているらしい竹筒をぐい、と煽った。水で流し込むように食べるなんざ。

「…よっぽど不味い握り飯なのか?」
「は?違いますよ、ものすごく美味しいです」
「は?ってお前…」

プロ歴としては俺のほうが長いんだぞ、という無意味な張り合いを心の中にぐっ、と押し込めた。

「じゃあ何でそんな」
「死んだんです」
「死んだ?…誰が」
「大事な人です。なんていうか……」

口が開いたまま、しばらく言葉を探していたようだったが、ついに次の言葉が出ることはなく、静かに唇が閉じていった。閉じた唇はぎゅっと噛みしめられ、若造は首に巻いていた手ぬぐいでごしごしと顔を拭きはじめた。
その様を見ながら俺は、何の考えも無しに口を開いた。が、さっきこいつがそうしたみたいに、俺もまた口を閉じる。二の句が継げないってのはこういうことを言うのか。

そういえばと、いつかの記憶が蘇る。まだ苦無の持ち方も分からず、手裏剣をぽんぽん放り投げて遊んで手を切ったりしていた、新人の頃。
俺も、同時期に忍者になった奴の死体を見たことがあった。俺の何倍も優秀な奴で、だけれど何故かそれなりに親しかった気がする。気がする、程度の記憶なのは、ほんの一時期の話だからだ。
そいつは戦場で采配を振るう味方に城主からの言伝を届ける重要な仕事を任され、その帰りにあっけなく死んだらしいと、遺体を前に事の顛末を聞かされた。火縄ってやつの恐ろしさを知ったのも、確かその時だ。
かたや俺は、ヘボだの白目だのドす部下だの、テキトーもいいとこな呼び名で呼ばれて、今の今まで生きている。ヘボだからこそ生き残っちまった。運が良かったのだ。

「よく分かんないけど…お前、最期は」
「見届けました」
「そっか、それが一番だよな……やっぱ」
「はい」
「お前も色々あるだろうけどなぁ……お前、頑張れよ」

赤く充血した、猫のような目がみるみるうちに丸くなっていく。

この若いのが、今まで何度そういう場面に立ち会ってきたのかなんざ、俺の知るところじゃない。こいつにとってどういう存在がいなくなったのかも知らん。でも、何も言わない訳にはいかなかった。
同情かそうじゃないかと聞かれると、多分半々だ。同情もあるし、ただの少しも力になるとは思わないが、兎にも角にも「頑張れよ」と言わずにはいられなかった。
かつて、同期の亡骸を前にしてガタガタ震えて泣く俺に、お頭がかけてくれた言葉もこれだった。言葉自体は単純なものだった。もっとなんか無いのかよ、と思わなくもなかったけど、多分、凄腕だからこその不器用さを抱えたお頭なりの精一杯の言葉だったのだ。それでも、なんだか俺はその言葉に背中を押されて、ここまで生きているような気がする。

きっとこいつには、そういう言葉をかけるような人間がたくさんいるんだろう。俺が言ってやらずとも、きっと大丈夫なんだ。それでも言わずにはいられなかったのは、こいつとかつての自分とを重ね合わせたからかもしれない。

「……このおにぎりを作ってくれた人、食事処で働いているんです。山を下った麓の村にあるんですけど、美味しいので。行ってみるといいと思いますよ」

いくらか落ち着いたのか、鼻を啜りながらはっきりと、そう言った。

「ほー、じゃあ寄ってみよっかな」
「ぜひ。…目的地は、山向こうの城ですか」
「あー、まぁ」
「……そうですか」

多分、俺がその城へ行くという意味理解したのだろう。一瞬曇らせた表情も、しかしすぐにパッと火を灯したように明るくし、道中気をつけて、と笑った。

「僕もそろそろ行きます」
「そうか、お前も気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」

腰を上げて、一度頭を下げると、俺が向かう方角とは真逆の方向へと歩き始めた。それをしばらく見送り、俺も早々に足を進めることにした。
なんとなく、足がさっきより軽い気がする。あいつが言っていた美味い飯屋とやらにも行ってみようと思う。その飯屋で働いてる人ってのがあいつの知り合いなら、あいつの名前でも出せば安くしてもらえるかもしれないしな。
へらへらと一人笑いを溢して、はたと足を止めた。

「やべぇ、あいつの名前なんだっけ……」