嵐の日、あのままいつの間にか眠りこけてしまったらしく、目を覚ました時にはすでに嵐の過ぎ去った、鳥たちの賑やかな鳴き声が行き交う朝がやってきていた。人の気配がするほうへ体を向けるため、小さく身動ぎする。
文机に向かい筆を走らせていた伊作は、私が起きた気配を察したのか、振り返り、何事もなかったかのようにおはよう、と笑った。いつも通り、目尻を柔らかく下げた、見慣れた笑顔だった。
ほっとしたような、どこか寂しいような気持ちを抱く間も無く、その日、来客があった。

伊作が食満に小屋の修繕を手伝ってほしい、という旨の文を出した、その日。食満ではない、全く別の人物がやってきた。その人物がここに来る理由に、私は覚えがある。


いま、私の目の前で熱い茶がなみなみ注がれた湯呑をぐい、と煽っている男。勢いよく煽った瞬間、つるりと禿げ上がった大きな頭がそのままひっくり返りそうになったのを、見兼ねた伊作が仕方ないというようにため息をつきながら、雑に支えた。支えた手をそのまま前へぐい、と押し出し、男の体を無理やり起こした。

「お前な、もっと丁寧に扱え。仮にも城仕えの忍者隊首領だぞ」
「悪名轟くドクタケの、なんで。この扱いは妥当ですよ、冷えたビール」
「せめて発泡酒と言わんか!!」
「発泡酒でいいのか…?」

ドクタケ城ドクタケ忍者隊首領、稗田八方斎。私が、病で投げ出した最後の仕事を引き受けた城に仕える、私を雇った者だ。

「あの、もう宜しいでしょうか」

すっ、と片手を上げて、伊作と八方斎の阿呆な言い合いを制した。
正直な話、体を起こしているのも結構キツイのだ。話を早く先に進めてほしい。

「ああそうだ、こんなアホな言い合いしとる場合ではないな」

八方斎は、そうだそうだ、と独り言ちながら姿勢を正し、私に向き直る。

「…覚悟はしておりました」
「だろうな。お前は、一度請け負った仕事を放り投げて、こんな辺鄙なところへ逃げたのだ。これでは、我々からすれば、我がドクタケ城の情報を持ち逃げし、相手方の城についたとも思われかねん」

悪人ヅラに似合わず、意外とゆっくりと話すな、と、初めて会った時にも、そう思った。

学園にいた頃、悪い城の忍者隊がある、という噂を何度も耳にしていたが、実際に向き合って話すようなことは、そういえば一度もなかった。
仕事で、初めてその忍者隊首領と会う運びとなったのだ。あの時、とにかくノっている今、名前を売らなければと躍起になって、所構わずに仕事を引き受けているようなところが、なくもなかった。今にして思えば、あの時の自分に、もう少し冷静になれよと声をかけてやりたい。
稗田八宝斎に関しては、とにかく頭がデカイとか、変な名前とか、そんな話は幾度となく耳にしていたから、私なりにどんな人物かをあれこれ勝手に失礼極まりない想像していた。
いざ仕事の内容を聞くため、向こうから指定されたドクタケ城下の町のはずれにある茶屋へ足を運んだら、明らかにそれと分かる人物が店の中で茶を啜っていた光景が今でも忘れられない。つるつるした頭がテカテカ光ってやたら眩しく、広い顔面にいかにも悪人ヅラなパーツが散りばめられていて、店に足を踏み入れてすぐ、それが稗田八方斎その人だと分かった。分かりやすく悪人ヅラなのは忍者としていかがなものかとも思ったけれど。

今、目の前にいる八方斎は、もさもさとした眉を釣り上げて私を見ている。
分かってはいた。その内ドクタケは何かしらの動きを見せるだろう、と。八方斎の言う通り、私は仕事を半端なまま、感情のまま逃げ出したのだ。疑わしきは罰せよが当たり前な世の中で、私はしてはならないことをしていた。

「あの…なまえは」
「あ、茶がもう無いな。もう一杯淹れてくれ」
「……………」

湯呑を押しつけられた伊作は、無言で返してしぶしぶ重い腰を上げた。

「さて、みょうじ。お前、近い内に死んでしまうそうじゃあないか」

随分とまた直球ストレートな。思いながら、今更否定をする気もないし、自分が一番実感しているものだ。はい、と押し出した声は、しかしどこか震えていた。

「すでにその情報は入手していたのだ。ドクタケの重役間で協議もした。戦支度のため、城内に入れた忍者が、そのまま行方を眩ませたのだ。疑わしきは時を待たずに殺すべきだという声も、やはり多い」
「…でしょうね」
「流石に察しがいいな。ワシはな、お前を殺しに来た」

ざらついた低い声に、心の奥のほうを撫でられて、肝が冷えた。病で死ぬより先に、私は死ぬ。目眩がした時のように、視界が鮮やかにチカチカして、耐え切れずに瞼を落とす。
と、いきなりドン、という音と共に床が揺れるような衝撃が走った。驚いて目を開けると、ジトリと顔をしかめた伊作が、八方斎が胡座をかくそのすぐ傍に湯呑を置いている。中身が少し溢れているところを見ると、今の衝撃は伊作が湯呑を置いた時のものらしい。

「お茶です。それを飲んだらすぐ帰れよ」
「ワシは此奴を殺すまで帰るわけにはいかんのだがなぁ」
「そんなつもり、微塵もないのに?」

伊作の言っていることが、よく分からない。私はもう、許されることはないと思っているし、観念もしている。殺す気がない訳はないとは思うが、しかし確かに、目の前の悪漢からは、戦さ場で行き交うような、殺気のようなものが、感じられない。

「昔は忍たまだった者らも、もう一丁前な忍びなのだなぁ。そういう類の嘘はすぐにバレるのか」
「嘘?」
「いや、嘘とは言えないか」

訳がわからず、八宝斎の言葉に思わず首を捻る。嘘、ではない。じゃあなんだというのだろうか。私は、どうなるのか。早く次の言葉が欲しくて、八宝斎の口がゆっくり開くのを、じりじりしながら見つめた。

「お前は、死ぬまで生きろ。その人生を、生きて、終わらせるのだ」

一言一言、丁寧に、地面に瀬戸物をそっと置いていくように、低い声で、そう言った。

「それは…」
「つまりはそういうことだね、なまえ」

つまり私は、生きていていい、ということなのか?

「お前はいずれ来るその時を、受け入れようとしてここへ来たのではないか?そして、お前はその時までは何としても生きたいと、思っているだろう」
「…はい。そう思わせてくれる人が、たくさんいました」

声が震えそうだ。でも、これははっきり言えることだ。
伊作が、食満が、照代ちゃんが。色んな人がここへ来てくれて、私は生きたいと思った。伊作の作ったご飯、くれた言葉、食満が直してくれた小屋、その温かさ、泣いてくれた照代ちゃん。それらを受けて、私は最後まで足掻きたいと思った。

「でも…何で」
「放っておいても死にゆく者にわざわざ手をかけることもないだろう。あとは…歳をとったということか」
「歳…ですか?」
「まぁもともと慈悲深いところもあるハートウォーミングな悪党だからな、ドクタケ忍者隊首領として部下にも慕われ殿からも信頼を寄せられその上」
「よかったじゃないか、なまえ」

最後まで聞かんか!!と喚く悪党は目を吊り上げ、伊作に食ってかかっている。しかしその心の内は、ひょっとすると、とてつもなく深いのかもしれない。温かい、とは違うと思う。伊作のような温かさとはまた違う、その心は多分、本人が言うように慈悲なのだろう。こんな私を憐れむなんて、悪名高い忍者隊首領の名が聞いて呆れる。でも、だからこそこの人は、人の上に立つ立場になれたのだろう。

それから八宝斎は、二杯目のお茶を飲み干して、さっさと帰り支度を始めた。意外にあっさりしたものだと思ったけれど、病人だからという甘さのない、そんな他人行儀にどこかほっとさせられた。この人と私の距離は、それでいいんだ。もともと深く関わりがあった訳じゃない。今だってそうだ。
でも、私が生きるのに確かに必要なピースのひとつになっていた。短いようで長い人生の中、ほんの一瞬の関わりだったけど。そんな思いを込めて、背を向けた八宝斎に向けて、一度、深く頭を下げた。その動作は見えてはいなかったと思うが、八宝斎は土間へ向かう足を止め、小さく「達者でな」と呟いた。
小屋を出る時、伊作と少し言葉を交わしていたようだったけれど、その場を動く気力が湧かず、よく聞こえなかった。



「お前は何でここにいるんだ」
「へ、僕?」
「お前以外に誰がいる」
「何でって……」
「当ててやろうか」
「………元保険委員会委員長、なんで」
「…阿呆みたいなごまかしをするな、全く」