小さな火桶の中で白く燃える炭が、かろうじて耳に届くか届かないかという小さな音を立てる。パチパチと鳴くそれを、遠くではしゃぎ回る下級生たちの声がかき消した。縁側に腰を下ろしたまま地面に置かれた火桶に両手をかざすと、凍えた指先が次第に解れていくのが分かった。手をこすり合わせながら空を見上げると、冷え切った空気のおかげでどこまでも澄み渡る青空に、白い半分の月がぽっかりと浮かんでいる。
潮江が帰ってきてもう5日ほどが経ったが、私はあれ以来療養中の潮江に会いに行ってはいない。

潮江が帰って来た時は素直に嬉しい、という感情だけがそこにあった。体中傷ついていようとなんだろうと、潮江が生きて、ちゃんとここへ帰ってきた。心臓が動いていた。単純に、ただそれだけで良かったのだ。
けれど時間が経ち、気持ちが落ち着くにつれ、私は次第に怖くなった。また傷だらけの潮江を見ても、私は忍びとして生きていきたいと思えるだろうか。潮江が志す道を、私は止めることなく見ていることが出来るだろうか。
私が、私たちがいく道はそういうものだと理解していたつもりだった。常にその命は不安定で、少しでもバランスを崩せばすぐに真っ逆さま、きっと昇れはしない、堕ちるだろう。
だから私は潮江に自分の気持ちなど伝えたことはなかった。言葉にしなくとも伝わってはいるという確信があった、というのもあるが、そうした関係性をはっきりさせることが怖かったのだ。仮に潮江と特別な仲になったとして、私はきっと、途端に臆病になり、心が揺らいでしまう。そうなった時、私の志も潮江の志も、変わらず今のままでいられるのか。それが怖くて、要は目を背けていたのだ。

田村が言っていた言葉を思い出す。きっと、私なんかより田村のほうがよっぽどしっかりしている。自分が何のために生きて、何のために忍びとして生きていくのか、そして今生きている自分が、何に生かされているのか。それらを理解して、田村はここに、忍術学園にいる。田村は綺麗な顔をしているが、見かけより強かな男だ。
目を背けて逃げようとした、大人ぶってずるくなろうとした私は、あの日の田村の言葉に思いの外影響を受けているみたいだ。

逃げる必要なんて、ないんじゃないか。現実を受け入れる力は大切だけど、必要以上に臆病になることは、きっと私を駄目にする。生きるか死ぬか、そうして現実と向き合い、様々な情を捨てることが強さだと思い込んで、上を向いていく強さをいつの間にか忘れてしまっていた。田村のまっすぐな言葉を思い出すと同時に、私はその強さを思い出すことが出来た。

会いに行こう。ちゃんと、潮江と、また向き合おう。本当はずっと、いつだってそうしたかったんだ。素直に、正直に、彼と話そう。

「みょうじ先輩ー!」
「田村……と」

ふと、少し離れた場所から、田村が張り上げる声が耳に届き、その方向へ目をやる。火桶の片付けをしようと腰を上げかけた、その中途半端な姿勢なまま固まってしまった。

「潮江…」

足を引きずりながら、しかし田村に支えられて少しずつ歩みを進める潮江の姿が、そこにあった。驚いて田村のほうを見ると、彼は綺麗な顔で小さく笑い、私に向けて頭を下げた。潮江は真顔、を作ろうとしているのだろう。けれど、おそらくまだ体が痛むのだ、眉間には少しだけ皺が寄り、口元は強張っている。歯を食いしばりながら歩くその姿を見ていても立ってもいられず、急いで駆け寄ろうとした。
ところが潮江は腕を伸ばし、手の平をこちらに見せ、まるで犬に待てをするみたいにして、私の動きを制した。
仕方なくその場で立ち止まったものの、ただ立ち尽くすことしか出来ないのがもどかしい。なんだって、どうして潮江はそうまでして私の元へ歩いて来ようとするのだろうか。わざわざ痛いのを耐えてまで、田村の手まで借りて、どうして。

ようやっと私の目の前にたどり着いた潮江は、田村に小さく礼を言い、一つ息を吐くと、視線をこちらへ向ける。

「潮江、何で…」
「火桶、いいな」
「は?」
「ここ座るぞ」
「え、す、座れるの?怪我は…」

慌てて上ずる私の声も気にせず、潮江は私の隣に腰を下ろそうとする。田村の肩を借りながらだが、その動きは意外にしっかりしていた。
縁側に落ち着いた潮江は、疲れたのか俯きながら大きなため息をつき、そして田村に向き直った。

「悪かったな三木ヱ門」
「いえいえ!あ、私、ちょっとカノコの調子を見ないといけないので、少し外しますね」
「え、ちょっと待って田村…」

田村は奇妙なほど嬉しそうににこにこと笑いながらそう言って、すぐに私たちに背を向けてしまった。遠くなるその背中が角を曲がり見えなくなると、私の視線は隣に座る潮江に移る。横目で盗み見た潮江は、火桶のほうへ向けられている。
なんだろう、会いに行くことを躊躇していたわりには、今とても心の収まりがいい。

「…急に動いたりとか、そんな無理していいの?」

田村がいなくなっても一向に喋ろうともしない潮江の代わりに、口を開く。彼は火桶に視線を落としたまま、それに手をかざしながらこちらを見もせずに言葉を返した。

「お前が来ないからだろ」
「な…だからって」
「普通はこんな早く動けるようにはならないんだと」
「は?」
「回復も人より早いらしい、新野先生が仰っていた。俺はどうも、そう簡単には死ねないらしいぞ」
「そう…みたいだね」

笑い混じりに言ってのける潮江の言葉に、私も少し肩の力が抜けた。潮江が来てからずっと彼ばかり見ていた目を火桶のほうへ向けようとして、ふと気づいた。潮江が、ようやくこちらを向いていた。
そして私の顔をじっと見たまま、きっぱりとした口調で、言った。

「多分お前が生きていれば、俺は生きるぞ、いつまでもしぶとく」

潮江の声が、冷たい空気を震わせて、私の耳にそれが届く。咄嗟に口を開いたが、言葉が出てくることはなく、私は再び口を閉じる。
何か、何か言わなければ、思うのに、色々な想いが溢れては絡まって、こんがらがって、すんなり出てきてはくれない。その言葉だけで、なんだかもう十分だと思った。
色々な話をしたいと思っていた。私が感じていた恐怖とか、懸念とか。それらとどう向き合ったらいいかとか。そんな話をしようとしたが、私は今の一言だけで、すべて救われたような気がしていた。
口を開いては閉じて。それを繰り返す私の姿を見て、潮江は小さく吹き出し、再び火桶に視線を戻した。

「…というかあれだ、第一声があれで悪かった」
「ホントにね…怪我してなかったら殴ってた」
「勘弁してくれ。あと伊作が、医務室でデカイ声出すなだと」
「あはは、善法寺は相変わらずだなぁ」

それからは他愛ない会話をした。二人して、これといった特別な話もせずに、緩やかな時間を過ごした。少しして、潮江を迎えに来た田村と共に、彼は帰っていった。

火桶の片付けをしようと、ぐんと思い切りのびをする。すっと背筋がすっと伸びるのが分かり、とても気持ちがいい。
今度はちゃんと、私から潮江に会いに行こう。空がどこまでも晴れやかだからだろうか、私は素直に、そう思った。