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翌朝、レッド・フォース号の数ある船室のひとつでは、ひとりの男が珍しく早朝──それも船員も殆どがまだ眠っているような時間──に目を覚ましていた。
──嫌な夢を見た。
つい先ほど夢から醒めて身を起こしたばかりだというのに、その内容はもう記憶には残っていない。額に滲んだじわりとした汗の感触だけが、その夢見の悪さを示していた。
「......、」
起き抜けの曖昧な思考に纏わり付く悪夢の残滓を振り払うように軽く頭を振ると、その赤い髪が合わせて揺れる。...目を擦って立ち上がると、その赤い髪をくしゃりとかきあげて、シャンクスはふらりと甲板に出た。いつも早くから起き出して鍛錬に励んでいるリルに声を掛けにいこうと思ったのだ。いつももっと遅く...場合によっては昼前まで寝ているはずの自分の姿を見たら、あの娘はどんな顔をするのだろう。リルの驚く姿を想像して何となく愉快になりながら、甲板にお目当ての少女の姿を探す。──しかし、
「...リル?」
甲板に...それどころか、慌てて船員たちを起こして総出で探し回ったこの船のどこにも、彼女の姿は無かった。
「...リル...!?」
そこにはいない彼女の名前を呟くシャンクスの声だけが、誰もいない甲板に寂しげに響いた。
+++──ぽつり、
リルはどこからか落ちた水が冷えきったコンクリートに打ち付けられる音に目を覚ました。どうも背中がひんやりと冷たい。......此処は、──そうだ、自分は拐かされてしまったのだ。
──地下牢か。
周囲を見渡してリルは素早く状況を確認する。少々不愉快なこの湿気や、黴臭い暗闇から判断するに、自分は何かの施設の地下に作られた牢に閉じ込められているようだった。特に身体に異常はなく、拘束具なども着けられてはいないが、やはりと言うべきか、勿論鉄格子にはしっかりと南京錠が掛かっていた。全く以て残念なことである。人の気配が感じられないところをみても、どうやら此処にいるのは自分ひとりだけのようだった。監視のひとりも付けられていないとは、随分と舐められたものである。幸い手枷も足枷もつけられておらず、どうやら意識を失ったのをそのままに牢に放り込まれたらしい。さて、どうやって抜け出そうかと考えを巡らせていたときだった。コツコツと床を打つ規則正しい足音が聞こえてきた。音からするに、革靴とピンヒール、...案の定、足音の主は革靴を履いた恰幅のいい中年男性、そしてツンと澄ました女性──市長とその秘書であった。
「どういうこと?自警団の統率者たる市長さんとその秘書さんが此処にやって来るなんて」
二人の姿を目にしてある程度事情は飲み込めたものの、そうやって挑発してやると市長はあっさりと口を割った。秘書の不服そうな視線を意にも介さず、彼は実に良く喋った。
「そこまで分かっているなら話は早い。...女、どうせお前はすぐに殺される身だ。冥土の土産に教えてやろう...」
市民たちに気遣いの言葉を掛けたその口の端をにんまりと釣り上げて悪どい笑みを浮かべた男は、得意そうな声音で自らの不正を語った。
「あの"赤髪"とはいえ此処は気づかないだろう。...じゃあな、女。死ぬまでの数時間をせいぜい楽しめ」
そう捨て台詞を残して、二人は去っていった。
...一方、じめじめとした地下牢に残されたリルは一点を見つめてじっと考え込んでいた。
「...まったく、ただ逃げ出すだけじゃ済まなくなったなあ、面倒臭い...」
彼女の零した呟きは誰の耳に入ることもなく、地下牢の闇に揺らいで融け消えていった。
白露のこころ
レイアウト若干修正(03.06)