もし本当に物語に入り込んだら

 工藤ナマエは、物心ついた頃からあまり笑わない子どもだった。それはひとえに彼女の中にある“名探偵コナン”の記憶の存在によるものだったが、周囲の大人にそれが分かるはずもない。真剣に話したところで幼子の妄想と笑われ、時には気味悪がられた。
 あまりにも笑わず、人ともかかわらない彼女が,精神科に連れていかれて診断された病名は、極度の鬱病と強迫観念に伴う対人恐怖症および希死念慮。当のナマエは見当違いにも程がある、と笑いたくなったが、やはり口角はぴくりとも動かなかった。何を食べても味など感じない。匂いすらも希薄で、耳鳴りはやまず、視界にはいつもちらちらと白い光が蝶のように舞っていた。五感などいっそなくなってしまえばいい、と、ナマエは割と本気で思っていた。

 ……誰が一体、自分の家族があんな凄惨な目に遭うことを望むだろう。
 物語は物語でなければいけなかった。身近な、自分の近くに現実に確かに存在する人間が、これからどういう目に遭うのか分かっていて、………しかもそれを変えようがないと知ってしまった人間の末路など、目に見えていた。
 ナマエはそこまで強くなかった。ナマエの精神は、物語の登場人物たちのように強くはできていなかった。
 いっそ何も感じなくなってしまいたいと望むほどには。



 洗いざらしのリネンが風にはためいている。少しでも日光を浴びられるようにと窓際に置かれているナマエのための椅子に座って、外をぼうっと眺めながら、兄の言葉を聞くともなく聞き、両親の用意してくれるものを口に入れるだけの毎日。

「ナマエちゃん、今日はね、プリンを作ったの」

 味覚が麻痺しているナマエのために、有希子はいつも口当たりのいいものを作ってくれた。味がない食物はまるで砂のようで、口当たりがよくないと飲み下すことすら難しい。栄養を補うための最低限の食事以外は、口当たりのいいものばかり食べる日々だった。

「……ありがとう、お母さん」

 自力では上がらない口角を、片手の親指と人差し指で押し上げて笑ってみると、有希子も笑い返した。…滑稽な笑顔に違いないのに。

「すっごいなめらかだ。つるつる」

 味の感想は言えないから、感触を褒めるだけ褒める。隣で同じものを食べている兄も嬉しそうな顔をしていたから、きっと感触だけでなく味もおいしいのだろう。どうせ味わえないのにそれでも美味なものをこさえてくれるのが有難くて申し訳なかった。

「ナマエ、それでな、ホームズはこう言ったんだ、」

 兄は優しい。暗い子どもでしかない妹に、いつも彼の知る限りの話をしてくれた。ナマエが反応を返せたのはほんの僅かだったのに、それでも、彼はありとあらゆる話をしてくれた。

「人に教えた方が知識は身に着くんだぜ!」

 それが口癖であったから、彼が学び知ることはナマエもほとんど知っていた。二度目の人生であっても、幼児の脳はやわらかく、驚くほど知識を吸収していった。もちろんナマエに兄のような推理や頭の回転はとうてい求められないことだったから、ナマエはいつも、無茶をする兄の後ろでじっくり物事を考えるようになった。補佐などといってはおこがましいかもしれないが、そのようなことだ。思い立ったら即行動してしまう兄が見落としてしまう、慎重さや周到さ。そんなものをナマエは補える限り補った。

 家族の辛抱強い愛情と適切な処置によって、ナマエは小学生になるまでどうにか生きながらえていた。自ら首を吊って死のうとしたことは一度や二度ではなく、それなのに、彼らはナマエを見放すことなく、また、精神病院に縛り付けることもしなかった。
 ナマエはとうとう諦めた。
 未来は変わらない。それは今まで何度か試してきたから知っていることだ。工藤新一が探偵として推理力を発揮するのも、メディアに露出するのも、中学生の兄とその幼馴染がNYで災難に遭うのも、予め知っていたのにすべて何も変えられなかった。
 大筋は変わらない。それでも細部まで何も変えられないわけではない。
 それだけがナマエの支えだった。

 明日は兄の高校の入学式だ。猶予はあと半年。



 新一は、周囲の人間を、たとえ犯人であっても死なせはしない。死んでほしくはない。目の前に死にそうな人間がいたらどんな凶悪犯でも助ける自信がある。それが実の妹ならなおのこと。命に貴賤はないが、やはり家族への思いは格別だ。
 何不自由ない家庭に生まれ落ちた妹がなぜ笑えなくなってしまったのか、新一には分からなかった。物質的にも精神的にも満たされているはずのこの家庭で。
 一度だけ妹にそれを問うと、妹はひどく自嘲的な笑みを浮かべた。

「もちろん。環境に不足はないよ、これは私の問題だもの」

 ……自殺志願者は往々にして全ての問題の原因を自分に帰せるが、彼女の場合、幾ら推理をしてもそれを否定する要素は見つけられなかった。生まれた時からいちばん近くで見てきたのだ、彼女をそこまで苦しめるものが発生する瞬間があったなら新一はそれを見逃さなかったはずなのに。何せ彼女は物心ついた時には既に重度の不眠と緘黙症に苦しめられていたのだから。その後の根気強い治療によって症状は改善したが、いまだに彼女の表情は乏しい。小学校中学年にしては異様なほどに。

(それでもあいつはオレの妹だ)

 ―――死なせやしない。彼女が隠している何かをいつか暴いて取り除いてやる。
 それすらできなくて、何が、探偵だ。



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