この世界の中心
「……ナマエ」
兄が怖い顔をして工藤邸にやってきても、ナマエは、「ああ、やはりか」という以上の感情は抱かなかった。赤井は恐らくファイルの中身の検証やその後の対応をしているのだろう。今日はいない。
ファイルを電子化しなかったぐらいで、情報の流出は防げない。それは分かっていたことだ。キュラソーほどじゃないにしろ、一度見た名前と顔を記憶するくらい、赤井秀一にとってはたやすいことだろう。そしてその二つのデータと、捜査機関としての立場やリソースがあれば、情報を再構築するのはさほど難しいことではない。むしろ、恐らくナマエのファイルなんかよりよほど詳細なリストを作成し直しただろう。
そして、赤井がそれをコナンに知らせるか否かに、ナマエの事情は関係ない。
「秘密にするって言ったのになあ。私との信頼関係なんて、重要なファクターには数えてもらえなかったかぁ。知ってたけど」
「そういうことじゃねーだろ!」
「だってそうでしょ。私との約束を守るより、お兄ちゃんとの情報共有を優先した。……私がどれほどの事情を抱えてこれを明かさなかったのか、分かってもらえたと思ったんだけど」
そう言いながらも、ナマエはそう落胆した表情を見せなかった。表情筋がほとんど動かないのだから当然といえば当然だが。
「だからそういうことじゃねーって言ってんだよ。何で今まで黙ってた」
「だから、私にも事情があって」
「どんな事情だよ!どれだけの人間が関わってると思ってんだ!お前ひとりの問題じゃねーんだぞ!」
それまで割合落ち着いて、淡々としていたナマエも、さすがにムッとした。
「言えない」
「ふざけんなよ」
「言えないから黙ってたんだってどうして分からないの?言えるならとっくに言ってるよ!私だって組織を壊滅させたいし、お兄ちゃんに元の体に戻ってほしいし、蘭姉ちゃんや灰原さんや、他のみんなに、悲しい思いはさせたくない!それとも、私がそういう風に考えてることすら信じられない?」
珍しく声を荒げた妹に、コナンは少し目を丸くしたが、それでも怯むことはなかった。
「情報の重大さが桁違いだろうが!どんな事情があるにしろ、おれにもできることがいくらでもあったはずだ!」
「お兄ちゃんの助けを借りなくても私は今まで十分やってきた!失敗なんかしてない!情報を見たなら分かるでしょう、誰か一人でも漏れてる人間がいた?私はちゃんと全員……っ」
声を荒げることなんか久しくなかったせいか、感情の揺れ幅があっさりとナマエのキャパシティを超えたらしい。あふれたものはそのまま涙となって、ナマエは急に声が出なくなった。
ああもう、ちくしょう、これだからいやなんだ!
どうして私の心は思うように平静でいてくれないのだろう?
どうして私の体は大事な時にこうも役に立たなくなるのだろう?
私の体はあまりにも弱く、私の心はあまりにも脆い。
そしてその理由は全て、私が“知っていること”に起因している。大切な人の壮絶な過去を。苦しい未来を。痛みと、そして死を。
それでも、大切な人を守るためには、“知っていること”を武器にするしかなかった。そしてそれは他の誰にも使えない武器だった。
コナンがぎりっ、と歯を噛むのが分かった。
失望、させた?
「なんでお前が一人で抱え込むんだ!何もかも一人でやろうとしてんじゃねーよ!!」
ぞくりとしながら待った兄の言葉が、あまりに思いがけなくて、ナマエはぽかんと口を開けた。
「……。……。えー……。ええ……?コナン君にだけは、それ、言われたくないんだけど」
「コナン君じゃねーよ、おれは工藤新一だっつの。お前の兄貴の!」
「いや、知ってるけど……」
できのいい頭や推理力、博士の発明品といった補助はあれど、小学一年生の体しか持たないくせになんでもかんでも一人で抱えて一人でやってのけてしまう兄に、まさかそんなことを言われる日が来ようとは。おれならできるけど弱っちいお前がそんな無理すんじゃねーよってこと?それならまあ確かにコナンは超人だし納得……いや、できない。
「ていうか、だから赤井さんには言ったんじゃん。一人で抱え込んでないよ」
「遅すぎるっつの!大体、赤井さんに言えて何でおれに言えねーんだよ」
兄の言動から、先ほどまでの燃えるような怒りが消えたのが分かった。残ったのは、拗ねているような、憮然としたような態度。
「別にお兄ちゃんより赤井さんを信頼してるとかじゃないよ?お兄ちゃんのこともすごいと思ってるし、ていうか超人だし、なんでも一人でやりやがってコノヤローとは、むしろ私の方が思ってると思うけど。何か思いついて突っ走るとき、私にも灰原さんにも何も言わないじゃん。事情の説明とか一切ナシで、都合がいい時だけ急に協力求めてくるし」
「そっ、それとこれとはまた別だろ?それにお前はいつも分かってて補助してるんだと……。あーもう、とにかく今は、その事情ってやつを説明しろよ。言えるとこだけでいいから。ぜってー笑ったり、疑ったりしねーって、約束するから」
「いや、だから、言えないって」
「何で!」
何で。確かに。一応曲がりなりにも赤井には言えたわけで、どうしてコナンには言えないのだろう。物理的には簡単なことだ。ある母音と子音の羅列を、日本語の文法規則に従って発声する。それだけでいい。あとの反応はコナンが引き受けることだ。笑うかもしれないし、疑うかもしれないし、その正しさを証明しようとするかもしれない。ナマエは、なにも笑われるのや、疑われるのが怖いわけじゃない。
……いや、怖いかもしれない。赤井に言えたのは、彼はそもそもそれが真実か否かということよりも、実際それがどれだけ役に立っているかという実利的・合理的な側面を重視するだろうと思ったからだ。だけど兄は違う。江戸川コナンの至上命題は、たった一つの真実を追究することだ。そして、ナマエの真理は、この世界の真理ではない。
それに。
コナンに正気を疑われるのは、赤井に正気か狂気かどちらでもいいと思われるよりも、何というか、……きつい。
「おい?」
「なんでだろう。……家族だから?」
「ハァ?」
と、そこへ、沖矢昴がやってきた。コナンとナマエは一旦言い合いを止めたが、沖矢は二人を見るなり、何かを察したように「ふむ」と顎に手をやった。
「きょうだいげんかのお邪魔でしたか?」
「へ?」
コナンは、恐らく工藤新一から江戸川コナンへの切り替えをしている最中だったからだろうが、存外に間抜けな声を漏らした。沖矢は買い物にも行ってきたらしい。袋の中身をしまうためにキッチンに向かった。
「原因は僕がコナン君に告げたことでしょうか。ナマエさんには申し訳ないことをしました。ただ、これが最善かと思ったので。でも、いずれは告げるつもりだったのでしょう?君は“今”“しばらくは”コナン君には告げない、という言い方をしていましたしね」
「……もうその時期だと?」
「ええ。すべての駒が盤面にそろった今、策を練り上げ始めるのに早すぎるということはない。そして、コナン君抜きにはそれは始められない。そうでしょう?」
「私はこの先を知らないので、何とも」
「なら尚のこと。」
「ちょっ、ちょっと待ってよ二人とも。すべて?この先?知らない?全然わけがわかんないんだけど?」
黙り込んだナマエに、沖矢は眼鏡の奥の瞳を鋭くきらめかせた。
「知らずとも、組織の壊滅に向けて策は練れる」
「そっ、そりゃそうだけど!情報源の特定は重要だろ?それをアテにして動くっていうんなら尚更!」
「情報源は君の、……失礼。君が信頼している工藤新一君の妹ですよ。信じられないのですか?」
「っ」
「ああ、なるほど。それで喧嘩をしていたのですね。コナン君はナマエさんに全てを語ってほしい、だがナマエさんは、全ては語れないので今まで情報を開示できなかった。……お互い譲歩が必要ですね。コナン君は根掘り葉掘り聞かないことで一部の有益な情報を得る。ナマエさんは情報を提示する代わりに最大の秘密は保持する。僕が間に入ることでそれが可能になったかと、思ったのですが」
「そういうわけにも……」
「まあまあ。家族だからこそ話せない問題というのはあるでしょう。それだけ嫌われたくない、今の関係を崩したくないということの裏返しですよ。逆に言えばどうでもいい相手だからこそ話せる問題というのもあります」
なんだか丸く収めてくれそうな気配がしたので黙っていたナマエも、そこは「赤井さんをどうでもいいと思うのは不可能です」と訂正した。
「……じゃあ、これだけ。これだけは聞かせて」
コナンはまたナマエに向き合った。
「その情報をもとに、最大限こっちが有利になって、全てうまく終わったとして。……オメー……ナマエ姉ちゃんは、楽になれるの?解放される?死にたいともう思わなくなるの?」
眼鏡の奥の、大きな青い瞳が、ナマエを見据える。沖矢はさりげなく気配を消して、静かに買ってきたものを戸棚にしまっていた。
「それは…………」
「組織を倒すのに関係ないっていうなら、今は聞かなくてもいい。でも、組織じゃなくてナマエ自身に関わりがある重大なことなら、おれにとっても重大だ。隠すな。逃げるな。隠したってお前の運命が変わるわけじゃねーんだ」
ナマエは泣きそうに顔をゆがめた。
そのセリフを知っている。そして、ナマエはそのセリフを予め“知っていること”を苦しんでいるのだ。
「……分かってるよ、コナン君。分かってる」
そのセリフこそが、彼を江戸川コナンたらしめるものであるということを。
……そして、この世界をこの世界たらしめるものであるということを。