Nothing ventured, nothing gained

「マシュウ!」

 彼は振り向いた。今度こそ確かに。人違いなどではなく。

「……マシュウ、名前は、響きも丸ごと変えなくちゃ。」

「……、…………誰だ、お前は」

「今さらそんなこと言ってもダメだよ。ねえ、別につきまといたいわけじゃな―」

「失せろ。目障りだ」

 ガッ、と、わざとらしく肩をぶつけられた。そのまま彼は去ろうとした。
 冷たい目つき。危険そうな風貌。粗野な態度。
 ……このくらい、予想できなかったわけじゃない。

「シュウ!」

 返事はない。最後に見た時よりも少し伸びた髪が、裏路地の風に揺れた。

 きっかけはハムサンドとコーヒー。シュウとレイという名を出すと、似た名の似た風貌の人間が浮上した。いちばんの手がかりは、カフェの女主人の話を聞けたこと。

 マシュウとレイモンド。イギリスから来た、ハイブリッドのゲイ・カップル。目立ちすぎはせず、しかし着実にカリフォルニアのアンダーグラウンドに名を売り込んでいる二人の人間がいると。最初は誰も決して名前を教えてくれようとしなかった。ナマエがいかにも世間知らずの小娘に見えるからだろう。

「……ねえ、シュウ。あなたと、レイに一目会えればそれでいいの。最後にさよならを言わせてくれれば」

 なおも縋ると、彼は心底面倒そうに振り向いて、吐き捨てるように一言一言冷たく言い放った。

「あいにくお前みたいな乳臭いガキに覚えはない。一度優しくされて勘違いでもしてるんだろうが、俺は今機嫌が悪い。火傷したくないなら、今・すぐに・この場から消えろ」

 少しは予想も覚悟もしていたけれど、ナマエはそれでもざっくりと傷ついた。この上なく冷たい態度。もしかして本当に別人なのかもしれないと思わせるほど。

「…………そんな態度取ったってムダだから!今このまま別れたら絶対後悔する、……私は!どんなに危険でも、諦めないから!」

 マシュウの、……シュウの瞳がこの上なく鋭くなった。もしかしたら本気で危ない人間なのかもしれない。あの時はたまたまオフで、気まぐれに小娘に優しくしていただけで、本当は本当に危ない稼業の人間なのかもしれない。それならそれでもいい。……そこまでシュウに気を許してもらえただなんてハナからナマエだって思っちゃいない、けれど、シュウの、レイに対するあの優しさだけは本物だと思えるから。シュウがナマエのことをすぐに切り捨てられるとしても、きっとレイのことは切り捨てられない。そしてそのレイには、きっと何かある。ナマエを見るときのレイの瞳はいつも優しくて、そして悲しげだった。

「よほど痛い目を見たいらしいな」

「……レイに会わせて」

 ガンッ、と、壁に体を押し付けられ、更に顔のすぐ横を拳がすさまじい勢いで通り過ぎた。パラ…と小さなコンクリートの破片が落ちる音が耳元を通り過ぎる。

「……レイに、会わせて。私は彼のボスを知ってる」

「消えろ。今すぐに、だ」

 視線だけで人を殺せそうな瞳に射抜かれながら、逆らうような言葉を発するのには、相当の勇気を要した。それでもなんとかナマエは言葉を絞り出した。否定のNOを。

「……いやです」

 もう一度鈍く重い音が響いた。今度はナマエの胸の右側で。

「機嫌が悪いと言っただろう」

「う……っ」

 痛い、痛いなんてもんじゃない、熱い、熱い、苦しい。

「肋骨の一本くらいイッちまったか。……お前が悪い。忠告はした。ここはお前のエリアじゃない。分かったらとっとと消えろ、おチビちゃん?何を嗅ぎまわってるんだかは知らないが、……俺と俺のディアレストに関わったらロクな目に遭わんぞ?それとも遭ってみたいか?」

「シュ、…」

 名前を呼ぼうとした声は、弱弱しく掠れた吐息に変わった。胸から異常な痛みと音がする。どこか内臓もやられてしまったのか。
 容赦がない。この容赦のなさはまだ、ナマエが思い描くシュウの人間性の範囲内だ。それでも殴られたことは悲しかった。

「……ごめんなさい、困らせて、……でも、……このままじゃ、終われない、……ほっとけない」

「……、呆れたやつだ」

 一瞬、シュウの瞳が、あの夏のように優しく細められようとした。

 しかしその瞬間、二人きりだった路地裏に誰かが踏み込んできた。男たちだ。シュウと同じような格好をした、しかし、一目でもっと乱暴だと分かるような。

「Hey、マシュウ。そいつは俺たちが先に目ェつけたんだ」

「……俺は今機嫌が悪い。後にしろ」

 シュウはナマエの肩を抱き込んで、ナマエにも言った言葉を繰り返した。

 ああ、でも、――――今、守ってくれた。あの男たちから。

「悪いがこっちのボスも黙ってねぇんでな。知ってるだろ、うちのボスの趣味。俺にゃ理解できねェが、そういうガキを犯すのに凝ってンだ」

「F××kin’ shit、それなら俺が先に手を出してやるのがせめてもの慈悲か。そうだろう?」

「……勘弁しろよ。あのマシュウ/レイモンドとヤりあいたくはねェんだよ、こっちも。だからこんな大勢で来てやったんだぜ」

「なら俺も手加減してやる、」

 その一息と共に、ナマエはぐいと持ち上げられた。殴られて折れたか陥没したであろう右胸に激痛。呼吸が止まる。

 Bang!

 派手なクラッシュ音、銃声と鈍い打撃音。
 どうやらシュウはナマエを肩に担いだまま男たちに銃を撃ち込んだようだった。そのまま立て続けにクラッシュ音が響き、視界がぐるぐると回った。ナマエを肩に担いだままでシュウは銃を撃ち、男たちに蹴りを入れ、男たちの攻撃をかわした。
 折られた肋骨は燃えるように痛いが、担がれたナマエに危害が加えられることはなかった。

「オイオイ、いつからマシュウはそんなハートフルなヒーローになっちまったんだ?一人の小娘くらい寄越してくれてもいいだろうがよ」

「こんな小娘どうでもいいが、先に話してたところを割り込まれるのは癪だ。俺は今機嫌が悪いと言っただろう」

 低い低い声には、垂れこめるような怒気が混じっている。ナマエはまるでヒーローに庇われるヒロインのように彼の腕の中で丸まりながら、ひたすら震えていた。

「こいつは俺の玩具にしてやる。俺の獲物となれば、取り逃がしたと言っても顔は立つだろう?証拠がほしければそこで見ていろ」

 ヒーローではなく悪役の間違いだったか。
 シュウは一息にナマエを担ぎ下ろし、ムードもへったくれもなく、口をふさいだ。何を思う暇もなく、口内にぬるりとしたものが侵入してきて、好き勝手にナマエを荒らした。

「…………ッ!」

 恐怖に悲鳴も出ない。どうしてこんなことに。
 危険な場所に足を踏み入れていることは承知しているつもりだった。だからなるべく派手な格好をして来たし、化粧もして髪も染めて、若い日本人の女には見えないようにしてきたつもりだった。最低限の自衛は、できているつもりだった。
結局、つもりだけだったらしい、全部。
 身を縮こめているうちに、シュウはナマエの上着をはぎとり、ブラウスのボタンを盛大に飛ばしながらナマエの肌をあらわにした。
 ヒュウ、と誰かが口笛を吹いた。

「まあ、“そういうこと”ならしょうがねェ。うちのボスだってお前が本気で狩りに来た獲物を横取りできるとは思わねェだろうしな」

「ン……っ!」」

「ヒューゥ、見せつけてくれるじゃねェか」

 ナマエが声を漏らすと、下卑た視線がナマエを取り囲んだ。シュウの手は相変わらずナマエを押さえつけたままだ。手加減はされているのだろうが、ナマエの歯が立つような程度ではない。
 下半身に手が侵入してくると、さすがに平静ではいられなくなった。

「……こっから先は見物料ありだ。散れ」

「どーせなら最後まで見せろよ、ケチケチしてねェで。オモチャにすンだろ?」

 どうやら機嫌が悪いのは本当らしい。シュウは威嚇するようにグループのリーダー格の男をひと睨みすると、ナマエの太ももに噛みついた。フリでも何でもない、本気で肉に食い込むかと思うほどの力で。

「イイコにしてろよ、お嬢ちゃん」

 ナマエにできることは何もなかった。


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