万物流転 | ナノ
20.こわれる2
ルーピン教授は一旦自室の方へと消えて行き、二つの湯気の立つマグを持って帰ってきた。彼から片方のマグを受け取ると、それはココアだった。「飲むと良い。疲れがとれる」と教授は自分のマグに口をつけた。私もそれに倣って震える手でそっと口へ運ぶ。

「ボガートは君の恐ろしいものを断定できなかったらしい…」

教授はココアを飲みながら「彼がディメンターに変身してから、君が唱えた呪文が効いていなかった」と言った。私はマグの中のチョコレート色の液体に映る自分の鼻先を見ていた。

「ねぇ、あれは一体なんだったんだい?」
「…あれ、とおっしゃいますと」

「僕には、あのボガートが君に見えたのだけど…」

私の核心に迫るような鋭い質問だった。私も、どうしてボガートが過去の私に変身したのかが掴みきれていない。けれど、ただひとつ言えることは、私自身が過去の私が怖い訳ではないと言うことである。私は、私以外の誰かに、知り合いに、過去の私がしてきたことを知られるのを恐れているんだ。きっと。じっと見つめられる中で、私はその答えに辿り着く。

「きっと…私自身は怖いものなんてひとつもないんです。私は――私だけが知っている自分を…他人に知られることそのものが怖いんですよ」

「…!」

「だから…ボガートは、何に変身しようか迷ってたのだと思います」

温くなったマグを握りしめながら「私って…変ですよね、先生。」と自分自身に呟くように言う。すると、ゴトッと何か硬い物が床に落ちる音がして、私は甘いチョコレートの濃い香りとかすかな魔法薬のにおいに包まれた。え、な、なにこれ。

私は自分が、ルーピン教授に抱きしめられていると言うことに気付くまでおよそ一分掛った。その間教授はぎゅっと私を抱きしめて離さないでくれていた。「きょ、教授?」私がか細い声で言うと「泣きそうな顔をしてるよ。何かつらいことがあったのだろう?」とぽんぽんと髪を撫でて、自分の肩に私の頭をぐっと寄せる。

「つらい時はね、人肌の温度が一番落ち着くんだよ。レイリには、なにか…友達には言えない深い事情があるんだね?」

教授の言葉が身体に、胸に、染み込んでいく。私はここに来て、この世界の人々から優しさをもらい、親切にしてもらい、何もかも不自由のないよう与えてもらってきた。しかし、私は所詮外の世界の生き物で、彼らから何もかもを与えられていいような人間ではないのだ。私はきっと、彼らの幸不幸を引っ掻き回す異物なのだ。

確かにこの世界で笑って、毎日を楽しく過ごすのはとても幸せなことであった。けれど、イタチをあそこに残したままこちらへ来てしまった――と言う罪の意識が、私を彼らから遠ざけようと自分自身にさせていた。この気持ちを抱えたまま、一人きりでこの世界を戦って行くには、もう限界だった。皆が私に、やさしすぎた。そのやさしさが、痛かった。

私はしっとりと潤んできた瞳で、ルーピン教授にかいつまんで私の過去のこれまでを話した。生まれのこと。一族のこと。そこで出来た繋がりのこと。そして、一族の最後のこと。嘘偽りなく、私が話せ怪しまれない程度のエピソードを教授に語った。彼は何も言わなかった。ただただ、温かい腕で私を包んでくれたのである。

「世界はね、君が思っているより…もっと単純なんじゃないかな?」
「…え?」

「レイリの抱えている事情はわかった。 君は、自分が与えられる優しさに相応しい人間ではないと思っているのだろう? でもね、相応しいとか、相応しくないとかは、自分が決めることじゃないんだ」

教授の瞳は、懐かしいような悲しいような色をしていた。

20130816
title by MH+
[top]