万物流転 | ナノ
48.やくそく5
酷く息苦しい。まるで金縛りにあっているように手足の自由がきかず、声も奪われたような感覚だ。けれど、だんだん体が上へ上へと引き上げられていくのを感じた。そして徐々に肢体の自由が戻ってくる喜びも。

指の先が動かせる。爪先にも、自分のもののような感覚が戻ってきた。視界も明るくなっていく。肌を舐める風よりも質量のある何かが皮膚を刺激する。耳の奥がキーンとする。息がしたい。酸素がほしい!

そのとき、天庭が何かを突き破った。その衝撃と同時に、肺の中に冷たくて澄んだ空気がぐわんと流れ込んできた。思わず咳き込んでしまう。ああ、息ができる。酸素を体の中に取り込んでいる!呼吸ができる!

目を開くと、光の刺激を受けてぎゅっと目が痛んだ。視界はまだ不鮮明である。耳元で誰かが何かを叫んでいたが、耳の奥にまで詰まった静寂が邪魔をしてよく聞こえなかった。

次の衝撃はまたすぐにやってきた。ぐいっと力強く、温度差の激しい何かに私の身体は引き寄せられる。氷のように冷えて固まった身体には、火傷しそうなほどだ。

その熱を発しているのがセドリックの腕だと気付いたのは、視力が戻り、何人かの水中人に付き添われて泳ぎながら、岸辺にいる審査員の表情が目視できるようになってからである。自分でも泳ごうとしたが、身体が冷えきっているせいで上手く動かせなかった。

「無理しなくていい。僕がちゃんと君を岸まで連れていくから」

彼の落ち着いたトーンは、二月の湖の底を一時間近く(実は一分オーバーしていた)潜水した声には聞こえなかった。それに、ひどく安心する音色だった。

冬用のローブに制服。それらが水を吸った重みで、動くのが酷く億劫だ。頭もクラクラしているし、ここはセドリックに身を預けるしかないようだ。私はゆっくり瞼を下ろした。今やもう、護衛兵のように付いてくるマーピープルたちの恐ろしい悲鳴のような歌も気にならなかった。

岸辺に着くと私たちは数人がかりで陸に引き上げられた。視界の端には心配そうな顔付きのパーシー先輩が見えた。水が滴り落ちて、あっと言う間に二人分の水溜りができる。濡れた身体を風が撫でて、ふるりと背中が震えた。

そこでやっと、湖の反対側の岸辺に沿って築かれた観客席の、超満員の大観衆が興奮して大騒ぎしているのに気付いた。スタンドの声が、湖面を渡って不思議に反響するのを、マダム・ポンフリーによって分厚い毛布に包まれながら聞いている。

校医は、毛布に包んだセドリックと私を、他の参加者が休んでいるところまで引っ張ってくると、元気爆発薬を私に飲むように手渡した。奥で休んでいたのは、何故かひとりのフラーだった。彼女は泣いていた。私は事情を察して熱い煎じ薬を一口飲み込んだ。耳から汽車のように湯気が吹き出した。

セドリックの目や顔色を診て、額に触れて触診をした校医は「ディゴリーにはいらないかしら」と呟く。そして、湖に入る前に何を飲んだのか質問されたので、ちらりと私に目配せをした彼は「体温維持薬です」とはっきり答えた。

マダム・ポンフリーは目を白黒させて「まさか、あなたたちで作ったものではないですね!?」と声を上げた。煎じ薬に口を付けている私を横目に「僕たちで作りました」と言えば「よくあんな専門的な薬を…」と冷静さを取り戻したマダムは感心した口振りで呟いた。

「レイリ、大丈夫かい?」
「えぇ……まぁ。あなたは?セドリック」
「僕は平気…君が無事でほんとよかった」

湖で何があったのかを尋ねれば、私が湖底で眠っている間のことを丁寧に教えてくれた。どうやら、映画と同じように人質となった私たちは、湖の底にあるマーピープルの集落の広場にある岩に縄でくくり付けられていたらしい。

選手達は、スタート台から一斉に出発し、捕らえられている人質の待つ湖底を目指したのだが、途中、水草の奥に潜むグリンデローの襲撃に遭ったことを教えてくれた。

彼は準備期間のシミュレーションを思い出して魔法を繰り出し、水魔を蹴散らすことができたそうだ。努力の賜物である。向こうで震えているフラーは水魔の急襲に耐えられなかったようだ。

セドリックが水魔を撃退し、水中人の歌を頼りに集落まで泳ぎ着いたとき、すでにそこにはハリーが到着していたらしい。人質の人数はその時四人で、最年少のハリーが一番に到着していたことを彼は素直に褒め讃えていた。

「それにしても遅いわね。そんなに頑丈な縄だったの?」
「多少ね。でもハリーはもしかすると、僕がフラーもクラムもいま来るって言ったのを気にして…」

その時、スタンドからまた大きな声が響いてきた。選手が湖面に浮上してきたようだ。今度もきちんと人質を連れている。ダームストラング校の応援団が湧いている。クラムが、ポリアコフの救出に成功したらしい。校長のカルカロフが、陸に引き上げられたクラムに毛布を被せている。

「わたーしは酷い姉……姉、失格です…あぁ、ガブリエル…わたーしは…わたし…」

フラーはついに泣き崩れた。マダム・マクシームは、彼女の肩を抱きながら必死に慰めている。彼女もきっと、冷静になれば、人質を死なせたりするはずかないことが分かるはずだ。

しかし今のフラーは感情的になっている分、彼女はその思考力を完全に鈍らせていた。暗くて冷たい湖の底に、世界でただ一人の大切な妹を残してきてしまったことを、彼女は泣きながら死ぬほど後悔しているのだ。

クラムとポリアコフがマダム・ポンフリーに連れられて来た。ポリアコフは歯をカチカチいわせて毛布に包まれている。クラムがこちらに気付くと「ぼくらは二番か」と口を動かした。残念そうだが、思いの外ホッとしたような顔付きで熱い煎じ薬を飲み始めた。

20160316
title by MH+
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