追跡者
泣いて拒絶され揉合いにでもなるかと思っていたのに、玉蓮は腕の中で静かに窓辺を眺めていた。
「何を見ている」
「月が昇って、綺麗だなって……」
静かに話す玉蓮の温もりと寄り添ってくるような感触が皇毅の焦燥を溶かしていく。
今すぐ自分のものにしてしまいたい貪欲な欲求ではなく、もっと違う複雑な−−−とうに忘れてしまった心が蘇ってくるようだった。
「今日は色々ありすぎて、疲れてしまいました……家の者はどうなるのでしょうか、侍女達家人までお叱りを受けるのですか?」
心配そうに見上げて来る玉蓮の澄んだ瞳と視線が合わさった。
実直な玉蓮に対し皇毅の方が先程の狼藉に少々の気まずさを感じる。
「それはないから安心しろ」
良かった、とむずがる様に皇毅の肩口に身を寄せたまに瞼を下げる。
眠たくなっているようだが、自分の貞操の危機をもう忘れたのかと正直また唖然とする。
信用されているのではなく男として完全に舐められた状態だったが、規則正しい落ち着いた呼吸をする玉蓮がやけに愛しく感じ、そのまま眠ってしまえばいいと体勢を寛げる。
寄り添う玉蓮は皇毅の肩口から香を感じていた。
何の香りだろうと目を閉じて聞香してみるが複雑でよくわからない。
梅香が入っているような、でもそれだけではない。
(いい香り……)
そんな風に考えてると不思議と眠くなってしまうのだ。
「皇毅様、置いていかないで下さい……」
「………」
もう既に寝惚けているのか、と覗くと目を閉じたまま眉を下げた玉蓮はぽつりと言葉を繋ぐ。
「お邸で一生懸命働きますから、置いていかないで下さい……此処は嫌です」
「こんな所に置いて行く程湧いてない、安心しろ」
優しい手つきで背中を撫でてやると玉蓮は深い溜め息を吐いて涙を堪えている様だった。
「此処はきっと怖い所です。でもこんな所と仰りましたが、此処に置かれている方々は喩え怖くても必死に生きている様に感じました。私事で申し訳ありませんが、私とて独りになっても生きてきましたので多少、分かります」
「……そうか」
自決する事だけが矜恃を誇る術ではない。
独りになっても、何もかも失っても、そこで生きて行くと決めたのは皇毅自身も同じだった。
大見世の妓楼では身元が明らかでない一見客では座敷遊びはおろか敷居を跨ぐ事すら出来ないが、この見世には紹介なく偽名だろうと金を積めば入れた。
それは何れ廓で蔓延する病に倒れる事を意味していた。
瘡毒に罹患し苦しみながら命を落とすか、稼ぎが悪く折檻されて命を落とすか。
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