愛しい背
皇毅の腕の中に倒れ込むと同時に、散々体当たりした扉が軋み倒れて来た。
玉蓮を抱えたまま身を翻し床に転がる板を眺める。
「お前はイノシシか」
「お客様は、お帰りになったのでしょうか」
やはり晏樹に会いに行くつもりだったかと双眸をきつくし、帰った事を伝えると腕の中で堅くなっていた身体がふにゃり、と力が抜けたように柔らかく崩れ落ちた。
その姿を見て皇毅は自分の肚に重い泥のような感情が落ちゆくのを感じる。
晏樹に何か言い掛けられ、その続きが気になって仕方ない。それだけなのだろう。
けれど扉をぶち破ってまで会いに行こうとする玉蓮の姿に黒い感情が泥の中から舞い上がる様だった。
『そんなに大切ならば、ちゃんと隠しておかなきゃ』
あの薄ら笑いも気に入らない。
まるで隙あらばまた奪うような口振りだった。
一度は棄てたくせにと己の身勝手に狼狽する。
苦労して得たはずだった彼女の純真はもう戻って来ないことは感じてもいる。
けれど彼女が戻ってきたからには、この縁にはまだ続きがあるようだ。
なので進むしかない。
「紅秀麗は追い出したか?まさか厩で茶が出てくるのを待ってたりせんだろうな」
未だ我が家を徘徊していたらとんでもない事だ。
「秀麗様は呆れながらお帰りになりました。くれぐれも秀麗様を巻き込まないでくださいね。私と主上の大切なお方なのですから」
「確かに……」
肯定すると腕の中で瞳を丸くされたが、この肯定の先にも続きがある。
このままでは紅秀麗は玉蓮の復讐物語に勇んで首突っ込んでくるに違いない。
気を逸らす撒き餌をばらまき続けなければならない頭の痛い部下だがまだ使える碁石だった。
「あの御史にはやってもらわねばならない事が山ほどある。なのでお前になどに構っている暇などない」
家人が扉を直す道具を携え作業を開始すると皇毅は玉蓮の手をひっ掴んで室の中へと入った。
室内には火桶が準備されており暖かい。玉蓮を臥台へ座らせ皇毅も対面に腰掛けた。
途端に玉蓮の身体はそわそわと落ち着きがなくなる。
体当たりの連続でぼさぼさに崩れている髪の毛をしきりに触り立ち上がった。
「皇毅様、お茶をお持ちして参ります。ついでに……髪を結い直して参ります」
髪の毛を結い直したいらしい。
なけなしの女心を披露されて先ほどまで苛ついていた皇毅の心の波が少しだけ緩やかになった。
「私が結い直してやる」
「え、皇毅様が?そんな事お出来になるのですか」
「自分の髪を結うのも自らやっているのだ。出来ない訳があるか」
身体を寛げて指で呼んでみるも薄い瞳が逸らされた。
触って欲しくないのか、それとも違う感情が蘇ってきたのかは分からない。きっと本人も分からないのだろう。
「け、結構です……打ち身の傷にも薬を塗りた いので一旦下がらせて頂きます」
頑なに告げ一礼するとそれ以上は無かった。
引き留められないところを見ると、凌晏樹は本当に帰ってしまったのだろう。
また過去への手掛かりが消えてしまった。玉蓮に残された細い糸は再び皇毅だけになってしまった。
(あの方は何を言い掛けたのだろう……)
一言、『あ…』という言葉が聞こえただけ。
これだけでは何の事だかさっぱり分からない。
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