其のニ


 其れから一ヵ月程が経過して、歩も猟犬部隊に馴染んできた頃であった。

「燁子さん、歩さんが何処にいるか知りませんか?」

 条野が近くにいた燁子に尋ねる。急ぎではないものの歩に確認を取りたいと考えていた条野だったのだが、歩の居所が分からずにいた。電話も繋がらず、一先ず猟犬の誰かに聞くために来たのだった。

「何じゃ、知らんのか。歩は平日の此の時間は学校に行っておるぞ。」

「学校……」

「近くの私立高校じゃ。制服が可愛くてのう。儂も歩の制服を着させて貰って写真も撮ったぞ。」

 今度はあのプリクラとか云う写真機にも挑戦したいのう、とうきうきする燁子に、はあと条野は適当に相槌を打った。

「分かりました。情報感謝します。」

 燁子の話から必要な情報を拾い上げた後、条野は歩の通っている学校に向かった。丁度下校時刻であったのだろう。学生達が次々に校門から出ていっているのが確認できた。条野は適当に歩きながら歩の気配がないか探った。すると、会話から歩という名前を聞き取れた。男女二人の声だった。

「今日さ、用事ないって云ってたじゃん。歩が疲れてなかったらだけど何処か遊びに行かない?」

「ちょっと!歩さんの貴重なお休みなんですから、私に譲ってくださる?私、未だ八回しか歩さんと遊んでないんですから!」

「ふざけんな、いつの間に八回も遊んでるのさ!普通にボクより多いし、女の子同士で遊びに行くとか歩の激レア表情撮れたかもしれないのに!クッソ、付いて行かせろよ!SSRスチルをドブに捨てやがって!」

「よく往来のど真ん中で大声でそんなこと云えますね。逆に尊敬しますわ。あと写真はちゃんと撮ってありますからご心配なさらず。」

「此処から此処まで全部ください。云い値を払います。」

 条野は悪寒を感じた。何か聞いてはいけない会話を聞いたような気がしてならなかった。

「よく分からないんですけど……三人で遊びに行きませんか?人数多い方が楽しいかもしれないですし。」

 歩の声が漸く聞こえた。否、あんな混沌とした会話を間近で聞いていてよく平気だなと条野は尊敬の念すら覚えた。

「お二人は何処か行きたい所ありますか?」

「歩さんこそ何処かありませんか?お供致します。」

「ボクも、歩が行きたい所あったら其処で良いよ。」

 歩は少しの間考え込み、うーんと小さく唸った。

「そういえば、洗濯機が壊れそうなので家電量販店に行きたいなとは思ってました。」

 普通友達と遊びに行こうという話で家電量販店に家電を見に行こうなんて云うものだろうか、と条野は一瞬考えた。……普通云わない。二人も引いていることだろうと心配していると。

「え、マジ?そういうことは速く云ってよ。今から良さそうな洗濯機ピックアップするからちょっと待ってて。」

「お父様の会社の傘下企業に家電を取り扱うお店があったような。確認してみますわね。」

 条野は何も考えないことにした。何ならもう帰りたいという気持ちになった。確認はまた今度でも良いような気すらしてきた。

「条野さん?」

 が、そうはいかなかった。条野の姿を視界に捉えた歩が走ってくる。

「条野さん、如何かしましたか?何か御用が?」

「ああ、いや休日にすみません。貴女に確認したいことがあったのですが、連絡が付かず。ですが、其の……後日でも構いませんよ。」

「あ、スマホ……授業中は緊急の連絡しか音が出ないようにしているので、すみません。」

 歩は忘れない内にとスマートフォンを操作した。不在着信を見て、歩が何回か掛けてきてくださったんですねと眉を下げる。

「いえ、学業を優先すべきでしょう。今しか学べる機会はありませんから。」

「そう云ってくださるとありがたいです。本当は作戦が終了し次第自主退学する予定だったんですけど。」

「作戦、ですか?」

 条野が首を傾けると、応えたのは先程まで歩の隣にいた女子学生だった。ウェーブがかった茶髪と異国の血が流れているのか真っ白な肌に緑色の瞳が特徴的である。条野には容姿は分からないものの、良家のお嬢様という雰囲気は感じ取っていた。

「私との仲良し大作戦ですものね!」

 と彼女は歩を背中から抱き締めた。条野は歩に此方の方は?と問う。

「私ですか?冷泉千耶と申します。」

 本人が解答し、其れに対し冷泉といえばと条野は頭の中の記憶から引き出す。

「確か米国の方に本社がある多国籍テクノロジー企業の社長に冷泉という名前があったような。」

「ええ、私のお父様です。」

 条野は其れはまた、と感心する。雰囲気に違わず、社長令嬢である。しかも父はかなりの富豪であり、経済においては権力者とも云えよう。千耶は作戦の主旨を詳しくは説明しなかったものの、恍惚そうに語り出した。

「歩さんはお父様と私の命を救ってくれました。家族の絆を取り戻し、今私達が幸せな日々を送れているのも歩さんのおかげです。ああ、今でも思い出せますわ……歩さんの雄姿が!私を守ってくれたあの凛々しい姿が!」

「キミも往来のど真ん中で叫んでるじゃん、冷泉。」

 ひょこと次は男子学生が現れる。

「ボクは参宮叡。軍警の人なら調べれば分かるから詳細は云わないけど、王の写本の元メンバーのトールがボク。」

「王の写本、確か歩さんが殲滅したという……」

 条野に、叡はそれそれと軽いノリで返した。

「歩一人で全員ぶっ飛ばして終了。ボクは其の時元仲間の情報全部売って歩の味方についたって訳。今は情報屋兼歩の協力者。」

 そんな叡に対して千耶が違いますわよと条野に耳打ちする。

「彼ストーカーなんです。歩さんが甘いのを良いことに学校でもプライベートでも写真をこそこそ撮って、ブロマイドやらポスターやらにして部屋一面に飾って、にやにやげへげへしてるんですわ。」

 耳打ちの割になかなかの声量であったため、叡がはあ?と食って掛かる。

「ストーカーじゃないし!公認だし。てか、一応写真部だから合法だし。でも、其の通り過ぎて自分ストーカーなんじゃないかって思い始めてきたんだけど!いや、待てよ。キミもキミじゃん!歩の同人誌作ってるでしょ、ナマモノナマモノ!」

「あら、つまり新刊は要らないということで?医者パロの自信作でしたのに。」

「だから、此処から此処まで全部くれって云ってんだろ!云い値で払うから!」

「税金関係が面倒臭いので適切な値段を請求しますわね。」

 条野が二人のやり取りに辟易としていると、歩が条野の服を軽く引っ張った。

「確認したいことがあるんでしたよね。口頭で問題ないものですか?」

「ああ……はい。此の前の作戦の……」

 条野と歩は二人から少し距離を取り、話し合った。二人は仕事関係の話は効率を重視しており、脱線することは殆どない。簡潔で明瞭、冷静で客観的。条野は有意義な話ができる歩と話すことが増えた。今回の確認事項も直ぐに終わり、私は此れでと条野が帰ろうとした時だった。

「条野さんと云いましたか。少しお願いがあるのですが聞いて頂いても?」

 千耶の声に、条野は何でしょうと首を傾げる。

「今から私達三人で遊びに行くんですけど、護衛をして頂けないでしょうか。」

「私がですか?其れは……」

 確かに猟犬部隊は護衛任務を行うこともある。大体政府の官僚や企業の重役以上が多いが。そういう点で云えば千耶は社長令嬢、護衛が必要な存在であろう。

「私ね先刻云った作戦が終わった後もこうして学校の行き帰り歩さんに護衛して貰っています。此れは正式な依頼なんですの。でも、だからこそ歩さんは常に周囲を警戒しておりまして、遊びに行っても身が入らないような状況で。ですから、条野さんが護衛を代わりに引き受けて頂けたのなら、歩さんも気兼ねなく遊べるかなと。」

「冷泉さん、条野さんは忙しい方ですから。私が護衛もきちんとしますので……」

「別に構いませんよ。」

 え、と歩が驚きの声を上げた。条野はにこやかに構いませんよと再度云った。

「歩さんの依頼を代行するという形なら問題ないでしょう?」

「条野さん、引き受けてくださると思ってました!ありがとうございます!」

 そうして千耶は嬉しそうに歩の両手を取り跳ね回った。叡は何処からか一眼レフを取り出して連写していた。

「さあ、行きますわよ!参宮さんは洗濯機は調べ終わりまして?」

「良さそうなもの五種類くらい見繕いました!」

「なら、お店で実物を見てみましょう。歩さんの気に入るものがあれば良いですわね。」

 千耶が歩の手を握って走り出した。歩は条野に何か云いたそうにしながらも千耶に引っ張られるまま走るのだった。



 千耶の父の傘下である家電量販店の支店に来ると、丁重なもてなしを受けるだけでなく叡の選んだ洗濯機を直ぐに出してくれた。店員が丁寧に説明してくれ、歩は真剣に話を聞いたり、質問したりしていた。千耶も傘下の一つであるからか社長令嬢の威厳を見せ、厳しい目で洗濯機を選定し、歩と意見を交わしていた。叡と条野は二人の後方に控え、叡は相変わらず写真を撮っていた。

「そんなに歩さんが好きなんですか?」

「え、めっちゃ好きだよ。見て分かんない?最推しだよ。」

「最推し……アイドルみたいなものですか?」

「一般人に分かりやすく云うならそんなものかな。」

「自分の仲間を殺されたんじゃないんです?そんな相手を好きになれるものでしょうか。それとも元から王の写本に思い入れがなかったんですかね。」

 叡は面倒臭いこと聞くなあと条野を睨んだ後、解答した。

「仲間への思い入れがない訳じゃないよ。だって、生まれた瞬間から一緒にいたんだからさ。」

 叡は遠くを見るような目で続けた。

「王の写本は神殺しを成すための集まりだった。子どもばかりがメンバーで、大事な人間が殺されてたり、非人道的な異能研究に付き合わされたり。そんな運命を全部神と呼ばれていた一人の女の子のせいにして、其の神さえ殺せば自由になれると信じていた莫迦達だよ。でも、ボクは別に神を恨んだりしてなかった。皆とは意志も決意も違った。其れだけじゃない。神と呼ばれたあの子の境遇に同情したし、其の子が前を向いて自分の正義を信じて戦う姿に惹かれた。」

 其処からはもう止まらなかったのだと叡は眩しい光を直視するように歩を見た。

「でもさ、歩を好きになったからってだけじゃなくて、本当は早く全部終わらせたかったのかも。だって、神のことなんて忘れちゃえばボク達は自由に生きれてたんだよ。もうずっと前から自由だったんだよ。なのに王の写本だなんて、神殺しなんて莫迦みたいだ。」

 叡の声音からは後悔が色濃く出ていた。叡は条野が黙っていることもあって、苦笑し、如何でも良い話してごめんと云った。


「私が聞いたようなものでしょう。其処まで深く知りたいとは考えていませんでしたが。」

「うん、だから一応謝っとく。まあ、大抵のことは調べれば分かるんじゃない。歩だったら事細かく記録してそうだしさ。」

 叡は其れだけ云うとまた撮影を始めた。歩と千耶の洗濯機選びが終わるまで、叡と条野は世間話をしているのだった。

 一時間程で、歩は洗濯機の購入を決意したらしかった。運送、設置など無料で行ってくれるだけでなく、大幅に値引きするという店員の提案を断り、歩は通常の価格を支払った。

「良かったんですの?色々値引きできましたのに。」

「予算の範囲内ですから大丈夫です。」

 店を出て、街道をを歩く。日も赤く染まり、徐々に夜の気配が近づいてくる。

「私の用事は済みましたし、二人は何処か行きたい所ありませんか?」

「私、つい最近できたカフェに行きたくて。其れはもうお洒落な内装で!」

「ボクは……うーん、ゲーセンとか?」

 どちらも行けそうですかねと歩は時間を確認するためスマートフォンを取り出そうとして、止めた。代わりに鞄からむずっと何かを引きずり出す。其れはいつも一緒にいる狐で、条野はそんな所にと少し驚いた。狐は矢張り狭かったのか、着地すると伸びをした。

「あら、ソウ君。今日の毛並みも最高ですわね。ふわふわですわ。」

 其の狐を千耶が抱えて、撫でる。狐は気持ちよさそうにしていた。

 其れよりも何故此のタイミングで狐を出したのか。条野が尋ねようとした。

 其の時、遠方から風を切って何かが此方へ迫ってくる、そんな音が聞こえた。条野が千耶を守ろうと反射で動いた。

 そんな条野の耳にもう一つ空を裂くような音が響いた。

 直後、ガキンと金属同士がぶつかる音。バチと火花が散り、背後から悲鳴……というよりは黄色い声が上がった。

「きゃー!!歩さんかっこいいー!!」

「貴女、そんなこと云ってる場合じゃないでしょ……」

 歩が通学鞄で狙撃を防いだ。恐らく鞄は収納するだけでなく武器や盾になるようにと金属板でも入れているのだろう。其の姿に千耶が騒いでいるのだ。千耶は歩の戦う姿が、自分を守ろうとしてくれる其の姿が一等好きなのである。緊張感の欠片もない叫びに条野は呆れたが叡は至って冷静に説明した。

「冷泉はこういうの慣れてるんでいつもこんな感じです。ご了承ください。」

「参宮さん、貴方も写真撮ってる場合じゃなくないです?」

 条野は高校生二人に翻弄されながらも聴覚へと集中する。直ぐに三発の銃声が響き、歩に知らせる。

「大丈夫です、全部見えてます。」

 歩は通学鞄をまるで剣でも振るうようにして、銃弾を弾いていく。甲高い金属音が街道にこだまする。

 そうして十発以上もの銃弾を全て無力化すると、遂に狙撃は止んだ。

「参宮さん、あれ此の間冷泉さんのお父さんを襲撃したとかいう欧州の犯罪シンジケートじゃないですか。」

「んー、あー……だね。色が同じだわ。」

 叡が目を細め、歩の示した方を見る。

「狙撃は恐らく冷泉さん以外を狙っていたので周りの人間を殺してから誘拐でもしようと考えていたんじゃないでしょうか。」

「浅はかだなあ。でもだとしたら、近くに車とかで待機してそうだね。狙撃無理だって分かったら此方来そうじゃない?」

「なら、私は邪魔になりそうですわね。」

 誰も彼もがいつものことだというように冷静だ。条野が聞く限り此処にいる全員の心拍に一切の乱れがない。

「もう!歩さんと遊べる貴重な機会だというのに。」

 千耶は文句を云いつつ、鞄からばさっとキャンプなどでよく見かけるテントを取り出した。手際よく組み立てていく千耶に、何してるんですかと条野が奇怪そうに尋ねた。

「部屋または其れに類するものを私の許可なく開けることができない、完全な閉鎖空間にすることができる。其れが私の異能ですわ。此の中に閉じこもれば誰も侵入しては来られません。逆に誰かを閉じ込めれば私の許しがあるまで出ることはできないのです。中からも外からも壊すことはできませんわ。」

 フフフ、と不敵に笑う千耶に条野は寒気を覚えた。

「そう、分かります?条野さん。私の異能があれば……二次創作あるある、〇〇しないと出られない部屋がリアルで再現できますのよ!!」

 うわあ……と条野はげんなりした。持たせてはいけないタイプの人間に渡ってしまった異能である。

「ふふふふ!勿論、悪用しませんわ。今は自分を守るために使いますの。ではでは邪魔者は退散致しますわね。参宮さんも入ります?」

「ええ?ボク入れる?狭くない?」

「小さくなっていればよろしくてよ。あ、あと私には触らないでくださいましね。」

「めっちゃ無理難題押し付けてくるじゃん……」

 千耶はひらりと手を振り、叡と狐と共にテントの中に入ってしまった。二人がいなくなったことで一気に静かになり、条野はより周囲の音を聞きやすくなった。

「歩さん、10人程度を乗せた車が高速で来ています。其の車が左折し、同じスピードを維持したなら3秒後には此方に着きますよ。」

「分かりました。」

 歩は通学鞄から拳銃を取り出した。愛用している漆黒の拳銃にサプレッサーを装着して、敵の接近を待つ。歩の目に左折し、此方に向かってくる一台のバンが見えた。男が窓から顔と手を出し、握っている拳銃を此方に向けた。

 閑静な街に銃声が大きく響く。

 銃弾は歩の頭目掛けて一直線に迫った。が、其れを歩は首を少し傾けるだけで躱した。

 そして、二回引き金を引く。パシュパシュと乾いた音と共に銃弾は車のタイヤに命中した。タイヤの空気はたちまち抜け、制御を失う。運転手が必死でハンドルを回すが電柱に追突しバンは止まった。運転手と助手席の男は意識を失っているようであったが、後部座席にいた八人が各々武器を握り、降りてきた。異国の言葉で何かを喚き散らし、三人が機関砲を斉射した。

 歩は拳銃を構え、腰を低くし、地を蹴った。男達に向かって真っ直ぐに走りながら、拳銃の引き金を引いていく。男達の銃弾は恐ろしい程に当たらない。なのに、歩の銃弾は機関砲を操作する男達に面白い程に命中する。男達が手足を撃ち抜かれ、呻き声を上げて倒れる脇を抜け、歩は後方で拳銃を持つ男の手首を掴み、足を払った。手首を強く握られた男は拳銃を落とし、地に倒れ伏す。其の男の手を後ろに回し、手錠を掛ければ男達は察した。此の少女は警察なのだと。

 だが、警察ならば尚更捕まる訳にはいかない。男の一人が手榴弾を持ち出した。仲間諸共爆破する心算だった。

「公道を警察の目の前で爆破しようとするなんてなかなか大胆な方ですね。尊敬しますよ。」

 男の手が止まる。振り返れば、歩の背後にいた筈の条野が立っていた。今は男の背後に条野がいる。男の傍には他に仲間がいた筈であったのに。条野は穏やかに微笑していたが、寧ろ其れが男の恐怖を煽る。

「私も彼女も爆弾一つで如何にかなる人間ではありませんよ。仲間を無為に殺すだけです。」

 男の手からやんわり手榴弾を取り、代わりに手首に手錠を掛けた。

「もしや日本語が通じない?困りましたね。私は異国の言葉に堪能ではないんです。ああ、残念です。言葉が通じたならもっと貴方の恐怖と苦痛を味わえたかもしれないのに。」

 男が膝をつくと同時に条野は背を向け、歩に終わりましたか?と問う。

「はい、制圧完了しました。条野さんも速かったですね。」

「此の程度なら造作もないことです。歩さんも怪我がないようで安心しました。」

「……私は、別に負傷しても。皆さんが無事なら其れで良いです。」

 歩は男達の回収を要請するためスマートフォンを操作する。手短に説明し、通話を切れば条野が口を開いた。

「歩さんは自己犠牲の精神に何かしらの美徳を感じるタイプですか?」

「自己犠牲……?」

 条野はええ、と頷いて懐から手巾を取り出した。

「以前の異能者が異能を持つ子どもを拉致して食餌にしていた事件。あの時も少女を逃がして自分は其の場に残り凄惨な仕打ちを受けた。其れだけでなく貴女は自分は死んでも良い、傷付いて良いという言動が目立ち、行動にも其れが表れている。」

 条野は其の手巾で歩の頬や鼻先に付いている返り血を拭いた。

「私は死んでも異能で半自動的に復活しますけど、他の人はそうじゃないですから。」

「そうですね。貴女以外のあらゆる人は普通生き返らないし、人体の何処かの部位を欠損すれば再生することはない。」

「はい。だから自己犠牲という訳じゃなくて、そうすべきと思うから私は……」

 条野は手巾で歩の口を強めに拭いた。もご、と歩の言葉が途切れる。

「歩さん、貴女は人間でしょう。」

 条野の短い言葉に歩は大きく瞬きをする。

「私達猟犬部隊は生体手術を受け、一般的な人間の数十倍以上の身体能力を獲得しています。貴女の異能に人間扱いされない程に。ですが、痛みを感じますし、もし強大な敵と相対することがあれば死ぬ可能性があります。私達は人間だから当たり前のことです。」

 条野は手巾を動かし、言葉を紡ぐ。

「ですが、今の貴女は死から乖離し、思考さえも人間からかけ離れつつある。つまり、人間性を喪失しつつあるんです。」

「人間性……」

「貴女は目的があって、隊長から指導を受け、軍警に入ったのでしょう。貴女の中に確固たる正義があることも私は知っている心算です。ですが、今は自己犠牲程度で済んでもこのまま人間性を喪失していけば其の目的を忘れ、自分が何者であるかさえ分からなくなることでしょう。当然、私はそんな貴女に付き合う気はありません。」

 歩は条野の言葉を重く受け止め、俯いた。条野は大きな溜め息を落とす。

「歩さん、私は貴女がどのように生きようと構いません。ですが、私や他人に自分の考えや価値観を押し付けるのはやめてください。」

「……はい。」

「私は生き返るとはいえ同僚が死ぬところを何度も見て耐えられる、そんな強靭な精神は持っていませんよ。」

 は、え?と歩は目を見開く。

「其れに、此れ以上話の通じないイカレた仕事仲間ばかり増えても迷惑です。漸く貴女というまともな人が来て、仕事が円滑に進みつつあるのに。」

 歩の顔に付いている血を粗方取り、満足したのか条野は手巾を折り畳んだ。

「歩さん、私は今の貴女のことをかなり評価している心算なんですよ。其れに、貴女が救った方々は貴女の優しさや善性にこそ救われたところも多いかと思います。死んで誰かを殺すより、其の方が救われる方も多い筈です。」

 其れは、今の貴女でないとできないことでしょう?と条野は微笑した。

「でも、私は異能を使った方が効率良く敵を排除できると思ってて。余り強くもないですし。」

「強くない人間なら、今頃此処一帯は血の海です。」

 強い人間だからこそ、人を殺すことなく制圧できるのだ。弱い人間は手加減などしようものなら其れが命取りになる。

「歩さんは隊長を見てきたから、強さのハードルが高くなり過ぎているのでしょう。貴女は十分強いと思いますよ。ですから、もう少し自信を持ってみれば良いと思いますよ。」

「自信、ですか。」

「ええ。貴女は強い。異能を頼る必要がない程に。万一誰かを殺すなら、貴女は異能を使わなくたって良いし、猟犬がいる。頼れば良いでしょう。勿論、隊長が貴女に異能の使用を強要しているのであれば、パワハラで訴えますので。」

 歩はパワハラは違います、と首を左右にぶんぶん振った。

 必死ですか、と条野は笑う。

「とにかく、貴女がなるべく異能を使わずに済めばと思っただけです。貴女なら、別の……自分も他者も救われる、そんな守り方を見付けられると思いますから。」

 条野には歩の表情は分からない。だが、彼女に何らかの変化があったことは分かった。あの時、歩が異能を使った時の無感情が、虚無が遠のいていっている、そんな気がしたのだ。

「条野さん……私、今凄く嬉しくて、温かくて……こんな感覚久しぶりで……」

 歩は胸に手を当てた。深呼吸をして、言葉を選ぶようにゆっくり話し始める。

「私は異能を使う度……死を誰かに移す度、精神が摩耗していきます。記憶が少しずつ失われ、感情が欠落していく。条野さんの云うように人間性を、私という個を失っているんだと思います。」

 感情の発露の根源である記憶が失われれば、感情は失われる。条野の云うように最後には人間性すら喪失していくのかもしれない。

「其れで良いと思ってました。私は強くなりたいと思っていましたけど、本当に守るべき存在はもう何処にもいない。だったら強くなる意味なんて……生きる意味なんてないんじゃないかって。」

 でも、と歩は条野を真っ直ぐに見詰める。

「今は違います。守りたい人達がいるって気付いたんです。未だ……未だ何も失う訳にはいかない。其の時じゃない。」

 歩は、条野に決意を以て告げる。

「条野さん、私もっと強くなります。あなたを守れるくらい強く。異能に頼らない、私の強さをいつか必ずあなたの前で証明してみせます。」

「ええ?其れはかなり厳しいのでは?というか歩さんが私を守る展開なんて永遠にないと思いますが。」

 条野は一応楽しみにしておきますよと笑みを零すのだった。



 歩の眠りは浅い。少しの音でも直ぐに目が覚めてしまう。

 だが、今回目が覚めたのは自分の異能、其の予兆である30秒前の危機察知が発動したからである。

 歩はぱちりと目を開けて、近くに置いてある拳銃を握る。其の行動だけで警鐘が止んだ。あとは目を閉じて寝たふりをすると少ししてどさりと何かが身体の上に乗ってくる。歩が目を開け銃口を突き付けるのと、襲撃者が拳銃を額に当ててきたのはほぼ同時だった。

「何だ、歩ちゃん。起きてたの?」

「起こしたのはあなたでしょう。」

「うんうん!歩ちゃんの寝顔とか憎らし過ぎて見たくないからね!」

 襲撃者は拳銃を仕舞うと、歩の両耳の横辺りに手を付いた。顔を近づけ、歩ちゃんと甘い声で彼女を呼ぶ。

「私とデェトに行こう!」

「こんな夜中にですか?」

 右目部分を仮面で隠しているが、左目はぎらぎらと欲望で輝いている。よく此の目を向けられるが、何を求められているのか歩には未だに分からない。

「歩ちゃんも知っての通り、私も忙しいのさ!だから、こんな夜更けにしか会いに来られない!人の目もあるしね!私目立つし!」

 親指で歩の頬に触れ、彼はそう囁いた。

「私のこと嫌いなのに態々時間を割いて会いに来るなんて相変わらず変な人ですね……」

「歩ちゃんが変人扱いする!酷い!」

 襲撃者は歩の頬を指で軽く引っ張りながら、嘆いた。顔は笑っているが。

「何処に行くんですか?」

「私達お店とかはいけないし、監視カメラに映っても困る!」

 そうですねと歩は肯定する。だとしたら行けるところは限られている。

「ということで歩ちゃんとのデェトを如何しようか。私は思案し、妙策を閃いた!題して……」

 襲撃者は歩の身体から床に降りて、象徴的な外套をばっと広げた。

「ゴーゴリプレゼンツドキドキ空中散歩デェト!!」

「空中散歩……真逆、あなたの異能でですか?」

 歩が起き上がり真顔で問えば、そうとも!と襲撃者もといニコライ・ゴーゴリから良い返事が返ってくる。

「異能でどんどん空を飛んでいくのさ!景色は……直ぐに移動しないと落ちるからちょっとしか楽しめないけどね!」

「……否、だいぶきつくないですか。主にあなたが。」

「無理そうだったら歩ちゃんを空中にポーンする予定。故のドキドキ。」

「私死にますけど……」

 おや?とゴーゴリが首を捻る。

「今までの歩ちゃんなら一回くらい死んでも気にしなかったのに。何かあったのかな?」

 歩は少しの間沈黙した後、小さな声で云った。

「あなたには関係ないでしょう。」

 ゴーゴリが歩の顔を覗き込む。

「死ぬのが怖くなった?それとも誰かに何か云われたのかな?」

「関係ないって云ってるじゃないですか。」

 歩の声が厳しさを増すと、ゴーゴリは満面の笑みを浮かべた。

「歩ちゃんの怒った顔が見れた!此れは今のところ今日一の収穫だ!」

「……別に怒ってはいないですけど。」

 ゴーゴリはくるくると楽しそうに寝台の隣で回り、ぴたりと止まる。

「死にたくないという君の意志が尊重されると思っているのかい?もう君の自由意志が許される時期は過ぎ去ってしまっていると君自身も理解している筈だ。」

 歩は何も云わなかった。ゴーゴリの言葉は的を射ているとすら思った。自分には役目がある。約束がある。もう戻れないところまで来ていると知っている。

「知ってます。……全部、分かってます。」

「そう、君は其の時を待っていることしかできない訳だ。」

 ゴーゴリは憐憫にも似た目を歩に向けていたが、直ぐに笑顔に戻る。

「でも、大丈夫!僕は君が嫌いだけど、自由を愛する者!僕だけは君の自由意志を許容しよう。」

 つまり、僕は君の唯一の味方、運命共同体さ!とゴーゴリは軽やかにに云った。歩は胡散臭そうにゴーゴリを見る。

「あれ?信じてない?」

「私のこと嫌いだって明言している人の言葉を信じられると思います?」

 ゴーゴリは其れもそうか!と愉快そうに歩の頬から手を離し、歩の手を取った。

「なら、今日のデェトで証明しよう!僕が君の信頼に足る人間だとね!具体的に云うと、落とさない!!」

 エスコートさせてくれるかな?と歩の手を引いて立ち上がらせる。歩はこうなったらもう彼に付き合うしかないとゴーゴリの手を握った。

 結論を云おう。ゴーゴリプレゼンツドキドキ空中散歩デェトは終始ゴーゴリが楽しそうだった。夜なのに明るいね!あ、あそこ行ったことある気がする!とはしゃぎ、ハイ移動!と次々に異能を使っては移動していく。

 そして何処かのビルの屋上に降りた。

「ちょっと疲れた!」

 そう云って歩を降ろした。歩はずっとゴーゴリに抱えられていた。此れが一番移動しやすいからとゴーゴリに云われたからだ。歩は地上に生きて戻れたことに一先ず安堵する。

「歩ちゃん、」

 ゴーゴリに呼ばれ、其方に視線だけ向ける。

「ドス君が手伝って欲しい事があるんだってさ。」

「……そうですか。」

「先ずは指定の時刻に迎えに来て欲しいって。」

 歩は分かりました、と感情を隠した声で返した。ゴーゴリが歩の表情を伺えば、少し寂しそうな顔をしていた。

「何、そんな顔して。」

「……あなたは、私に会うために来てくれたんだと思っていたから。でも、依頼が目的だったんだと思って。」

「ええっ、え、ええ?」

 ゴーゴリが素っ頓狂な声を上げる。

「困る!歩ちゃん、其れは困るよ!そんな顔でそんなこと云うのは非常に困る!」

「……そうですか。なら、忘れてください。仕事の話は承りました。」

 歩が帰りますとゴーゴリに背を向けた。すると、ゴーゴリはうわあと大声を上げて歩の腕を掴んだ。

「仕方ないなあ、歩ちゃんは。……うん、今日は良い日だから歩ちゃんに良いものをあげようかな!」

 ゴーゴリは歩の身体を向き合うようにして、腰を屈め、視線の高さを合わせた。

「歩ちゃん、君の……」

 ゴーゴリの続く言葉に歩は言葉を失う。良いんですか、と歩は声を震わせる。

「だって、歩ちゃんへの最高かつなかなか重めのプレゼントになるからね!」

 ゴーゴリはそう云って至極満足そうに微笑むのだった。



「条野、今日たまたまあの少女に会った。」

 唐突に鐵腸が話し始め、書類を整理していた条野は面倒そうに顔を上げた。

「何ですか、少女?どの少女です?」

「此の前の、腕を喰われた。」

 条野が思い出したのか、ああと得心した声を上げた。

「あの子ですか。元気そうでした?」

「頗る元気だった。俺と条野に礼をと。兄と共に。」

 其れは其れはと条野は書類に再び視線を戻した。沈黙が続いて、条野が徐に顔を再び上げた。

「私と貴方に?」

「そうだ。俺とお前だけにだ。」

「歩さんには何も?」

 鐵腸は肯定する。

「兄の方は歩にも礼を云っていたが。彼女は何も。兄の話を聞いて、兄を助けてくれてありがとうと伝えてくれと。」

 条野は顎に手を当て、暫く考えた。

「ショックで一部の記憶を失っているとか。彼女、歩さんが撃たれたところを見た訳ですし。」

「確かに。それともう一つ。」

 鐵腸が真剣な顔で更に続けた。

「彼女の腕は再生していた。喰われたなどということがなかったかのように。そして、喰われた記憶もない。」

 条野は流石に違和感を覚える。都合の良いように記憶の取捨選択が行われているかのようだ。

「欠損部を再生させることのできる異能者は確かに存在します。ですが、記憶の欠落が余りにも都合が良過ぎる。彼女を普通の生活に戻したいと、悪い事は何もなかったと、そう思わせたい……そんな意志を感じますね。」

 其処まで推論を述べ、条野はある事を思い出した。其れは歩の言葉だ。

「強いあなたならきっと此の悪夢を忘れることができる。優しいお兄ちゃんといつも通りの生活を送ることができる。確か、そんなことを……」

 条野は鐵腸に視線を送る。鐵腸は硬い表情のまま云った。

「歩は……未だ、何かを隠している。」

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