其の三

※本誌のネタバレがあるかもしれない。内容そのもののネタバレはしてないんですけど…


「あれがポートマフィア五代幹部の……」

 小型の船を操舵し海を渡っていた歩は、遠方にある大きな船を視界に捉えた。テレビなどでよく見かけるクルーズの旅に出てくるような豪華客船が個人の所有物とは。漠然と凄いなと思いながら歩は其の船に近付く。
 船内は明るいのにやけに静かだ。人の気配がない。歩は何となく船内の状況を悟った。小型船を近くに止めて、適当な窓をいつも持っている通学鞄で割り、豪華客船の中に侵入する。
 歩の目的はとある人物の迎えである。詳細は不明だが、位置情報と時刻だけ指示された。つまり、指定の時刻、指定の場所に迎えに来い、そういうことなのだ。

 歩は長い廊下を歩き、目的の人物を探す。黒煙と其れに伴う焦げ臭さが奥から広がりつつあり、タイムリミットがあることを察する。燃やすなんて勿体ない、と思いながら広い船内を歩き回る。途中で死体が幾つか転がっているのが見えた。恐らく生きているのは自分にこんな指示を出した彼だけなのだろう。

 そうして、歩は遂に彼を発見した。白い露西亜帽と黒い外套の背中が見えた。

「ドストエフスキーさん。」

 歩が声を掛ければ、彼、フョードル・ドストエフスキーは振り返った。

「おや、貴女でしたか。」

「……ゴーゴリさん経由で私に依頼したのはあなたでは?」

 フョードルは不敵に微笑む。歩が何ですかと無表情で問えば。

「彼と貴女が仲が良いことは知っています。彼を特別な呼び方で呼んでいることも。なので、ぼくと話すからと云って呼び方を変える必要はありませんよ。」

「公私は弁える主義ですから。」

「成る程。彼とは私的に深い繋がりがあると。」

 歩はそうなんじゃないんですかねと適当に返して、作戦は終わったんですかと話題を変えた。

「ええ、終わりました。此れが目当てのポートマフィア構成員の異能力リストです。」

 見たいならどうぞと懐から書類を差し出されるが、歩は必要ないですと云って受け取らなかった。フョードルはそうですかと興味を失った声で返し、懐に戻した。

「貴女は本当に無欲ですね。何も欲しいものはないのですか?」

「あってもあなたには云いません。」

「ぼくなら貴女の本当に欲しいものを手に入れられるかもしれませんよ。」

 歩はフョードルを一瞥し、結構ですと硬い声で云った。

「其れよりお怪我はありませんか。応急処置程度ならできるように準備はしていますが。」

「そうですね……瓶で頭を殴られ、割れた破片で指を切りました。血は止まりましたが痛いです。」

「普通指より頭の方を心配するのでは……?」

 歩は怪訝に思いつつも見せられた指の傷を見る。深い傷でもなさそうだが、一応消毒し処置しておく。フョードルはまじまじと包帯が巻かれた指を見ていたが、ドストエフスキーさん?と歩に名を呼ばれ、指から視線を外した。

「……では、帰りましょうか。」

 フョードルが歩き出し、歩は其の5m程離れた後方を付いて行く。
 フョードルと歩にとってはいつもの距離感で、其れは縮まらない心の距離を示すものでもあった。

「歩さん、ぼくの何が其処まで気に食わないのです?貴女個人に嫌われるようなことは何もしていないように思うのですが。」

「あなたは、自分のためなら罪も関係もない子どもを犠牲にする。……好きになれる筈がないでしょう。」

 歩の眼光が鋭くなったことをフョードルは背中で感じる。ある種、其れは殺意に近いものであった。

「貴女は本当に子どもが好きですね。……ですが、どれだけ子どもを救おうとも彼等は帰ってきませんよ。」

 歩の足が止まる。フョードルが首だけ後方に向ければ、歩は俯き両の拳をぎゅっと握り締めていた。
 フョードルの云っている彼等と歩が其の単語を聞いた瞬間思い至った彼等は等しい。二人の共通認識であり、フョードルは歩の行動原理の軸となるものであると知っている。
 フョードルは歩に揺さぶりを掛ける。歩の精神に、感情に干渉しようとする。今日は狐はいない。

 じとりと歩の背中を厭な汗が伝う。

「……だから、私は……今度こそ大切な人を守りたいから、もう絶対に逃げない勇気が欲しいから、強くなりたいんです。」

 顔を上げた歩の目には強い意志の光が宿っていた。大きく足を踏み出して、フョードルの隣を過ぎて前を歩いていく。

 フョードルは指を一度噛んだ後、小さく細い背中をゆったりと追う。

「ぼくは楽しみにしているんです。貴女が真に大事に想う人を見出した時、其の人間を果たして守ることができるのか。それとも守れずに絶望し死という名の救済を求めるのか。」

 其の時は、とフョードルは囁くように蠱惑的な声で云った。

「貴女の永遠に訪れる筈のない死に、ぼくが終止符を打つことを約束しましょう。」

「不可能です。あなたじゃ私を殺せない。」

 歩は冷徹な声で否定した。有り得ないと断じてみせる。

「いいえ、可能ですよ。ぼくには其の算段があります。ですから、其の時は必ずぼくを頼ってくださいね。」

 歩は一瞬振り返って、直ぐに前を向いた。瞬間的に見たフョードルの表情は自信に満ちた笑みを浮かべていた。
 歩にとって其れは恐怖と嫌悪しか齎さない、そんな災厄じみた何かに他ならないものであった。
 自分も条野に指摘されたように人間性が徐々に欠落していっているのかもしれないが、此のフョードル・ドストエフスキーにこそ歩は人間性を感じられずにいた。歩は更に速足になり、フョードルから距離を取るのだった。


「其の子どもに何か問題でもあるんですか。」

 招集の連絡を受け、歩が集合場所の部屋に入ろうとした時、条野のそんな声が聞こえてきた。歩は会話の邪魔にならないようにそっと扉を開け、中に入る。空いていそうな席を探していると鐵腸が隣の席をとんとん叩いて合図した。歩は小さく頭を下げて、其の席に座り今如何いう状況ですか、と小さく尋ねた。

「作戦概要について副隊長から簡単に説明を受けた。曰く、児童養護施設の子どもが一人行方不明になったとのこと。」

 だが、子どもがただ行方不明になっただけなら猟犬に依頼は来ない筈だ。条野が云うように、其の子どもに何かあるのだろう。

「其の子どもには異能がある。」
 
 燁子は至極真面目な顔で告げた。条野は顔を顰める。

「其の異能は触れた者に疾病を被らせる。発熱、眩暈、頭痛、嘔吐、下痢等、思い付く限りあらゆる症状が表れる。触れた時間に比例してより深刻な症状が出るとの情報もある。大体数日で症状は治まるそうじゃが身体が弱る故、此の異能が原因で死亡した子どももいるそうじゃ。」

 子どもの内から呪いを背負わされているようなものだ、と歩は思った。其れだけじゃない、もし此の異能を悪用する大人に捕まれば、普通の人生は送れなくなる。殺戮の道具として利用されてしまう。
 自分のように。
 腕の中の狐が歩を一瞬見上げ、直ぐに俯き目を伏せた。

「居場所の目星は付いているのでしょうか。」

「行方不明となって既に二日経っておる。小童が同じ場所に留まっていられると思うか?」

 条野の問いに燁子がそう返せば、条野は口を閉ざした。

「其処で歩よ、其の子どもの捜索を命ずる。顔写真、背丈、行方不明になる直前の衣服等の情報は入手しておるが、他に必要なものがあれば逐一申し出よ。」

 燁子の命令に歩は承知しました、と答える。燁子が鐵腸も同行するようにと加えれば、鐵腸も頷いてみせた。が、其の命令に納得しなかったのが条野だった。

「待ってください、燁子さん。捜索なら私の方が適任でしょう。」

「いいや、条野。お主には当然別の役割がある。先ずは儂と共に件の児童養護施設に向かう。子ども達の生活環境の調査、院長含めた職員の事情聴取じゃ。儂は、施設長に何か裏があると睨んでおる。絶対に逃しはせん。真実を詳らかにしてくれるわ。」

 燁子の笑顔は凶器染みていて、条野と歩はぞっとする。其れに付き合わなければならないと思うと条野は更に気分が参ってしまう。今からでも理由をつけて鐵腸と交代したいと思っていたのだが。

「歩、直ぐに出発しよう。子どもが二日も行方不明とあれば生死に関わる。あちらは二人に任せれば大丈夫だ。」

「あ、わっ、末広さん、自分で移動しますから……!」

 鐵腸は歩をさっと抱えると凄まじいスピードで部屋から出て行ってしまった。こうなると条野は燁子を置いて追い駆ける訳にもいかない。条野は吐息を漏らし、諦めたように我々も行きましょうかと燁子に云うのだった。


 孤児院はヨコハマの郊外にある。歩と鐵腸は聞き込みをしつつ児童養護施設周辺を見渡せるような高い建物を目指していた。聞き込み調査の過程では児童養護施設の評判は悪くはなかった。近隣住民との交流も多く、問題が起こったことは一度もない。施設長も優しく穏やかな人物だそうだ。
 
 行方不明の子どもの名は旭薫。淡い褐色の瞳と灰色の髪が異国の血を分けていることを顕著に示している6歳の男の子である。母子家庭に生まれ、母親が体調や金銭の問題により養育できないことを理由に児童養護施設に入った。3年後に迎えに来ると母親は云っていたが既に4年が経過しているという話である。

 だが、近隣住民達は、此の旭薫の姿を見たことは今までに一度もないのだと云う。こんなにも特徴的な容姿をしているのに見たことがないということは施設長達が意図的に外に出さなかった可能性が高い。あのような異能を持っているなら当然と云えばそうなのだろうか。歩はそんなことを思いながら、鐵腸と共に児童養護施設に近いビルの屋上に上った。

「見えるか?」

「はい、良い感じです。」

 歩は眼下の景色から顔写真や背丈などの情報に該当する子どもを探そうと試みる。

「……話し掛けても良いか?」

「良いですけど、何故ですか?」

 鐵腸の問いに歩は首を傾げる。歩の頭の上で寝ていた狐も鐵腸を薄目で見た。

「条野だとこういう時動くな、喋るな、呼吸するな、と云う。」

「……条野さんの聴覚はかなり繊細なのかもしれませんね。そういう音が雑音に感じて、本来聞きたいものが聞こえ難くなるのだと思います。私は視界さえ遮られなければ何の問題もないので。」

 歩の解答に鐵腸は分かったと頷き、二人は時々話をしつつ捜索を続ける。建物を変えたり、聞き込みをしながら移動したりもしたが夕方になっても見付からなかった。児童養護施設の半径10km内は探したように思う。

「そろそろ日が暮れる。」

 ビルの屋上で夕日が沈んでいくのを見ながら鐵腸が云った。如何する、と歩に尋ねる。

「私はこのまま捜索を続けます。夜でも私は見えるので。」

 ヨコハマの夜には恐怖と狂気が蔓延る。非合法組織の抗争の舞台になるだけでなく、人身売買、違法薬物の取引、殺人、強盗、ありとあらゆる犯罪の温床と化す。子どもが一人で数日も其の夜を過ごしていると思うと心配が勝る。
 
「なら、俺も残ろう。条野の方は終わっているかもしれない、連絡して応援に来て貰おう。」

 と鐵腸が携帯電話を取り出した時だった。
 歩の目が黒の外車を捉えた。スモークガラスで中が一切見えない、如何にも怪し気な車だ。其の車の傍で男達が何かを取り囲んでいる。一人が其の何かを殴った。

 一瞬、灰色の何かが見えた。

「末広さん!!」

 歩の大声に鐵腸は少し驚いた。いつも無表情で、基本冷静な歩がこんな声を出すとは思わなかったのだ。しかし、直ぐに意図を理解し、歩を左腕に抱えて屋上から飛んだ。

 軍刀を抜く。

「≪雪中梅≫」

 軍刀の刀身が伸長し、別の建物の壁に刀先が突き刺さった。更に刀身を高速で縮め、其の建物の壁に移る。其の要領で空を駆り、歩が指す場所へ凄まじい速さで向かっていく。男達まで50mまで迫り、歩は持っていた通学鞄から拳銃を取り出し、引き金を引いた。夜の闇に銃声が轟く。銃弾は男達の腕や足、そして車のタイヤに命中した。男達が突然の襲撃に混乱している中、鐵腸は地に降り立ち、警察だと告げる。
 歩は鐵腸の腕から降りて、殴られていた何かに駆け寄った。其れは矢張り子どもだった。灰色の髪、淡い褐色の瞳の男の子。

「旭薫君?」

 男の子は名前を呼ばれ、ぴくりと身体を震わせる。歩はしゃがんで視線の高さを合わせた。

「警察です。あなたを保護しに来ました。」

 薫はさっと顔を青くする。不安と恐怖が一目で伝わってくる程の表情だった。

「僕は……帰らない。」

「其れは、施設の環境が原因?それともお母さんに会いたくなった?」

 薫は大きく身体を震わせる。違う、違うと譫言のように云い続ける。

「僕が悪いんだ。僕に触ると皆不幸になる。お母さんが僕を迎えに来ないのだって僕が人殺しだからだって、先生が……」

 歩は拳を握り締めた。こんな小さな子どもにそんなことを云ったのか。そうやって劣等感、恐怖、絶望を植え付けて薫の感情や行動、未来を支配していたのか。

「歩!」

 鐵腸の声に歩は我に返る。上空から音がする。何か巨大なものが落ちてくる。歩は咄嗟に薫を抱えて、跳び下がった。直後、ドン!と地に金属の巨大な塊が落下した。其れは、身体に見合った大きな金属の手足がある……二足歩行のロボットのようなものだった。鐵腸と歩を分断しつつロボットは着地して早々鋼鉄の腕を振り上げた。標的は歩と薫だった。歩は拳銃で撃とうとしたのだが。

「離して、僕に触るなぁ!」

 と腕の中で薫が暴れ、照準が定まらない。拳が歩の目前まで迫ったところで、鐵腸の刀が腕を斬り裂いた。一刀両断という言葉が相応しい切れ味で鉄腕が斬り落とされ、歩のすれすれに落下した。

「歩、其の子を連れて安全な場所に。」

 鐵腸の言葉に歩は大きく頷き、薫を抱き上げて走る。

「離して、離してよ……僕は誰も死なせたくないのに……」

 薫は暴れこそしなかったが、身体を震わせ今にも泣きそうになっていた。

「私も人を簡単に殺すことができる異能を持って生まれた。災厄……不幸をもたらす人間だ、ごみだ、此の世にいてはならない存在だと何度も云われた。そんなことを云われ続けて、刷り込まれて、自分でもそう思うようになった。」

 歩は走りながら、自分の過去を思い出した。どれだけ自分という存在を否定されてきただろう。自分の命に価値がないと教え込まれてきただろう。何故生まれてきたのか。人を殺すために生まれてきたのか。そんなの兵器と変わらないのではないか。ずっと、ずっと考えて生きてきた。薫が歩の顔を見上げた。大きな丸い瞳が揺れる。

「其れでも私のことを必要としてくれる人がいた。こんな無価値な私に価値を与えてくれる人がいた。私を抱き締めて人の温かさを教えてくれる人がいた。」

 歩は薫の背中を労わるように撫でながら語った。

「私は光を見付けることができた。だから、私は此処にいる。」

 薫は光、と歩の言葉を繰り返す。

「今の薫君は異能を制御できていないだけ。自分の異能を理解して、制御できるようになれば普通に生きられるようになる。」

 歩は薫を腕から降ろした。頭を優しく撫でれば、薫は嗚咽を零した。

「ぼ、僕は……こんな風に抱き締められたことなかったっ。頭を撫でられることなんてなかった!!此れからもそうなんだって、そう思ってた。友達もできないんだって、お母さんも迎えに来ないんだって。いじめられて、閉じ込められて。外に出しても貰えない。こんな異能があるからって諦めて……でも諦められなくて逃げて……」

 信じて良いの?と薫が歩を見詰める。縋るような目だった。
 寧ろ信じて欲しいなと歩は頭を撫で続けた。

「あなたは聡い子で、何かを変えようと努力できる子。だからきっと大丈夫。私はそんな薫君を助けるために来たんだよ。」

 薫は気付いた。自分にとっての光はきっと此の目の前にいる彼女なのだ。
 彼女は自分が見付けた光を他者にも分け与えることができる優しい人間なのだと。
 彼女を信じればきっと新しい未来を歩むことが自分にもできるのではないかと。

「あ、あの……あなたの名前は……」

「私?私は……」

 歩が名前を云おうとした時だった。ギギギと金属が軋む音が歩と薫の耳に届いた。

「……先刻の、」

 現れたのは先程見たロボットだった。だが、鐵腸がこんなロボットに倒される筈がない。だとしたら先刻のものとは別のものである可能性が高い。鐵腸が此方に来ないのはもしかしたら数で押されているのかもしれない。歩はそう分析して、拳銃を再び抜いた。関節部に何度か発砲するが、効果はない。薫を守りながら戦うことは今の自分の実力的にも難しい。歩は離脱を選択し、薫を抱え、ロボットに背を向けた。

「オ……」

 走り出そうとした時、ロボットから音声が聞こえた。コンピュータが合成したもののようで、雑音も混じりよく聞こえない。

「ド、ド……」

 歩は一瞬立ち止まったが、直ぐに足を動かす。ロボットが駆動音と共に歩を追い駆ける。拳が振るわれ、其れを跳んで躱す。街中での戦闘は今は人通りがないものの他の一般人を巻き込み兼ねない。何とか裏の路地にでも入ろうとするがロボットが巨体の割に動きが速過ぎる。直ぐに追い付かれ、再度拳が打ち出された。

 が、其の拳は歩達に届かず、地に落ちた。

 歩が振り向くと、ロボットの上に誰かが立っている。

「警察に捜索願いが出されたってのは本当だったか。それとも優しい警官が迷子を家に送り届ける途中ってか?」

 歩の目にはロボットの上にいる男が、其の悍ましい程の闇の深さが、映っていた。

 あれは、ポートマフィア。ヨコハマの闇を統べる巨悪。

 グシャリと鋼鉄の装甲が紙のように潰れる。
 黒い外套が風に翻り、男が重力を感じさせない軽やかさで地上に降り立った。

「前者なら其の子どもに触れる筈がねェか。触れて平然とできる奴なんてあの青鯖くれえなモンだろ。」

 薫がぎゅっと歩の服を掴んだ。歩は薫を抱き締め、端的に云った。

「前者ですが。」

 其の声は歩のことを何も知らない人間なら何の感情もなく云ったように見える。しかし、彼女のことを理解している人間なら其の含まれている怒りの大きさに気付くだろう。

 男は歩の解答に怪訝な顔をする。

「前者なんだとしたら自殺願望でもあるのか。其奴に長時間触れたら死ぬんだぞ。」

「厳密に云えば、彼の異能に殺傷能力はありません。」

「仮にそうだとしてもだ。手前が抱いている其の子ども、旭薫と異能の価値は此方じゃ1億まで膨れ上がってんだよ。裏社会の連中が今其奴を見つけ出そうと躍起になってる。こんな子どものために複数の組織が絡む抗争も起きかねない状況って訳だ。」

「警察の前でよく人身売買の話ができますね。」

 歩は薫を降ろして自分の背中に隠した。薫が震えているのが分かる。狐は薫の傍に着地して彼を守るように控えた。

「できる、手前には死んで貰うからな。最近の話だが軍警の一人にうちの主力がやられたんだ。しかも手心まで加えられたって話だ。うちの面目は其れのせいで丸潰れだ。」

「私を見せしめで殺し、薫君を捕らえる。そうすればポートマフィアの面子は保たれるだけでなく、信用も取り戻せると。」

 歩は男に鋭い視線を向ける。男が其れに怯むことは勿論なかったが。

「そんなことに子どもを……薫君を巻き込むなんて莫迦莫迦しい。」

 男は目を細め、分かって貰う心算はねェよと突き放した。

「却説、そろそろ話は終わりだ。」

 歩の後方から、ばたばたという複数の足音が近付いてくる。背後の足音は五人の黒服の男達で、小銃が歩に向けられる。

「最後の言葉があるなら聞いてやる。」

「あなたに聞かせる言葉はありませんが……」

 薫君、と歩は薫の頭に手を置いた。

「目を閉じて耳を塞いで。誰かがあなたに触るまでそうしていて。できる?」

「う、うん……!」

「私があなたを必ず守る。其れが、私の正義だから。」

 歩は薫に背を向ける。其れが開戦の合図となる。男は子どもは撃つなと念を押し、撃てと短く命じる。男達は一斉に歩に向けて引き金を引かんとする。

 歩は其の直前、男の命令と重なる形で目を伏せ、言葉を発していた。

「≪オーバークロック≫」

 開いた歩の右目が赤く染まる。歩は黒服の男達が引き金を引く其の刹那の時間に何かを投げた。

 其れは、閃光弾であった。
 カン、とアスファルトを跳ね、眩い光を放射する。夕方から夜に変わり、其の闇もあって、効果は更に倍化した。ぐああ、と男達の呻き声が上がる。中也も咄嗟に目を閉じたが、光が消えるまで動くことができなかった。其の間にもサプレッサーにより消音されているものの小さな銃撃音が丁度五回起きた。ばたばたと倒れる音も男には聞こえた。

 光が収まり目を開けた時、男の五人の部下は倒れていた。銃弾はどれも致命傷を避けていたが、全員が意識を完全に失っている。
 倒れている男の部下達の中心に立っていた歩の右手の拳銃からは薄く煙が上がっていた。

「……ただの善良無害な公僕かと思っていたが、如何やら違うみてェだな。」

 歩は無感情に男を見詰める。歩の左目がじわりと青く染まる。

「子どもの希望や未来を壊そうとする人間は許さない。其れだけです。」

「気概だけは認めてやるよ。けどな、俺の重力の前に意志の強さは関係ねえ。」

 黒帽子の男は一瞬で距離を詰めた。横薙ぎの蹴りが放たれ、歩は其れを鞄で受けた。
 ドゴッと重い衝撃音が響き渡る。男の蹴りにより歩は吹き飛ばされ、壁に身体を打ち付けて止まった。

「……何だ?」

 重力を込めた一撃。普通の人間ならば身体が拉げる程の威力だ。だが、手応えを余り感じない。

「あの鞄……否、それとも異能か?」

 男が思案しつつも歩の方へ歩み寄る。あの威力だ、動けなくなっている可能性は高いが死んではいないと男は踏んだ。余り苦しませる心算はなかったんだが、と男は考えつつ一歩また一歩と近付く。歩は倒れていて表情は伺えない。

 そして、あと五歩という距離まで来た時。ドンッと銃声が一発鳴り響いた。

「……ああ、そう来ると思ったぜ。手前なら。」

 銃弾は男の身体に触れるか触れないかの所でぴたりと止まる。
 男の異能、重力操作だ。

「手前がこんなところで諦めるなんて思っちゃいねェよ。」

「……そうですか。過分なお言葉ありがとうございます。でも、少し話しただけで私のことを分かった気でいられるのも困ります。」

 歩はゆっくりと立ち上がり、銃口を男に向ける。男は目を細めた。

「見て分かるだろうが、俺に銃は効かねえ。」

「知ってますよ、中原中也さん。」

 歩の言葉に男、中原中也は大きく瞬きをする。

「あなたは異能で重力を操れることも、だから銃弾等の物理攻撃は殆ど効かないことも……全て知っていますよ。」

「だとしたら、銃で立ち向かおうとする手前は相当の莫迦だな。」

 中也は嘲るように笑った。奇襲を狙っていたのだろうが、中也は歩を其処まで軽んじてはいなかった。

「其れだけじゃねえ。俺の異能があれば手前が撃ってきた此の銃弾を其れ以上の威力で手前に返せる。」

 終いだ、と中也が自分に向けられていた筈の銃弾を反射するように、音速すら超える速さで撃ち出した。

 が、其の銃弾は歩が首を少し逸らしたことで耳の横を通り過ぎた。
 此の至近距離で見て避ける、そんなことが常人にできるのか。それとも予知系の異能か。中也は歩に戦慄を覚えた。

「私は弱いし、莫迦です。そんなことくらい自分でも分かってます。」

 歩は赤と青の双眸で、中也の自分のものとはまた異なる澄んだ青い瞳を捉える。

「其れでもあなたのような強力な異能者と戦わなければならない。勝たなければならない。そうでなければ自分の守りたいものが守れない。だから、私は強さを求める。……あの押し入れの闇から自分で抜け出す強さを、あの子達に起こった理不尽な悲劇を此れ以上繰り返さないための強さを。」

 中也は漸く気付く。
 其の無機質な瞳に、感情の見えなかった顔に、ずっと怒りが燃えていたことが。

「……薫君の未来はあなた達みたいな悪に侵されて良いものじゃない。」

 静かな怒り。大きな決意が込められた言葉。
 其れと共に中也に浴びせられたのは電気の奔流だった。バチ!!と中也の身体を閃光が弾ける。電流が全身を貫通するように走る。

「な……っ!?」

 何の兆候もなかった。中也は衝撃と痺れに膝を着き、反射的に歩を見上げる。

「最後まで気概だけを認めてくださってありがとうございます。」

 赤と青の目が冷たく中也を見下ろしていた。其の周囲には掌に収まる程の小さな無人機が三機、音もなく飛んでいた。

「物理攻撃が効かない異能者なんて幾らでもいます。真逆、何の対策もしていないとでも?」

 歩は拳銃を鞄に仕舞った。戦闘は終わったとでも云う様に。

「此の無人機は電撃を対象に流すことができます。三機あれば、大抵の人間を無力化できます。其れに此の鞄には耐異能金属が仕込まれていて、異能自体を吸収する効果があります。此れのおかげで肋骨が二、三本折れるくらいで済みました。」

 全部あなたのような強力な異能者と対峙するために準備したものですよ、と歩は淡々と語る。

「なら、手前の異能は……其の無人機を操るってことか。」

「正解であり、不正解でもあります。此れは私の異能じゃありません。何せオリジナルは此の様な無人機を百機同時に操作可能でしたから。」

 歩はもう話すことはないとでも云う様に中也の横を通り、薫の方へ歩き出す。

「手前が……軍警の特殊部隊、猟犬なのか。」

 歩は勢い良く中也を見た。何を云っているのか、と心底不思議そうな顔で。

「私なんかが猟犬な訳がないじゃないですか。……私は最強なんか名乗れない。任務を100%完遂させる自信なんてない。弱くて、失敗ばかりで、何の取り柄もない軍警所属の凡人ですよ。」

 歩は前を向いて再び歩き出し、律儀にも歩の云い付けを守り続けている薫の肩を軽く叩いた。薫は一瞬ビクッと跳ねた後、ゆっくり目を開けた。目の前には歩が立っており、お待たせと僅かに微笑む。すると、薫はうわあっと叫んで歩に抱き着いた。

「次に目を開けた時、お姉さんじゃなかったらって……僕、僕は……!!」

「ごめんね、心配掛けて。」

 歩はもう大丈夫と、薫の頭を撫でた。

「他の軍警の人達と合流しよう。そうしたら安全だから。」

「……うん!」

 しかし其の時、待ちやがれと地を這う低い声が二人に届いた。
 歩が振り返れば、中也が立っていた。

「未だ、終わっちゃいねえ。」

「いいえ、もう終わりです。」

 歩の瞳は赤と青に染まったままだった。
 中也は其の目を見た時、悪寒を感じた。
 厭な予感は当たる。
 ぐらりと視界が歪む。平衡感覚が保てない。腹の底から不快感がせり上がり、嘔吐しそうになる。電流を浴びたからだけではない。戦闘中か、それとももっと別のタイミングで何かが仕込まれていた。

「異能力≪換骨奪胎≫……無人機も、其の毒も此の異能の一角に過ぎません。」

 歩は薫を抱えて歩みを進める。そして、一度立ち止まり、中也の方を見た。
 其の目は漆黒に戻っていた。

「例え何者であったとしても正義の前には平等に罰せられる。そう忠告した筈なんですが如何やら無意味だったようですね。……ですが、今回はそうもいかないでしょう。あなた方の首領がどのような判断を下すか、楽しみにしています。」

 中也は其の時初めて理解した。
 芥川を下したのは彼女だったのだということに。


 薫を抱く歩の歩みは重い。狐は何か訴えるように歩を見上げ隣を歩いていたが、歩は其れを気に留める余裕もないようだった。幸い他に追手も来ず、歩は鐵腸がいた方向を目指す。

 すると、間もなくして夥しい量のロボットの残骸の山が見え始めた。百は超えていそうだとぼんやり思いながら鐵腸を探す。

「歩!無事であったか!」

「あ……大倉さん、」

 歩に駆け寄ってきたのは燁子だった。歩は咄嗟に背筋を伸ばし、問題ありませんと返す。

「此方、旭薫君です。怪我しているので治療と、水や食料を……」

 歩が薫を降ろし報告すると、燁子は分かったと頷き、薫の前に立った。

「儂は大倉燁子。歩と同じ警察の者じゃ。お主には話さなければならないこと、選択して貰わねばならぬことがある。が、今は怪我を治療し、英気を養うことが先決。儂と共に来てくれるか?」

 燁子が手を差し伸べる。白手袋をしていたが、其れでも薫には十分希望となった。歩以外にも自分に触れてくれる人はいる。自分がもっと頑張って、異能を操れるようになればもっと。

「お姉さん、僕行ってきます。また会えますよね……?」

 歩は頷いて、薫の頭を撫でた。

「うん、また後で。」

 薫はパッと顔を明るくして、またねと手を振り燁子の手を取った。燁子は歩に背を向けたが首だけ振り向いた。

「歩、報告は後で聞く。近くに条野と鐵腸がいる故合流せよ。」

「分かりました。薫君のことよろしくお願いします。」

 燁子と薫の背中が見えなくなるまで、歩は其処に立ち、見送っていた。しかし、二人が完全に見えなくなるとふらりと身体が揺れた。
 糸が切れたように重力に従って倒れる身体を誰かが受け止める。

「大丈夫か。」

「……?」

 歩には其れが誰か分からなかった。目がよく見えない。恐らく目を酷使し過ぎたせいだ。
 誰かは分からない。でも、敵ではないことは分かる。温かくて優しくて其れでいて強い腕の力に支えられている。

「織田作、さん……私、子ども達を守れるくらい強く、なれたでしょうか……」

 歩はぽつりと呟いた。

「子どもを助ける度、実感するんです。もう、皆にも……あなたにも二度と会うことはできないんだって。どれだけ強くなっても失ったものは戻らないんだって……」

 歩を支える人は何も云わなかった。

「でも、私は戦う理由を見つけることができたんです。正義だけじゃない、もっと大事なもの。だから……当分、地獄には行けません。例え、許して……くれなくても……私は自分の役割を果たすまで、生きて……」

 歩の意識は其処で途切れた。ぐったりと身体の力が抜け、ぱきりと目の周囲の皮膚に罅割れが生じる。身体は熱く、意識がないながらも咳と同時に血がごぼりと口から溢れた。
 歩の身体を支えていた者は、手慣れた様子で彼女を抱き上げた。

「お前の意志は理解した。なら、俺は……お前を死なせない。」

 鐵腸は、誓う。強くて優しい其れでいて脆過ぎる此の少女を死なせたりはしないと。

 もう二度と一人にはさせないと。

「鐵腸さん、早くしないと其の誓いも無意味なものになりますよ。」

 声がする方に鐵腸が向くと、条野が呆れ顔で立っていた。

「歩さんはまた一人で無茶をして。しかもあの子どもの夢を壊さないためにと異能をまともに浴び続けていたことでしょうし。暫くは絶対安静ですね。」

「……条野。歩の話を聞いていたか?」

 条野は聞きたくなくても聞こえますから、と冷静な声で答えた。

「条野、此れ以上詮索はするな。もし知ったとしても歩に何も云うな。俺もそうする。」

「もし、其の織田という人物が犯罪者だったとしても同じことが云えます?」

「……俺はそうすると決めた。」

 条野は溜め息を吐いて、分かりましたよと承諾した。

「得られるものがなければ私も追ったりしません。死人であれば尚更です。」

 鐵腸は頷き、医者に診せてくると云い残し条野を置いて走っていった。条野は仕方ないと一人後処理を再開する。

「子どもを守ろうとする理由は理解できます。ですが……」

 条野は思い出す。歩が学校の制服を纏って、友達と話しながら歩いていたあの時間を。
 其れは普通の何処にでもいる高校生の当たり前の日常で。

「……貴女も未だ子どもでしょう。」

 歩は矢張り自分を軽視している。他者のために自分を消費してしまえるのだ。そして、其れが自分の正義であると信じてやまない。

「如何しましょうか。本当に子守は得意ではないんですけどね。」


 あの人……厳密に云うのであれば私の生みの母親である吾妻統との戦いは正に死闘だった。リアレス教団の精鋭とも戦い、疲弊もある中現れた彼女は此れまで奪って来た幾つもの異能を駆使し、私の完全なまでの消滅を画策していた。

 其れでも、其の時の私にとっては矢張り死は縁遠いものだった。長い長い戦いの末、隙を見せたのはあの人だった。

 最後には私の銃弾があの人に勝利を決定するダメージを与えたように見えた。けれど、実際のところはあの人は幾つもの異能を並列で長時間扱うことにより脳に多大な負荷を受けていたのだ。つまり、彼女にとってもあの≪換骨奪胎≫という異能は御しきれないものであったということを意味するのであった。

 あの人は、確かに私が強さを手に入れた証拠に成り得た。私の正義を示すことができた。
 けれど、殺す心算はなかった。法による裁きを受けて欲しいと私は考えていたから。
 だが、≪換骨奪胎≫はあの人の脳を破壊し、再起不能にしたのだった。

 其の時の私は効率良く脅威を排除するために異能を乱用していた。吾妻曹司とのことも解決できておらず自分の生死の価値すら曖昧で、精神の摩耗が自分でも分かった。記憶も自分のアイデンティティとなる重要なものは覚えていたものの、他は混濁していた。あの人との戦いだって作業のようなものだった。何を云われても、理解できない言葉として消化されていった。片目が潰れ、腕が吹き飛び、内臓が壊れても痛みすらなかった。

 あの時、私は一度死んだのだと思う。もう何も考えられなくなって、如何でも良くなって。

 だから、吾妻曹司という悪に私の全てを譲渡した。もう彼の好きにすれば良いと、そう思ってしまった。

 吾妻曹司は私の全てを手に入れると、最初にあの人の目を抉り出した。
 死人には要らないだろうと云って、あの人との戦いで潰れた左目と取り換えたのだ。

 吾妻曹司曰く、≪換骨奪胎≫は吾妻統のものではなかったらしい。あの目こそが≪換骨奪胎≫の根源であり、私の目のように後付けのもので、他者に目を移植するだけで譲渡できるものだった。複数の異能を使っても脳の負荷に耐えられる者に取り付けられ、定着したのが吾妻統だったのだという。私や王の写本の構成員が持っている此の目は≪換骨奪胎≫をモデルとし、かつ対抗できるものとして開発されたのだそうだ。
 其の≪換骨奪胎≫が私……此の場合は吾妻曹司に渡ったという訳だ。しかし、片目では矢張り≪換骨奪胎≫本来の力を再現できなかった。異能の解析は遅く、相手の異能を奪うことはできなくなっていた。再現はできるもののオリジナルの10分の1程度の出力で、最大5つしかストックできない。更に≪オーバークロック≫による身体能力向上と思考加速が無ければ扱えない、複雑かつ強力な異能はまともに使うこともできない。≪オーバークロック≫にはタイムリミットもあり、≪換骨奪胎≫の使用により其のリミットも速まる。
 其れでも吾妻曹司には十分だった。異能を複数使えて、死ぬことはないのだから。

 彼の願いは実現する。そう思われた。

 彼の誤算の一つは、彼は私と同じように私の異能を使うことができなかったことだ。大切な人間の優先順位を変えることができなかった。私は自己暗示で大切な人間の優先順位を変更したり、加えることができたが吾妻曹司は其れができなかった。そもそも吾妻曹司は人間を大事だと思う感情が存在していないようなものだった。

 もう一つは、彼の前に最強の男が立ち塞がったこと。そう、福地桜痴である。
 話が少し逸れるが、私の本当の異能が判明した時、色々と揉めたらしい。封印すべきだとかそういう話である。だが、福地桜痴の鶴の一声で私は軍警にこのまま所属し、国民のために、正義のために異能を使用するならば問題ないということになった。そして、其の管理、異能使用の決定権は福地桜痴に委ねられた。
 福地桜痴は其の時、私の異能を使用して人を殺す合法性、正当性を得たに等しかった。福地桜痴は私に顔写真と其れに振られた数字しかないリストを渡した。名前は分からない。何をしたのかも分からない。命令した時は其の人間を優先的に殺せ。もし異能を使う機会があったなら、其のリストの順番通りに異能を使え、其れが命令だった。
 命令に従うのは彼から強さを得る対価であり約束だった。だから、粛々とこなした。其れが正義でないとしても、対価を払うこと、約束を守ることは正義であると自分の中で結論付けた。
 其れに、生きることにすら執着のなかった私に正義というぶれない軸を持たせてくれたのは福地桜痴だ。彼が教えてくれた正義で私は成り立っている。

 だから、私は彼の云う正義を執行するのだ。

 福地桜痴は、死よりも恐ろしい苦痛を吾妻曹司に与えたらしかった。福地桜痴を殺そうとしたが前述のように吾妻曹司は私の異能を使いこなすことができなかった。当然、≪換骨奪胎≫の劣化版で最強に太刀打ちできる筈もない。
 最終的に吾妻曹司は私に身体を返してしまった。そして、福地桜痴が吾妻曹司に私の身体から去るように命じた。吾妻曹司は妹である統と私以外に異能を使っている者がおらず、もしくは其れ等人物全員が死亡していることもあって、其れを拒否した。私から出て行くということは死と同義であると。
 
 ただ、此方としても吾妻曹司が出て行くと私の精神は完全に瓦解してしまうのだ。
 吾妻曹司の異能、ひいては吾妻曹司自身によって私の精神は繋ぎ合わされているのだから。
 しかし、奇跡的にとでも云うべきか私の精神、自我は残っていたのだ。吾妻曹司により壊されたものの其の記憶を封印したことにより形成されたもの。織田作さんや子ども達との思い出、福地桜痴から教わった正義。様々な記憶が私の精神と感情を新たに作り上げていたのだ。吾妻曹司は其れを知っていたが自分が消えないために、さも自分がいないと私の精神が崩壊すると圧力を掛けてきていたのである。
 其れさえ残っていれば、私は私のままでいられる。けれども、其れ等が少しでも脅かされると私は崩壊する。私の異能による精神の摩耗は大切なものであろうと削り取り、容赦がない。

 よって、其の対処法の初めとして吾妻曹司には別の肉体と空の精神を用意することになった。
 ≪換骨奪胎≫にてストックしている五つの異能の内の一つ、あらゆる物質、生物の生成、召喚によるものである。細部のカスタムも思いのままだが其れは本来の≪換骨奪胎≫であるならばである。10分の1ともなれば人の姿を作り出すこともできなかった。よって、私が最終的に生み出したのが偶々テレビで見た可愛いふわふわの小狐だった。吾妻曹司は渋々其処に入り、今の姿となったのである。

 触れた人物の精神に作用する吾妻曹司は狐となり、私の傍にいることで精神の摩耗を抑制する役目を担うことになった。福地桜痴には逆らえない、こんな姿になっては尚更と吾妻曹司は承諾した。吾妻曹司は私の精神を壊し切ってから治すことが多かったが、其の時から私の精神を守ることが役割となったのだった。つまり、私にとっても吾妻曹司は生命線である。彼がいなければ廃人になりかねないのだ。

 いなくなって欲しかった存在を守る私。壊していた筈のものを守らなければならない吾妻曹司。

 何ともおかしな関係だった。

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