其の七
梶井さんの部下になって二週間経った。書類整理や研究の手伝い、護衛、任務、会議の代理出席などをこなす日々を送る中、左腕の骨折はリハビリの段階を迎えていた。全治一ヶ月と云われようとも三週間での完治させるという荒業を毎度行っているため、医者には諦めにも似た目で見られるが気にしてはいられない。
今日もリハビリを終え、研究所への道を行く。そういえば、骨折の元凶たる芥川さんとの訓練は最近実施されていない。どうやら別の任務に忙しいようで私に構っていられないらしい。左腕がもし完治したならば久しぶりの骨折無しの身体となる。休暇ができればバイクにでも乗ろうかなどと考えていると、携帯電話の着信音が鳴った。なかなかに派手な音楽が雑踏の中で響き渡る。これは梶井さんが勝手に設定した梶井さんからの着信専用音で、研究所にいる全員がこの音にさせられている。
「はい、歩です。」
「おはよう、歩君!!今日の天気は快晴!!降水確率は10%!!花粉とPM2.5には注意するべきだが実に素晴らしい一日が始まった!!」
携帯電話を若干耳から離して、良い日になりそうですねと肯定する。朝からテンションが高いのか、それとも研究で徹夜でもして深夜テンションなのか。
「それで急ぎの用ですか?今からそちらへ向かうのですが。」
「本部は近いかい?」
「研究所から本部の方が遥かに近いです。」
梶井さんがうーんと唸る。
「召集命令が来ていて......ああっ、今研究を中断したら......しかしっ、首領の命令は絶対っ!!首領を取るか研究を取るかっ!!これは究極の選択!!」
普通なら首領の命令に従うべきだ。だが、梶井さんが今行っている研究もまた首領からの指示であるため、優先順位が付け辛い。電話越しにぐあああっと咆哮を上げる梶井さんは矢張り研究に集中したいようだ。
「代理を立てて良いなら私が行きます。」
「歩殿!!貴女は天より遣わされた神の使徒!!慈愛に満ちたその......」
「研究頑張ってください。あと、研究所の防衛もよろしくお願いします。」
長話になりそうだったので通話を切る。おだてるのが上手いのか下手なのか定かではない表現方法にはいつも閉口する。
「......行きますか。」
一先ず路上で謎の気合いを入れて、ポートマフィアの本部たる高層ビルへと歩みを進めた。
▽
「歩です。」
「ああ、君か。入って良いよ。」
一介の構成員であるにも関わらず最近かなりの頻度でこの首領と顔を合わせている。だが、それでも首領を前にすると生じる緊張と恐怖には慣れることができない。
「今回は梶井さんの代理で来ました。」
「梶井君は研究で忙しいのかな?なら仕方ないね。」
首領の笑顔が冷たい。足元から凍っていくような錯覚すら覚える程に。梶井さんでなければならない案件だったのかもしれない。
「如何だい?梶井君の所は。」
「......忙しいです。」
「だろうね。これからも頑張って欲しいところなんだけど......」
首領が一拍間を置く。
「これを見てくれるかな?」
執務机越しに渡された一枚の紙に羅列されている文字を読み込む。
「すみません、矢張り梶井さんの方が良かったですか?私ではこれの意図する事が分かりません。」
題には物質の名前、そこから下はズラリと成分名が並んでいる。それが私には理解できない。梶井さんならばきっと首領の意を汲めるのだろうが私には難しかった。
「分かりやすく云うとだね。此れは巷で流行っている一種のドラッグのような物だよ。」
「ドラッグ......」
「あくまでそのような類いのもの、だ。それを摂取した者は殺人衝動が増幅して、昼夜問わず人を襲い続ける。人を殺せば多幸感に満たされ、薬が切れると意識を失い、目覚めればまた薬を求める。販売元は此れを睡眠導入剤として売り出しているようだけどね。」
最近、軍警が見廻りをしているのはこの影響なのかと一人納得する。だが、それに梶井さんが何の関係があるのか。解毒剤の作成依頼だろうか。それとも......。
「成分表示の五項目目を見て欲しいのだけれど。」
指された物を見て、首領を再び見る。厭な予感がした。
「それ、梶井君の研究所産なんだよ。所謂ドーピング作用のある物質でね。」
そこで私はようやく首領の意志が全て理解できた。そして矢張り私が来るので正解だったのだと確信した。
「それ自体はグレーゾーンだが、薬の方は完全な黒。軍警も薬の製作者、販売元を調べていてね。......此方にも手が及んでいる。」
「首領、ですが......」
「ああ、勿論、梶井君たちが頑張っているのは知っているんだよ。頑張りが大事、結果は二の次だ。現にこれはうちでも使っている人間はいるし、多大な利益も得ているのだから。」
でもねえ、と首領は云いながら執務机に写真を置いた。
「此処はポートマフィアの武器庫の一つだったのだがね、昨日から街の荒くれ者集団に占拠されている。そこまで力のある者ではなかったんだが、薬の使用者なんだろうね。押し切られてしまったようだよ。」
「つまり、責任は此方にある、と。」
首領は何も云わず、私を見詰める。
「この始末を着けなければ研究所と梶井さん達の明日は保障しないとそう云いたいんですよね。」
私はその写真も手にし、懐に仕舞う。ポートマフィアは無慈悲だ。早く動かなければ本当にそうなってしまう。
「証拠隠滅、解毒剤の開発、武器庫奪還は此方で行います。」
そのまま踵を返そうとした私を首領は呼び止めた。
「武器庫の奪還については助っ人を送ってあげよう。」
「助っ人ですか?」
聞き返すと、首領が不敵に口角を上げた。
「それに探偵社も一枚噛んでいるみたいでね。停戦協定もある事だし、協力して事に当たるのも良いんじゃないかな?」
「......分かりました。」
「きっと良いものが見られると思うよ。」
首領の企みはいつも分からない。だが、今はきっとそれに乗るのが一番良い。梶井さんの部下として最善を尽くす、それが今私のするべき事だ。そう自分に言い聞かせ、その場を後にした。
研究所に戻った私は梶井さんと研究員の皆さんに全て話した。研究員の皆さんは動揺していたが、梶井さんはいつものテンションだった。
「じゃあ、全部爆破しよう!そうしよう!」
「駄目です。梶井さんは解毒剤の開発を可及的速やかにお願いします。」
「じゃあ、武器庫奪還作戦は歩君が行くのかい?」
「首領は私が代理で来る事を予見していたように思います。奪還作戦に私を参加させるためだったのかもしれません。」
ホルスターに手を当て、深く息を吸った。
「死んでも武器庫の奪還は遂行します。なので、梶井さんよろしくお願いします。」
梶井さんに後の事を任せて、研究所を出る。これから首領が云っていた助っ人の方と待ち合わせがある。指定された場所には少し戸惑ったがこれは仕事だ。重くなりそうになる足を動かして私は其処へと走り出した。
喫茶店うずまき、其処が指定された場所だった。
扉を開けて店内を見回してみればテーブル席の一つがやけに騒がしい。恐る恐る覗いてみれば見覚えのある人が......。
「中原幹部......」
「青鯖野郎が!ぶっ殺......。あァ、手前か。もうちょっとゆっくり来ても良かったんだぜ?」
「いえ、そういう訳には。ところで首領の云っていた助っ人って。」
多分俺の事だろうなァ、と中原幹部は腕を組んで云った。
「俺は彼奴の上司だしな。落とし前はきっちり着けてやる。只、一点気に入らねェ事があるとするなら......」
「やあ、歩ちゃん。」
中原幹部の向かいに座っていたのは太宰さんである。太宰さんはにこにこと笑顔で私に手をひらひら振った。それを見て中原幹部はあからさまに厭そうに眉を寄せた。
「此奴には会いたくなかったんじゃねェか?」
「公私混同はしません。私は私の役割を果たすために此処にいるだけです。」
仕事は仕事だ。協力しなければならないならそうするし、戦えと命じられれば戦う。私情は挟まない。
「無理はするんじゃねェぞ。それから好きな物頼んで此処座れ。」
「ありがとうございます。」
私は店員さんに珈琲を頼んで中原幹部の隣に腰を下ろした。向かいには眼鏡を掛け、背筋を伸ばした真面目そうな男性がノートパソコンを打っている。
「彼は国木田君。うちのいじられキャラ。」
「何を云っとるんだ、貴様は!!」
顔を上げた国木田さんは太宰さんに怒号を浴びせる。
「え?違う?」
「大いに違うわ!俺は貴様の苦情や厭がらせのせいで迷惑を被っている、謂わば被害者!断じていじられキャラ等ではない!」
「国木田君、知らないの?最近のいじられキャラはね。」
意志の強い人
実直な人
ラッキーな人
礼儀正しい人
「この頭文字を取って"いじられ"。つまり、褒め言葉なのだよ!」
「そ、そうなのか......知らなかったぞ。」
「ほら、早く!忘れない内にメモメモ!」
国木田さんは理想と大きく書かれた手帳を取り出して、万年筆で書き記していく。
「いじられキャラのいは意志の強い人、じは実直な人、らはラッキーな......」
「嘘だけどね。」
ボキッ!!と万年筆が半分に折れる。国木田さんが笑う太宰さんを掴み上げて揺さぶる中、私は隣の中原幹部を見る。
「......嘘かよ。」
ボソリと聞こえた声に私は吃驚する。真逆此処にも信じた人がいたとは。......聞かなかった事にしよう。中原幹部の面子のために。
「改めて、国木田だ。よろしく頼む。」
「歩です。よろしくお願いします。」
挨拶を済ませて私もノートパソコンを開き、鞄から資料用ファイルを取り出す。
「此れが今回の案件の資料なのですが。」
「受け取ろう。此れが此方の書類だ。一通り目を通してくれれば助かる。」
「はい、今すぐに。......すみません、この部分なんですが。」
「其処は......」
私と国木田さんで話が進んでいく。武装探偵社の依頼はポートマフィア側でも問題となっている薬の件、そして武器庫を占拠している集団の暴力沙汰の早期解決。つまり、此方と目的は一致している訳だ。
「ねえねえ、二人共ー!!私の事忘れてなーい!?」
「忘れるも何もお前がいると話が進まん!」
「ていうか、俺が全員ぶっ倒せば良い話じゃねェのか?」
「厭だなあ、これだから脳筋は。歩ちゃんにパワハラとかしてないよね?」
「してねェよ!」
他にお客さんがいなかったのが幸いだった。こんなに騒いでいたらお店の邪魔に違いない。珈琲を持ってきてくれた赤い髪の女の子も少し不機嫌そうである。
「お待たせしました。珈琲です。」
「ありがとうございます。」
女の子はそれ以上は何も云わず奥へと行ってしまった。その間も中原幹部と太宰さんは言い合いを続けていた。
「私は心配なのだよ。歩ちゃんが邪知暴虐なる蛞蝓上司に厭がらせを受けてないか。」
「誰が邪知暴虐だ、青鯖ァ!」
「中原幹部は素晴らしい人です。」
全員が私を注視した。特に中原幹部と太宰さんは唖然とした表情をしていた。
「大勢いる部下一人一人の名前を覚えてくださって、私のような役に立たない部下にすらも優しくて、心配してくれて、ご飯も奢ってくださるんです。異能力者としても凄く強くて、体術も無駄がなくて完璧で。だから私は中原幹部の事、凄く尊敬しています。」
「て、手前......」
中原幹部が大きく瞬きを繰り返した後、綺麗な笑顔で私の頭を撫でる。
「ありがとな。」
「いえ、本心ですので。」
「おう、でもそれを言葉にしてくれる奴はなかなかいねェから。」
きっと最下級構成員以上全てのポートマフィア構成員がそう思っているだろうのに。
「歩ちゃん、中也が優しいのはね、邪な気持ちがあるからだよ。」
邪?と首を傾げる私に中原幹部は真っ向からそんなもんあるかッ!!と否定する。
「此奴は大事な異能力者で優秀な部下だ!誰が何と云おうとそれは変わらねェ。」
「誰が何と云おうと......ね。そういう事にしておいてあげよう!」
「何で手前が上から目線なんだよ。」
中原幹部と太宰さんは犬猿の仲だと聞いていたがよくよく会話を聞いてみるとそうでもないのかもしれないとノートパソコンにデータを纏めながら思った。
「その左腕、大丈夫なのか?」
同じくデータ整理をしている国木田さんが私が右手だけでキーを打っているのを見て尋ねた。
「はい、問題ありません。」
「任務の支障になるようならば別の人間に任せた方が良い。」
「それは私が足手纏いかつ行動を共にするのが生理的に無理である、という事を暗に......」
「すまん。忘れてくれ。」
そうならそうと早く云ってくださった方が良いのだが。このような問題をそのまま放置すると連携が上手くいかなかったり、情報の伝達が遅れたりする危険性を伴う。経験者は語るというやつだ。
「今回の任務は激しい戦闘になる可能性が高い。万全の状態でなければ大怪我、否、死も有り得る。」
それは初対面の私を心配してくださっているという事だろうか。そうだとしたらとても優しい人だ。そう彼は光の世界で生きる人、武装探偵社の人だ。
「ありがとうございます。しかし、ポートマフィアはその可能性が日常の世界です。どのような状況下においても戦えなければならない、そして死に対して覚悟を持たなければならない。何より、首領と幹部は命を懸けて守らなければならない。これがポートマフィアの絶対です。」
私が云い終わるやガタンとテーブルが大きく揺れた。まだ手を付けていない珈琲の水面が波打った。
「中原幹部?」
その元凶の中原幹部は拳を握り締めて、悪ィと小さく謝った。太宰さんと何かあったのだろうか。それとも私の話の内容を聞いていて気に障ったのだろうか。喫茶店内に沈黙が降りる中、太宰さんが国木田さんの肩をつついた。
「く〜にき〜だ君!時間、大丈夫?」
「......な、何!?予定終了時刻より2分38秒も遅れて......!」
国木田さんが急いでノートパソコンなどを片付ける。
「粗方の作戦は現場で決める。予定変更は太宰が何もしなければないが、何かあれば連絡する。そちらも変更があれば随時連絡をしてくれ。」
「了解しました。ありがとうございました。」
「太宰も早く来い!」
「はいは〜い。」
「やけに素直だな、怖いぞ。」
太宰さんはまたねと中也さんと私に云って国木田さんが出ていく後を追った。
私も自宅に戻って拳銃のメンテナンスでもしようかと立ち上がる。が、中原幹部が私の右腕を引っ張って座らせた。その表情は俯き気味でよく見えない。
「中原幹部、如何したんですか?さっきから様子が......」
「手前は俺のために死ねるか?」
低い声音に私は背筋を伸ばした。これは忠誠心を問うているに違いない。
「死ねます。」
だから私は即答した。
迷いはない。否、迷ってはならないのだ。
「中原幹部の命令ならばどのようなものであっても従います。それが死であったとしても変わりはありません。」
「手前は俺がそれを命じると思うか?」
「ポートマフィアのためならば私程度簡単に切り捨てられる、だから幹部なのでは。」
中原幹部は何も云わずゆっくりと顔を上げた。長い前髪の隙間から青い双眸が見えたがそこに一点の光もない。
この眼を私は知っている。
中原幹部が率いる部隊での作戦、偵察に赴いていた別動隊が無惨に殺されていた。身元不明の遺体が地面に無造作に散らばっているのを見た中原幹部の眼が今のそれだった。
静かな激昂。目の奥底で燃えるそれは表情に出る事はない。しかし、その作戦において中原幹部は先陣を自ら切り、敵陣を見るにも絶えない惨状にしていた事は覚えている。これでもまだ足りねェくらいだ、と異能力を以て空に浮き敵部隊を見下ろし吐き捨てたその姿には誰もが畏怖の念を覚えた。
それが今、目の前にある。
「あの、私っ......」
「動くな、黙ってろ。」
身体が動かない。声も出ない。命令が私を縛り付け、自由を完全に奪う。
中原幹部はそんな私の右肩に左手を、後頭部に右手を置いて座面に押し倒した。
「手前は俺の命令なら何でも聞くんだろ?なら何されても文句は云えねェよな。」
後頭部にあった右手が髪を梳くように撫でる。目は変わらないのに手は反比例して異様なまでに優しい。それが怖い。
「目、閉じろ。良いって云うまで開けるな。」
云われた通り目をぎゅっと閉じる。これでもう撫でる手の感触しか分からない。行き場を失いさ迷う右手は彼の左手に捕らえられる。指間をすりすりと擦られてぴくりと動くと咎めるように指と指をしっかり絡めて座面に押し付けられた。
その間も中原幹部の右手は私の髪をふわふわ撫でる。それが温かくて気持ち良くて、くうと喉が鳴ってしまう。くつくつと笑い声が顔のすぐ前で聞こえてくる。
「頭撫でられるの好きか?」
肯定も否定もできない。声も出せないし、首も動かせない。彼も答えを求めている訳ではない。きつく目を閉じて行為の終わりをまっていると、髪を耳に掛けられて其処が外気に晒される。その後、何やら耳に冷たく無機質なものが当てられる。突然の感覚に意図せず肩がびくびく跳ねてこもった声が小さく漏れる。
「こんなもんか?片手だとやりづれェな。」
耳にプラスチックでできた何かが取り付けられる。この人は一体何がしたいのか、よく分からないまま身を任せていると。
「よし、もう良いぞ。」
漸く目を開ける許可が降りる。薄く目を開くと中原幹部の顔が鼻先にあった。瞳を見ると怒りは今のところ鎮まっているように思われる。そうして見詰めていると、中原幹部があーと唸った。
「声出して良い。身体も動かして良いが暴れんなよ。」
「......耳の此れは何ですか?」
真っ先に尋ねると、中原幹部はそれを指でカツンと軽く叩いた。
「此れか?インカム。」
「インカム?」
「任務での連絡手段だ。絶対外すな。」
成る程、確かに必要な備品だ。納得して分かりましたと頷く。
「それじゃ、俺たちも解散するか。色々やる事あるし。」
中原幹部は私からパッと簡単に手を離し、起き上がった。
「......怒ってないんですか?」
「別に、怒っちゃいねェ。ポートマフィア幹部ってのはその認識が普通だろうからな。」
中原幹部は立ち上がりレジへと歩く。私もその背中を追って席を立った。
「組織ってのはな、上にいる人間だけが凄いって訳じゃねェ。現に俺は太宰の云う通り脳筋で、作戦立案なんてのは向いてない。」
カードで一括支払いし、喫茶店を出る。
「それでも俺がこうして幹部として居られるのは部下が居るからだ。俺の足りない部分を補ってくれる優秀な部下がな。」
中原幹部は此処からでもよく見えるポートマフィア本部ビルを見据えて云う。
「ポートマフィアはそれこそ把握できねェ程構成員がいるが、その一人一人が役割を持ってる。一人減るだけで十分な損失だ。だからそう簡単に切り捨てて良いもんじゃねェ。」
この人は本当にポートマフィアの幹部なのだろうか、そんな事を思ってしまった。ポートマフィアとして残酷な一面はある。だが、綺麗で優しくて温かい心の持ち主だと感じた。血と欲にまみれ汚れたこの闇の世界でこんなにも真っ直ぐな心根を持った人がいることが奇跡に近い。
「手前も含めてだからな。勝手に自分を除外するなよ。」
「......はい。」
「分かったなら良し。」
中原幹部は満足そうな笑みを浮かべ、歩みを進めた。
中原幹部と別れ、自宅に帰った私は拳銃二丁の整備を念入りに行った。それから予定の二時間前まで仮眠を取る。その後は武器、作戦内容、連絡の確認をして部屋を出た。
予定の三十分前、件の武器庫付近にあるポートマフィア管轄の空きビルに到着する。此処が集合場所だが今のところ人はいない。早すぎただろうか、暇を潰すため携帯電話を開いてみれば研究員の一人から解毒剤開発の進捗報告が届いていた。梶井さんがそこそこ真剣に取り組んでいるため開発がかなり進んでいるらしい。一先ず安心して携帯電話を閉じた。それでもまだ時間は余り、階段を上って最上階へと向かった。
窓から武器庫を覗くと暗闇の中でうぞうぞと人影が蠢いている。小さな火花のようなものも見える、あれは銃の火だろうか。
殺人衝動を増幅させる薬、それは最初は味方とそれ以外を区別できるのだという。服用すればするほど判別は付かなくなり、誰であろうと襲いかかる。
「それを使えば......私も。」
「やめておいた方が良い。」
いきなり声を掛けられ、ホルスターに手を置きそうになるが、その必要はなかった。
「太宰さん。」
「その薬はね、一人でも殺したい人間がいる者に効き目があるのだよ。」
太宰さんは同じように窓から武器庫を見下ろす。
「君にはいるかい?そういう人間が。」
「......います、一人だけ。」
太宰さんはそう、と小さく呟いて窓に肘を付いた。
「でも、君は人を殺せないし、それを望まれていない。森医師は......ポートマフィアの首領はそういう人だ。」
「......全部知ってるんですか?」
「いいや、ただ森医師とは付き合いがあってね。考え方が少し分かるのだよ。君は......守る方を選んだ、そうだろう?」
私は息を吐いて、そうですと肯定した。それは私がポートマフィアに来て首領と会い、選んだ道だ。そしてこのやり取りを知っているのは私と首領だけ。太宰さんは知る筈のない事だった。
「分かりやすかったですか?」
「君の異能を分析したのと......後は中也かなあ。」
「中原幹部?」
何故今彼の名前が出てくるのか、考えを巡らせていると、太宰さんはふふっと笑みを溢した。
「私と中也は不本意だけど相棒だったんだよ。」
「......双黒?」
「そう。だからね、間合いや呼吸、思考なんかも手に取るように分かる。まあ、中也は元々分かりやすいのだけれど。」
分かりやすい、そうだろうか?確かに中原幹部は顔に出やすい人ではあるが、そこから感情以外の何かを読み取る事はできない。
「君は分かっていないんじゃない。分かっているけども考えないようにしているんだよ。他人の心も、自分の心もね。」
「......そんな事は。」
「うん。それはきっと無意識にしているんだと思う。でも、それを何故しているかはもう分かっているだろう?」
太宰さんは窓から離れ、私の手を取った。
「ただ此れだけは忘れないで欲しい。君の大切な人は君を憎んでなどいない。君に幸せになって欲しい、そう願っているのだと。」
それはきっと織田作さんの事だ。否、織田作さんしかいない。
「幸せになって欲しいなんて。私は......私は、織田作さんと......」
ぐっと唇を噛んでこれ以上の言葉を封じる。今にも胸の奥底で仕舞っていた本心が出て来てしまいそうだった。でも、きっと目の前にいるこの人にはもう伝わってしまっただろう。端正な顔立ちが憂いに満ちる。
「歩ちゃん、君は......」
太宰さんが何かを云い掛けたその時、黒い影が
突然窓から室内に飛び込み、そして音もなく着地した。その影は眼光鋭く太宰さんを睨み上げた。
「太宰、手前今から任務って時に何してやがる。」
「知っているだろう?心中のお誘いをしていたのだよ。」
「嘘つけ。」
その影は中原幹部のもので、つかつかと靴底を鳴らして私たちに歩み寄ると、私の手を握っていた太宰さんの手を払い除ける。
「手前は此奴にそれはしねェ。」
「何故そう思うんだい?」
「理由なんてねェよ。只、手前は絶対に此奴を心中に誘ったりしねェ。」
太宰さんは成る程ね、と一つ相槌を打った。
「中也も大概だね。」
「何がだよ。」
「何でもないよ。さあさあ、歩ちゃん!そろそろ国木田君も来る事だし、三人で作戦の最終確認といこうか!」
太宰さんが私の肩に手を置いて、階段へと押していく。
「太宰!手前っ!うちの部下にセクハラしてんじゃねェ!」
「中也はねぇ、正面で殴ったり蹴ったりするだけだから話し合う事ないよね。我々は中也に巻き込まれないようにより安全で快適な計画を考えないとねー。」
「無視してんじゃねェぞ!!糞太宰ぃっ!!」
中原幹部の怒鳴り声がビル内にこだまするように反響した。作戦実行の時間はすぐそこに迫っていた。
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