其の三十二

 本誌現段階(2021年6月)までのゴーゴリを元に書きました。本誌が進み、変更があった場合はまた考えたいと思います。

「本当最悪。」

 スキールニルこと如月瑠衣はコンクリートの壁を苛立ちと共に蹴り上げた。室内に溜まっていた埃が少し舞い上がる。

「トール、歩にはバラすなよ。分かってるよな?」

「……分かってるよ。でも、リアレス教団が"そういう"組織ならいずれ歩にだって。否、もう既に……」

 それでもだ、と瑠衣は地を這う声で云った。叡は分かったけど……と余り納得していない表情ではあったが渋々という様子で応じた。

「歩に迷惑掛けたくないのは分かるよ。でも、ボク達だけじゃ如何しようもない。それくらい事態は深刻だ。」

「……トール、アンタいつからそんなに弱気になったんだよ。」

「ボクはいつだって弱気だよ。ただ推しのためならちょこっとだけ無理できる。それだけ。」

 叡の言葉に一度舌打ちした。理解できない訳じゃない。寧ろ自分だって其の部類だ。だからこそ認めたくないのだ。

「歩が知ったら如何思うか。アタシは其れが一番不安なんだよ……」

「……歩は強いよ。それに支えてくれる人間も沢山いる。ボク達だってそうだろ?歩はそう簡単に折れたりしないよ。」

「知ったような口きくな、ばーか。一回死んどけばーか。」

「ひっどい暴言だなぁ!!」

 顔を背けて莫迦を連呼する瑠衣に叡は辟易としながらも彼女の性を其れこそ昔から知っているからか傷付きはしないし、軽く受け流せる。

「リアレス教団は、彼奴等は……歩に気付いてると思うか。」

「ボクの解答は是。理由は此奴の言葉。」

 叡が蹴り飛ばしたのは捕らえた男だった。手足が石化し、所々砕けており彼等の拷問の跡が伺える。

「生を貪る化け物、其れを再び生み出したい、此奴はそう云った。G-15は彼奴に連れて行かれる直前までそう呼ばれていたからね。」

「ふぅん、アタシは知らない。……王の写本は研究所の秘密を一つ以上背負っている。アンタの秘密って其れ?」

「流石に此の程度じゃ秘密とは云わないでしょ。キミの方が知ってることは多いし話してないことも多いよね。」

 瑠衣は叡を睨んだ。図星だったということもある。

 瑠衣の両親は研究者だったのだ。瑠衣は小さいながらも両親からあの研究所の話を多く聞かされていたし、抱えている秘密も多い。今にして思えば両親は自分が死ぬことを予期し、また瑠衣のこれからの運命を悟って情報を与えていたのかもしれない。

「神やら化け物やら散々な呼び方ばっかりだな。本当……アタシ達って碌な人間じゃない。」

「スキールニル……」

「ま、湿っぽい話ばっかりしても仕方ないし取り敢えず帰るとするか。」

 うーんと伸びをして瑠衣は外に出た。叡も其れに続く。瑠衣は歩に罪の意識を感じている。故に歩に関わることを重く感じてしまう節がある。

「あんまり思い詰めない方が良いと思うよ。何かあったらボクか……厭なら一条とか。話すだけでも楽になるってあるじゃん。」

「別に思い詰めてないし。アンタや一条に話すまでもなく解決してるし。……忘れないようにって、ただ其れだけだっての。」

 ぶっきらぼうに云って瑠衣は早足で行ってしまった。叡は強情だなぁと一度呟いて駆け足で彼女の背中を追うのだった。


「リアレス教団の真の目的。其れは生を貪る化け物を再び創り出すことです。」

 中原幹部と私が本部の一室を借りてクロからリアレス教団についての話を聞いていた。尋問の様なものでもあったが、クロは私のためならば幾らでも話すと寧ろ嬉々として語っていた。

「また随分ご大層な名前じゃねェか。生を貪るだァ?」

「無差別に人を殺し続ける災厄の兵器。どのような強者であれ、人の形を成す者であれば何者であろうと殺害できる存在、ということです。」

 脳裏を過ぎったのは私の過去だった。生を貪る化け物。人の生き血を啜り生き永らえる悪魔。神と私を崇めていた人達にそんなことを云われながら殺された。殺されては誰かを殺して生き返り、そして罵詈雑言と苛烈な暴力を浴びて殺される。吾妻曹司に連れて行かれる直前に至っては研究者達は気が狂っていた様だった。誰々を殺せ、自分は殺すなと喚き、私を処分するためではなく誰かを殺すために私を殺し続けていた。

「クロ、其れって私のこと?」

 私が単刀直入に問うと、クロは眉を歪めた。多分当たっていたのだろう。私は続けて問う。

「リアレス教団は、あの研究所の……研究者、もしくは其れに類する人達の集まりってこと?」

「……厳密に云えば、研究者ではなく被験者という部類でしょう。彼等は数字やアルファベットでラベリングされ、両親が異能者である子どもは異能を持つ確率が通常よりも高いという理論の元に交配して、マスターや参宮叡様のような異能を持つ子どもを、特に戦争で活躍できる最高の異能を生み出そうとしていたのです。当然そんな異能を持つ子どもがそう簡単に生み出せる筈もなく、数打てばいつかは当たるといった方針だったようですが。」

 また私絡みの案件のようだ。私が吐息を零すと中原幹部が私の肩に手を置いた。

「向こうが勝手に手前を偶像化してるだけだ。気に病む必要ねえよ。」

「……はい。」

「だから、自分のせいだって一人で解決しようとすんなよ。」

 私は中原幹部の言葉に小さく頷いた。今は如月さん達の様に私を信じて助けてくれる仲間がいる。彼等が私を信じてくれる様に私も彼等を信じている。其の相互に強く結ばれた信頼を傷付けることはしない。

 私が一人で戦うことで心を痛める人達がいる。私は其れをもう十分理解している。

「クロ、リアレス教団の拠点は?」

「ワタシがいた時の場所で良ければ。しかし、ワタシが離反したことは周知の事実でしょうから既にもぬけの殻かと。」

「構わねえ。何らかの痕跡が残っているかもしれねえからな。」

 指紋、DNAなど痕跡を全て消すという作業は難しい時代になってきている。ポートマフィアの解析班は優秀だ。其の分野に特化した異能者もいる。何らかの情報が手に入る可能性は極めて高い。クロは承知しました、と云って位置データを提示した。

「じゃあ、其処に戦闘員何人か向かわせるか。何が起こるか分からねェし……解析班は其の後だな。」

「はい、其の方が良いかと。手配はお任せして良いですか……?」

「ああ、任せろよ。手前はいつでも動けるようにだけしてくれ。あと、部下の誰か一人は必ず付けて動けよ。」

 私は未だ自分の部隊を持っておらず、他の構成員を動かせる程の信用もない。其の辺りは中原幹部に任せて、彼が云う様にいつ何が起こっても対処できるよう努める方が最善だろう。

「で、一つ疑問だったんだが……」

 中原幹部が私とクロを交互に見て云った。

「歩は何でクロには敬語じゃねェんだ?」

「其れはワタシがマスターにお願いしたのです。」

 そう、お願いされたのです。クロは事の経緯を中原幹部に伝えた。

「ワタシは人ではありません。ただの道具としてマスターには扱っていただきたいのです。よって敬称も敬語も不要という訳です。」

「私は道具だなんて思ってないんですけど、それでも敬語は要らないと懇願されてしまって……」

「手前は歩をどれだけ困らせたら気が済むんだ。」

 中原幹部が若干の怒りを滲ませながら呟いた。無理難題を云われている訳でもないので其処まで困っているという程ではないのだが。

「人でないとしたら、手前は一体何者なんだ?」

「そうですね……異能生命体といった部類でしょうか。」

 クロは元はと云えばただ其の辺りで燃えていた炎だったらしい。だが、厳密に云えば彼は炎の根源とも呼ばれて良い存在なのだ。何千、何億という月日の流れの中ひたすら燃え続けていた火なのだ。

「ある概念に肉体及び精神……ヒトの器を与える異能。其の異能者がワタシを創り出したのです。そして、今回の一件は其の異能者が関与しています。」

 中原幹部と私はクロにほぼ同時に視線を送った。クロは勿論詳しくお話しますと朗らかに云った。

「概念と一口に云ってもワタシの様な完全な形を維持できるのは稀だそうです。概念にも強度があり、強ければ強い程存在を現世に固定でき定義できるのです。彼等が創り出そうとしている生を貪る化け物は現在、其の概念の強度を増す過程にあります。」

「……強度を増す。もしかして、其の方法がパンドラ?」

 クロは其の通りです、と首を縦に振った。

「パンドラ……あの黒い箱には死の恐怖が満ち満ちている。パンドラは死の恐怖を無尽蔵に吸収する。死の恐怖を吸収すればする程、死の恐怖という概念の強度が増加していく、という寸法です。」

「パンドラは死の恐怖という概念であり、其の概念の強度を増幅させる……か。」

「それだけではありません。死の恐怖というものがワタシの様な完全体を形成するのは極めて困難な道のりです。一日に数億人程度殺しているならまだしもきっと此のペースなら数億年単位で不完全なままでしょう。」

 そもそも死の恐怖が概念として確立し、生命を得たところで生を貪る化け物には成り得ない気がする。

「不完全なものは完全になろうとします。」

 クロが複雑な表情を浮かべる。

「不完全な状態でも生命を得ることは恐らく可能です。低確率かつかなり不安定な存在でいつ消滅してもおかしくない存在ですが。なので完全な存在になろうと動くのです。」

 死の恐怖を概念とした生命体の場合、完全な存在になろうと死の恐怖、つまり死そのものを求め始める。より恐怖を生み出せる死を求めて成長する。そうなれば確かに。

 確かに生を貪り喰らう怪物が完成するのではないか。

「でも、私をオマージュしてるにしては……」

「はい。ですから彼等は単純に全自動無差別殺戮兵器を作りたいだけなのです。」

 オマージュどころかイミテーションですらねえな、と中原幹部は呆れていた。

「ならパンドラを回収しつつ、リアレス教団の異能者を捕らえる、もしくは殲滅する……というのが今後の方針になるでしょうか。」

「だな。首領の指示も仰ぐ必要はあるだろうが、概ねそうなるだろ。だが取り敢えずはクロが云ってた拠点を調べるのが先だ。」

 中原幹部は早速とばかりに部隊に連絡を取っているようだった。私は何となく物思いに耽っていた。私が未だ本当に小さい頃のこと、鮮明ではない記憶の中に何か手掛かりがあるかと探してみる。

「真逆未だあの二人が生きているとはな。」

 突然、視界が赤黒く染まった。瞬きをすれば次に目に映ったのは折り重なり山を形作る大量の屍と其の前に立つ一人の男だった。ちらっと背後を一瞥すれば巨大な扉が鎮座している。

 此処は、私の世界。私の罪を表す場所。

「折角自由を得たというのに、彼奴等もお前の力に魅入られたか。」

「あなたの云う彼奴等とは誰のことですか?」

「決まってるだろ。リアレス教団の異能者だ。異能を聞いて納得した。中原中也はお前に責はないと云ったが此れはお前が大いに関係している。」

 男、吾妻曹司は乾いた笑みを浮かべ断定した。

「あなたは何を知ってるんですか。」

「俺が云わなくてもどうせ直に分かる。」

 吾妻曹司は其の件に関しては口を閉ざした。一種の厭がらせの様なものだ。私は相手にすべきではなかったと嘆息する。

「お前がクロと呼ぶあの炎が概念として強度が高かったのはあれが根源だからだ。」

「一つ疑問に思ったことがあるんです。死の恐怖は何故概念として強度が低いのか。」

 人は死に対して恐怖を感じる筈だ。幾度となく死を繰り返した私でさえも死は怖い。ということは死に恐怖を感じるのは人間の共通項ではないのか。だとしたら概念としては既に比較的強い力を持っているのではないか。

「彼奴の異能は、今其処にある概念を起点に生命を創り出す。其処らにいる一般人が一人や二人適当に死んで、其の恐怖から創り出したところで其れが果たして万人にとっての死の恐怖として定義できるのか、という話だ。」

 一方、火は人々にとって共通認識が存在する。其れを見れば誰もが此れは火であると断定できる確かな一般認識が存在している。だから概念の強度が高い。

「火という概念そのものの根源、原初となる存在こそがクロだ。が、逆に果たして死の恐怖に根源は存在するのか。万人共通の認識が存在するのか。」

 死の恐怖の根源、其れは生物最初の死に由来するものなのか。否、人間以外の生物はそもそも死に恐怖を覚えるのか。だとしたら根源は人間というものが初めて生まれ、そして死んだことが根源になるのか。
 だとしたら、根源は既に存在しないということになる。
 また、死の恐怖は万人共通足り得るか。其れは否である。病による死の恐怖、殺人鬼に襲われた死の恐怖など場合によっても恐怖の度合いは異なり、個人差がある。其の時点で定義に揺らぎが生じている筈だ。

「死の恐怖とは、人間の持つ感情だ。そんなもの不安定に決まっている。其の不安定さを無くすためにあらゆる事象を集め続ける。より恐怖を助長するという形でな。」

「そんなものがヨコハマに放たれたら……」

「正しく地獄絵図だな。此処の様に。」

 吾妻曹司が屍の山を親指で指した。

「あなたは……其の地獄絵図を望んでいるんじゃないんですか?」

 私が睨みながら尋ねれば、男は気の抜けた顔をした。その後口角を上げて応えた。

「殺したい奴を殺すこと、殺さないでくれと懇願する人間共を見下ろすこと、そして可哀想で可愛いお前を殺すこと……そういったことに享楽は感じるな。」

 どのような答えにせよ此の男も非道な殺人鬼に変わりはない。其れは私が一番理解している。

「だから今回の件、協力してくれてるんですか?」

「協力?真逆。お前が死にそうな案件じゃないか。どんどん首を突っ込んで死んで、殺していけ。お前の絶望した顔が見れるのが楽しみだ。」

「……死んでも懲りないんですね、あなたは。」

「死んだからこそ、だろ。死んだ人間は変わることはない。其の可能性すらもないのだから。」

 吾妻曹司は何処か遠い所を見ている様な目をしていた。其の黄金の瞳を見て、ふと疑問が零れた。

「……あなたは、本当は誰を殺したかったんですか?」

 男が目を見開き、硬直した。私は答えを待った。

「お前は……俺に問うてばかりだな。昔から、ずっと。」

 吾妻曹司が微かな声で呟いた後、其れを打ち消す様に両手を掲げ声を張り上げた。

「誰を、其の答えはもう話している。俺の嫌いな人間共……其の全てだ。そして、今も其の思いは変わらない。お前を利用し、俺の望むまま殺し続ける!!」

 私は何も云わなかった。彼を見詰めていた。男は私と暫く見詰め合って、興が冷めたのか手をだらりと落とした。

「……お前の目……変わらないな。其の瞳に交換した後もずっと。」

「……今日のあなたは少し変です。」

 妙に感傷に浸り、私に其の内面を開示している。彼と過ごした日々の中で此処まで彼を知る機会はなかった。

「そういう気分なんだ。何せ懐かしい彼奴等の話を聞いたからな。少し……感傷的な気分にもなる。」

「あなたにそういう感情があるって知りませんでした。」

「だろうな。俺はお前に嫌われ続けることで……」

 男の言葉は其処で止まった。と、同時に視界がぼやけてくる。夢から醒める様に意識が浮上していく。近くで、別の誰かの……吾妻曹司ではない誰かの声が聞こえた。

「お前は……」

 吾妻曹司は消える直前、こんなことを云った様な気がした。

「何故、俺を殺せたんだ。」

 男と死体の山が消え、会議室に戻った。肩を叩かれてそちらを見れば中原幹部が大丈夫か?と声を掛けてきた。

「大丈夫です。すみません、ぼーっとしてたみたいで。」

「そうか。体調悪いなら早めに云えよ。」

 中原幹部は部隊を手配したようで後は報告待ちということらしかった。今回は一先ず其れで解散となりクロと共に執務室へ歩を進める。

「何故、殺せたのか……」

「マスター?」

 私の声を聞いて、クロが首を傾けた。私は何でもないのだと首を振った。

 何故殺せたのか。其れはあの時。
 彼の人間らしいところを初めて見たから、だと私は断言できる。殺人鬼ではない、ただの人である彼を見てしまったから……私は彼をほんの少し理解できた。理解できない殺人鬼を大切だと思うことなんてできない。だが、人である彼は……。

「マスター、本当に大丈夫ですか?中原幹部の懸念した様に体調が優れないようでしたら……」

「大丈夫、考え事をしてただけ。……でも、気分転換に見回りも兼ねて外に出ようかな。一条さん達に伝えて貰える?」

「かしこまりました。此の様な状況ですしお気を付けて。」

 人間の感情を学習中らしいクロだったが、私が一人で考えを纏めたいという気持ちを察したらしい。すっと身を引いて執務室の方へと去っていった。私は元来た道を戻り、エレベーターを使って階下へ降りた。バイクに乗ろうかとも考えたが、今回は徒歩でなるべく本部の近くを周ろうと思い直し、歩き出す。

 考えることは多い。リアレス教団のことだけを考えている訳にもいかないし、目を通さなければならない書類も以前より圧倒的に多い。最近は如月さんと参宮さんが独自で活動しているらしくそれも気になるところだ。

 堤防の上に座り、海を見ながら考えを整理しているとふと思い出した。此の辺りでフェージャと釣りをしたり、歌ったり、釣った魚を食べたりしたこと。温かくて、楽しくて、胸に痛みの残る記憶。フェージャは、フョードル・ドストエフスキーは今何処で何をしているのだろうか。
 またいつか会える日は来るのだろうか。会えたとしても味方でいてくれるのだろうか。
 否、私がもうそうは思えないかもしれない。フェージャは私や王の写本を利用して中原幹部を貶めようとした。ポートマフィアと探偵社を、大切な人達を危険に晒した。私とフェージャ、二人で生きる世界のために。
 選択が違っていれば、そんな未来があったのかもしれない。フェージャの隣に立つ未来が直ぐ其処にあったかもしれない。
 でも、私は選ばなかった。選べなかった。中原幹部との未来を最終的に諦められなかった。

 何かを得るためには、何かを捨てなければならない。私は中原幹部といるためにフェージャとの日常を捨てたのだ。

 堤防から降りて街中を歩く。ウインドウショッピングをしつつも街の様子を確認する。リアレス教団のことがあるとはいえ、ヨコハマはいつも通りだった。歩行者も不審な人物は見当たらない。

 そろそろ仕事に戻ろうかと本部を目指して歩いていると街の喧騒の中に小さな違和感を覚えた。
 音がする。何か金属の擦れる様な音。形容し難い不気味な音。
 私は肩に提げたライフルバッグの持ち手を握り締め、音がする方へ進んだ。
 暗部が移動に使う様な路地裏だった。金属音と同時に液体音も聞こえるようになっていた。背中を悪寒が駆け上がっていく。
 物陰に隠れ、そちらを見てみると。

 黒鉄の蟲がいた。六本の先が鋭く尖った長い脚。だが、胴体は驚く程小さい。
 其れが、人を喰らっていた。
 脚で腹部を突き刺し貪り食い、血を啜っていた。
 
 大量の血が流れただろうに、コンクリートの壁にも地面にも一滴の血も付いていないのが更に不気味だった。
 殺された人は一般人だと推測される。あの蟲に遭遇したがために死ぬことになった不運な人。顔は恐怖と絶望に彩られ、目を剥き絶命していた。其の顔も頭ごと食べられそうになっていた。

 黙って見ていることなどできはしなかった。

 私は黒鉄の蟲にライフルバッグを振るった。後脚の一本に当たった。ガァンッ!!と金属同士がぶつかり合う音。其の脚は硬かった。見た目と同様鉄の様な硬さだ。私が後退すると同時に黒鉄の蟲が振り向いた。
 私は驚愕した。黒鉄の蟲の胴体部分、其れは人間だった。正しく云えば嬰児だった。嬰児に蜘蛛の様な脚が突き破る様にして生えていた。異質だった。異形だった。嬰児はキャッキャと無邪気に笑っていた。嗤って人を殺していた。

「っ……!!」

 戦慄した。ライフルバッグを持つ手が痙攣する。武者震いなどではない。得体のしれない物に出会った時の恐怖が、逃げた方が良いという人間の本能がそうさせているのだ。
 
 蟲は私に標的を移したらしかった。死体は捨てて、私へ身体を向けた。路地から出れば往来の激しい道だ。本能がどうあれ逃げる訳にはいかない。此処で戦うしかない。

「アー、ウー、アー……!」

 母音だけの赤子特有の声を上げながら蟲は私に鎌の様な其の脚を振り下ろした。私はライフルバッグを身体の前に翳し、其れを受けた。重く鋭い衝撃が両腕を襲った。凄まじい膂力で押し返すことができない。一本で此の威力だ。振りかぶられた二本目を受けることは自殺行為にも等しい。私は何とか一本目を弾いて、二本目の脚を躱した。
 怪物という言葉が相応しい異形だった。こんなものがヨコハマを跋扈しているなんて考えたくもない。

 だが、今は現実逃避している場合ではないのだ。あの怪物を何とか無力化しなければならない。脚の攻撃はまともに当たれば必殺。装甲も見た目通り堅牢だ。

 私はライフルバッグからKirschblüte001を取り出して構えた。攻撃パターンと構造の把握、可能なら弱点の把握。隙を作れたなら援軍の要請。頭の中でやるべきことを整理する。其の最中だった。

「ギャアアア!!!」

 耳を劈く絶叫が響き渡った。あの怪物からだ。赤子の泣き声とは似て非なるもの。私は思わず耳を塞いだ。が、突如のことだった。背後で地響きがした。何か巨大なものが空から落ちてきた様な。

 振り返ると、其処には怪物がもう一体。

「な……」

 言葉が出ない。あの悲鳴は仲間を呼び寄せるためのものだったのかもしれない。
 前も後ろも怪物がいる状況。逃げ場が、ない。挟まれて、刃の如く鋭い足が前後から振り下ろされる。避けられない。
 けれどもこんな状況でありながら警鐘が鳴っていない。何故か分からないため動くことができない。此処にいるのが安全だと異能力が訴えている。

 振り下ろされた足が間近に迫る。

 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。ばさりと何かが翻る音だけがその時聞こえた。

「奇術の中でも脱出は得意でね!」

 男の声だった。見上げると白いシルクハットと、仮面に隠れた男の顔が見えた。其処で自分が男に抱えられていることに気付く。

「あ、え……っ」

 会ったこともない異国の男だった。彼は私を抱えたまま怪物のいる路地を形成するビルの屋上に降り立った。

「如何だい?僕のトリックは!親友の最愛の窮地を、ほら此の通り颯爽と救い出すことだってできる!」

 戦場には似つかわしくない明るい物言いをする彼に面食らいつつも私は尋ねた。

「何で……私を助けてくださったんですか?」

「うん?其れは親友であるドス君に君を助けるようにって頼まれたからさ!」

 ドス君。一人だけ知っている人で思い当たる人がいる。

「……フェージャのことですか?」

「へえ、君はドス君のことフェージャって呼んでるんだ。」

 彼は興味深そうに私を覗き見て笑った。何だか底の見えない笑顔で顔を近付けてくるものだから萎縮してしまう。

「じゃあ僕のこともコーリャって呼んで欲しいな!うん!其れが良い!」

「コーリャ?」

「然様、私はコーーーーリャッ!!君のことはドス君から色々聞かされてるよ。あのドス君がね、誰か一人を愛するなんて思ってもみなかったしシグマ君まで君を気に掛けていると来た!」

 コーリャは私を降ろして、語り続ける。

「ドス君はね、完璧な存在だった。失って困るものなんて何もなかった。けど、君に出会ったことで弱みができてしまった。君を此れから起こる災厄に巻き込みたくないと其れはもう必死だった。君に拒まれた今も尚。」

 穏やかな語調ではあったが、内容には棘があった。

 知っている。フェージャは私には余り見せていなかったが、私とは違うものを、もっと高みを、遥か先をいつだって見ていた。

「僕はドス君を壊した君に興味がある。君を助けたのはドス君にお願いされたからであり、僕の好奇心を満たすためだ。まあ、別の作戦もあるから暇な時にって云われてたんだけど其の暇な時に限って君が事件に巻き込まれてるんだから、面白いよねぇ!本当はもうちょっと後に劇的かつ運命的な邂逅を遂げようと思っていたのに!」

 ばさばさと彼が大仰に身振り手振りをする度に彼の背のマントがはためく。何だかテンションの高い人だ。コミュ障を絶賛克服中の私にはついていくのが難しくうんとかはあとか適当な相槌しかできないでいる。

「其れにしてもリアレス教団は凄いものを作るね。あれが死の恐怖から生み出した正真正銘の怪物!残虐、非道、酷薄、無残!非人道の化身!あんなものを世に放つなんて本当に如何かしてる!」

「……あれが、リアレス教団の。」

 パンドラを元に生み出された化け物。殺戮に特化した生体兵器。クロの云っていたものだが、もう既にヨコハマで人を殺めていただなんて。

「何とかしないと……」

「君ならそう云うと思って足止めをしておいた。」

 コーリャが指す方向を見れば蟲の脚がアスファルトにめり込んでいた。抜け出せず、もがき暴れる怪物。コーリャはハハハと高笑い私に云った。

「歩ちゃん、歩ちゃん!見て!」

 マントを広げて彼が見せたのは怪物の脚の一部らしかった。

「すっごい硬そう!此れは普通の攻撃は通じないねえ。」

「あの……触らないように気を付けてください……」

「そうだった、触るな危険ってやつ。」

 彼はぱたんとマントを閉じて、手摺に手を掛け怪物を見下ろした。

「さてさてどーうしようか!」

「……一つ、試してみたいことがあります。」

 私はKirschblüte001を再び構え、狙撃の態勢に入った。弾倉を通常のものから徹甲弾に切り換える。戦車などの金属装甲を打ち破り、貫くための銃弾だ。

「上手くいくかは分かりませんけど……」

「良いんじゃない?気負わず試しに一発ドカーンとね!」

 タイミングを計らって引き金を引く。銃火が爆ぜる様に散り、衝撃が空気を揺らした。徹甲弾は蟲の、嬰児の頭に命中した。火花を散らし、黒鉄と銃弾がぶつかり……銃弾が弾かれる様に跳ねて落ちた。あららとコーリャが即座に落胆の声を上げる。

「……あ、でもちょっとだけ凹んだ?」

「いえ、1ミリも。」

「0.1ミリ!」

「其れは流石に分からないですけど……」

 0.1ミリの凹みがあったとして、通じていないのは明白だ。私の攻撃手段の中でも最大の火力だったのだが、効いていないならば此れ以上の何かを見出さなければならない。

「でも、少なくとも相手側は脅威に感じてるみたいだ。」

 動き出したよとコーリャに肩を突付かれて、眼下の蟲を見てみれば、アスファルトに埋まっている脚を暴れながら無理矢理引き千切ろうとしていた。ゴギガギと耳に痛い金属音が此方にも聞こえてくる。あの圧倒的膂力からか脚は見事に外れた。そして、蟲はもう一方の私の背後を取っていた蟲を吸収していた。すると、みるみる内に脚が再生していくのである。蟲の胴体の赤子が私を見上げて、玩具を探し当てた様に嗤う。

 あの巨体が跳躍する。数秒も経たず屋上まで飛び上がってくる。

「ひえ、」

「わあ、」

 二人して悲鳴の様なものを零し、見つめ合った。流石に想定外であったが、呆けている訳にもいかない。反射的に銃口を向けるが其れで止まる訳がない。私達には今決定打がない。
 何か。
 何か此の状況を打破する方法を。

「そういう時はワタシを呼んでくだされば良いのです!」

 その時だった。銃口から突然黒い炎が噴き上がった。其れがみるみる人の形を作り上げていく。私は驚愕と共に声を上げた。

「クロ……!?」

「マスター、ご無事で何よりです!」

 私の前に立っていたのは本当にクロだった。
 何故。一体何処から現れたのか。

「ワタシは火の根源。故にあらゆる火はワタシ。マッチの火だろうが、ガスコンロの火だろうが、そうマズルファイアであろうとも其れは全てワタシなのです。ですのでこうしてマスターの元に駆け付けることすら一瞬でできてしまえる。そう!つまり何が云いたいかというと……ずっとスタンバってました!!」

 恍惚そうに語る彼だったが其の背後には蟲の鎌めいた脚が迫っている。

「クロ!」

「承知しています。」

 クロが黒炎を放射させる。火炎放射器より凄まじい火力と威力に怪物が吹き飛び、地に落ちた。

「マスター、ただ一言命じてください。燃やせ、と。」

 クロが頭を垂れて云う。
 彼ならば此の状況を、あの怪物を打破できるのかもしれない。
 私には今仲間がいる。期待して、信頼して、互いを理解して、助け合える、協力し合える仲間がいる。
 頼らなくて如何する。また一人で戦って如何する。

「燃やして、クロ!」

「仰せのままに。」

 クロが屋上から跳躍し、空中で炎の巨大な塊を作る。あらゆる物質が蒸発してしまいそうな程の高温。熱気が此方まで吹き荒んでいる。

「マスターのためにも貴方には此処で死んで貰います。如何やらワタシと同類のようですが、容赦は致しませんので。」

 クロは不敵に笑って、爆炎を蟲に叩き落とした。絶叫が上がる。黒い装甲が黒い炎によって超高温で熱されていく。周囲のコンクリートはマグマのように溶けていく。だが、怪物の装甲は溶け落ちない。それでも確かなダメージは与えられているようだった。

「不純物が混ざっている貴方ではワタシには敵いませんよ。」

 すとんとアスファルトの溶けていない部分に着地し、クロは鋭く云った。ほぼ同時に断末魔と共に怪物の動きが止まった。

「マスター、終わりました!」

 クロが手をぶんぶん振って私に合図した。体表面の変化は見られないが先程から微動だにしないところを見ると戦闘は終了したらしかった。

「降りるかい?」

 コーリャが手を差し伸べてくる。彼の異能力は物体や人を転送する類いのものだということは理解している。私が素直に彼の手にそっと自分のものを載せると、翻ったマントが視界を覆った。

「はい、到着!」

 ほんの瞬き程の間で私はビルの下に降りていた。コーリャにお礼を云って、クロが駆け寄ってくるので待っていた。というのも私のいる所は安全地帯だが、一歩でも踏み出せば其処は熱され溶けたアスファルトである。迂闊に歩くことはできない。

「マスター、申し訳ございません。ワタシとしては塵一つ残さず焼却しようと考えていたのですが、如何やら外装はただの金属ではないらしく……しかし、本体は完全に消滅したので問題ないかと。」
 
「本体……中身があったということ?」

「はい。生命を得た際はワタシと同じヒトの身であった筈ですので。自分を構成する主の概念とは別に割合で別の概念を混ぜ込むことで後付の武装のようなものを形成できるようです。ただ概念の強度は不純物が混じっているようなものなので低下するようですが。」

 クロが以前、パンドラを身体に宿していた時火力が低下していた。不純物、別の概念が混ざるとそれまでできなかった新しいことができるが其の分本来の力は発揮できなくなるということか。

「其れにしても赤子とはまた……」

「矢張り何か関係があるんですか?」

「兎角、赤子というものには理性が存在しません。存在しない、というより身に付いていないと云うのが正しいでしょうか。なので力を加減することもなく時として残酷なことも行えるのです。ワタシの場合は炎のコントロールのため、理性を持つ必要がありましたがただ殺すだけの存在に理性も知性も必要ない。故にあのような姿形を取ったのかと。」

 人殺しに特化したモノを作る、其の執念を感じる。何故こんなモノを生み出そうなどと考えるのか。理解のできない思考回路だ。トレースすることもままならない。彼等の考え方を少しでも理解できるようになれたら良いが。恐らく私には不可能だ。

「歩ちゃーん!」

「……はい?」

 名前をなかなかの声量で呼ばれて振り向けば、至近距離にコーリャの顔があった。さっと身を引いて、何ですかと尋ねる。

「僕は最初に云ったね。君に興味があるって。」

 確かに先程コーリャはそんなことを云っていた。しかし、其れが如何かしたのだろうか。

「君をずっと見ていた。協力もした。……でもドス君が固執する理由が全く分からない。」

 興が冷めたとでも云う様にコーリャは大きな溜息を漏らした。

「僕は鳥が好きだ。重力に囚われず自由に羽ばたくあの姿が堪らなく好きだ。羨望すら覚える。」

 コーリャは上空で飛翔する鳥に思いを馳せ、目を細めて続けた。

「僕は自由が好きだ。では、真の自由とは何か。僕は正しく鳥だと思った。そして、人間とは鳥籠の中の鳥に過ぎない。感情という鳥籠に囚われ自由を奪われた一羽の鳥。そう……つまり、感情から解き放たれた者こそ真なる自由を得られる。だが、君は如何だ?自由とは真逆!縛られ、奪われ、命じ、命ぜられ!自身の感情だけでなく他者からも、そして組織からも縛られている!自由意志などありはしない!」

 クロが抗議の声を上げようとしたが、私は其れを止めた。

「そんな君がドス君を縛り付けている。自由を奪い、愛なんてものに囚われさせている。ドス君のことも、君のことも理解し難い。そういった意味では……僕は、君のことが心底嫌いだ。」

 大通りの喧騒を他所に沈黙が流れた。嫌い、と面と向かって言われたのは久しぶりだった。だが、特に何も思わなかった。海が凪いでいる時の様に胸の内は静かだった。

 私は少し考えて、口を開いた。

「あなたは死にたいんですか?」

「……ん?」

 コーリャは目を丸くして、首を傾げた。どういうことかと聞きたそうな彼に私は云った。

「私は感情があることこそが自由だと思うんです。」

 吾妻曹司に囚われていた頃は自分の感情を出すことが出来なかった。全て否定されて、奪われて、壊された。自分の大切さえも利用されて踏み躙られた。
 今の私は違う。好きなものを好きと云える、感じられる。自分の守りたいもののために戦うことができる。

「私は私の意志でこうして生きています。其れが自由でないと云うならあなたの云う自由はあの化け物と同じです。」

「僕が……あれと同じ?」

「本能のままに、あるがままに生きる。あの怪物と同じだと、私は思います。ただ……私にはあなたが今の自分を捨てたいと考えている、そういう風に聞こえました。」

 コーリャは白いシルクハットを目深にかぶり、ハハと乾いた笑い声を上げた。

「君に僕が分かるというのかい?」

「なら、あなたに私やフェージャのことが分かるんですか?あなたの尺度で云うなら私達は確かに自由じゃないでしょう。でも、だからといって人の気持ちを勝手に悪だと断じて蔑んで……其れはあなたの求める自由とかけ離れた行為だとは考えないんですか。」

 私は、この時怒っていたのかもしれない。フェージャの気持ちを私は知っている。沢山助けてくれたことも、私を如何しても幸せにしたいと考えてくれていたことも理解している。其の想いには応えられなかったけれど、其れでもフェージャのくれた想いを否定されるのを私は見過ごしてはいられない。

「私はあなたの考え方の全部を理解できる訳じゃない。だから否定はしません。」

 彼は多分自分の感情を曝け出す自由のない世界にいたのだろう。感情を枷だと考えてしまうに至る環境にいたのだ。大袈裟に表情を変えて、本当の感情は仮面の下に隠して押し殺して生きている。奇術師を演じ、自分を殺して笑っている。

「……ですが、感情に囚われない様に生き方を模索するなら其の果てに出る答えは死だと思います。何をするにしても人間は感情無しでは生きられない。そもそも生きたいと願うことさえ人間の感情であることに違いはない。反面、死とは無です。」

 死んだら何処に向かうのか。其れは底の知れない虚無だ。何も見えない。聞こえない。どころか一切の五感がない。身体も動かない。そもそも身体がない。何もない。何かを考えることもできない。時間の概念もない、そんな場所で消えて失くなる其れだけだ。

「だから私はあなたに問いました。死にたいのかと。」

 コーリャは顔を上げた。瞳が一瞬爛と輝いたかと思うとバッと両腕を広げた。

「道化師の話を真面目に聞いちゃ駄目だよ。冗句さ、冗句!そうして真剣に答えられると困っちゃうなぁ、もう!」

 そうして彼は全て冗談だと云って切り捨てて逃げようとする。だから私は最後にと彼に告げる。

「あなたもあなたの仮面の下にある感情や本心を全て打ち明けられるような、そういう人と出会えると良いですね。」

 私とフェージャがそうであったように。彼にもそんな人が見つかって、救われたら良いなと思う。其の気持ちを真摯に伝えれば、コーリャは俯いてそして、小さく呟いた。

「ああ、君は……そうか、君……」

「……?」

「矢っ張り僕は君のことを好きにはなれなさそうだなぁ。」

 コーリャはそう云って穏やかに微笑んだ。其れが彼が私に初めて見せた本当の笑顔なのだと私は確証もないのにそう思った。

「歩ちゃんがどんな子か知れたし、今日の僕の出番は終わり!」

 暇になったら遊びに来るねー!と言葉を残してコーリャはマントを翻し、文字通り消えていった。

「何なのでしょうか、あの男。ワタシより人間性を欠けているのでは……」

 クロが不満気な様子で云った。私は苦笑を返した。

「人も色々だから……逆にあれくらいが人間らしいのかも。」
 
「え……………………、取り敢えずヒトの極端な例として記憶の隅に置いておくことにします。」

 クロがコーリャの消えた虚空を若干引いた目で凝視した。自分の中で妥協点を見付けたらしく、神妙な顔付きだった。

「ですが、マスターに失礼な言葉の数々。無礼にも程があります。あの数分の会話で何度燃やしたいと思ったことか……」

「沢山云われたことはあるけど……私も云いたいことを云ったからお互い様かな。」

 死にたいのかなんて質問は明らかに失礼だ。彼の考え方を無視した言葉も沢山放った。否定はしなかったが肯定もできなかった。ああは云ったが彼の気持ちに寄り添える人が果たしているのだろうか。

「……其れより私達はしなくちゃいけないことがある。」

 処理班と解析班に連絡し、此の怪物の死体を回収し調査する必要がある。中原幹部に報告し、情報を共有して対策を立てる必要がある。

「クロ、先刻云えてなかったけれど、助けに来てくれてありがとう。」

「マスターのためならば何処でも一瞬で駆け付けますとも。あ、もしかして中原中也様より格好良かったりしました?」

「……中原幹部より格好良いかはさておき。」

「さておき。」

「格好良かったよ。流石、クロだなって。」

 すると、突然クロが奇声を上げた。ぴゃあ!みたいな感じだっただろうか。可愛らしい声だった。

「ふふ、ふふふ、ふふふふ……」

 そして、その後も口元を手で覆ってずっと笑っていた。台無しだなと思いながら私は後処理に励んだ。


 コーリャ、もとい天人五衰の一人であるニコライ・ゴーゴリは死の家の鼠が拠点を訪れていた。ゴーゴリが奥へ向かうと、彼が親友と称するフョードル・ドストエフスキーが優雅に紅茶を飲んでいた。フョードルは一瞥すらしなかったが、彼の向かい側の席には紅茶の入ったカップが置かれていた。ゴーゴリは軽い足取りで其処に向かい椅子に腰掛けた。一口だけ紅茶を口に含む。

「歩は普通の子だったでしょう。」

「……そうだねぇ。」

 ゴーゴリが仮面をテーブルに置いて素直に肯定すると、フョードルはくすりと微笑んだ。

「だから云ったでしょう。貴方の思う様な珍妙で面白い子ではないのですよ。普通で、強いところも弱いところもあって、何処までも一途で無垢な子なんですよ。」

「普通だけど……普通じゃないよね。僕を、僕達を一人の人間としてあの子は見てくれる。絶対に見捨てたりしないし、逃げたりしない。受け止めて、理解しようとして……」

 ゴーゴリは喉が乾く様に感じて、紅茶を更に煽った。紅茶は直ぐになくなった。

「僕に、死にたいのかだってさ。その上僕の本質を打ち明けられる人が見付かると良いですね、だって。」

 そんな人間が果たして此の世に存在する筈がない。
 する筈が、なかったのだ。

「ドス君、何であの子なの?」

「さあ、何故でしょうね。」

 フョードルはゴーゴリにもう一杯紅茶を注いだ。立ち上る湯気が二人を隔てる。

「歩は駄目ですよ。」

「ん?何?」

「歩は僕のですからね。」

「ドス君、僕は恋とか愛とかには興味がない。何故なら其の感情に思考が支配される。自由を奪われてしまう。真の自由に最も必要のないもの、あってはならないものだ。それにあの子は好きじゃない。柵が多過ぎるからね。」

 ゴーゴリは仮面を付けて立ち上がった。フョードルがもう行くんですか?と問うとゴーゴリは仕事があるからねと手をひらりと振って去っていく。そして、立ち止まり、フョードルを振り返り見た。

「ドス君、もう一度云うけど僕はあの子が嫌いだ。其れは本人にも伝えてある。良いね?」

「はいはい、分かりました。」

 ゴーゴリは念を押して、今度こそ去っていった。残されたフョードルは独り言ちる。

「説得力のない言葉ですね。好きでないならあんな表情できる訳ないでしょうに。」

 フョードルは目を伏せ、愛しい少女との思い出を頭の中で浮かべながら紅茶を楽しむのだった。

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