其の三十一

 中原幹部との逢瀬の翌日、私は姐さんと共に会合の場を訪れていた。ポートマフィア傘下の企業が数社、其の重役が集まっているようだった。余りこういう場には慣れていないので取り敢えず姐さんの傍に付いて護衛のふりをしつつ其の所作などを学ぶことにした。

 姐さんは緊張感の中にあって全ての動作が美しく艶やかで見ているだけでも溜め息が出そうになった。そんな私に姐さんは微笑みながら助言をくれる。

「このままでは私の護衛のままに会合が終わってしまう。此の場に居るはポートマフィアに利をもたらす、信のおける企業が揃っておる。代理とはいえそなたも幹部の一角。顔を少しでも覚えられた方が今後のためとなろう。」

「……ですが、私は経験が浅く先方の不興を買ってしまう可能性が……」

「もしそなたに対して不興を買う者がいるとするならば其れは余程狭量な者であろう。」

 組織運営には向いておらぬ、と姐さんは断じ私の背を叩いた。

「そなたは鴎外殿や私、そして中也に認められた女子じゃ。堂々としていれば良い。」

「姐さん……ありがとうございます。」

 姐さんの言葉に勇気を貰い、私は少しずつ会話に参加することができるようになっていった。中には仕事の話もあり、参考になる内容も多かった。特に、ある医療機器メーカーの後継ぎだと紹介された20代くらいの男性の話は共感できる内容も多く時が流れるのが速く感じた。彼は所謂ハーフらしく、赤毛が特徴的だった。顔立ちは日本人そのもので、瞳の色も黒だったが。

「君と話ができて良かった。その……今度また会ってくれないかな?」

 其の男性は気弱そうに眉を下げて続けた。

「実は相談したいことがあるんだ。少し厄介なことに巻き込まれているみたいで。ポートマフィアは異能力者が多いだろう?其の知恵を借りたくてね。けど、鴎外先生に直接というのも憚られたし、尾崎さんとは思うように話せない。何だろう、緊張しちゃうのかな。中原さんとは……その、うん。だからできれば君にお願いしたいんだ。」

 中原幹部だけ何故か濁されたのだが……特に気には留めずに私は逆に問う。

「短時間しか話していませんが私はあなたの信頼に足る人間になれたのでしょうか。」

「勿論だよ。鴎外先生の所の人ならというのが前提にあるし……人を見る目くらいはある心算だよ。」

 次期社長として若いながらも多くの経験を積んできたのだろう。彼の表情に自信が表出している様に私の目には映った。

「分かりました。内容は二人きりでないと話せない、そういう類いのものであると。」

「うん。他言無用でお願いしたい、かな。」

 其処では連絡先を交換して彼とは別れることになった。それから数日後、其の彼に招待され私は彼の務める医療機器メーカーの本社に訪れていた。彼は玄関で私を待っていて、ようこそと微笑した。

「改めて僕は双見玲衣です。今日はよろしくね。」

「歩です。此方こそよろしくお願いします。」

 双見さんはエントランスに入り、あれやこれやと私に説明してくれた。社員達に今回の件を悟られたくないため、私は会社見学という扱いになっているらしい。裏社会に其の一端が触れているとはいえ社内の雰囲気は良く、クリーンな印象だった。

 最後に彼の執務室だという部屋に案内され、私はソファーに座るよう促された。同時にジュラルミンケースを手に対面に座った双見さんはテーブルの上に其れを載せた。

「早速で悪いんだけど、本題に移らせて貰いたいんだ。」

「はい。相談、というのは此のケースが関係あるんですか?」

「そう。先ずは見て欲しい。でも、触っちゃ駄目だよ。」

 双見さんは強く念を押してジュラルミンケースを慎重な手付きで開けた。ゆっくりと開かれた其の中には……

 黒い立方体。リアレス教団の男が持っていた物と酷似した物体。
 私は戸惑いながらも説明を求め、双見さんに視線を向けた。

「先日此れが突然送られてきたんだ。中を開けて確認はしたけど、厭な予感がして触ってないし誰にも触れさせていない。送り主は不明、でもうち以外にも数件同じものが送られている社がある。其の中には触ってしまった人もいて……厭な予感は当たってしまった、という訳なんだ。」

 如何やら無差別に様々な企業に送られているのだと云う。そして触れた者は心神喪失状態となり再起できる見込みは薄くかなり厳しい状況になっているのだそうだ。

「僕達の間では此れを"パンドラ"と仮称して注意を呼び掛けてる。無闇に触れないようにってね。で、そんな活動をしている中で"パンドラ"が何者から送られているのか大まかにだけど目星が付いた。」

「リアレス教団……ですね。」

 双見さんは肯定し、神妙に続けた。

「リアレス教団は鴎外先生が調べている、そういう噂も過程で耳にしてね。それで君に相談した、という感じかな。」

「正しい判断だと思います。私と中原幹部が主に現在リアレス教団の調査に当たっていますので。」

 双見さんの懸念は理解した。同時に彼がポートマフィア側が持っている情報と同等のものを得ているということも分かった。凄まじい情報収集能力だ、と内心感心しながら双見さんの話を耳で追う。

「僕には残念ながら力がない。だが、僕達の……ヨコハマの平穏を乱されるのは好ましくない。放置することはできないし、鴎外先生が何か策を練っているのであれば支援したいと考えてる。」

 具体的な話をしよう、と一枚の紙片を手渡された。全ての文字列が暗号化されている秘匿性の高いものだ。

「此処に今回僕が得た情報を纏めた。紙切れ一枚で申し訳無いけれどね。あとは先程云った複数人に届けられている"パンドラ"、其の回収に協力したいと思ってる。」

「其れは……とても有り難いです。」

「それと近々支払いがあるんだ。それに少し上乗せしておく。君へのお礼及び支援としてね。」

 私へのお礼。私は特に何もしていないし、そんな名目が必要だろうか。私が首を傾げると双見さんが微苦笑した。

「君は幹部代理として他の構成員よりも多くの成果が必要だ。目に見える形としては金銭が一番かなと思ったんだ。君とはこれからも仲良くしていきたいなって思ってて……」

「其れは首領との繋ぎ役として、ですか。」

 首領や姐さんとも話しにくいと云っていたし、これから此の会社を継いで、ポートマフィアと付き合っていくなら誰か話せる人、パイプ役になる人間が必要という訳だ。

「本当に仲良くしたいだけなんだけど……其れに鴎外先生なら意図を理解してくれるかなって。」

 リアレス教団の脅威は関連組織や企業に迫っている。火急的速やかに対処して欲しい。そのためにリアレス教団について中心的に活動している私へ資金の援助を行う。ただリアレス教団に関しては私は補佐に近く、主導は中原幹部なのである。

「ならば、中原幹部へとした方が良いのでは。」

「中原さんとは……うん。ちょっと。うん。」

「え、何ですか?」

 双見さんが露骨に目を反らすものだから私は追求する様に目線を合わせる。双見さんが冷や汗をだらだらとかき始める。

「その、うん、えと、あのぅ、怖いかなぁ。」

「怖い、ですか?」

「こう……いつでもお前を殺せるんだぞって圧を感じたんだ。」

 身震いする彼に中原幹部が相当警戒していたことが伺えた。私の目では彼を疑う要素が感じられなかったので一切警戒してはいなかったのだが。

「向こうも僕が怖がってるのが分かってるからか関係は希薄でね。実際会うことも少ないし。そんな僕がいきなり中原さんにお金なんて何か企んでると思われかねない。」

 考え過ぎなのではと思わなくもないが態々彼のトラウマを掘り起こす心算もない。私を通じて中原幹部と接触する機会もあるだろうし、蟠りが解消できたらと思った。

「全てお任せください。此方でもリアレス教団は最重要案件となっています。必ず解決してみせます。」

「ありがとう。僕に協力できることがあったら何でも云って欲しい。」

 握手を交わし、世間話を少しだけして私は本部へ戻った。その後は暗号化された情報を精査したり、如月さんと参宮さんが何故か砂というか小石というかに塗れて帰って来たので一条さんと一緒に払ったり、戦闘訓練を行ったりしたのだった。
 それから"パンドラ"の回収や情報の共有で双見さんの所に何度か通っていたのだが。

「歩、いつも何処行ってんだよー!アタシも行きたいー!」

 双見さんの所に行こうとバイクに跨った私の腹部に腕が回った。如月さんだ。

「如月さん、いきなり如何したんですか?」

「だって最近歩は出掛けてばっかりだし。」

 行くなよと云って更に強く腕を巻き付ける如月さんを見て子ども達のことを思い出した。我儘を云ったり大変な時期があったなと染み染みと思いながら如月さんの頭を撫でた。

「取引先にちょっと行ってくるだけですから。」

「呼び出し何回目だよ。黒い箱の回収だろ?そんなの一気に渡せば良いのにさぁ。絶対其奴歩のこと狙ってるって。あれこれ理由付けて呼び出して、二人きりで会ってさ。」

「双見さんはそんな人じゃないですよ。」

「歩は此の目があるからって人を信用し過ぎなんだよ。」

「そんなことないですって。」

 今日は如月さんがやけに食い下がる。如何したものかと頭を撫で続けながら思案していると不意に如月さんが腕を放した。

「って中原の野郎がぼやいてたぞ。」

「其処まで駄々は捏ねちゃいねえよ。」

 如月さんに向けていた顔を上げてみれば中原幹部がかつかつと踵を鳴らし此方に向かっていた。

「嘘つけ。男の嫉妬なんて見苦しいんだよ。」

「嫉妬じゃねえよ、勘違いすんな。」

 二人が云い合いをしている間に私は考える。確か今日此の時間中原幹部は会食の真っ最中の筈だ。何故此処にいるのか、終わったにしては早過ぎるし中止になったのだろうかと推測していると中原幹部が私の肩に手を置いた。
 我に返った後会食は?と尋ねると中原幹部は先方の都合でなと短く応えた。

「双見の所だろ。俺も一緒に行くから其処代われ。」

「え……えっと、其れは……」

 私はシートから降りられずにいた。双見さんは中原幹部に恐怖心を抱いている。未だ其れを払拭も克服もできていない。今二人を会わせて良いものなのか私には判断できない。

「歩。」

 呼ばれた瞬間、私の身体が浮き上がった。わぁ、と思わず間の抜けた声が出てしまう。中原幹部はそのまま私を手繰り寄せる様にして、私を抱き上げる。

「中原、幹部?」

「手前は此方だ。」

 私をタンデムシートにすとんと座らせ、直ぐ様自分は私が先程まで私が座っていたシートに座ってしまう。

「行くぞ、ちゃんと掴まっとけよ。如月、手前は自分の仕事に戻れ。」

 へいへいと気の抜けた返事をする如月さんはさっさとビルへ戻って行ってしまった。其の間にも中原幹部がエンジンを掛け、発進しようとしていたので私は慌てて中原幹部の腰を掴んだ。

 何も聞くことができない儘出発する。双見さんの会社まで遠くはなくいつも10分程で着く。今日も特に道が混んでいるということもなく直ぐに到着した。

「中原幹部……双見さんとはリアレス教団のことで……」

「知ってる。だから別に手前のことを疑ってる訳じゃねェよ。」

 バイクから降りて、中原幹部に弁明する。後ろめたいことは何一つない。けれど誤解されてしまっているなら其れを解きたいと思った。が、そうではないらしい。

「手前が鈍いのは俺が一番よく分かってるからな。」

「?」

「牽制だ牽制。」

 中原幹部がそう云ってさっさと先へ歩いていってしまう。私がよく分からないまま追いかけると、中原幹部は既に双見さんと接触していた。双見さんは中原幹部を見て、顔を露骨に引き攣らせていた。

「ご無沙汰しております、双見様。」

「あ、はい。ご無沙汰、です。」

 双見さんは完全に萎縮してしまっていて、ぼそぼそと返し頭を90度以上深く下げた。

「リアレス教団に関して情報の提供、代表である森に代わり深く感謝します。歩も随分世話になっているようで。」

 中原幹部はにこやかかつ丁寧に対応する。中原幹部のこういった姿を私は余り見る機会がなかったので新鮮に感じた。

「いえ、僕はただ情報や"パンドラ"を渡してるだけに過ぎないので。其れが鴎外先生のお役に立てているというのであれば大変光栄なことです……」

 双見さんがおどおど返答しながらちらちら私を見た。何とかして欲しい、ということだろう。私は中原幹部が双見さんに色々と追求する前に口を開いた。

「双見さん、此れが最後の"パンドラ"という話でしたよね?」

「……あ、うん。僕が回収できるのは此れが最後だよ。」

 回収した全ての"パンドラ"は現在解析中だ。何か分かり次第双見さんにも報告する予定だが、正直進行度合いは芳しくない。電子機器に人間の感情は分からない。特に無は其れ等にとって0でしかない。
 人が触れようものなら死の恐怖に例外なく心を押し潰される災厄の箱。
 だが、"パンドラ"の解析は必要不可欠だ。あの中にこそ真実が詰め込まれている。一度触れた私はそう確信している。

「それと、少し情報があるんだ。中に入ろう。中原さんもどうぞ。おもてなしは余りできないですけど。」

「お構いなく。」

 双見さんは準備があるのか、それとも此の(中原幹部がいる)空間から離れたいからか中へと早々に去っていってしまった。

「中原幹部……双見さんは……」

「俺のことを怖がってんだろ?」

 正しく其の通りなのだが、何とも云い辛く曖昧に首を振ることしかできなかった。

「初対面の時からそうだったからな。俺のことを怪物に遭遇でもしたかって目で見て来やがる。」

「双見さんは、中原幹部から殺意の様な圧を感じると仰ってましたよ。」

「……そんな威圧的な態度は取った心算はねェんだがな。」

 中原幹部は辟易とした顔をして、双見さんが去っていった方へと進んでいく。私も中原幹部の隣を歩きながら話しかけた。

「中原幹部は目上の方や顧客に対してはいつもあんな感じなんですか?」

「最低限礼儀作法は身に付けてる心算だぜ。何せ姐さんが厳しかったからな。」

 確かに姐さんは礼儀に厳しいイメージがある。中原幹部はポートマフィア加入後姐さんの下にいたという情報もあったし、徹底的に指導されたのかもしれない。

「そういや接待やら商談には手前を連れて行ったことなかったな。」

「戦闘部隊の最下級構成員でしたから。」

 そういったこととは無縁だった。戦って戦っていつ死ぬか分からない今を生きるそんな日々をずっと生きていくのだと、そう思っていた。これからはそうもいかない。双見さんと会った時の様な会合、其の場での対応によっては組織の趨勢が決まる、そんな場所に立つ必要が出てくる。戦闘一つとっても今後は指揮することの方が多くなってくるだろう。

「手前が此処まで上がってくるとは思ってなかったからな。分かってりゃ経験積ませてたんだが……」

「私もこんなことになると思ってませんでしたよ。でも、大丈夫です。今は姐さんや中原幹部に学ばせて貰えるように首領から配慮していただいてますし。」

 そうだったな、と中原幹部は柔らかく微笑みながら云い、会話を終えた。双見さんの執務室に着いたからである。私がノックをして扉を開けると、双見さんが若干震えながら待っていた。

「此方にお茶とお菓子用意しているので良かったら……!」

 双見さんが指したのはいつも私が座る客用ソファーとテーブルで、テーブルの上には緑茶の入った湯呑と高級そうなお菓子の箱がいくつか置かれていた。中原幹部は綺麗な笑顔でありがとうございますと云ってソファーに座った。私も中原幹部の隣に座り、緑茶を一口だけ飲んで、先ずは双見さんからいつも通り"パンドラ"を預かった。

「先刻も云った様に僕が回収できるのは此れで最後。何か役に立つと良いんだけど。」

「とても助かります。ご協力ありがとうございました。」

 双見さんは此れくらいしかできないからと謙虚に云った。双見さんの協力は調査の大きな進歩となり得る。此れだけ多くの"パンドラ"が回収できたのだ。きっと何か見つかる筈だ、と私は希望的観測をしている。

「それと情報がある、って云ったよね?其れについてなんだけど……リアレス教団には如何やら異能者が数人いるらしいんだ。」

 其れは……少し腑に落ちない。リアレス教団は即ち異能者の全く存在しない世界を望む宗教団体だ。其の世界へ行くためなら死すら厭わないという思想だ。
 其処に異能者が在籍している、というのは理に合わないのではないか。

「確かな情報、なんですか?」

「リアレス教団は何らかの手段で一般人に異能を与えているらしい。異能であるにも関わらず其れを神から与えられた力だと云って組織内部では正当化させているみたいだけどね。」

 双見さんが嘘を云っているとは思えない。だが、双見さんは……余りにも知り過ぎている。

「手前は何でそんなことを知っている。」

 中原幹部が低い声で問う。敬語が完全に消え、敵意を剥き出しにしている。

「此方の諜報員が総出で調査してもそこまでの情報は得られてねえ。情報一つを得ようとする度に行方不明者や犠牲者が出てる。手前や此の会社も一通り調べたが、ポートマフィア以上の調査能力があるとは思えねえ。」

 手前は何者だ、と中原幹部の声が静かな室内に響いた。私は中原幹部の気迫に黙っていることしかできなかった。事実、私も中原幹部と同じ疑問を抱いていたし問い質そうと思っていたところだった。

 双見さんは目を伏せた。瞼が微かに震えている。中原幹部の殺気に気圧されているのだ。それでも彼の口は重かった。

「僕は……何も云えない。」

「手前……歩を利用するだけしておいてよく其の台詞が吐けたな。」

 中原幹部の怒りが膨れ上がる。私は流石に黙っている訳にもいかず、何故なんですか?と比較的優しく尋ねた。双見さんは目を細めて私に向け解答した。

「僕は普通に生きたい。そのために此処まで来た。もし話したら僕は……普通の生活を捨てなくちゃいけなくなる。」

「ポートマフィアに金納めてる時点で手前は普通じゃねえよ。」

 中原幹部の追及は重い。

「僕は元異能者だ。」

 双見さんは投げやりに告げた。突然の告白に中原幹部の糾弾が止まると双見さんが凪いだ声で続けた。

「大事な子に僕の異能をあげた。そうしないとあの子は処分されていたから。でも、そのおかげで僕は今こうして望んだ通り普通に生きている。あの子がくれた普通を僕は守りたいんだ。」

 絶対に譲れないという双見さんの気持ちが伝わってくる。双見さんはポートマフィアを裏切ろうとしている訳じゃない。其れは私の目が、そしてこれまで話してきた私自身が知っている。

「歩さん、ごめん。僕は君を通してあの子を見ていた。君と仲良くなればあの子が元気か分かるんじゃないか、君に協力すればあの子を助けることに繋がるんじゃないかって。」

 彼の云うあの子が誰か直ぐに理解した。其れが目的だったなら彼の意図にそぐわない会話ばかりしていた気がする。
 私は内心思うだけで此れ以上の言及はしなかった。ただ此れだけ伝えておく。

「元気ですよ、とても。私をいつも助けてくれて、強くて優しくて綺麗で……私の自慢の仲間です。」

「そっか。変わらないんだなぁ。」

 双見さんは幸せそうにはにかんで、緑茶を一口啜った。

「おい、手前等二人で納得すんじゃねえよ。」

 中原幹部が苛立ちを含んだ声で云った。中原幹部を置いてきぼりにしてしまっていた。しかし申し訳ないが、双見さんのいる所で話す訳にもいかない。彼の意思は可能な範囲で尊重したい。

「中原幹部、戻った後説明……」

 しますから、と宥めようとした時ふと目線の先にある窓の外、およそ1000メートル程離れた此の会社とほぼ同じ高さのビルで何かがキラリと光を反射した。

 私は咄嗟にライフルバッグを掴んで跳躍。双見さんの背後に着地し、ライフルバッグを振るった。

 次の瞬間バシャンと窓硝子が砕けて、銃弾が振るったライフルバッグと衝突した。弾かれた銃弾は壁に突き刺さり、白煙を上げて静止する。狙いは明らかに双見さんだった。

「中原幹部っ!」

「歩、よくやった。手前はそのまま双見を連れて射線外に退避しろ。後は俺がやる。」

 中原幹部が割れた窓から外へと飛び出す。其の間にも中原幹部は何発か狙撃されていたが通常のライフル弾で彼を傷付けることはできない。空を駆る彼を鉛の玉程度では止められない。真っ直ぐに狙撃手の元に向かう彼の影を少しの間見送り、行動を開始する。

「双見さん、取り敢えず下の階へ行きましょう。」

「うん。あと、先刻はありがとう……」

 私は無事で良かったです、と云い置き双見さんを下階へ誘導する。中原幹部が相手をしているからか此方への狙撃は全くなかった。

「中原幹部から直に連絡が来る筈です。其れまでは射線の通らない場所で待機しましょう。」

「僕を殺す心算なんだ、あの人は……」

「……双見さん。」

 唐突に通路の真ん中で胸を押さえて痙攣する双見さんの手を握る。細かく震える冷たい手を、其の震えを止める様に強く握り締めた。

「大丈夫です。双見さんは私が守ります。」

「……あり、がとう。」

 私の手を握り返して、少し落ち着いたよと苦笑しながら双見さんは云った。

「社員達を避難させないと。地下に一応シェルターを作ってるから其処に集合させて……」

「其れは善いことを聞きました。」

 穏やかな男の声が、聞こえた。

「全員を探して燃やす手間が省けるというものです。ええ、仕事は早い方が良いですから。ふふふ。」

 いつの間に、と思わざるを得なかった。気配を一切感じなかった。突然、其処に瞬間移動でもしてきたようにふっと現れたのだ。不気味に笑う男は燐火の様な儚い青白さを髪や瞳に宿していた。

「ですが残念ながら此処に来るまでの間に二十人程灰にしてしまいましたので悪しからず。……ヒトの脂の焦げる匂い、矢張り堪らないものですね。癖になってしまいそうです。」

「お前っ……!!」

 姿形の儚さとは裏腹に彼は残虐な性質のようだった。怒りを顕にする双見さんを見ても柔和な笑顔を一切崩さない。

「其の反応からしてもう既に貴方以外全員殺してしまったのでしょうか。」

「くっ……」

「でしたら最後は貴方ですね。大丈夫、安心してください。一瞬で灰にしてしまいますから痛みは少ないかと。」

 男が人差し指を双見さんに向けた。青白い光が其の指先に収束し、熱線となって放たれる。高速で空間を割った光線から双見さんを守るためライフルバッグを翳した。作良さんの強化により熱の耐性も上がっており完全に防ぎ切ることができた。作良さんに感謝する。
 しかし、向こうも本気という訳ではなさそうだった。おや、と目を見開き笑みを深める。

「ワタシの攻撃を防ぐとは。」

「双見さんは私が守ると先程約束しましたから。」

 ライフルバッグからKirschblüte001を抜きながら私は男を睨む。
 双見さんを殺させはしない。ただ私は戦闘特化の異能者の前ではただの狙撃銃を持った一般人でしかない。

「双見さん、逃げてください。」

 双見さんの決断は早かった。直ぐ私に背を向け、走り出した。
 ごめん、と小さな声が耳の奥に残る。

「ああ、面倒ですね。逃げても少しばかり生存する時間が伸びるだけだというのに。」

 男は双見さんに指を向けたが、私が更に前に出て攻撃の手を阻んだ。

「此れは困りました。貴女に干渉してはならないと命じられていたのですが。通していただけませんかね?」

「此処から先は一歩も通しません。」

 Kirschblüte001の銃口を男に向ける。

 私の発砲。牽制の一発が戦闘の合図となった。男は牽制だと気付いていたからか微動だにせず、対する様に涼しい顔で無数の熱線を解き放った。
 指を向ける挙動、一本ずつの発射はフェイクだったようだ。私はKirschblüte001で熱線を弾き、最低限の動きで躱しながら男に向かって走る。当然、躱せないものもあり、致命的なものではないものの手や足を僅かに掠り、其の部分が焼け焦げた。じりっと肉が焼ける音がし、その度男が嗤う。
 痛みは感じない。そのまま走り抜けKirschblüte001を振りかぶる。

 男の表情は、驚愕と愉悦。

 振り下ろした銃身は男の側頭部を打った、筈だった。
 だが、目の前で起きたのは男の頭を銃身がすり抜けていく様。
 まるで空でも切ったかの様に手応えが無い。

「ふふ、面白い戦い方ですね。」

 笑い声と共に放たれた男の蹴りは逆に私をすり抜けることはなく、咄嗟にKirschblüte001で防いだものの過度な衝撃を以て私を吹き飛ばした。

「っ、う……!」

 私の身体は通路を10メートル程転がり、漸く止まった。
 だが、其の止まった地点に既に男が立っていた。驚く暇もなく蹴り上げられ天井に背中を強打する。かは、と詰めていた息が強制的に吐き出され、重力に従い床に落ちる。

「おやおや、一歩も通しませんと息巻いていたのに其の程度ですか?」

 男は私の背中を踏みつけた。其の足が強烈な熱を放ち、背中を高温で焼き付ける。

「っ、あ、う、」

「貴女、感覚が鈍いんですか?こうされると屈強な男ですら痛みに発狂し泣き叫ぶというのに。」

 痛くはない。焼かれる程度では私の身体は何も感じない。
 全身を焼かれて死ぬなんて、もう何度も経験しているのだから。

「あなた、は……本当に人間、なんですか。」

「いいえ?」

 男は喜々とし、歌い上げる様な調子で云った。

「ワタシは炎です。雷に打たれた一本の木、其れを燃やし尽くした火こそがワタシでした。」

 其の火は時を経る毎に小さくなっていった。燃え上がらせていた巨木が完全に炭化し、更には雨が降り出したからだ。誰かが息を吹きかけるだけで消えてしまうそんな小さな火となってしまった。しかし、其の火は消えなかった。人間が暖を取るために、料理をするために、害獣を追い払うために、其の消えかかった火に薪を焚べ酸素を送った。

「ワタシは永遠とも呼べる程に長い月日、ヒトの繁栄や利便のために焚き永らえてきました。そんなある日、ワタシに肉体と感情を与える者が現れたのです。」

 そうして男が生まれた。人の肉体を持ちながらも其の本質は炎そのもの。触れるのも触れられるのも決めるのは自分自身、燃やすも燃やさずも決めるのは自分自身。彼は使われるだけの存在から解放され、自由となったのだ。

「此の身体、感情、思考、実に素晴らしい。出力も、標的も自在に操ることができる。……ああ、素晴らしい……っ!!」

 恍惚の表情を見せ、狂った様に演説する。快楽を理性なく貪る獣の様な姿だ。高く嗤い、悦に浸る男に私は問う。

「じゃあ、何故あなたは今人間の命令に従ってるんですか?」

「……?」

「あなたは先程私に干渉してはならないと命じられたそう云っていました。それに双見さんや社員を殺すこともあなたは命令されたから実行しているのではないですか?」
 
 あなたは本当に自由なんですか?
 彼に問い掛ける。

「……おや。其れは……其れは返答に、困ってしまいますね。何故、何故、何故何故何故ワタシは、命令に従っているのでしょう。」

 男が首を捻った。自分でも分からないとでも云う様に。

「あ、あぁああ、何故、何故でしょう。ワタシは自由だったのに。」

 男が苦悩し悶えている隙に私は太腿に装備している二挺拳銃を抜いた。すかさず連射するが、矢張り男の身体をすり抜けていく。先程の会話で男にも肉体、実体があることが分かった。現に私を蹴る際は質量があった。
 つまり、実体がある瞬間なら私の攻撃も通る筈なのだ。

「そう、確かあの女に異物を入れられて……其れ以降何故かワタシの力が弱まり……」

 ぶつぶつと男が呟いている。異物、という単語が聞こえて目を凝らす。彼の体内に、人間で云えば心臓の辺りに何か黒い立方体が見える。

「"パンドラ"……?」

 "パンドラ"に触れて、否体内に入れて人間ならば無事でいられる訳がない。彼が人間でないからこそ無事なのだろうが、影響がない訳がない。思考や感情に変質が及んでいるのだとしたら。

「ああ、矢張り全て燃やさなければワタシの心は……満たされない。」

 男が胸を抑えて云った。
 きっと其れは彼本来の意思ではない、と思った。
 彼の体内の"パンドラ"を如何にかしなければ。

 そんなことを考えている矢先だった。
 ジリリと警報音が鳴り響いた。私の異能による警鐘ではない。
 警報音が終わると、水が私達へ降り注いだ。スプリンクラーによるものだ。男が私から跳び下がるが、通路全体に渡りスプリンクラーが起動しており、数秒で水びたしになっていく。

「歩さん、今のうちに!!」

 双見さんの声が私の背後、通路の奥から聞こえてきた。私は身体を起こして、双見さんの元に駆け寄った。

「ごめん、色々操作に手間取って時間掛かっちゃった。」

「いえ、とても良いタイミングでした……でも、何で……」

「君を置いて逃げるなんて、そんなことしたら僕の知っているあの子は絶対に怒る。」

 双見さんは決意に満ちた黒い瞳を男に向けた。逃げる心算は鼻からなかったようだ。

「歩さん、先刻此処にいる僕と君以外の全員の死亡を確認した。此処には……何も残っていない。」
 
 予想はしていたが矢張り心苦しいものだった。私の顔が強張っていたからか双見さんは私の肩を軽く叩いて励ましてくれる。

「大丈夫。狙われているのを分かっていながら何もしていなかった僕の責任でもある。だからこそ彼等の死を無駄にしないために僕は……」

 双見さんが握っていたのは赤いスイッチが一つ付いたリモコンだった。私は何をしようとしているのか察した。

「良いんですか……」

「もしもの時のためのものだからね。」

 今使わないでいつ使うの、と双見さんが苦笑した。双見さんの覚悟は揺るがない。中原幹部がいればあるいは別の選択肢があったのだろうか。
 立場が少し変わっただけで、私の無力な其の本質は変わっていないのだ。

「先ずは脱出しよう。スプリンクラーで足止めはできてるみたいだけど。歩さん、怪我は大丈夫?」

「大丈夫です、行きましょう。」

 双見さんを前に私達は走り出した。男が追ってくる気配はない。矢張り水に弱いからなのか。
 非常階段を降り、一階に着いた私達は玄関から外に出ようとした時だった。
 凄まじい爆発音が上階から轟いた。天井に亀裂が走り、逃げることは間に合わないと悟った私は双見さんを伏せさせ、其の上に覆い被さった。天井が崩落し、鉄筋やコンクリートといった瓦礫が大量に降ってくる。直撃は免れたが手足や後頭部を小さいとは云えない瓦礫が打ち付ける。

「ワタシから逃げ遂せると考えるなど浅慮極まりない。」

 天井の大穴から恐怖が一階へ舞い降りた。

「貴方達の断末魔こそがワタシの心を満たすのです。」

 男が舌舐めずりをして、私達に一歩また一歩と近付いてくる。私はKirschblüte001を握り締めて、立ち上がり男の方へ走った。双見さんが私を呼ぶ声が聞こえたが、止まらなかった。返事代わりに叫ぶ。

「双見さんっ!!外に出たら其のスイッチを……私のことは構わないで早く……っ!!」

 距離が縮まり、私はKirschblüte001の銃口を男の心臓に向ける。引き金を引けば、男は銃弾をあっさりと火炎で焼き払った。

「貴女は殺さなければ。一片すら残さず焼き尽くさねば。」

 男はぼやき、熱線を放った。目の焦点が合っていないが、其の攻撃は正確で私の足に穴を開けた。それでも止まらない。男に突進し、其の心臓に銃口を突き立てる。引き金を引き、銃火が男の体内で爆ぜた。

 "パンドラ"は……無傷だった。

「ああ、此れは残念でしたね。一矢すら報いれず生命の終わりを迎えるとは……」

 男が私の頭へと手を伸ばす。超高温が、私の顔に触れようとした。

 が、再び爆発音が轟いた。今度の爆発は地が揺れるほどのものだった。

「此れは……真逆……」

 男が私から手を遠ざけ、逃走を計る。しかし、其れは私も予測していた。近くにあった、というより男を其処まで誘導した其の消火器を手にし、男に射出する。男は僅かに怯み、其れが逃走を遅らせた。其の一瞬こそが決め手となった。ビルが音を立てて崩落する。滂沱の瓦礫が私と男に浴びせかけられる。

 双見さんの持っていたリモコンは、スイッチ一つで此のビルそのものを崩壊させるものだ。証拠隠滅のためにと双見さんの父が備え付けていたらしい。

 男は火そのものだ。酸素が無ければ燃えることはなく、可燃性のものが無ければ燃えることはできない。

 此のビルは主にコンクリートで構成されている。コンクリートは燃えない素材の一つだ。
 消火の方法の一つに窒息消火がある。其の中でもかなり古くから使われてきたのが火に土を掛けるというものだ。今回は土ではなくコンクリートで、流石に窒息とまではいかないかもしれないがそれでも彼を弱体化させることができるのではないか。其れが双見さんの作戦だった。

 私は取り敢えず、地面に伏せて頭をKirschblüte001で守った。異能の予兆である警鐘が鳴らないところを考えると私は此処にいても死なないらしい。

 男は落ちてくる瓦礫をじっと眺めていた。
 やがて土埃で彼の姿は見えなくなっていった。

 暫くして音が鳴り止み、私は咳き込みつつ瓦礫を押し退けながら外に出た。男のいた場所はコンクリートが山積しており、人影はない。

「歩さん……っ!!」

 私が瓦礫の山から出ると双見さんが切羽詰まった顔で走って来た。

「双見さん、ありがとうございました。助かりました。」

「君の異能のことは知ってたから……大丈夫だとは思ってたけど。本当に無事で良かった。」

 双見さんの目には涙が滲んでいた。私も一先ず安堵したが、男が死んでいるとは思えず諸々の連絡や手続きを円滑に済ませてくれるだろう一条さんに連絡しようとスマートフォンを取り出そうと懐に手を入れた。

 其の瞬間、私の腕や足、そして腹部に激熱が走った。

「っう!」

 一瞬にして其処が炭化し、徐々に熱が広がっていく。じりじりと皮膚どころか其の下、内部までもが焼ける音が大きくなっていく。人間は火傷の面積のパーセンテージが高くなる程死亡率が高くなっていく。遅々として広がる火傷の面積、あと少し広がれば私の異能の予兆である警鐘が鳴るに至るだろう。鳴ったところでこのような遅効のものには為す術もない。

 私は振り返り、瓦礫の山を見た。赤い火がちりりと宙空で小さく揺れている。

「殺す。」

 憎悪の声が空間を揺るがす。

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。」

 宙空の赤が人の形を成した。男の髪が赤くゆらりと揺らめく。

「貴女を殺せばワタシは満たされる。楽しい、愉しい、此れがワタシの幸せ!ワタシの生きる意味!焼けろ!燃えろ!灰になれ!」

 男に理性は残っていなかった。心臓の黒い立方体が鈍く光っている。

 男の声に合わせ、私の頭の中で警鐘が甲高く鳴った。私は小さく吐息を漏らし、男を見据えた。

 焼けた手足を動かし、男に向き直る。

「私の生死を決めるのはあなたじゃない。」

 男の熱線が頬を掠った。

「私の生死は私が決める。」

 男は私を見ていた。私しか見ていなかった。双見さんはもう眼中になかった。

「あなたの生死も、私が決める。」

 私も男を見ていた。彼は敵だ。此処でただ仕事をしていただけの社員を殺し、双見さんを炎の恐怖で脅かした。許されることじゃない。だが、私の異能力は彼を許容しなければ、彼を地に伏せさせることができない。

 彼は、私の大切だ。そう心に刻み込む。

「其れが私の異能力。」

 火傷は手足の全体に広がり、臓器をも焼いていた。呼吸器をも侵し、息をするのもやっとで、それでも立っているのは気力と痛みの無さからで。

 30秒が経過した。死んではいない。
 しかし、重傷。治療の見込みがない程の。

 だからこそ私の異能力は真価を発揮する。

「《生殺与奪》。」

 其れは一瞬の出来事だった。私の火傷がすっかりと消え失せる。
 そして、男の肉体に其の全てが上書きされる。男の肉体に私と等量の火傷が齎される。

 私の異能力《生殺与奪》は私の死を他者に上書きするというだけではなかった。
 重傷時にも鳴る警鐘、異能力の予兆が其れを証明していた。
 つまり死という事象だけでなく、重傷をも他者へ……大切な人間へと押し付けることができる。

 男が地に倒れ込んだ。苦しそうに肩で息をして呻いている。私には分からないが、経験上相当な苦痛が彼の意識を貫いたことだろう。

「何、です、此れは……ぁ、ああぁ、」

「其れが人の痛みです。あなたに焼かれた人が感じている痛み、其の一端です。」

 私は男に歩み寄った。男は私を見て、泣きそうな顔になった。未知の感覚に恐怖しているようだった。

「痛い、此れが、痛み、ワタシは、こんなものをに悦楽を……」

 男の傍に膝を付いた私は彼の胸を指した。

「此の奥にあなたの云う異物があります。」

「……だから貴女はワタシの胸を執拗に狙っていたのですね。」

 男は納得し、目を伏せた。

「どうぞ、水でも掛けて殺してください。」

「何故ですか?」

「何故とは?ワタシ達は先程まで殺し合いをしていた筈です。何よりワタシはヒトにとって脅威でしかありません。痛みを知ったとはいえ、ワタシは人を殺すことに未だ愉悦を見出しておりますので。」

 男は何もかも諦めたようだった。戦う意思はなく、けれども"パンドラ"に精神を翻弄され逃れることができないでいる。

「なら少しだけ試させてください。」

「実験動物にでもするお心算ですか?敗北した以上文句は云えませんが、余りそういうことに向いた身体では……」

 男の長い言葉の途中で私は彼の胸に手を差し込んだ。火の中に直接手を突っ込んだようなものだ。熱いが、彼自身の力が弱まっていたこともあって耐えられない程ではなかった。奥に進め、"パンドラ"に触れる。

 圧縮された無数の死の感情が波濤の如く流れ込む。特に彼の炎熱により命を奪われた人々の憎悪が怨念の様に纏わりついた。私は其れに構わず、"パンドラ"を掴み一気に男から引き抜いた。流石に長時間触れてはいられず"パンドラ"を投げ捨てる。男は何故か愕然とした顔で私を見ていて、口を呆けた様に開閉した。

「何故ワタシを助けたのですか?先程まで殺し合っていた此のワタシを。」

「"パンドラ"は死の恐怖を吸収しかつ与えるもの。あなたは其の性質に思考を犯されていただけで、"パンドラ"さえ無くなればあなたの本質は人間が好きで人の役に立つことが好きなんじゃないかと、そう思っただけです。」

 男は瞬きをして、それからくすりと微笑した。

「ふ、ふふふ、何でもお見通しという訳ですね。」

 何でもという訳ではないのだが、否定するとご謙遜をと再び男が笑った。

「とにかく、もうあなたは自由です。ですが、"パンドラ"を所持していた時と同様にあなたが人を害する災いの火となるようなら容赦しません。」

「……ワタシに自由は必要ありません。」

 男は首を横に振った。私が怪訝な顔をすると男は応えた。

「永遠の忠誠を誓います、マスター。」

 男は私の前でゆっくりと膝を付いてポートマフィアと同様の最敬礼を私の前で行った。

「ワタシを生かすも殺すも貴女様の御心のままに。ただ意思を持ち燃えるだけの火ではありますが、貴女様に尽くさせていただきます。」

「え、えぇっ……その……他に良い人がいると思います、よ?」

「ワタシは貴女様のお役に立ちたいのです!どうか……どうか……お願い申し上げます。」

 私が断ると男は更に深く頭を垂れ、最後には土下座に至ってしまったため私は折れざるを得なくなり、承諾してしまった。途端、男は私の両手を自分のもので包み込み、其れはもう満足そうにありがとうございます!!や誠心誠意お仕えしますなどと云っていた。人に仕えさせる様な大層な人間ではないのでどうも恐縮してしまう。

「マスター、大変申し訳ないのですが貴女様から受けたダメージを回復するべく少しの間別形態を取らせていただく許可をいただきたいのです。」

「あ、はい。ど、どうぞ……?」

 男は感謝の言葉を並べると人の輪郭が陽炎の様に揺らいで小さくなっていった。
 やがて、直径10センチ程の黒点となり宙を自由自在に飛び回った。

「マスター、ワタシは貴女様の目にどのように映っているでしょうか。」

「?黒い、点、ですかね。」

 ありのまま告げると黒点はぴょんぴょんと宙で跳ねた。

「素晴らしい!!本来の力を取り戻しつつあるようです。此れならばマスターのお役に必ずや立てることでしょう。」

 よく分からないが嬉しそうである。私は反応に困りつつ良かったですねとだけ返した。

「歩さん……」

 其処に双見さんがやって来た。双見さんは黒点を一瞥した後私を見た。

「歩さん……僕は其の男を許せない。操られていたとはいえ多くの社員が殺された。」

「……はい。」

「だからね、君が其の男の手綱を握ってくれているなら僕は少しだけ安心できる、かな。」

 双見さんは無理矢理笑みを作った。多分納得はできていない。それでも彼は男を許した。強く優しい人だと思う。私は強く頷いて、双見さんの代わりに黒点を指で突付いておいた。

「マスターっ、あぁっ、其処はいけません……っ」

 悪寒がしたので途中でやめた。双見さんも珍しく軽蔑の眼差しを黒点に向けていた。

「ところで、中原さんは大丈夫なのかな?狙撃手を追ったきり音沙汰がないけど……」

 双見さんに云われ私は慌ててスマートフォンを見る。中原幹部からの着信やメッセージはない。真逆、あちらにも異能者がいて苦戦を強いられているのではないか。ならば早く加勢に行く必要がある。

「マスター、あちらに居るのは全員貴女様を足止めするために配置された者ばかりです。例え中原中也のような強力な異能者に対してでも多少なりとも時間稼ぎができるよう訓練された者達ばかりですから対処に時間は掛かるかもしれませんがあの中原中也ならば命の危険は一切ないかと。」

「私の……?」

「ええ。貴女様が双見玲衣の元を訪れるタイミングを狙っていたのです。誤算は今日に限って中原中也がいたということですが。」

 黒点によれば、私が狙撃手に対応している間に双見さんや社員を焼き払うという作戦だったらしい、しかし、中原幹部が来たことで作戦が狂ったということだそうだ。

「何故、私が来る時を狙ったんですか?」

「其れは双見玲衣様に問う方が早いかと。何せ貴女様の来訪時だけ警備体制が甘く、社にいるヒトの数も少なかったものですから……絶好の襲撃機会という訳なのです。」

 黒点の言葉に双見さんは逡巡しながらも口を開いた。

「歩さんに明かしたい秘密があったからね。でもなかなか云えなくてずるずると長引かせたらこんなことになった……。他の人に聞かれる訳にもいかないから人員は信用できる最小限の人数にしていた。僕がひとえに臆病だった、それだけの話。」

「秘密というのは……彼女のことですか?」

「……うん。其れにリアレス教団のこともちょっとだけ。今日はもう全部ぶちまけちゃおうって思ってたんだけど中原さんがいてできなかった。まあ、でも僕の生死的には中原さんがいて助かったのかな。」

「……逆に私が狙撃手の方に行って中原幹部が此処に残れば結果は変わっていたかもしれません。」

 私がずっと考えていた推測を口に出してしまっていた。中原幹部ならもっと上手く立ち回れたのではないか。中原幹部がいれば誰も死ななかったのではないか。

「歩さん、君は最善を尽くしてくれた。中原さんか君か、そんなことは結果論でしかないよ。君は中原さんを過大評価しているようだけれど、僕からすれば中原さんでは重力の存在しない此の男の炎や熱線は防ぐのが難しかったと思う。それに君はずっと怖がってる僕を励まして、絶対に守るという言葉を命懸けで果たしてくれた。本当に心強かった。」

 ありがとう、と深い感謝の言葉を述べられ私は胸がぎゅっとなるのを感じながらも優しい言葉を掛けてくれる双見さんへ感謝と謝罪の念を込めて頭を下げた。

 その時、上空で風を裂き此方へ凄まじく速い何かが迫ってくるのが聞こえた。

「歩!」

 呼ばれて顔を上げた瞬間、黒い影が私の目の前に着地した。音も無く、土埃の一片すら巻き上がることは無い。

 私の思考は何処か鈍っていて、其れをただ見詰めていることしかできなかった。其の影が持つ青い双眸と視線が交わって漸く中原幹部だと認識した。

「手前は……また無茶しやがって。」

 中原幹部が私の身体を頭から足の先までを見て云った。

「怪我はしてないです。」

「嘘付け。」

 中原幹部が私の頬を摘んだ。何故か其れは少し痛くて思わず声が漏れた。

「死ななきゃ良いってモンじゃねェんだよ。ただ今回は俺の責任だから手前ばかり責められねェけどな。」

「中原幹部の責任なんて……」

 私が視線を反らすと中原幹部が私の頬を両手で挟み、正面に戻す。

「痛かっただろ。」

「痛く……ない、です。」

「手前は本当頑固だな。」

 中原幹部は私の後頭部に手を回して引き寄せた。中原幹部の胸に額が付いた。

「そんなことで強がるんじゃねえ。……一人で戦わせて悪かった。」

 顔が上げられなかった。苦しくて悔しかった。双見さんの云う様に此れが私の最善だった。私の最善の限界は此処までだった。

「私強くなりたいです。」

「手前は十分強えよ。」

「それでも、もっと強くなりたいです。」

 中原幹部は私の頭を撫で、そうかと吐息を漏らす様に肯定した。

「じゃあ俺と一緒にまた訓練でもするか。」

「芥川さんが良いかもしれません。」

「何でだよ!?」

「芥川さんは容赦ないですし……」

 それに、と私は中原幹部から身体を離して付け足した。

「好きな人に余りかっこ悪いところは見せられませんから。」

「そこは見せるモンなんじゃねェのかよ……」

 中原幹部は心底呆れた顔をした。残念ながら此ればかりは譲れない。中原幹部にはありのままの私でいたいけれど、弱いところを見せてばかりではいられないのだ。

「マスター、訓練ならばワタシがお相手致しましょう。」

 すると、私の背後で黒点が輝き出し人の姿となった。もう回復したのだろうか。恭しく頭を下げる彼に大丈夫なのか問う。

「ご心配をお掛けして申し訳ございません、マスター。厳密に申し上げるならばヒトを模した肉の器ですので構造や治癒力などが異なるようなのです。そもそもこれまで一切ダメージを負ったことがなかったので、ワタシ自身も初めて知りました。」

 黒髪に同色の瞳、先程よりも高身長かつ端正な顔立ちになった男にそれなら良かったです、と安堵混じりに返した。あのレベルの熱傷は致死手前、治療困難なものだ。元気に話していたから大丈夫だとは思っていたが。

「否、手前誰だよ。」

 中原幹部が突っ込んだ。そういえば紹介するのを忘れていた。

「ワタシはマスターの忠実なる下僕です。」

「げ、下僕……だと?」

 中原幹部が若干身を引いた。

「ワタシの命は今日を以てマスターのものとなったのです。此の炎、燃え尽きるのはマスターが命じた時のみ、マスター以外の何人たりとも消し去ることはできません。そうですよね、マスター?」

 ……私に其れを聞かれても。
 双見さんもげんなりしながら中原幹部に今日の出来事を大まかに説明していた。そうして全てを聞き終えた中原幹部は厳しい表情で私に尋ねた。

「……歩、其奴のこと許すのか。」

「許す、というか。元々此の襲撃は彼の意思ではないので……。私の命令には従う心算らしいですし、私の下で様子を見ようかと。」

 中原幹部は其れ以上言及しなかった。だが、双見さん同様納得はしていないように思えた。理由は……自惚れかもしれないがきっと私なのだろう。

「にしても濃い奴ばっかだな、手前の下は。」

 中原幹部が男を見て呟いた。私も少し同感だと思ってしまった。


「マスター……書類に勤しむ姿も麗しい。何を為さっていようとも其の凛とした佇まい崩さない……ああ、此の様に素晴らしい主にお仕えできるとは。至上の歓喜に震えております。」

 本部に戻ると反応は三者三様だった。

「頭大丈夫か、此奴。」

「ボクよりやばい奴来たぁあっ!なかーまー!」

「……………………。」

 冷静な罵倒、歓喜の祝福、無である。

 罵倒の如月さんは誰だ此奴と男を指した。
 そういえば、名前を聞いていなかったと思い問うと、男は悲哀に満ちた顔で云った。

「お答えしたいのですが、非常に残念ながらワタシに名前はないのです。」

「じゃ、名無しの権兵衛な。」

 如月さんがさらりと云った。

「できればマスターに名前を付けていただきたく。」

 男が若干眉を寄せた。名無しの権兵衛が相当厭だったのだろう。請われて考えていると参宮さんが叫んだ。

「はあ?崇高なる我が推しになんてことお願いしてるのさ!!お前如き点Pで十分だよ!!」

 先程黒い点になった男を見たからと推測される。それにしても参宮さんは興奮するとよく分からないことを云い始めるのが少し怖い。

「敬愛する参宮さんに肖って原点Oというのは如何でしょうか?」

 一条さんが無表情に云った。いつも以上に其の顔は無を呈していた。

「マスターに名を賜りたく……っ!」

 男が割と必死そうに訴えた。と云っても私もネーミングセンスかない。今のところ黒しか考えられていない。男の姿がほぼ黒一色で、此の黒い姿が如何やら彼にとって最も力が高まっている状態らしいからトイのが主な理由だ。

「黒い炎って存在しないんですよね?」

「炎色反応で発生させることは可能なようです。しかし、自然界には一般的に存在しません。」

 そう云いながらも男は掌を上に向け、其の上に小さな黒い炎を出現させた。

「ですが、肉体を与えられてからは此の黒い炎こそがワタシの出せる最高温度の火炎となりました。通常の金属程度なら一瞬で液状を通り越して蒸発する程の温度となっております。」

「じゃあ、此の書類燃やしておいてください。」

「ああっ、マスター!早速シュレッダーのお役目を!!」

 渡した紙の束を男は一瞬で灰すらも残らず焼滅させた。其れを見つつ、矢張り名前を考えていたのだが如何しても黒しか思い付かない。

「クロで良いですか?」

「ワタシの名ですか?」

「はい。」

 男はまじまじと私を見詰めた。駄目だっただろうか。ならばと別の名前を考えようとした時。

「素晴らしい!!」

 男が突然拍手喝采するので、どきりと心臓が鳴った。

「ああ、何と素晴らしい。これからワタシはクロと名乗らせていただきます。クロ、クロ、クロ、ふふ、ふふふ、」

 男及び黒点改めクロは不敵に笑い手を広げ、くるくると舞い始めた。

「歩……此奴相当にイカれてるぞ。」

 如月さんが呆れと不安混じりに云った。私も弁明することができず溜息を落とした。そこに一条さんが珈琲の入ったマグカップを持ってきてくれる。

「お嬢様、お疲れ様でした。良ければ珈琲をどうぞ。」

「ありがとうございます、一条さん。」

 一条さんの淹れてくれる珈琲や紅茶は本当に美味しく、ホッとする味だった。ゆっくりと飲みながら先程までの戦闘の緊張などから強張っていた身体を休めた。

「マスターは珈琲がお好きでいらっしゃるのですか?」

「好き、だと思います。」

「そうなのですね!!」

 何を答えてもクロは嬉しそうにする。
 と、一条さんが鋭く告げた。

「お嬢様に飲み物を準備するのは俺の仕事です。」

 如月さんと参宮さんが何故か私の傍に寄り、狭いスペースに密集する。

「一条颯様、今後はマスターのお傍にてお飲み物問わず身の回りのお世話全て此のクロが務めさせていただきますので。貴方様はどうぞごゆっくりなさっていてください。」

「……お嬢様が寛ぎたいと考えている時に美辞麗句ばかりを述べては騒ぎ立てる配慮に乏しいお前にお嬢様を任せることができるとでも?」

 一条さんから殺気が漏れ出している。珍しく思いながら如月さんや参宮さんを見ると。

「歩専属執事戦争勃発。」

「一条頑張れ!新参者に負けんじゃねえ!」

 観客というか野次馬というか。何だか思った以上に賑やかになりそうだなと思いながら私は其の光景を眺めていたのだった。


 夢主について少しだけ補足。夢主の異能力は自分の死や重傷といった事象を大切な人(と夢主が認識しておりかつ最も優先度の低い人間)に上書きするというものです。異能力発動の予兆として30秒前に自身に起こる死や重傷などの危機を察知することができます。今回のお話では火傷による重傷をクロに上書きしたのですが、重傷の場合は異能力の発動は任意でありかなり融通が利きます。例えば両腕を骨折していたとしたら片腕の骨折を別々の二人に転写することも可能です。また夢主は吾妻曹司に幾度となく殺された経験や記憶を思い出したことから痛覚がかなり麻痺しています。精神的な問題であるため、安心できる中也の前では緩んでいたりもします。

 オリキャラが増えて、何となく申し訳ない気持ちになっていますがこれまでの私の作ったオリキャラの結末をご覧ください。つまり、そういうことです。

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